2023/02/03-2023/02/17
2023/02/03 金曜日
節分。循環器科通院日。予約時間の30分前に到着、8時45分に呼ばれ、診察3分で終了。元気なのでそれでよし。処方箋を持って薬局に行き、薬をもらって病院を出て、次は銀行の窓口へ。地方裁判所に支払う予納金はネットバンキングの利用はできない(なぜ??)。現金持参、銀行窓口からの送金、あるいは現金書留のみ受付だそうだ。WHY? 大人しく窓口にて送金。ベテランの行員さんが、裁判所に別途送付する納付証明書をちゃんと見せてくれ、こちらですよと言ってくれる。ありがたい。横の窓口では若い女性行員相手にお爺さんが怒鳴り散らしていた。
銀行のあとスーパーに立ち寄ると、そこはすでに恵方巻きフェス会場だった。恵方巻きがあれば夕飯を作らなくていいのだから、買う人が多いのは納得。私も数本買って帰宅。
午後、週刊誌のインタビュー。Zoom。楽しい方だった。お友達になれそう。
私が、どんな困難をも乗り越える明るいキャラの母であり翻訳家でありエッセイストのようなイメージを読者に持って頂いているのであれば、それはありがたいことだと思う。が、私の頭のなかの自分自身の声は、決して100%そうではないことを示している。……ような気がする。
3月刊行のエッセイ集のチェックをし、2月末刊行予定のノンフィクション(ジャングル本)のチェックをした。しかし本調子ではなく、気分が重い。チェック作業を諦め、翻訳に切り替えた。The Real-Life Murder Clubsをさっと数ページ訳してから、別の連続殺人系ノンフィクション担当本のページを進めた。こちらはかなりダークで、危険で、酒とマリファナの匂いが立ちこめるような物語だ。今日はこっちの気分だ。訳していたら、なんだか背筋が寒くなった。血の滴るイメージ。
寝る前に、大田出版から依頼されている短いノンフィクションの一冊を少し読む。作業はスタートしていて、そろそろ二章が終わる。3冊同時に訳していることになる。メモ書きを3枚作成しながらの作業になるが、それについてはまた明日。
2023/02/04 土曜日
掃除の一日。気分が上がらず、ただひたすら掃除。掃除しながら、ここのところ数か月にわたって書いている原稿のセリフを思いついた。
「お前まさか、美優みたいになろうと思ってるんか? お前がこれから先、いくら出世して金持ちになったとしても、お前と美優は生まれたときから違う。お前がこの先どれだけがんばったとしても、絶対に美優にはなれない。お前は一生、美優の前では情けないお前のままや」
ひどいセリフだ。
2023/02/05 日曜日
金曜日に書いた、翻訳中のメモ書きについて。
翻訳を仕事としている人だったら誰でもやっているとは思うけれども、用語統一のために訳しながらいろいろとメモをしていく。昔は律儀にエクセルシートで用語集を作っていたのだが、最近はA4の紙に手書きでメモするようになっている。なぜかというと、手書きの方が記憶に残るからだ。不思議と、エクセルシートでまとめられた用語集を見ながら作業するより、手書きのメモで作業するほうが早いこともある。紙に書いているようで、実は頭のなかにメモを残しているのかもしれない。なにやら頭と直結している気がする。紙のメモは、一冊が終わるころにはボロボロになっている。子ども向け映画に出てくる宝島の地図みたいだ。無事出版となったら、たっぷり溜まったゲラ(校了紙)と一緒にさようなら。保管しておけばいいのにと何度か言われたことがある。確かに、保管しておいたら後々何かのヒントになるのかもしれない。でも、怨念も残りそうで一冊が終わったらきれいさっぱり処分することにしているし、頭のなかにはほぼ残る(数年後には消えるけどね)。
ママ友とLINEで「バレンタインのチョコは買った?」と確認しあった。バレンタインに息子が誰からもチョコレートをもらえなかったら気の毒だからと、毎年一応用意するそうだ。優しいねえ。私も毎年、おしゃれ過ぎず、ひねりすぎずのチョコを買って息子たちに与えている。どういうチョコレートかというと、ヨックモックだ。ヨックモックはすごい。懐が深い。手作りのヨーグルトチキンカレー(スパイスたっぷり)よりもポケモンカレーの方が絶大な支持を得られるのと同じで、子どもの味覚は親が思うより成熟していない。もう16歳だから、子どもと言っては怒られるかもしれないが。
それにしても、まったく気分があがらない一日だった。
2023/02/06 月曜日
琵琶湖女子会という集まりがあって、結成から何年経過したかは忘れてしまったけど、今日は定例ランチ会だった。そもそも6人だったメンバーが5人になってしまったのは2年前のクリスマスのこと。メンバー内でもっとも元気だった人が突然他界してしまったのだが、このたび、彼女が納骨されたと聞いて、全員でお墓参りに行って来た。
琵琶湖を見渡すことができる美しい霊苑に現地集合、彼女の眠る墓前に女5人で立つ。北欧デザイン風マグカップのお供えの水がとてもきれいで、その日、誰かがすでに彼女に会いに来ていたことがわかった。メンバーの一人によると、彼女の両親が毎日欠かさず来ているとのこと。両親の住む場所が霊苑からそう近くないことは、私たちの誰もが知っている。二人の気持ちを思うと切なくなる。
ついでというわけではないのだが、もう一人のメンバーのお父さんが眠る墓にも(偶然、同じ霊苑内)お参りをした。穏やかで素敵なお父さんだった。どうぞ私たちを見守っていて下さいねと祈りながら、手を合わせた。
全員でわが家に向かい、持ち寄った食べ物でランチ会スタート。私は自慢の巨大魔法瓶の前に座ってお茶係を務めた。メンバー全員が自営業者なので、その苦労をひとしきり話して、数時間後に散会となった。

今日はなかなか仕事の気分になれず。確定申告の準備をする気にもなれない。
2023/02/07 火曜日
そういえば昨日聞いた面白い話。琵琶湖女子会のメンバーの一人曰く、「うちの墓は、区画内に墓石がゴロゴロいっぱいある」。どういうことやねんと理由を聞いたら、自分だけで入りたいとか、あの人とは入りたくないとか、そういう事情があったそうだ。イイネ! 正直で。つい最近まで土葬だったらしい(50年ぐらい前まで)。最近というのか。
それからランチ中に思いがけず聞いた話なんだけど、中小企業の経営というか、誰かを雇うっていうのは本当に大変なことなんだなという事件が友人たちの身に起きていたと知り、震え上がった。最近、わけのわからないクレームなどが大変増えているということだが、やっぱり人間が一番怖い。間違いない。ひえ〜こわ〜と大声が出たけど、いや、本気で怖いよ。
そんなことを考えつつ、突然確定申告の書類を集めようと思い立ち、山ほどの書類を整理した。スキャナで読み込んだり、ダウンロードしたりしてファイルをまとめ、メールでずばっと送信。医療費は余裕の10万円超えだ。生きるための課金である。世の中には良い課金と悪い課金があるそうだが、私の医療費は良い課金だろうね。
一時間ほどかけて半分ほど作業が済んで気分すっきり。ここのところ数日続いていた謎のダウナーが少しマシになった。
午後、小学館から書類が届く。私立中学の受験問題に引用された『本を読んだら散歩に行こう』(集英社)の使用許諾についての書類で、実際に引用された箇所も確認できたのだけれど、小6キッズがこの長さの文章を読むのかと驚いたし、引用されていた箇所が私の盛大な愚痴だったのにも笑いがこみ上げてしまった。愚痴オブザイヤー2022だよ。キッズたちごめんね。ここを読ませるってすごいね? 君たちのお母さんが私みたいなことを考えているとは限らないからと小6キッズに言い訳したくなった。アハハハ。
夕方長男が戻り、少し話して500ページのゲラをチェック。2月末刊行って本当かしら。オーストラリアの地図を拡大して、パースからブルーム(Broome)までの距離を確認した(2400キロ)。事実確認が一番めんどくさくて、そして大事。校正者が拾ってくれた疑問点に大いに助けられた。ありがとうございます。
夕飯の支度をしたら、翻訳作業・夜の部をスタートさせる予定。そうそう、今日は『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』文庫版(早川書房)の発売日でもあった。祭りか。頼む、売れてくれ。素晴らしい一冊なんだ。
2023/02/08 水曜日
ジャングル本の三校とにらめっこをしている。地名が多く出てくるのだが、距離感が掴めない。Google mapを確認しながらの作業だが、亜紀書房の内籐さんと情報共有できるように、地図をプリントアウトして原稿に挟み込む。確かに原書の記載通りの距離だったり標高だったり、川の長さだったりするわけで、文字情報が地図上で示され、ぐっとわかりやすくなるうえ、なんとなく著者との距離感が縮まったような気持ちの悪い錯覚まで。でも、原書が間違っていることもあるから油断は禁物だ。
明日には戻さなくてはならない。残り300ページ。今夜ですべて見なくては。
昨日、『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』文庫版の発売日だった。著者のタラ・ウェストーバーはアイダホの山の中で孤立した生活を送っていた。両親は厳格なモルモン教徒で、彼女や兄姉から自由を奪う。ホームスクーリングで育てられた彼女がハーバードに行くまでを描いた回顧録だが、実は同じ時代に、アイダホの隣のユタ州に、のちのシリアル・キラーがいた。イスラエル・キーズだ(彼については拙訳『捕食者——全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』(亜紀書房)を参照してもらえたらラッキー)。ユタの山中で孤立した生活を送り、ホームスクーリングで育てられた彼は、やがてアラスカに移り住み、シリアル・キラーになる。同じユタの殺人鬼キーホー兄弟とも知り合いだったそうだ。
タラの兄は大変乱暴な人物として描かれており、同じく白人至上主義者であり、最も嫌なのは、彼らには動物を虐待するという共通点があるということ。なんなんだろ、山の上で孤立した環境で育てられてしまって、ありあまったエネルギーの行く先がなくなると、凶暴になってしまうのだろうか。キーホー兄弟は警察官と打ち合いの末逮捕されたが、そんな人たちが同じ時代にまあまあ近い場所で生きていたというのも怖い話だな……。
2023/02/09 木曜日
仕事をしていたら次男からLINEが入って「かあさん、体操着忘れた」ということだったので、急いで学校まで体操着セットを届けに行く。学校までの国道が工事中で、警備員のおじさんが大勢立っていて、彼らが全員、兄に見える。
兄は3年前に突然亡くなったが、亡くなる直前は警備員の仕事をしていたようで、部屋には制服が置いてあった。工事現場に立っていたらしいのだが、糖尿病で高血圧で狭心症だった兄が、あの寒い多賀城(兄が没した場所)で警備員……と考えると「なんでそうなったのか」という気持ちがじわじわ湧いてくるとともに、私と兄の差なんてこれっぽっちもないとも思うのだった。最後に警備員として働いたのは亡くなる4日前(カレンダーに〇がついていた)。亡くなったのは、水道局が派手なオレンジ色の紙で警告した、給水停止日当日だった。
兄の人生は、どんなものだったのだろう。考えたくはないが、孤独だったのではないか。両親が兄の晩年を知らずに逝ったことだけが救いだ。父方の叔母が、「わが一族の男たちは全員メンタルが弱い」と言っていたが、それが真実かもしれない。そんなことを考えながら次男の高校に到着し、体操着を無事手渡した。帰り、その次男に頼まれマクドのチーズバーガーを8個買う(夜食べるから買っておいてくれと頼まれた)。賑やかな息子たちがいるため私の人生は孤独とは無縁のような気がするが、頭の中は常に孤独で、兄に振り回されている。なぜ忘れさせてくれないのだろう。
家に戻ってジャングル本三校をチェック。あとがきが壮大なネタバレになっているので、同じ文字数で書き直すことに決めた。決めたと言っても編集者の内籐さんにはまだ伝えていない。彼はいまだにボルネオのジャングルにいるのだ。そっと「データ支給します」と三校に書き込んでおいた。それにしてもなぜ私はあとがきでネタバレをしてしまうのだろう。確か『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』(早川書房)のあとがきも、最初の原稿ではネタバレをしてしまい、書き直しをしたのだった。ダメねえ……。
『完全ドキュメント 北九州監禁連続殺人事件』小野一光著(文藝春秋)をダッシュで買って読み始めた。今日は翻訳が少ししか出来なかった。寝る前にキッチンとリビングをぴかぴかにして、明日のスタートダッシュは約束された。
2023/02/10 金曜日
あっという間の金曜日。今日は渡辺由香里さんの YouTube チャンネルに登場の日。いや〜、渡辺さん、面白かった〜。渡辺さんとのお話だから、きっと洋書がメインよね……とか思っていたのだが、結局一番盛り上がったのは、子育ての話だった。私から見たら本当に完璧な子育てをされたように見える渡辺さん。でも、子育てって大変ですよねという意見で海を越えてしっかり握手した気分。
2023/02/13 月曜日
村井理子、久々の大ピンチだ。月刊文芸誌『すばる』(集英社)で始まる新連載の締め切りを3日過ぎていることが判明。なぜこんなことに……と、真っ青になってGmailを調べたら、なんと担当編集者さんからの丁寧なメールがすべて新着フォルダに分類されていた(いつも全然見ないところ)! ぎええええええ! なんで自動で振り分けておかなかったのだバカバカバカ!!! ものすごく焦ってしまった。本来だったら、一週間前ぐらいから胃がキリキリと痛み出すような、新規連載第一回目の締め切りを余裕で3日超え。村井理子、紛れもないピンチだ。しかしピンチはチャンスだ。俺ならできる。
追いつめられたうえに、まだ米が炊けていない。もうすぐ息子たちが帰ってくる(ただいま午後4時)。牛丼で手を打たないか。頼む。
2023/02/14 火曜日
バレンタイン。
締め切りに遅れてしまって焦りに焦って、夜、ちゃんと眠ることができず、ウトウトしながらなんとなく(頭のなかで)書いてしまい、明け方むくりと起きて原稿にした。そこから二度寝して、ちゃんと起きてから清書して、入稿した。たぶん大丈夫。遅れていた原稿を送った途端に、別の原稿(『村井さんちの生活』(新潮社Webマガジン「考える人」連載))の督促が! ああっ、うっかりしていた! 新潮社の白川さんからLINEが来てようやく気づいた。最近、もの忘れというか、生活が慌ただしく、忙し過ぎてスケジュールの調整がうまくできなくなってきている。メールも見落としがちなので、気をつけなければならない。遠慮なしに電話して欲しい。編集者さんに気を遣われるようになったらお終いである。
結局、2本の原稿を仕上げて、少し休んで、本日もThe Real-Life Murder Clubsの翻訳。昨日読んだ『ひとりだから楽しい仕事 日本と韓国、ふたつの言語を生きる翻訳家の生活』(クォン・ナミ著)によると、彼女はなんと日本文学をすでに300冊も訳している。ちょっともう、想像を超えた世界だ。クォン・ナミ氏が翻訳を続ける限り、私がいくら翻訳しまくったとしても、仕事のしすぎなんてことは言われないだろう。追いつきたいが、絶対に無理。
2023/02/15 水曜日
大和書房のWebマガジン「だいわlog.」で、この日記が初公開された日。3月7日発売の『ふたご母戦記』(朝日新聞出版)の情報が解禁となった日。ジャングル本こと『消えた冒険家』(亜紀書房)の発売が3月10日だとわかった日。文芸誌『すばる』の連載1本目の初校が戻った日。雪のため電車が止まり、遠くまで次男を迎えに行った日。帰り、どうしても寄りたいと言われ、くら寿司へ行った日。閑散としたくら寿司で4800円。どれだけ食べるんや。
それにしても、慌ただしかった。今日は電話がよく鳴った日だった。
家のなかが雑然としてきて、酷く落ち着かない。疲れてはいるがやはりリビングを掃除することにした。視界に物が溢れるのが嫌だ。ミニマリストじゃないけど、ガチャガチャとした景色が堪える。
ああ、疲れる。今日は翻訳は無理だった。
2023/02/16 木曜日
朝早くに起きることはできたが、頭の中が空である。
CCCメディアハウスの田中さんから久々にslack経由で連絡があって、馬鹿話をして、テンションは思い切り上がったものの、頭のなかは相変わらず「無」。何か書こうとしても、真っ黒に塗りつぶされた壁のようなものしかそこにはない。またこの時期が来た。
2023/02/17 金曜日
アサ 11じ お預かり ヨル 6じ お渡し
3 Every Day Best Price
スーパークリーニング Cleannet
JR膳所駅前餃子の王将、いつもの席。通りに面した店舗窓から見える文字列。Every Dayの前の「3」が謎である。
席に着いてスムーズな動作でタッチパネルを手にし、焼きそば、ジャストサイズの餃子(3個)、同じくジャストサイズの春巻き(1本)を頼み、すぐさま『完全ドキュメント 北九州監禁連続殺人事件』(小野一光著)の続きを読みはじめる。数日前から夢中になっているのだ。あっという間に焼きそばが運ばれてきたので店員さんにお礼を言って、さて頂こうと思い、気がついた。斜め前方6人席に老夫婦が困惑した表情で座っている。おじいさんはタッチパネルに挑戦しているが、おばあさんは紙のメニューを見ている。この店はタッチパネルの注文がメインで(ビジネスマンや学生の客が多いからなのか?)、紙のメニューは置いてあるものの、席に呼び出しボタンは設置されていない。
おばあさんが何度も手を上げて店員に注文を取ってもらおうとするのだが、忙しい厨房内で彼女の訴えに気づく人はいない。気になった。非常に気になった。そして辛くなった。あまりにも気の毒だった。おじいさんはタッチパネルを手に、首をひねったままだ。
箸を置いて立ち上がり、周囲の客に気づかれないように、目立たないように、6人席のおじいさんが座る側に滑り込むようにして腰掛け、「お手伝いしましょうか? ここの店、タッチパネルでないとダメみたいなんですよ。いえね、暇な時間だったらきっと店員さんも来てくれると思うんですが……どうされます? ラーメン? チャーハン? 餃子はどうします?」と声をかけた。
私は再び慣れた手つきでタッチパネルを操作し、老夫婦のために注文をした。厨房内で若い女性が「オーダー、通しま~す」と明るい声で言ったので、任務は完了。「それでは、突然失礼しました」と伝え、私は素早く席に戻った。
↑ ちなみにイタリック部分、私の妄想ね(老夫婦は実在)
焼きそばを食べつつ、こんな妄想を繰り返し、店員の動向と、何度も手を上げるおばあさんの様子をハラハラしながら見守っていた。少し気難しそうな人たちだから、お節介なことをしたら叱られるかもしれない。気持ち悪いと思われるかもしれない。だから、もう少し見守ろう。でも、どうしても店員が来てくれないようなら、勇気を出して声をかけよう。こんな苦しいシチュエーションはここからさらに数分続き、最終的に店員がオーダーを取りに来てくれた。
あー、よかった。そう思いながら、焼きそばに再び集中しようとした、その時だった。左横の4人席、プラスチックの衝立の向こうのカップルの会話が妙に気になりはじめる。男性は私より少し年上だろう。スーツ姿だった。男性の前に座る女性は、私とあまり年齢が変わらない印象で、白いセーターを着ていた。茶色く染めた、肩につく髪。濃いめのメイク。ワインレッドに塗られた指先。ちなみに私は超高速タイピングのために爪は絶対に伸ばさない。
男性が大きな声で言う。「どうする? こっちの野菜炒めもちょっと試してみよか?」
女性は、小さな声で「うん」と答えた。頰を若干赤らめて(赤らめたように見えた)。
え? まさかのカップルか?
胸をざわつかせながら横目で二人のテーブルをしっかりと確認すると、なんと10皿ぐらい注文しているではないか! テーブルが皿でいっぱいである。どういうこと⁉ 大食い系YouTuberとか?
男性はいちいち皿の料理を評価する。
「この麺と油のバランスやったら、やっぱりもう少し塩は必要やろな。バランス的にMSGが多すぎるねんなあ」(注:MSG=グルタミン酸ナトリウム)
「揚げ方はええんやけども、どうやろうなあ、もう少しパンチがあってもええかもしれん」
そんなことを言っている男性に対して、私とそう年齢が変わらないであろう女性は、頰を染めながら、「うん、うん」と頷いていた。なんじゃろ、このシチュエーション?
そしてとうとう、男性は店長を呼んだ。「ちょっと! 店長来て!」
度肝を抜かれた。「シェフを呼んでくれ!」を餃子の王将で目撃するとは! きょとんとした顔でやってきた丸顔の店長に、男性は言った。
「ここのお皿、見て。ここにタレが残ってるやろ。これ、どの段階で片栗粉入れるん?」
私はドキドキが止まらない。とんでもないことがはじまっちゃってるので、落ち着かない。しかし、男性の前に座る女性は明らかにその状況を喜ばしいこと、あるいは、もしかしたら、いや確実に、セクシーな何かと捉えている!
「俺から言わせてもろたら、ここの炒め物は二流や。調味料の入れ方のタイミングもおかしいと思う。まあ俺ら、会社の経費で食わせてもらってる身分なんですよね。だからこそ、常にベストなものを求めたい」
店長、キョトーン。私はすぐさまiPadを開いて、やりとりのメモを取った。中年カップルに厨房内の店員たちの視線が集中していた。私も、遠慮なしに男性の顔をじっと見て、前に座る女性の顔もまじまじと見た。そして気づいた。この二人、まるで北九州監禁連続殺人事件の松永と緒方みたいな関係性に見える。ゴテ倒す松永と黙ってうつむく緒方の図ではないか!
結局、この男性は店長に水溶き片栗粉の投入タイミングについて意見を述べ続けた。私は怖くなって急いで焼きそばを食べ、春巻きを食べ、餃子を食べ、足早に店を出た。まったく予想だにしなかった場所で、水溶き片栗粉ニキに遭遇してしまった。人間が一番怖いというけれど、それは本当だ。
日記なのに長いね。
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第1回2023/01/19-2023/02/02
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第2回2023/02/03-2023/02/17
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第3回2023/02/18-2023/03/03
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第4回2023/03/04-2023/3/17
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第5回2023/03/18-2023/03/31
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第6回2023/04/01-2023/04/16
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第7回2023/04/17-2023/05/08
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第8回2023/05/09-2023/05/21
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第9回2023/05/22-2023/06/01
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第10回2023/06/07-2023/06/16
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第11回2023/06/17-2023/06/30
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第12回2023/07/01-2023/07/14
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第13回2023/07/15-2023/07/28
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第14回2023/07/29-2023/08/11
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第15回2023/08/12-2023/08/25
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第16回2023/08/26-2023/09/08
翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。