ある翻訳家の取り憑かれた日常

第7回

2023/04/17-2023/05/08

2023年5月11日掲載

2023/04/17 月曜日

今日は夫の実家に行き、ケアマネさん、義理の両親とともにミーティング。義父はいまだに義母のデイサービス通所に納得がいってない模様だ。理由は「離れたくないから」。ひょええええええええ!!! 人間の心ってものは、本当に不思議で、情熱的なものだなと考えた。ケアマネさんは最近義父に手を焼いているようで、「理子さんも来て下さいね」と月1の訪問に同席を誘われたのだ。

義父~、頼むよ~。

90歳の義父がどんな気持ちでいるのか想像することしか出来ないのだが、寂しいのだろうと納得している。週にたった二日、8時間だけ離れることが寂しいという心理が正直理解できなかったが(ごめん)、相手が人間じゃなくて犬だったら? そりゃあもう、大いに理解できる。

私の愛犬ハリーが週に二日、8時間もどこかへ行ったとしたら寂しい。私はよく、人間だと理解できないことを、対象を犬に置き換えて考えることがある。夫は、「だったら親父のことも老犬だって思えばいいんじゃない?」と言うが、それはどうなんでしょうか。どうなんです?

2023/04/18 火曜日

今日は夫が在宅勤務で朝6時から働き出したので、私も起きてそこから翻訳。朝の3時間はめちゃくちゃ作業がすすむ。夏は5時起きでもいいぐらいだ。真夏の早朝の空は美しい。それだけで、生きててよかったと思える。

夫が在宅勤務だと、私にとっては楽なことが多い。例えば、家事の分担ができるし、買い物とか犬の散歩を任せることができる。ただ、ひとつだけ面倒なことがあって、それは仕事中の夫がこれでもかと「仕事をしている」オーラを出すことだ。彼が悪いというわけではない。なぜなら、ただただ、真面目な人だから。

むしろ、サボらない夫はすごい。でも、私自身、結構リラックスした状態で仕事をするタイプなので、トイレに行くにも、キッチンに麦茶を取りに行くにも、リビングにいる夫に気を遣う。夫からは、俺は今、仕事をしているオーラが出まくっている。そういうオーラを撒き散らかし倒しているように思う。文句ではない。でも、息子たちも夫の仕事オーラに威圧され、部屋に閉じこもるようになる。だったら、仕事部屋を作ればいいのにという話なのだ。そう、それはそうなのだ。だから私は今、庭に部屋を建てようと思っている。今日もイナバ物置の検索に1時間は費やしてしまった。

2023/04/19 水曜日

ただひたすら、翻訳。訳しても訳しても、残りの文字数が減っていかない! 電子書籍を見ながら翻訳しているが、文字数のカウントダウンが出来るので、ついつい残りはどれぐらいかと見てしまう。思い切り訳しても、まだ大量に残っている。これは大変な文字数になるのではないかと疑っている一冊だ(亜紀書房)。

今日も訳していて疑問が残ったページがあった。あまり詳しくは書けないのだが、遺体の切断箇所についての記載で、頭部と脊椎を切り離す(?)方法が曖昧でよくわからず、いやだなあと思いつつも、いろいろと調べて答えを得て、なぜかすっきりした。すっきりするような内容ではなかったが。

ノンフィクションにはいくつかタイプがあって、起きた出来事を完全に羅列して、緻密にストーリーを組み立てていくタイプと、出来事のなかで最も印象的なものを膨らませ、そしてそこに詳細を追加していくようなタイプがあると日頃から思っているのだが、今回訳しているのは確実に前者で、私は前者のタイプが好きなので作業としては楽しいが、ブツとしては鈍器だと思う。

夜、太田出版藤澤さんからご依頼の『射精責任』の原稿を手直しした。面白い本だな、これ。かなり読みやすくなったと思う。もう一回、じっくり読み直して余分な文字を削っていきたい。しかし、よく燃えそうな題材だ。というか、すでに着火しとるではないか。がんばれ、編集者!

2023/04/20 木曜日

双子17歳の誕生日。あっという間の17年でした。17年経って気づいたけど、育児って決して終わらないね。私が生きている限り、終わらないのだと身にしみてわかった。いつまでも、あの子たちは私にとって、おかっぱ頭の双子少年の頃のままだ。いいのか悪いのか、もうわからん。子育てが楽しかったかどうか、そこもよくわからん。

うれしいことはたくさんあったし、もちろん子どもは今でもかわいい。

昔、子育てについてのエッセイに、「子育ては傷つく」と書いたことがある。腹が立つ、頭にくる、そういうことではない。傷つく。そう思っている人はいるだろうか。子育ては傷つくエッセイを読んだ人から、勝手に産んで勝手に傷ついて子どもは迷惑という感想をもらったことがある。そりゃそうだろうと思ったが、とにかく、親業は楽なことではないのだ、私にとって。

2023/04/21 金曜日

朝コメダに8時出勤。京都新聞「現代のことば」の原稿を書き、一時間程度でコメダから入稿。最高の一日のスタート。だったが、横のボックス席の男性が営業電話を一時間かけっぱなしだった。なぜコメダで。コメダはモーニングを食べる場所である。耐えられなくなり、予定より早く帰宅。

家に戻り、ハリーと一緒にYouTubeを見た。最近はまっているのがコメディアンのボビー・リー。あまりにも不謹慎で笑ってはいけないと思いつつ爆笑してしまい、反省したが、元気になった。爆笑すると確実に元気になる。

2023/04/24 月曜日

『母の友』取材日。
わざわざ東京から、編集者と写真家の女性二人が来てくれた。お二人とも、ハリーのことを普段から見て下さっているようで、ハリーは何枚も写真を撮って頂き、本犬もとても楽しそうにしていた。掲載が楽しみだ。それにしてもハリーは人懐っこいなあ~。すぐにお腹を見せて喜びまくる。

2023/04/25 火曜日

普段は大変喧しい私の頭の中の声が、ピタリと止まってたぶん一ヶ月ぐらい経過していたのだけれど、数日前から突然、頭のなかの忙しさが戻って来た。どんどん原稿が進むようになってきた。頭のなかから流れ出てくる文字に、入力する指がぴったりと合っている。

突然ですが、築地の厚焼き卵の動画、見たことありますか?(本当に唐突だけど) 

私の頭のなかの英文処理は、あれに似ています。厚焼き卵動画です。一冊訳すごとに、厚焼き卵が2万個ぐらい焼き上がってるんじゃないかな。
https://www.youtube.com/watch?v=2i4kcY2QUyA

2023/04/29 土曜日

今訳している本が難しく、頭が沸騰しそうだ。

午後、亡くなったママ友のご両親がお菓子を持ってきてくれた。本を読んでくれたそうだ。こっそり書いていたので、気を遣って頂いて申し訳ない気持ちになった。こっそり書くということは、あまり出来ないものだなと思ったりもした。相変わらずご両親はお元気そうで安心したのだけれど、二人の気持ちを想像するとなんとも言葉がない。彼女が生きていたら、優秀な息子を誇りに思いつつ、全力で支援していただろうと思う。立派な人だったな。きっと天国から見ているのだろうね。

親というのは、いつまでも親。お母さん、お父さん、体に気をつけて、これからも元気に暮らして下さい。私もときどき、彼女に会いに行きますね。

2023/05/02 火曜日

連日、翻訳の日々。こういう日常も悪くないな。

亜紀書房依頼の『LAST CALL』、大和書房依頼の『The Real-Life Murder Clubs』、そして太田出版依頼の『射精責任』(こちらは初稿が出来上がっている)と、三冊をじわじわと訳している。『LAST CALL』、すでに10万字(原稿用紙250枚)を超えている。そして集英社よみタイ連載の『実母と義母』の締め切りが過ぎてしまっていることに気づいた。めちゃくちゃ天気はいいが、今日は家に籠もる。

世の中はゴールデンウィークだが、フリーランスに休みはないのだ。それも、締め切り遅れているやつには、絶対にない。

2023/05/05 金曜日

集英社よみタイ『実母と義母』入稿。半日かかったけれど、なんとかフィニッシュ。あー、よかった。今回も様々なことを書いた。こうやって実母の半生のようなものを振り返ってみると、彼女も彼女なりに葛藤していたことがわかってくる。あたりまえだよね。葛藤のない人生なんてないんだから。当時、まったく私が彼女を理解せず、責めるだけの娘に徹していたことが恥ずかしい。しかしそれもすべて過ぎてしまったこと。あとは、祖父母が残した実家を処分したら、私の贖罪は終わるのだとぼんやり考える。

今日はこどもの日だ。珍しく双子が揃って家にいたので、昼間からバーベキューをした。二人とも筋トレをせっせとやっているので、なんだか体ばかり大きくなって、肉の消費量が増えた。一人はアフロだし、もう一人はツーブロックだし、なんだろう、本当に不思議な気分です。

幼い頃はわずかな成長を見ただけで感動したが、最近は、彼らの変化を目撃して圧倒されるようになった。村井さんは母親としてセンシティブ過ぎると言われたことがあるが、それは本当にそうかもしれない。もっと、堂々としていたほうがいいのかもしれない。というか、もっと自分の人生に集中したほうがいいのかもしれない。

こんな私が母親をやっているなんて、この子たちの母親が私だなんて……という考えを、少し変えたほうがいい。……なんてことを色々考えていたら、じわじわ泣けてきた(絶対に疲れてる)。じわじわ泣けるわあと思いながら、せっせと殺人事件を訳した。このあたりのカオスは平気で受け入れられる体質でよかった。

2023/05/06 土曜日

なにごと!? 昨日、めちゃくちゃたくさん訳したと思ったのに、一向に文字数が減っていかない。Wordで作成している原稿のページ数はすでに100を超えているというのに、原書の半分に到達していない。文字数をカウントすれば123515単語と表示される。うおおお、かなり訳した。しかし、どんなレベルの鈍器本だい? 鈍器レベルは最高にハイなのでは。むしろレンガか? もうこうなってくると、こちらも意地である。なんとしてでも最後まで訳すのだと思いつつ著者のあとがきを読んだら、執筆に3年かかったと書いてあった。それは詰んだわ。村井は完全に詰んだ。

開き直って最後まで突っ走るしかない。それにしても、よくこれだけ調べたものだ。これぐらい強烈な執着とシンパシーがないと、ノンフィクション作家にはなれないのだなと呆然とする。すごい著者だ。尊敬しかない。そのうえ、巻末に「ブッククラブのためのガイド」までついている。どれだけ親切やねん。どれだけいい人なんや。それに加え、「四人の作家とトゥルークライムについて語りました!」という、書店で開催された出版記念イベントの文字起こしというオマケまでついている。翻訳者泣かせだ。

でも、好きだよ、そういうの!

2023/05/07 日曜日

『LAST CALL』を訳していて、まだわからない部分が出てきた。ノコギリの種類だ。上腕部を関節のあたりで……いや、詳細はやめておこう、とにかく、人間の骨を……いやいや、動物の骨を鮮やかに切断する柔らかい刃を持つノコギリの話なのだ。両刃? それとも片刃? とにかく現物を見たいとモノタロウのサイトをしばらく見たんだが……形状はわかるのだが、それが日本語でなんと呼ばれているのか調べてもなかなかわからない(それでも、モノタロウありがとう)。

ノコギリのような昔からある古い道具って、日本語も独特だと私は思うがいかがだろうか。ということで、買い物ついでにホームセンターへ。なんで現物を見るかというと、実は包装紙(あるいは包装パッケージ)にヒントが隠されているから。商品名の下とか、説明書きの終わりのあたりに、英語名がさらりと印刷されていることがあるわけだ。それを見に行く。優しい店員さんだと、質問したら答えてくれる。まさか、切断遺体が……とは言わないが、切り口は鮮やかデスよね? ぐらいは口を滑らすときがある。

結局、なんとなく形状もわかったし、海外のサイトの写真と合わせて見ても相違ないだろうということで、納得して、夜用のバーベキュー肉を買って家に戻った。それにしてもホームセンターの店舗内には、一部、異様に暗い、どんより曇ったようなスペースがあるよね。気を抜くと吸い込まれるのかもしれないので、注意することにしている。

そろそろ他の本の作業も再スタートさせなくてはならない。きりのいいところまでと思うと、あっという間に時間が過ぎてしまう。ここ数日で、本格的に長いトンネルから抜け出せたような気持ちになってきている。久々に、「もっと書きたい」と思える。

2023/05/08 月曜日

原田とエイミーのバースデー

親父さんの小さな店のカウンターに座った原田とエイミーは、時間を忘れたかのように語り合った。あまり笑顔を見せない女性だと思っていたエイミーは、実によく笑う人だった。大学は演劇学科で学んでいたが、今現在は休学中で、いつ復学するかはっきり決めていないという。「なんだかつまらなくなっちゃって」と彼女は言った。親父さんのところに身を寄せながら、空いている時間には街を一人で歩き、写真を撮影したりするのが今はとても楽しいらしい。いつまで東京にいるのか、それもまだ決めていない。母親は新しい夫とすでにマイアミに引っ越していて、エイミーが日本に来ていることも知らない。そう言いながら、ふと寂しそうな表情をしたエイミーの横顔が、原田には少しだけ気になった。

「演劇ってことは、演技の勉強?」
「私は演技というよりは、脚本に興味があって」
「それは作家を目指してるということ?」
「作家かもしれないし、脚本家かもしれないし……」と答えて、エイミーは笑った。「私がなれるとは思わないけど、夢を見るのは自由だから」 
「きっとなれるよ」と原田は答えた。
「そうかな」

エイミーの口調が砕けたことが、原田にはうれしかった。

近くで見ると、エイミーの顔にはそばかすがあり、それが彼女を幼くも、そして親しみやすくも見せていた。今までは親父さんの店で働く姿しか見たことがなかったが、こうやってカウンターに座って酒を飲むエイミーは、自分が思っていたよりもずいぶん気さくな人だった。シンプルな白いシャツにジーンズとスニーカーを合わせたエイミーは、どんなに着飾った女優よりも、俺には輝いて見えるけどね……原田は密かにそう思った。そして、自分のなかにじわじわと、それまで一度も経験したことがないような幸福感が広がって行くのがわかった。俺、酔っ払ったのか?

親父さんは厨房の奥で翌日のための仕込みをしていた。原田とエイミーは、好きな作家、好きな映画、好きな音楽、家族、そして友人について、飽きることなく語り合った。エイミーは、一方的に話すだけではなく、原田の話もしっかり最後まで聞いてくれる人だった。原田が働く予備校であった愉快な出来事を教えると、目を見開いて驚いたり、手を叩いて喜んだりした。原田は思った。エイミーは、俺がいままで出会った女性のなかで、たぶん、きっと、一番素敵な人だ。

時計の針が午前0時を回った頃、親父さんが厨房から「このあたりでお開きにするか?」と原田とエイミーに声をかけた。「先生、明日も仕事だろ?」

まだまだ話足りないと原田は思った。明日の仕事なんて、どうでもいいと思った。エイミーは「いつの間にかこんな時間。先生、ありがとうございました」と言った。そして「おじいちゃん、ありがとう」と言い、すっと立ち、カウンターを片づけはじめた。そんなエイミーを見て、原田も慌ててコップや皿を片づけ始めた。エイミーは「私がやります」と言って、原田の右腕に、左手でそっと触れた。

翌朝、軽い二日酔いの状態で一人暮らしのマンションで目覚めた原田は、すぐに起きると猛烈な勢いでシャワーを浴び、着替え、部屋から飛び出した。二駅先の駅ビル内にある大型書店に向かったのだ。書店に到着すると、脇目も振らずに真っ直ぐ文具売り場に突進した。そして万年筆やボールペンが並べられたガラスケースの前に立ち、真剣な表情で、一本一本、吟味しはじめた。そんな原田に売り場の女性が声をかけた。

「贈り物ですか?」
「はい」と原田は答えた。「学生さんなんだけど、万年筆はどれがいいですかね」
「シンプルなこのあたりなんていかがでしょうか」と言いつつ、女性はパーカーの万年筆を何本かケースから出してくれた。「お相手が女性ですと、このあたりの色もいいですし、男性でしたら黒とかシルバーとか……」と説明する店員の言葉に原田は慌てて、「シルバーで」と答えた。
「シルバーですね。それではこのあたりはいかがでしょう?」と、候補となる数本を指さした。
「じゃあこれで」と、原田は最もシンプルな一本を選んだ。
「贈り物ですよね?」
「はい」
「リボンはおかけしましょうか?」
「……」
「リボンでなければシールもありますけど……」
「それじゃあ、シールで」
「包装紙は、どうされます? 赤とか、グレーとか、青とか、あとは本店オリジナルとか……」
「オリジナルで!」と、原田は即答した。

書店を出て家路へと急ぐ原田のバックパックには、書店オリジナルのシンプルな包装紙に包まれた万年筆が入っていた。エイミーのために選んだものだった。箱には、小さなシールを貼ってもらった。シールには「For you」と控え目に印刷されていた。

(続く)

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。