ふたりの読書会

この連載について

書評家のワコさんと大学生のリリ。三〇歳も年の離れた、二人きりの家族。
親子のようで、親友のようで、そのどちらでもない。
二人は、いくつもの本を通して日々揺れ動く気持ちを伝えあう。
白い蝋燭に火をともしたら、二人きりの読書会が始まる。
ゆっくりと心が満ちていく読書の時間へ──。

第1回

桃と野焼き 前編

2025年6月10日掲載

 紅茶を淹れようと、ワコさんはティファールに水を汲んでスイッチを押した。赤いランプが灯る。そのまま放置して構わないのだが、湯が沸くまでの数分間、無意識のうちにじっとそれを見つめてしまう。機械の奥の方からごうごうという低い、小さな音が鳴り出し、躯体にある縦長の半透明の窓から水面が次第に波立ち始めるのが見える。水が騒いでいる。楽しそうに、苦しそうに。水にも感情はあるのかもしれないと思いながら見入ってしまう。と、スイッチがかちりと音を立てて切れ、赤いランプが消える。はっと我に返り、紅茶のポットを出さなくてはと、振り返った。

「わ」

 目の前にリリがいた。髪はボサボサ、少しむくんだ瞼は半分閉じている。上も下もグレーのスエット。今起きてきました、と全身が伝えている。

「今日、大学じゃなかったっけ……?」

「……………」

 リリは半眼のまま答えない。

「寝坊?」

 リリはゆっくりと首をかしげる。まだ半分夢の中にいるのだな、と思う。

 リリもお茶、飲むよね、とワコさんは言いながら、キッチンにぶら下げているマグカップを二つ手に取った。リリのカップはリスの絵がついているものと決まっている。

 ティーポットに湯を注いでいると、ひくっとしゃっくりのような声がした。気にせずにいたが、ひくっ、ひくっと、しゃっくりの声が続くので振り返ってみると、リリが椅子にうなだれて座って、しゃくりあげていたのだった。

「え、泣いてるの?」

 リリはこくこくと頷いた。頷きながら、目からさらさらと涙をこぼした。

 

 リリの涙の原因は、夕べ突然、彼氏から別れようと言われたことだった。

「理由も言ってくれないです。別れてくださいって、それだけ。ちゃんと理由を言ってください、言ってくれなきゃ気持ちが切り替えられませんって言ったんだけど、理由は言えないです、ないです、の一点ばりで。まあそういうこともあるだろうとも思うんだけど、やっぱりなにかまずいこと言っちゃったのかな、やったのかな、私がダメなのかな、人間として終わってるのかな、とか、もうずっと、ずっとそればっかり考えちゃって、ぜんぜん眠れなくて……」

 テーブルの上で軽くこぶしを握っているリリの両手が、かすかに震えている。ワコさんはその手の上にそっとてのひらをのせた。少しつめたい。

 そんなことない、リリはダメなんかじゃない、ぜんぜん終わってない、そんなふうに考えないで、とささやくように語りかけると、手の震えはだんだん収まってきた。

「さめないうちに、飲んで」

 ほのかに湯気をたてているお茶をリリに勧めた。リリは二、三度まばたきをしてから、こくりと頷いた。

「甘い」

「桃の香りだよ。この間友達にもらった紅茶なんだけど、砂糖は入れてないよ」

「香りが甘いから、甘く感じるんだ。桃って、匂いもやさしい。おいし」 

 リリはマグカップのお茶をゆっくり飲み干し、ふうっと息を長く吐いた。

「はあ、なんか落ちついたかも。ワコさん、ありがと」

 ワコさんは、本当は「和子」と書いて「かずこ」と読むが、リリは「ワコ」と呼んでいる。リリの母親の杏子が昔から「ワコさん」と呼んでいたから、リリもそれに倣ったのだ。杏子は、ワコさんの数少ない友達だった。でも、もうこの世にはいない。リリは梨々と書いて「リリ」。響きがきれいだからいつもカタカナで呼んでるの、と杏子が言っていた。だからワコさんの頭の中でもリリ、とその名前がカタカナで響いている。

「急に別れようって言われたときはびっくりしたけど、まだつきあって二ヶ月だから、まあアプリで知りあうってそんなもんかもしれないなって思って、大してダメージないだろうとそのときは思った。でも、なんか、あとからじわじわ悲しくなってきて……目を閉じてもぜんぜん脳が寝てくれなくて、気持ちがくらーいふかーい水の中に落ちていくみたいになって……。あいつが着てたセーターについてたキツネの薄笑いが忘れられない……」

 そう言うと、リリがテーブルにぺたりと顔をつけた。これは猫のように頭をなでてほしいということだなと察知して、ぼさぼさのおかっぱ頭をそっとなでた。

「かなしみは遠く遠くに桃をむく」頭をなでながら、ワコはゆっくりと暗唱した。

「……ん? もしかしてそれって、俳句?」リリが顔を上げた。

「ううん、川柳。時実新子さんという人の」

「川柳なんだ……。なんか、いいね、もう一回言って」

「かなしみは遠く遠くに桃をむく」

 リリは目を閉じて私の声を聞きながら、いいね、と小さく言った。

「かなしみも遠くで生活してるんだ、桃の皮とかむいたりして……。桃の紅茶を飲んでるっていうものあるかもしれないけど、かなしみと桃ってよく似合う気がする。私のこの、まだ胸の中にいるかなしみもなんかいとおしくなってくる。ねえ、これ、本になってる?」

「なってるよ。句集がある。ちょっと待ってね、持ってくる」

 ワコさんは本棚からすっかり黄ばんだ本を一冊取り出した。表紙にスカートの下から裸足がのぞいている写真がある。つま先だちでそろそろと歩いているように見えるが、よく見るとその足はマネキンだ。つま先の下から『有夫恋』というタイトルが縦に伸びている。

「これはお母さんが買ってた本なんだけどね、私の方がすっかり好きになっちゃって、家を出るときにもらってきたんだよね」

「ミコさんの本なんだ」

 リリは美子(よしこ)という名のワコさんの母を、ミコさんと呼ぶ。

「そうそう、ミコさんはファンだった田辺聖子さんが推薦してたから読もうと思ったんだって」

 リリに本を手渡すと、慈しむように表紙をやさしくなでた。

「時実新子さんの川柳は、心に強く響くんだよね。釣り上げた言葉が、ぴちぴち跳ねながら身体を打つような感じがして」

 リリはぱらぱらとページをめくった。

「『ほんとうに刺すからそこに立たないで』。なんかドラマチック。近づいたら刺すよってこと?」

「そうね。だけど、脅迫しているわけではなくて、思うようにはいかない切ない恋心が言わせているんじゃないかと私は思うんだな」

「うん。〝ほんとうに〟が、切ない。おねがいやめて、私をこれ以上本気にさせないで、ってぎりぎりのところにいる感じがする。それでいて、誰の中にもありそうなストーカーみたいな闇も突いてて、恐い」

「そうよね」

「タイトル、ゆうふれん、って読むの?」

「そう、有夫恋。造語だと思うけど、夫がいるのにしてしまった恋、という意味だね」

「不倫ってこと?」

「そうなる」

「わあ……」

「作者の新子さんは、昭和のはじめの生まれで、戦後すぐに一七歳で結婚したんだよね」

「一七で結婚⁉ 考えられない……」

「『十七の花嫁なりし有夫恋』っていう句があるよ。でもね、当時は当たり前だったんだよ。親が決めた結婚に、相手の顔も見ないで結婚しちゃうとか」

「なにそれ、えぐ」

「まあ、そんなこと考えずに読んだほうがいいのかもだけど。私も最初はそんなこと全然知らないで読んで共感してたんだから」

「うん、読んでみる」

 本を両手で抱えてワコさんを見上げたリリの目が、いたずらっぽく光った。

 

                                  「桃と野焼き」後編につづく

 

<引用文献>

時実新子『有夫恋』(朝日新聞社)1987年刊

掲載ページ P.32、P.38、P.87

著者プロフィール
東直子(ひがし なおこ)

広島県生まれ。歌人、作家。
1996年、「草かんむりの訪問者」で第七回歌壇賞受賞。2016年、『いとの森の家』で第三一回坪田譲治文学賞を受賞。
2006年に初の小説『長崎くんの指』を出版。
歌集『春原さんのリコーダー』『青卵』『十階』、小説作品『とりつくしま』『さようなら窓』『薬屋のタバサ』『晴れ女の耳』『階段にパレット』『ひとっこひとり』『フランネルの紐』、エッセイ集『一緒に生きる 親子の風景』『レモン石鹼泡立てる』『魚を抱いて 私の中の映画とドラマ』、歌書『愛のうた』、『短歌の詰め合わせ』、『短歌の時間』『現代短歌版百人一首 花々は色あせるのね』、穂村弘との共著『短歌遠足帖』、くどうれいんとの共著『水歌通信』、詩集『朝、空が見えます』、絵本『あめ ぽぽぽ』(絵・木内達朗)、『わたしのマントはぼうしつき』(絵・町田尚子)など著書多数。