ある翻訳家の取り憑かれた日常

第9回

2023/05/22-2023/06/01

2023年6月8日掲載

2023/05/22 月曜日

義父通院日。義父の通院には、もちろん義母も連れて行かなくてはならない。義母に留守番はさせられない状態だ。理由は認知症だからで、万が一、徘徊してしまったら大ごとだからだ。しかし一方で、義父に留守番をさせ、義母だけ連れ出すことも、とても難しくなってきている。義父の場合は、パラノイアとパニックだ。

前々からその兆候はあったが、一人になると「義母になにかあったのでは」とか「全員が事故に遭ったのでは」とパニックがはじまり、様々な場所に電話をかけてしまう。以前、車の運転ができる頃は、このようなパニックが原因でわが家に突然駆けつけてくるという事件が多々あった(「固定電話に応答がないのは、全員が死んだのではないか」と心配になったという理由で。固定電話に応答がなかったのは、私がしつこい電話に嫌気が差してコードを抜いていたからだ)。

ってなわけで、二人はどこへ行くにも一緒である。面倒くさいことこのうえないし、引率の私はとても疲れる。年を取るとはこういうことなのかなとも思う。私もこうなるだろうなと想像する(いや絶対ならん)。こちらが精神的に余裕があるタイミングでは仕方がないことだと考えられるのだが、苛ついているタイミングだと、こんなん普通とちゃうわ、アホかと思うのだった。

2023/05/23 火曜日

体調がよくなり、毒舌が戻ってきてしまった。今度、クリニックの先生に相談してみよう。また爆笑されちゃうかも。

2023/05/24 水曜日

とてもよい天気。仕事の合間の休憩中に、昔のメモを発掘。

〈心筋梗塞で入院してる兄の主治医(塩釜の病院)から連絡あって、明日カテーテル手術なんだって。糖尿病と高血圧があって、心臓の大切な3本の血管が全部狭窄してるらしい。本当は開胸でバイパス手術するのがいいんだけど、兄が拒否したそう。カテーテルでもできないことないからカテーテルにしますって、あっさりとした先生だった。兄をひと目見れば、だいたいどんな人生を送ってきたのかはわかると思う。だからだと思うけど、明日の手術はこちらに来てとは申しませんが、携帯の電源だけは入れておいてくださいとやさしく、しかし簡潔に言われた。〉

兄が開胸手術なんて恐ろしいこと、できっこないのだ。カテーテルが終わったあとに、「なんで開胸しなかったの? そのほうがよかっただろうに」と、開胸手術経験者の私は謎の上から目線で兄に聞いたのだが、「俺が入院しちゃったら、息子が困るだろ」と言っていた。

〈兄から電話があり、「おまえには本当に迷惑をかけたな」と言われた。家を取られてずいぶん落ち込んでいるようだったけれど、今までの経過があるので借金を申し込まれるんじゃないかと思って、断る準備万端整えていたら、兄はいきなり泣き出した。

俺はもう、人生詰んだよ。仕事もないし金もないが子供を養わなくちゃならない。

まだ若いんだからなんとか立ちなおってと励まして電話を切り、兄が銀行に取られてしまったという家をストリートビューで見てきた。でかい〉

長く生きていると、人生、いろいろあるよなあ。最近、昼寝でもしようかとベッドに寝ると、こんな昔のことを徐々に思い出して、なんだか泣けてくる。私の情緒、大丈夫だろうか。兄の辛かった日々も、私が兄を斎場まで連れて行ったあの日、すべて焼き尽くされたに違いないと今は思う。

2023/05/25 木曜日

朝一番に、太田出版藤澤さんに『射精責任』第三稿を戻した。なかなかいい仕上がりになってきていると思う。落ちついたトーンの文章だ。タイトルの激しさとは裏腹に、本文は肝が据わっている。良いバランスになっていると思う。

原稿も順調ということで、今日は愛犬ハリーのごはんの仕込みをする。普通にやってても退屈なので、アメリカの人気ホームドラマ『モダンファミリー』を鑑賞しつつ、作業。

・鶏胸肉
・キャベツ
・ブロッコリー
・ゆで卵
・その他、冷蔵庫のなかで賞味期限を迎えつつある野菜

これらの食材を、それぞれ蒸したり、茹でたりする。ごった煮にはしない。だってそんなの絶対に美味しくないから。なぜ世の手作りドッグフードはごった煮なのだろうか。

ゆっくり、ゆったり作業して、大きなバットに出来上がった食材を並べて、熱を取って、冷蔵庫へ。鶏肉を茹でたスープはハリーの大好物なので、タッパーに入れて冷凍庫へ。ドラマ見ながらのゆっくり作業。こんな時間があってもいい。午後は殺人鬼を追いかける鋭いデカ目線で翻訳をするけどね。

2023/05/26 金曜日

雨で気温が下がっている。昨晩、『射精責任』第四稿が早くも戻ったので、午前中に目を通す。それにしても、SNS上では発売前だというのにすでに話題になっている。タイトルから得られるイメージとは違う内容だが、発売後の反応も楽しみだ。アメリカは今、中絶反対派と賛成派の間で大きな議論が巻き起こっていて、まさにその渦中で出版された本書だが、冒頭で著者のガブリエル・ブレアは「賛成・反対のディベートを一旦脇に置き、本当に中絶を減らしたいのであれば、他に出来ることがある」と書いている。そして、女性の体のこと、男性の体のこと、中絶、避妊について斬新な提言を行っている。若い人も、大人も、男女問わず是非手にして頂きたい。

2023/05/27 土曜日

メールの見逃しが多数発生していた。十年ぐらい前までは、メールの返信が早すぎて気味が悪いと言われていた私なのに、本当にどうしたことだろう。一通、一通、拾い出して、慌てて返信。おかげで新規で2つも仕事を頂いた。なかには数か月放置してしまったものもあったというのに、みなさん優しかった。これからは気をつけると心に決めた。

2023/05/28 日曜日

ハリーの散歩でもさせようかと、マキノにあるメタセコイヤ並木に行ってきた。子どもたちがまだ幼いころ、広大な敷地と人の少なさ、そしてもちろん自然の美しさが魅力で、よく通っていた。買い物もできるし、軽食もあるし、トイレもあるしで小さい子どもを、それも双子を連れた我々にとってはベストな場所だった。なにせどれだけ走り回っても問題なし。叫び続けたとしても、その声は連なる山々に吸い込まれていくだけ。

しかし、最近のメタセコイヤ並木はその頃とはがらりと雰囲気が変わって、観光客でごった返す映えスポットとなっていた。TikTokの撮影とみられる若い女性の集団や、インスタグラマーとみられる女性の大がかりな撮影、とにかく撮影・撮影・撮影。途中、女性たちに「かわいい~」と言われて撫でられそうになったハリー、緊張してぐっとリードにテンションがかかったので肝を冷やした。ハリーは普段はとても穏やかな犬だが、家から外に出ると意外にも好戦的で、他の犬とすれ違うときは確実に吠える。いきなり触られると吠える。力では確実に負けるので、人の多い場所にはハリーを連れて行かないのが正解だ。涼しくなったらハリーを連れて京都の町でも散策したいと夢を見ていたが、無理だ。ハリーは、山と湖専門の犬になってしまった。

それにしても観光地が賑わうという場面に遭遇したのは久しぶりのことだった。地元の人はほっと一安心しているだろうか。

2023/05/29 月曜日

いつものクリニックへ。

「最近どうですか? まだ眠れないとき、あります?」
「そうですね。仕事をやりすぎてしまった日とか、頭のなかが忙しくなって、自分の声がうるさくて眠れないみたいな状況になりますね。眠気と対決してしまうようなところがあります」
「眠気と対決……? ふふふ……僕も若いころはいろいろ考えて眠れなくなったものだけど、今は、あっという間に寝ちゃいますよ」
「それはうらやましい限りです」
「あなたは、寝る前に本は読むの? もしかして、面白い小説を読んでいるんじゃないの? 面白い小説を読み始めたら、きりがないでしょ? つまらん本を読んでみるのもいいかもよ? ふははは」
「アハハハ」

薬がちょっと増えた。

2023/05/30 火曜日

そろそろ翻訳に戻らないと、本格的に戻ることが出来なくなるので、しばらくSNSから離れて机に向かわなければ……と思うものの、『射精責任』がキャンプファイヤみたいに勢いよく燃え続けるので、心配で見に行ってしまう。それにしても担当編集者の藤澤さんは強い。そして歯切れが良い。『射精責任』というタイトルで書籍を出版するには相当の勇気が必要だと思うが、彼女はしっかりしている。私も最後まで彼女に伴走しようと思う。

2023/05/31 水曜日

ライターの栗下直也さんは、酔っ払いについて書いた著作がいくつかあって大変面白い。そして文章が巧みだ。私が栗下さんに初めてお会いしたのは、それこそ10年以上前のことで、次にお会いしたのは5年ぐらい前のことだったと思う。私と栗下さんを担当している編集者によると、私と栗下さんは興味の方向性が大変似ているらしく、コロナ禍が始まったとき、なるべくしてそうなったかのように『のんき~ず』という正体のよくわからないチームを結成した。そしてこのたび、『のんき~ずラジオ』という、こちらもまだよくわからない配信をしようという話になり、来週、Zoomミーティングがある。確かに栗下さんと私は愛読するコミックが同じだったり(『外道の歌』)、政治家の酒癖について調べていたりと重なる部分があるので、楽しいかもしれない。配信、やりたかったんだよね。これからは配信やと思うで、ワイ。

2023/06/01 木曜日

原田の落胆

「エイミーだろ? あいつだったら帰ったよ、アメリカに。先生には言わなかったんだな」

そう親父さんに言われ、原田はしばし言葉を失った。胸が痛んだ。目眩がした。酷く狼狽えているのを親父さんに悟られないように、「そうか、帰ったんですね。そりゃそうですよね」と答えた原田だったが、あまりのショックに次の言葉がスムーズに出てこなかった。

「挨拶だけはしろと言っておいたんだがなあ……急いで戻ったから全員に挨拶するのは無理だったんだろ」と親父さんは言った。

全員。そりゃそうだよなと原田は思った。客なんて俺以外にもたくさんいる。エイミーと会話をしていたのは、もちろん俺だけじゃない。彼女の誕生日を一緒に祝ったことで、彼女にとって自分が、もしかしたら少しだけ特別な存在になったかもしれないなんてことは、幻想に過ぎなかったのだ。だから、彼女が俺に別れを告げるためだけに、例えば店から徒歩5分にある予備校までやってきて、退勤してきた俺に声をかけてくれるだとか、親父さんには伝えてある電話番号に電話をしてくれるだとか、そんなことをするわけがないじゃないか。俺なんかのために、彼女がそんなことをしてくれるわけがないじゃないか。

あのエイミーが。脚本家になるという夢を抱く、輝くような瞳を持つ、あの女性が。バツイチでしょぼくれて、なんのとりえもない俺なんかのために。

原田は右ポケットに手を突っ込んだ。エイミーに渡すはずだった万年筆がそこに入っていた。原田はきれいに包装されたその箱を改めて確認すると、親父さんに声をかけた。「親父さん、焼酎のお湯割りで」

2時間後、泥酔した原田は親父さんの店を出た。フラフラと駅の方向に歩きながら、ふと足を止めた。「カサブランカ」の紫色の看板が目に入ったのだ。カサブランカは、親父さんの店から10 メートルも離れていない場所にあるスナックで、親父さんの店が満席のときや、親父さんに「先生、たまにはカサブランカにも行ってやってくれよ」と頼まれるときに原田が向かう場所だった。原田はふと思った。今日はカサブランカで俺の失恋パーティーだ。ママとユキちゃんに俺の苦しい胸の内でも聞いてもらったほうがいい。

原田はヨロヨロになりながら、カサブランカのドアを開けた。客のいない店内で、退屈そうにしていたママはぱっと表情を明るくして、「せんせーい! いらっしゃーい!」と大きな声で原田を出迎えた。カウンターで頬杖をついてトランプ占いをしていたママの娘で従業員のユキが、「カオルちゃ~ん! いらっしゃーい!」と言いながら、座っていたスツールから飛び降りるようにしてやってきて、原田の腕にしがみついた。原田を名前で呼ぶのは、カサブランカのユキちゃんだけだ。

原田はおぼつかない足でカウンターに座り、「よう! お久しぶり」と言った。呂律はすでに回っていなかった。「今日はおじさんの失恋記念日なので、一緒に飲みましょう! 歌いましょう!」

「先生、今日は珍しく酔ってるのね。そりゃ、人生いろいろあるわよねえ」とママは言った。ユキちゃんは、ウンウンと頷いて、「可哀想なカオル君」と言って、原田のボサボサの頭をヨシヨシと撫でた。

「あ! そういえばさ」と、ユキが思い出したように言った。「恵美ちゃんから預かってるのよ、手紙を。カオルちゃんに渡してって言われて、この前預かったんだ」

「そんな子、知らないよ、俺」と原田は言った。

「恵美ちゃんだってば。親父さんのところの孫娘の恵美ちゃん! 通称、エイミー!」

原田は持っていた水割りのグラスを落としそうになった。

(つづく)

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。