ある翻訳家の取り憑かれた日常

第10回

2023/06/07-2023/06/16

2023年6月22日掲載

2023/06/07 水曜日

3年前に新たに設置したリビングのエアコンの調子が悪く、工事をお願いした工務店に連絡を入れた。メンテナンス担当の明るいFさん(私よりは結構年上)がすぐに来てくれた。

「大きい犬、大丈夫でしたっけ?」と私が聞くと、失礼なことを聞くなとばかりの表情で「噛むやつはあかんけど、それ以外は大丈夫や。犬は好きやから」と彼は答えた。不遜な笑みを浮かべながら。

わが家のエアコンはマルチエアコンのうえに埋め込み型(目立たないように壁の中に設置されている)で、配線が壁の中を走っているという、いわば壊れたらやっかいなタイプのエアコンだ。

「これやからマルチは」とか「これやから設計家が作る家は」とか、Fさんはぶつぶつ言いつつ(「ほんまは配線も外に出しておいたほうがええんですよ!」「壊れても取り替えが楽やしね!」)、ハリーを、チラッ、チラッと見ていた。ハリーはFさんと目が合うと、すぐにひっくり返ってお腹を出した。

「おまえはなんてでかい犬なんや」と言いつつ、Fさんはハリーを触らない。「触らないよ。触ってあげないよ、わしは」と言って、ハリーを見るだけ。ハリーは腹を触ってほしくて、ぐるんぐるんと体をねじっていた。とんでもないツンデレおじさんだ。結局、Fさんは丁寧にエアコン内部を確認してくれ、部品のサビを見つけてくれ、「これはメーカーさんに連絡やね」と言い、いろいろと私にアドバイスをくれた(どのようにしてメーカーに状況を説明するのがいいのか)。そして、「何かあったら遠慮無く連絡してください!」と言って、最後に一回だけハリーの頭を撫でて去って行った。

「彼らはしっかりしてるから、明日にでも来てくれますよ」というFさんの言葉通り、明日来てくれることになった。

この日は、なぜか巷で超話題の太田出版『射精責任』初校戻しの日で、ダイニングテーブルの上に原稿を思いっきり広げていたのだけれど、射精という文字がFさんに見えないように必死に隠した日だった。

2023/06/08 木曜日

エアコンの修理の人がやってきてくれ、部品を無償で入れ換えてくれた。最高。業務用のエアコンなので、調子がいいと寒いぐらいによく冷える。ヨシ、これで今年の夏もハリーと一緒にダラダラできる。ついでに、「超1級遮光・形状記憶加工・遮熱・防音カーテン」を注文。午後になるとリビングに差し込む西日で部屋がとても暑くなるのだが、それも今年は大丈夫。これで完璧だ。

ハリーは毛むくじゃらの犬で体重も重いので、暑さに本当に弱い。人間にとって、涼しくて快適な気候でも、彼にとっては暑いのだ。彼が私の部屋を大好きな理由は、梅雨時から夏が終わるまで、ずっとクーラーをつけているから。もちろん、ハリーのためだけにつけている。

2023/06/09 金曜日

ロックの日。私の誕生日。
昨日のクーラーは誕生日のプレゼントだったのかもしれない。ラッキー過ぎる。

自分は何もいらないと言いつつ、morus zeroという小さな乾燥機(カワイイ)と、自分名義の車を買った(カワイイ)。すごくないですか。私、誕生日に車を買いました。生まれてはじめて、車を買いました。自分で。30 年乗った愛車(夫の車)がそろそろ寿命を迎えそうなのだ。まだ手放したくはないが(夫の車なのにまるで自分の車のように書いているけど)、仕方がない。故障ばかりでメンテナンスが大変なのだ。自分だけ大胆に買うのもなんなので、息子たちにはステーキを買ってやった。

それにしても、車を買ったことがうれしい。うれしくてたまらない。どこまでも走っていくのだ。それが出来る人になりたいのだ。

思い切って7人乗りの大きな車を買った。納車は来年春だが、とても楽しみだ。ハリーを連れて旅に出る。まずは近場から攻めていこうと思う。小浜に蟹を買いに行きたい。カメラを設置して配信しようかなとまで思っている。メーカーオプションはあまりつけなかったが、ナビの画面は大きいものにした。ウフフ、楽しみだ。電源も二箇所つけた。支払いのことは今から考える(来年の春までに用意すればいいんだしさ。なんとかなるやろ)。俺ならできる。

2023/06/10 土曜日

「東京ヴィンテージマンション」と「カウカモ」を夜な夜な見て、夢想している。こんな部屋に一人で住むってどうだろうと、連日連夜、考えながら見ている。購入資金をどうするのかとか、老後は? なんてことはどうでもいい。そのマンションのベランダから眺める夕日はどれぐらい赤いのかとか、川沿いの土手を走る小学生は何人ぐらいいるのだろうとか、ビル群の窓のひとつひとつに映る人影を見てみたいとか、その人はどんな仕事をしているのかとか、そんなことを次々と予想しては、眠剤がじわじわと効いてくるのを待っている。眠剤が効いてくるにつれ、その妄想はどんどん歪んだ方向に行くのだが……。

最近眠剤の種類が変わって、眠りに入る直前に少し奇妙な夢を見る。先日はジョー・バイデンに話しかけられ、何を言ってるのかさっぱりわからん、どうしよう、この人、酔っ払ってる? という夢を延々と見た。夢のなかのジョー・バイデンは、演説の内容に合わせて眉毛を付け替えていた。

2023/06/11 日曜日

ふと、学生時代にやっていた中華の出前のアルバイトを思い出した。自転車の荷台に出前機が設置してあって、町内をぐるぐる回っていた。午前10時半から午後2時半までのバイトだった。信号待ちでタバコを吸うのが楽しみだった。古着屋さんの店長がラーメンと餃子を週に何度も注文する人で、持って行くたびに優しくて、若干、好きになってしまったのだった。

中華の出前のアルバイトを辞めてから1年後ぐらいだったと思う。木屋町のカラオケボックスでアルバイトをしていた私はその日、バイト仲間と新福菜館に寄ってラーメンを食べていた。上機嫌に食べていたのだが、私の後ろの四人席に座っていたカップルが突然大げんかをはじめ、女性が奇声を上げながらラーメンを鉢ごと男に投げたのだ。投げられた男はひょいと鉢を避けて、鉢は私の頭にクリーンヒット。私は、アハハハハと大笑いしてしまったのだが、その鉢を投げられた当の男性が、古着屋の店長だったのだ!!

彼は私をまったく覚えていなかったけれど、私はしっかり覚えていて、うっかり「店長、覚えてますか、あのときの中華の出前です」と言いそうになった。しかし当の古着屋の店長は、私に目もくれず、チッと言って、泣きじゃくる女性に千円札を数枚投げつけ、新福菜館を後にした。新福のおっちゃんが「ごめんなあ」と私に言っていた。「あ、いいですいいです」と、頭から麺をぶら下げながら私は言った記憶がある。

ラーメンぶっかけられたことよりも、あんな男だったことが悲しいと思った若き日の私。

2023/06/13  火曜日

しばらく離れていた翻訳に戻る。一旦離れると本当にしんどいのだが、ある程度目標を決めて(例えば、今日は1万ワードを仕上げようとか)、それをクリアするということを繰り返すと、徐々にかちっと歯車みたいなものが合い、そこから順調に回りはじめる。そうなってくると、わいのターン!!! 俺ならできる!

2023/06/14 水曜日

翻訳に戻ってスピードがあがってきた。作業に飽きると原稿の文字の級数を上げたりフォントを変えたりしてみるのだが、級数を上げるのは大丈夫だが、フォントを変えるとさすがに文体まで変わってしまうな。ということで、フォントはデフォルトのまま、ちょっと級数上げたり下げたりしながら、翻訳をする。こんな変なことをやっている翻訳家さんはいるだろうか。

2023/06/15 木曜日

いつものメンタルクリニック。少し早めに駅に到着したので、いつものパン屋に立ち寄って、ツナサンド、ハムチーズサンドを計6箱購入。息子たちの大好物なのだ。私はアイスコーヒーを注文して、フードコートに座ってドキュメンタリーを観ながら時間を潰した。

飲み終わったころにちょうどよい時間になったので、そこから歩いて数分の、メンタルクリニックに向かった。いつも思うけれど、におの浜というのは本当に美しい場所で、老後はこのあたりのマンションで一人で暮らしたいわあと考え、老後は一人でマンションなど、まったく現実から離れたことをよく考えるものだわと我ながら思い、家族に申し訳ないと感じた。しかし、人間の心は常に自由であってよいわけで、私の願い事が叶うならば翼が欲しいのであり……などなど考えていたらクリニックに到着。中に入ると年配の男性が一人待っているだけだった。隣に座ってしばらくすると、その年配の男性が小さな声で「Hey Siri… 」とiPhoneに話しかけ始めたのでちょっとびっくりしてチラッと見ると、外国人男性だった。

続けて「昨日のレンジャーズの試合結果を教えてくれ……」と小声で聞いていた。私はちょっと面白くなっちゃって、下を向いて必死に本を読んでいるフリをしていた。すると診察室からバーン! と先生が出てきて、「あなたの症例はこの文献に詳しくありますので、これコピーです。よかったら読んでみてくださいね」と英語で言い、私の横のレンジャーズファンは、「Oh yes, thank you」みたいな返事をしていた。主治医はたぶん七十代だが、宮沢喜一レベルで英語を操る七十代の日本人男性にはなかなかお目にかかれないので、ちょっとワクワクした。

レンジャーズファンの次に診察室に呼ばれた。

「最近はどうです? 元気になってきたみたいだね、表情を見ると」
「元気ですよ」
「仕事は?」
「バリバリやってます」
「つまらない小説、読んでる?」
「この前読んだノンフィクションがつまらなくて、ページが進まなくて怒り心頭で眠れませんでした」
「アハハ!」

次は一ヶ月後でいいらしい。次に行くときは、先生がなぜ英語が堪能なのか聞いてみたい。

2023/06/16 金曜日

原田とエイミー

「手紙? エイミーから!?」と原田は手から滑り落ちそうになった水割りグラスを両手でしっかり持ち直し、大きな声を出した。
「あれ、カオルちゃん。もしかしてというか、やっぱり?」とユキがニヤニヤと笑いながら言った。
「なにがやっぱりなんだよ」と原田は答えた。
「もしかしてもしかして、やっぱり?」と、バーに立つママがからかうように言った。

「ひょっとしてカオルちゃん、恵美ちゃんのことが好きになっちゃったんじゃないの?」
「好きになっちゃったんだ~」とママがはやし立てた。

「仕方ないわよ。だってあんなに可愛いんだもん。可愛くて素直で、よく働く本当にいい子。でもゴメン。カオルちゃんでは無理だと思う。全然、ダメだと思う」と、ママが言った。
「うん、カオルちゃんではちょっと無理だと思う。だってバツイチだし、ぱっとしないし。確かに、優しいところもあるけどね」とユキが原田を穏やかな表情で見つめながら言った。

「いいから早く、手紙!」と原田はユキに迫った。ユキはフフフと笑いながら、カウンターの上に置いてあった手帳にゆっくりと手を伸ばし、「どうしようかなあ……」と原田をからかいながらも、手帳に挟んであったエイミーからの白い封筒を原田に手渡した。原田はすぐにその封筒を背広の右ポケットにしまい込んだ。エイミーに渡すはずだった万年筆もそこに入っていた。

原田は大急ぎで「ママ、お勘定」と言った。

「え、帰っちゃうの!? まだ飲んでないじゃない」とママは驚いた。
「なにもそんなに急いで帰らなくてもいいじゃん!」とユキが言った。
「一緒に読もうよ、手紙! なんて書いてあるか、すごく読みたかったの、あたし!」

「なに言ってんだよ。俺は帰る!」、そう言うと原田は、ママから差し出された四千円と書かれた伝票を見て、「たかっ!」と叫んだ。「手紙の保管代金込みです」とユキが言った。
「こんな美人二人と飲めたんだから安いものよ」とママが言った。原田は財布から五千円を出してカウンターに置くと、「それじゃ!」と言って、勢いよくカサブランカを出た。そして駅近くのコンビニまで急いで移動し、看板下の明るい場所に立って呼吸を整え、エイミーからの封筒をゆっくりと開けた。

  先生

  いままでやさしくしてくれて、ありがとう。

  急に帰ることになり、お別れができませんでした。

  私の連絡先を置いていきます。

  またいつか、会えますように。

  エイミー

読み終わった瞬間、原田は「あああああ!」と大声を出し、ガッツポーズをした。

「またいつか、会えますように! またいつか、会えますように!」 

原田はガッツポーズを繰り出しながら、大声でそう叫んでいた。「ヨシ! いいぞ!」と言いながら、原田はコンビニの入り口付近をグルグルと歩き回った。そして最後にヨシ! と両腕でガッツポーズを決めると、駅まで早足で歩いて行った。右手には白い封筒が握られていた。

そんな原田を見ていたコンビニの店員が「なにあの人。気持ち悪い」と言った。もう一人の店員が「ヤバい人っすね」と言った。

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。