小学一年生、六歳のときに初めて「あいうえお」を習ってから、その十倍近い人生を生きてきた内田かずひろ、五十八才。ひと昔前ならもうすぐ会社を定年する年齢だ。五十才を過ぎる頃には自分もちゃんとしているだろうと若い頃には思っていたと言う。しかし、マンガの仕事もなくなり、貯蓄もなく、彼女にもフラれ、部屋をゴミ屋敷にして、ついにはホームレスになり、生活保護を申請するも断念せざるを得ず…。だが、そんな内田でも人生で学んできたことは沢山ある。内田の描くキャラクター、犬のロダンの目線で世の中を見てきた気づきの国語辞典と、内田の「あいうえお」エッセイ。この連載が久々のマンガの仕事になる。
そらもよう

空模様と言えば、小学生4年生のある一日を思い出す。その頃は仲良し男子4人組でグループを作っていつも一緒に遊んでいた。秘密基地を作ったり探検したり、4人がそれぞれノートに漫画を描いて回し読みしたり…。
遊んでいるのではなくて、いつも真剣に何かを成そうとしている感覚だった。大人が見たら遊んでるようにしか見えなくても、子どもは子どもで真剣なのだ。だから鬼ごっこをしてても真剣が故にケンカに発展することも少なくなかった。
その日は夏休みで、昼ご飯を食べたらT君の家に集合することになっていた。T君の家に着くと3人は屋根の上に上がって空を見上げて、あの雲は何に見えるだの話していた。
そのうち、宇宙の話になって「宇宙に果てはあるのか? ないのか?」という議論に発展した。
丁度、2対2に別れて、僕はT君と「宇宙に果てはある派」だった。
僕には「果てがない」という状態は存在しないと思っていた。
仮に果てがない状態が存在すると考えるとしたら、ビッグバンという現象で宇宙が生まれて以来、宇宙が膨張し続けていることは知っていたから、膨張を続けているという状況を「果てがない」と言うことも出来るかも知れない。しかしそれでも宇宙の膨張の最先端が「宇宙の果て」なのだと思っていた。
そんな論争をしていたのだけど、当然結論が出ることはなく、誰かが「テレビ局に聞いてみよう!」と言った。
1970年代のテレビは小学4年生の僕らにとっては絶体的な存在で、テレビで放送されてる事は全て事実であると信じていた。
公園の公衆電話から、僕が代表で電話する事になった。電話をかけたのは地元の民放テレビ局。最初、受付みたいなところにつながって、宇宙に「果てはあるんですか?」と尋ねると「係の者に代わります」と言われ、さすがはテレビ局だと思っていると、電話を代わった男性が面倒くさそうに「ないと思いますよ」と言った。
それで結局「果てがない派」の二人が勝利を納める事となり、僕ら「果てがある派」の敗北で終わったのであるが、僕は、敗北とは別な釈然としない気持ちでいっぱいだった。
その釈然としない気持ちは「ないと思いますよ」言葉だった。僕らが知りたかったのは事実であって「思いますよ」という予測ではなかったからだ。真剣だった分、釈然としなかったのだった。
あの時、ああ言えばよかった、こうすれば良かったとはいつも後から思うもので、その瞬間は得体の知れない釈然としない気持ちに呆然と佇んでしまうばかりなのは、大人になった今でも変わらないのである。
1964年、福岡県生まれ。高校卒業後、絵本作家を目指して上京。1989年「クレヨンハウス絵本大賞」にて入選。1990年『シロと歩けば』(竹書房)でマンガ家としてデビュー。代表作に「朝日新聞」に連載した『ロダンのココロ』(朝日新聞出版)がある。また絵本や挿絵も手がけ、絵本に『シロのきもち』(あかね書房)、『みんなわんわん』(好学社)、『はやくちまちしょうてんがい はやくちはやあるきたいかい』(林木林・作/偕成社)、『こどもの こよみしんぶん』(グループ・コロンブス・構成 文/文化出版局)挿絵に『みんなふつうで、みんなへん。』(枡野浩一・文/あかね書房)『子どものための哲学対話』(永井均・著/講談社)などがある。『学校のコワイうわさ 花子さんがきた!!』(森京詩姫・著/竹書房)では「怪人トンカラトン」や「さっちゃん」などのキャラクターデザインも担当した。