小学一年生、六歳のときに初めて「あいうえお」を習ってから、その十倍近い人生を生きてきた内田かずひろ、五十八才。ひと昔前ならもうすぐ会社を定年する年齢だ。五十才を過ぎる頃には自分もちゃんとしているだろうと若い頃には思っていたと言う。しかし、マンガの仕事もなくなり、貯蓄もなく、彼女にもフラれ、部屋をゴミ屋敷にして、ついにはホームレスになり、生活保護を申請するも断念せざるを得ず…。だが、そんな内田でも人生で学んできたことは沢山ある。内田の描くキャラクター、犬のロダンの目線で世の中を見てきた気づきの国語辞典と、内田の「あいうえお」エッセイ。この連載が久々のマンガの仕事になる。
さく

『ロダンのココロ』の第1回目が「咲く」だった。1996年4月5日付けの朝日新聞夕刊。
朝日新聞関東版夕刊に新しく「暮らしスタイル面」というのができるから、動物をキャラクターにした哲学的な漫画を描いてくれませんか? という依頼だった。
そう声をかけてくださったのは当時、朝日新聞の記者、鈴木繁さんだった。
漫画に詳しく、漫画評論の本も出版していて、また「手塚治虫文化賞」の立ち上げにも深く関わっておられた。
すでに何冊かの雑誌で連載していたものの、僕はまだ漫画だけでは生活出来ず、アルバイトをしていたので、「これでバイトを辞めれる」と喜んだが、それを見透かされたかのように鈴木さんは「絶対に生活を変えないでくださいね」と言った。
自分では感情を表情に表わしてないつもりでいるのに、いつもいろんな場面ですぐに見透かされてしまう僕なのであった。「暮らしスタイル面」は短ければ3ヶ月で終わるかも知れないと言うのが、その理由だった。
その鈴木繁さんが、2016年にご病気のため亡くなられた。59才だった。『ぼのぼの』で知られる、いがらしみきおさんと、いがらしさんと僕の共通の担当編集者であり、当時、竹書房にいた編集者の辻井清さんと、ご自宅に伺いお別れのご挨拶をしてきた。
いがらしみきおさんは、僕にとって雲の上の人の様な存在だった。実は鈴木さんが最初に朝日新聞への連載を依頼したのは、いがらしみきおさんだったのだ。だけどその頃、いがらしさんは、作品がアニメ化される時期と重なって忙しく受けることができず、辻井さんに担当して頂いていた僕のマンガ『シロと歩けば』を見て依頼してくださったのだ。
もともと絵本作家を目指していた僕が四コマ漫画を描き始めたのは、いがらしさんの『ぼのぼの』に出会ったからだ。
『ぼのぼの』との出会いは衝撃的だった。描かれてはいない気持ちが、目に見えるように伝わってきた。言葉にできないような「こんな気持ち」が描かれていると思った。
今まで見たことがない四コマ漫画だった。同じ大きさのコマで展開していくという四コマ漫画の表現が、絵本の展開との接点も感じたのだ。その前の年に絵本のコンテストに応募して入選したものの出版にはつながらず、だったらどうやったら絵本作家になれるんだろう? と思っていた時期でもあった。それで『ぼのぼの』が載ってた「まんがくらぶ」という四コマ誌のコンテストに応募したのがデビューのきっかけだった。
まるで鈴木さんに呼ばれたような不思議な縁を感じるご焼香だった。
そして今にも「お待たせしました」と現れて、いつもの笑顔を見せてくれる様な気がしてならなかった。
1964年、福岡県生まれ。高校卒業後、絵本作家を目指して上京。1989年「クレヨンハウス絵本大賞」にて入選。1990年『シロと歩けば』(竹書房)でマンガ家としてデビュー。代表作に「朝日新聞」に連載した『ロダンのココロ』(朝日新聞出版)がある。また絵本や挿絵も手がけ、絵本に『シロのきもち』(あかね書房)、『みんなわんわん』(好学社)、『はやくちまちしょうてんがい はやくちはやあるきたいかい』(林木林・作/偕成社)、『こどもの こよみしんぶん』(グループ・コロンブス・構成 文/文化出版局)挿絵に『みんなふつうで、みんなへん。』(枡野浩一・文/あかね書房)『子どものための哲学対話』(永井均・著/講談社)などがある。『学校のコワイうわさ 花子さんがきた!!』(森京詩姫・著/竹書房)では「怪人トンカラトン」や「さっちゃん」などのキャラクターデザインも担当した。