ある翻訳家の取り憑かれた日常

第6回

2023/04/01-2023/04/16

2023年4月27日掲載

2023/04/01 土曜日

東京。やっぱり東京はいつ来ても素晴らしい。読売新聞社は大都会のど真ん中にあるビルで、気分はすっかりキャリー・ブラッドショーだった。カータンとは、一度zoomでのイベントでご一緒したことがあるのだが、ちゃんとお会いするのははじめてのこと。ブログを長年書いてきた私からするとスター的存在のカータンと会えて、本当にうれしかった。トークショーは大盛況。一泊する予定だったが、日帰りでも十分余裕のあるスケジュールだったので、夕方、滋賀に戻った。とても楽しい一日だった。

2023/04/03 月曜日

東京出張があり、ちょっと遅れていた原稿を入稿。調子は戻ってきている。きちんと仕事ができるようになってくれば、かなり、ましになっているはずだ。今回も東京のイベントではたくさんのお土産を頂き、わが家のおやつストックが大変豊富になっている。本当にありがたいことだと思う。お手紙を添えて下さった方もいた。ありがとうございます。すべて読ませて頂いています。

そして、今月も書いたぜ、8000字(集英社での連載『実母と義母』)。何度か書いていくなかで、自分としてはかなりの分量だと思っていた8000字が、頑張れば書くことが出来るようになった。なにごとも練習であり、積み重ねである。書くことも同じだ。こうやって文字数をじわじわ伸ばす作戦、いいのかもしれない!

2023/04/04 火曜日

大和書房鈴木さんから依頼の『The Real-Life Murder Clubs』の翻訳をガシガシと進める。DIY探偵の話はやはり面白い。彼らに共通しているのは、使命感だろうか。いつまで経っても答えの見つからない疑問を、そのままにしておけない好奇心とでも言おうか。名前を失ったまま何十年も経過している被害者を家族の元に帰してあげたいという気持ちと、事件解決への使命感で、夜な夜なネットを徘徊し、調査を重ねる人たちが、この広い世界に存在しているのだ。報酬があるわけでもないだろうに。

日本にもきっとDIY探偵(未解決事件を独自に調査している人たち)はいるはずだが、どこに集結しているのだろう。翻訳作業の合間に少し調べたが、あまりヒットしなかった。

しばらくネット上をフラフラし、結局、happy face killer ことキース・ハンターの娘で作家のメリッサ・ムーアのTikTokアカウントを久々に見ることにし、コーヒー片手にしばらく彼女の語りを聞いていた。シリアル・キラーの娘だからこそ、同じ境遇の人たち(シリアル・キラーの家族)と被害者を救いたい。そんな気持ちになれるメリッサはすごいと思うのだが、『The Real-Life Murder Clubs』に登場する被害者家族も、最終的には同じ境遇の人々の救済という境地に辿りつく。なんて書いていいのかわからないが、そこに救いがあるように思える。人間の良心というか、心の底の部分にある優しさというか、淡い光が見えたような気がする。そこに到達するまでに、大変な苦しみがあるのだが。

午後、慶應大学出版会の片原さんから連絡が入る。企画会議にめでたく通った一冊の翻訳作業を担当させてもらえることになった。今年は何冊になるのだろう。とにかく、目の前の仕事をコツコツと進めるしかない。海外の本が日本に入ってこなくなったら困るからね。

体調は戻りつつあり、文字がスムーズに出てくる。やる気も戻って来ている。少し長めにダウンしたが、予想よりも早めに回復できてよかった(それでもきつかった)。

2023/04/05 水曜日

あっという間に4月だよ。一年の三分の一が終了なのかよ。本当にあっという間ですよ。50歳を過ぎてから、一年が本当にあっという間。こうやって人間は老いていく。カレンダーに日々バッテンをつけるように生きていたのが若いころだとしたら、今はもう、自分の輪郭がどんどんぼやけ、徐々に崩れていくような日々。砂の城のようなものですな。

春休み中なので、息子たちが二人ともずっと家にいる。

家にいてくれるのはいいのだ。なにかと手伝いをしてくれるし、スーパーから戻れば家から飛び出してきて荷物を運んでくれるし、高校生ともなると手がかからなくていいねと思う。今日は二人で仲良く素麺を茹でて食べていた。部屋も掃除してくれたし、一体なにが起きているのか。それとも、今から何か起きるのか。不吉なのかもしれない。とにかく、仕事を進めなければならないので、息子たちに愛犬ハリーを任せて、ずっと仕事。太田出版藤澤さんから依頼の『射精責任』の原稿が戻ったので、確認した。タイトルが何度見てもインパクトあるね。それから内容が抜群に面白い。

夜、大和書房の『The Real-Life Murder Clubs』を再びガシガシと訳す。今日は身元不明遺体(それも切断されて腐乱している)の復顔プロセスについて訳していた。とあるジェーン・ドゥの胸像で注目されたのは、その特徴的な前歯。しかし、原文を読んでもその「牙のような」と表される歯の特徴がよくわからなくて、あまり気は進まなかったが、復顔された実際の胸像をThe Doe Network(ボランティアで胸像製作している団体)を検索して確認した。八重歯だった。ああ、そういうことかと納得。可愛い笑顔の女性だった。二十年以上も身元不明だったなんて気の毒だ。それにしてもずらっと並ぶ胸像の写真が怖い。

世界中の身元不明者の胸像を製作しているThe Doe Networkだが、ちょっとフォローしておこうか~と思ってツイッターのアカウントをフォローしたら、フォロワーにパットン・オズワルト(『黄金州の殺人鬼』著者ミシェル・マクナマラの元夫)とビリー・ジェンセン(『黄金州の殺人鬼』共著者)がいた。あら、お久しぶりという気分だ。

2023/04/06 木曜日

ゆうべ寝る前に、うっかりキーラ・ナイトレイ主演の『ボストン・キラー 消えた絞殺魔』をディズニーチャンネルで見てしまう。シリアルキラーものの翻訳を終日やったあとに、映像でふたたびシリアルキラーを見てしまうとは! 連続殺人事件を追う新聞記者を演じたキーラ・ナイトレイが大変美しく、素晴らしい演技だった。なんと実話ベースということ。衣装も大変よかった。

ボストン・キラーの余韻覚めやらぬまま朝起きて、『The Real-Life Murder Clubs』を訳す。こちらはテネシー州キャンベル郡の連続殺人事件。昨晩担当編集者の鈴木さんからメールが来て、昨日の日記に書いた「「牙のような」と表される歯が八重歯だった」という記述について、「それは八重歯というよりは犬歯ではないでしょうか」とあった(私と鈴木さんはこの日記をGoogleドキュメントでリアルタイムでシェアしている)。ああ、確かにそうだわ、と思って調べてみると、少し混乱!

ジャパンナレッジによると、
犬歯:切歯(門歯)と臼歯(きゅうし)の間の歯。上下一対、左右に計4本ある。糸切り歯。肉食獣では発達して牙(きば)となる。
八重歯:正常の歯列からずれて重なったように生える歯。犬歯によく起こる。鬼歯。

原書の記載は「overgrown right front tooth, like a tusk.」
うーん??? overgrown?

ということで、実際に復顔されたジェーン・ドゥの胸像をもう一度確認してみた。画像を拡大し、犬歯で間違いないと思ったものの、一応、身元確認されているかどうかを調べた。身元確認が済んでいたとすれば、本人の顔写真が出てくるはずだ。検索したらすぐにわかった。私と同い年の女性だった。オハイオ州トレドで姿を消し、テネシー州キャンベル郡で発見。27歳。27歳といえば、私が京都で働いていた時期だ。本人写真の口元を大きく拡大してみた。なるほど、この人で間違いない。ちなみに、犯人は逮捕されていない。自分だったらと想像したら、途端に彼女が気の毒になった。

「殺人事件が好きなんですね」と言われることもあるが、それはまったくそういうことじゃなくて、コールドケースが最終的にどんな答えにいきつくのか、犯人に正義は下されるのか、その気長な捜査の過程をつぶさに見ていくのが好きなのだ。謎解きですね。ということで、本日も、『The Real-Life Murder Clubs』で一日がスタートした。

午後、休憩してたら大好きなCeleste Barber(セレステ・バーバー)主演のNetflixシリーズ『ウェルマニア ~私のウェルネス奮闘記~』が始まっていることに気づく。翻訳に力が入ってくると、必ずシリーズものの医療ドラマとか刑事ドラマとかコメディが観たくなる不思議。セレステはInstagramが面白い。若い女性と熟年女性の間にある、ありとあらゆる違いだとかズレのようなものを、面白おかしく表現させたら彼女の右に出る人はいない。とにかく面白い。しばらく観て、げらげら笑っていた。

2023/04/12 水曜日

6時起床、『母を燃やす』アヴニ・ドーシ著、川副智子訳(早川書房)を読む。毒母と娘の物語。2020年のブッカー賞最終候補作だそうだ。前半は、場面展開しながら過去から現在に繋がる母と娘の葛藤の歴史のような物語が展開されるのだが、母が認知症となり、娘が妊娠、出産したところで突然物語が揺れはじめる。娘が自分自身も「母」となった瞬間、何かが変わりはじめる。そこに義母も加わり、恐怖はさらにヒートアップ。なんだかいろいろと身につまされる一冊だった。どこの場面でも義母が出てくると問題が起きるのだが、これは全世界共通なのだろうか。感想を連載用の原稿にまとめた。

原稿がまとまったので、ふと思い立って、コメダ珈琲店に行った。10時半ぐらいに到着。連載原稿が仕上がっているので安心して長居してしまった。モーニングを頼んで珈琲をおかわりして、シロノワールのミニを食べた。もう少し店内の音楽の音量が低かったら、読書も捗るだろうなと思って、そうだ、ノイズキャンセリング機能つきヘッドフォンを買おうと思いつく。ショッピング熱が再び盛り上がっているあたり、メンタルも回復してきていると感じた。

2023/04/13 木曜日

ノイズキャンセリング機能つきヘッドフォンが到着。早速装着してみた。確かに、まったくノイズが聞こえない! これを持ってコメダに行って読書をすることにした。朝7時、開店と同時に行って一時間程度読書するというのはどうだろう。考えただけでうっとりする。モーニングを食べながらヘッドフォンをして周囲のわずかなノイズを消し去り、本に没頭するのだ。なにそれ、最高の朝のはじまり!

今日は午前中にちょっとした用事があり、昼過ぎに家に戻った。そこからは延々と翻訳の時間だ。まずは『The Real-Life Murder Clubs』、そして亜紀書房から依頼の『LAST CALL』も。ヘッドフォンを装着しながらしばらく一人の世界に入り込んで作業を続けた。連日こういう調子だと、あっという間に翻訳も仕上がるのだけれど、人生、そう上手くはいくまい。

2023/04/14 金曜日

原田とエイミーの話の続き。

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ふと気がつくと、足が勝手にスキップしていた。講師室で鼻歌を歌って上司に注意された。

この一週間というもの、原田は完全に落ち着きを失っていた。いつもの冷静な原田ではなかった。親父さんの店で働きはじめた孫娘のエイミーのことが頭から片時も離れなかったのだ。

「情けねえなあ」と思った。いい年したバツイチのおっさんが、美しい女性に出会ったというだけでここまで動揺するなんて、まったく情けねえと原田は自分で自分を笑った。笑ってはみたものの、予備校の授業に力を入れても、一人暮らしのマンションで芋焼酎を飲んで泥酔しても、頭の片隅には常にエイミーがいて、原田を悩ませ続けるのだった。

前妻と離婚してからというもの、誰かにときめいたことなど一度もなかった。むしろ、恋愛なんてうんざりだと思っていた。俺はきっと死ぬまで独り、そう考えていた。それなのに、頭の中に居座るエイミーは原田を解放してくれそうもない。長くて豊かな黒い髪、茶色の大きな目。あまり笑顔は見せないが、少しはにかんだように笑った瞬間の、あの例えようのない美しさ。延々と頭のなかで繰り返されるエイミーのイメージに、原田は冷静でいられなくなった。胸が苦しい気がして、右手を心臓のあたりに当ててみる。人間ドックでは異常を指摘されなかった俺の心臓が、時折きゅっと痛むのはなぜなのか。

つきまとう彼女のイメージを頭の中から追い出そうともがいて数日後、原田はようやく観念した。エイミーの大きな瞳に見つめられた瞬間、俺は心臓を射抜かれた。自分はエイミーに恋をしたと認めたのだ。この年で、たった一度だけ飲食店で出会った女性に片思いをしてしまうとは、なんたることだ。しかし、悪いことをしたわけではないのでは? 俺の心が勝手に震えているだけで、俺自身は別に罪を犯したわけでもないのだし、人は誰しも事故的に誰かを愛してしまうものだし……考えぬいた挙げ句、原田は一週間ぶりに親父さんの店に行くことにした。

店にはエイミーがいるかもしれない。いないかもしれない。いたとしたら普通に接すればいいのだし、いなかったとしたら、いつも通り、居心地の良い親父さんの店で酒を飲めばいいだけだ。それのどこに問題があるというのだ。

翌日、残業を終え、真っ直ぐ親父さんの店へと向かった原田の足取りは自信に満ちたものだった。職場から徒歩数分の距離にある親父さんの店は、いつもと同じように見えた。風雨に晒され、ずいぶんくたびれてしまったのれんの向こうから、店内の明かりが漏れていた。心臓がきゅっと痛くなった。腕時計を見ると、ちょうど22時。23時閉店だから、一時間は飲める計算だ。原田はヨシと小さくつぶやき、意を決し、入り口の引き戸に手を伸ばした。

のれんをくぐり、店内に入った瞬間、親父さんと談笑しながらカウンターでビールを飲んでいるエイミーの姿が視界に飛び込んできた。客は他に誰もいなかった。呆然とする原田に「よう先生、いらっしゃい」と、カウンターの中から親父さんが声をかけた。エイミーは「先生、こんばんは」と言いながら、急いでカウンターから立ち上がった。原田はこの間、ひとことも発することが出来なかった。エイミーが俺を先生と呼んだ。エイミーは俺を覚えていたのか!? 動揺して立ちすくむ原田の様子を見た親父さんが、エイミーに声をかけた。

「エイミー、のれん、引っ込めてくれ。今日は閉店だ」 

エイミーは呆然とする原田の真横を通って店の入り口に行くと、のれんを店内に戻し、店の小さな看板の電源を落とした。続けて、原田のためにおしぼりや箸を用意しはじめた。そんなエイミーに、親父さんが声をかけた。「お前も座れ。それから先生も突っ立ってないで、早く座りな。ビールでいいかい?」

エイミーはぱっと表情を明るくして、「おじいちゃん、いいの?」と聞いた。「ああ」と親父さんが短く答え、そして原田に声をかけた。「今日は孫娘の誕生日でね。今からささやかなお祝いでもしようかと思っていたところだったんだ。先生もいっしょにどうだい? 迷惑かい?」

「迷惑なんかじゃない。もちろん、参加するよ」 原田はようやくそう答えた。迷惑なわけがなかった。

「誕生日なんだ。それはおめでとう。お祝いしなくちゃいけないな」と言う原田に、少し離れた場所のカウンター席に座ったエイミーは、照れくさそうに、それでも美しい笑顔を見せながら、「ありがとうございます」と言った。

(つづく……のかもしれない)

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。