失敗だらけの文章修業

この連載について

文筆生活29年。失敗からひとつひとつ記事やエッセイの書き方を学んでいった大平さんの七転び八起き。「人柄は穏やか、仕事は鬼」な編集プロダクションのボスの教えから始まる文章修行の日々には、普遍的で誰にも役に立つヒントが満載です。

第10話

宇野千代さんの料理エッセイとツレヅレハナコさんのインスタ

2025年6月6日掲載

「SNSやnote(投稿プラットホーム)で、読んでもらう文章にするにはどうしたらいいですか」
 先日、文章について語るオンラインイベントで、聞かれた。
 編集プロダクションのボスに指導を受けていた駆け出しの頃は、パソコンが普及していなかった。独立時にワープロを買うところから始める旧石器時代で、現在もSNSやnoteは専門外。語れるほどの技術を何も持ち合わせていない。
 ただ、読むのが楽しいなあ、肩の力を抜いた気持ちの良い文章だなあと思う人はいる。noteなら岸田奈美さん、インスタならツレヅレハナコさんだ。おふたりとも文筆家で、もちろん著書もあり手練れているのは当然だが、SNSにはまた別のセンスが必要なように思う。一田憲子さん、武田砂鉄さん、紫原明子さんもウエブでも長い文章を飽きさせずに読ませる技術が参考になる。糸井重里さんや吉本ばななさんは、ウエブ発信の先駆者でありながら最初から天才の領域なので、私が今更言うまでもない。

 とりわけ、デジタルメディアを通じてファンの支持を広げていった岸田さん、ツレヅレさんについては共通項がある。自慢がないという点である。
 じつはこれ、簡単そうに見えて案外難しい。誰でもすぐ書き込める気軽なメディアなだからこそ、である。技術と、客観的な視点がないと、自慢というものは行間からも、簡単に漏れてしまう。
 魅力はそれだけにとどまらない。
 本欄でも触れた「人は長文が嫌い」「美文は邪魔」「偏りと独りよがり」などの留意事項がことごとくクリアされている。
 勝手ながら、面識のある文筆家のツレヅレハナコさんのインスタを例にとらせていただく。私のうんちくよりずっと参考になるはずだ。

 まず、ふつうに考えてみてほしい。
 フォロワー数は7万を超え、自分の家を建て、しょっちゅうおいしいものを憧れの料理家やシェフたちと食べ、大好きな食を仕事にし、高い支持を得ている。このプロフィールをそのまま文字にしたら、どうだろう。いくらでも鼻につく。
 ところが、彼女はどれだけ長く、たくさんおいしいものについて発信しても、いやじゃない。鼻につくどころか、更新が待ち遠しい。会社員をしながら食のブログを書いていた時代から、読み手の印象は変わらないだろう。次の発信が待たれる人なのである。
 
 とかく自慢に見えやすい事柄を、高い技術と細心の留意で、別の魅力的な表現にしている。━━それはならいになっていて、いまや意識などしていないのかもしれないが。
 目配りのきいた表現は、一度自分の文章を編集者さながらに俯瞰する、冷静な視点がないと生まれない。
 この情動をうまく伝えられるかわからないが、私は彼女の、インスタを加筆修正の上書籍化した『まいにち酒ごはん日記』(幻冬舎)を読んだ際、泣きそうになった。その気配りが隅々まで行き届いているのを感じたからだ。それは、プロの書き手が自分のことを書く際に最低限必須な技術でありながら、私自身もよく失敗をする。自慢は嫌われるとわかっているのに、無意識のうちに「どう? 素敵でしょ」と言いたげな記述に陥っていることが。

 彼女のインスタは、楽しく明るく、短い文体だけに、その努力に気づく人は少ないかもしれないが、これはひとつの高度な技術である。
 
 前述の本について、彼女と対談した時、いろんな意味で泣きそうになった、と伝えた。インスタに自由に綴っていた大小の文章を、書籍用の定形レイアウトの文字数にリライトするだけでも相当の労力だったはずだ。短かければ短いほど、削ったり足したりするのは難儀なのである。
 彼女は「ありがとうございます、あれには苦労しました」と控えめに胸の内を明かした。
 
 では具体的に、人から見たら羨ましくなるような食生活をしている人が、自慢にならないように食を書くにはどうしたらいいか。
 それは「私は何者か」を正直に書くことが肝である、と私は思う。
 たとえば、最近のツレヅレさんのインスタには「暴飲暴食な外食の合間に」という一言があった。だれもが、彼女のバラエティに飛んだゆたかな料理の写真やテキストを見て「ずいぶん食べているな、飲んでいるな」と思うに違いない。それを踏まえて、私とは何者かと定義づけるとき「暴飲暴食をしがちで、外食も多い私」となる(あくまで私の勝手な解釈です)。
「暴飲暴食で~」は、何気ない一言だが、これがあるのとないのとでは受け止める側は全く違う。
 じつは多くの食通のSNSは、「グルメで、食のことを何でも知っている、おいしいものをよく食べている私」が主人公なのである。言語化しないまでも、そう自分を定期付けている人の文章は、残念ながら行間からもプンプンと臭ってしまう。読者はすぐにそれを察知する。
 今という時代は、SNSのささいなひとこと、短いテキストに込められた意図を汲み取る読み手の感度が“やたらに”高い。テキストコミュニケーションツールの時代こその作用だろう。
 
 自分のことを書くエッセイでも、「私は何者か」の定義を心のなかで最初に決めておくのは有効だ。
 宇野千代さんの『私の長生き料理』(集英社)という本がある。私は大判のムック(雑誌と書籍の中間のようなスタイルの出版物)と文庫を持っている。鰻や押し寿司から里芋の煮物まで、宇野さんの好物の写真とレシピが添えられた、料理エッセイだ。本文に、九六歳の今は「うちのものたちがいろいろと体によいものを考えて作ってくれている」とある。「うちのもの」とは、仕事や身の回りのお世話をする秘書の方お二人を指している。
 鰻、著名作家、秘書が食事を用意してくれる生活。ともすれば読者の生活からは遠い、「それは素敵ですね」「良かったですね」で終わりそうな要素の本書がなぜ文庫になるほど支持されたか。
 私は本書の、わかりやすくてユーモアたっぷりで、おいしいものを本当においしそうに書く宇野さんの筆致が大好きなのだが、最も好きな理由は次の一行にある。
<まだあのうまい蒲焼がうちの冷凍庫の中にあり、いつでも食べられるのだと思いますと、いいしれぬ喜びに包まれるのでした。ああ、私はなんという欲張りでしょうね。>
 知人から好物のうなぎの蒲焼をもらい、一枚ずつラップに包んで冷凍庫に保存したあとの心境を綴ったものだ。
 そうそう、こういうことってあるよな、と思わずくすりと笑う。
 いただきもののケーキが、いま、冷蔵庫の中に冷えていると思うだけで、その日の執筆がはかどる。わくわくする。そんなことが私にもある。似たことがきっとだれにもあるだろう。
 著名な作家でも、食いしん坊はみな考えることが同じなんだなと、親近感を生む。共感と親しみが、次々とページをめくらせる。“秘書の作る素敵な食卓”が鼻につかないのは、私とは何者か、の宇野千代さんのアンサーが「食いしん坊でたまらない私」だからなのである。

 大作家の宇野さんもまた、もはや意図するまでもなくそう書いたに違いないが、私は読むたびに背筋が伸びる。物書きはこうあらねばなと思う。
 いたずらに自分を落として自虐的に書けということではない。━━自虐的に書いて面白い作品もたくさんある。それは「作風」であって、誰にも役立つ「コツ」ではない。
 ツレヅレさんのインスタもそうだが、“私は何者であるか”が明確な人の、おいしい食についての文章はやっぱりひきつけられる。
 
 ツレヅレさんは、気楽に書いているインスタをこんなふうに分析されたら嫌に違いないが、もしあなたがSNSの文章を上達させたいなと思ったら、彼女がどんなことに気をつけて書いているか想像しながら読むことをおすすめする。それはきっとエッセイのヒントにもなる。

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著者プロフィール
大平一枝(おおだいら・かずえ)

作家、エッセイスト。1964年、長野県生まれ。編集プロダクション宮下徳延事務所を経て、1995年、出産を機に独立。『天然生活』『別冊太陽』『チルチンびと』『暮しの手帖』などライターとして雑誌を中心に文筆業をスタート。市井の生活者を描くルポルタージュ、失くしたくないもの・コト・価値観をテーマにした著書を毎年上梓。2003年の、古い暮らしの道具を愛する人々のライフスタイルと価値観を綴った『ジャンク・スタイル』(平凡社)で注目される。
主な著書に『東京の台所』『ジャンク・スタイル』『それでも食べて生きてゆく 東京の台所』、『注文に時間がかかるカフェ』『人生フルーツサンド』『正解のない雑談』『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』『そこに定食屋があるかぎり』など32冊。「東京の台所」(朝日新聞デジタルマガジン&w)、「自分の味の見つけかた」(ウエブ平凡)、「遠回りの読書」(『サンデー毎日』)他連載中。