ある翻訳家の取り憑かれた日常

第11回

2023/06/17-2023/06/30

2023年7月6日掲載

2023/6/17 土曜日

土曜日は朝早くから仕事をするのが好き。とても捗るから。しかし、仕事が捗るには条件があって、部屋が片づいていることが重要。だから、早く起きて、部屋を片づけ、クーラーをビシッと効かせて部屋のなかを最高に快適な状態にして、モニタに向かう。じわじわと訳しはじめる。

しかし……

今日訳している『LAST CALL』は本気で手強い。ニューヨーク、酒、ジャズ、ピアノ、連続殺人事件。物語としては最高にスリリングなんだけど、それだけに難しい。切ない。描写が緻密。今回も地図とにらめっこしながら、次々と変わる場面とマンハッタンを移動する男たちを想像しながら訳した。犠牲者の来歴を読むと胸が痛む。あと残り2章まで来た。著者がこれだけ細かい描写にこだわった理由が少しだけわかってきた。無残にも殺害された犠牲者に対する追悼なのではないか。彼が書くまで、犠牲者たちは遠い昔に死んでしまった人でしかなかった。少なくとも今の私は、彼らの人生を知っている。彼らの顔も知っている。最期も知っている。

ぶっ通しで数時間作業し、息子たちが起きてきたので一旦作業を止めた。休憩してから『The Real-life Murder Clubs』に着手。

2023/6/18 日曜日

私が連続殺人鬼についていろいろと調べるようになったのは、実はアイリーン・ウォーノスがきっかけだと思う。彼女が出演している『AILEEN: LIFE AND DEATH OF A SERIAL KILLER』を観たのだ。2003年製作だから相当前の話になるが、彼女の境遇があまりにも厳しいもので、知れば知るほど、まったく違う環境で育てられていたとしたら、彼女がアメリカで死刑にされた10人目の女性にはならなかったのではと考え、そこからいろいろと調べ始めた。

彼女について書かれた本は何冊かある(ほぼすべて読んでいると思う)。今でも頻繁に話題になる死刑囚のひとりと言ってもいい。世界的に有名になるきっかけは間違いなく、映画『モンスター』だろう。アイリーンを演じたシャーリーズ・セロンの演技がどれだけ完璧だったかは、アイリーンのインタビューをまとめたドキュメンタリーを観ればわかる。

アイリーンの死刑執行前日に撮影された映像にはとんでもない迫力がある。結局今日も、『AILEEN: LIFE AND DEATH OF A SERIAL KILLER』を少しだけ観てしまった。

2023/6/19 月曜日

Jamin Puech(ジャマン・ピュエッシュ)の小物が好き過ぎる。バッグ全体にビーズが縫い付けられていて(ひとつひとつ、手作業らしい)、モチーフがロブスターだったりブロッコリーだったり、鳥だったりと、はちゃめちゃだ。おばちゃんが持ったら最も危険なタイプのバッグであり、若いキラキラの女性が持ったとき初めて最大の効果を発揮すると理解しているので、私はキーホルダーなどの小物を購入することで我慢している。

それにしても、鳥が二羽、立体的に刺しゅうされたバッグのかわいいこと。娘がいたら娘に……と、血迷って考えたが(そしてそんな母親の気持ちを娘は否定しがち)、娘はいないので、鳥のキーホルダーを買うことで購買欲を満たした。正直なことを書くと、鳥のキーホルダーは二個目だ。次のシーズンで再び動物系のキーホルダーが出たとしたら、とても危険だ。きっと買いまくるに違いない。

今月は本当にどうでもいいような小物をたくさん買い集めている。しかし、娘がいたら、大変だっただろうな……。自分の十代を思い出してぞっとする。あんな娘が私にいたとしたら、怖すぎて夜も眠れない。

2023/6/20 火曜日

息子たちが同級生と琵琶湖でバーベキューをやると突然言い出した。どうも、仲間の一人の就職祝いらしい。楽しそうな写真や動画を送って来たが、親としては一抹の不安が……。なぜかというと、琵琶湖岸ではここ数年で、バーベキューに厳しいルールが設定されはじめている。ゴミを捨てる人、火の不始末をする人が多くなってきたからだ。琵琶湖の西側もじわじわと観光地化しはじめている。

火の始末はどうするのか、ゴミは片づけるつもりがあるのか、肉はどうやって調達したのか(これも気になった)、一体何人の友人たちが集まっているのかなどなど、聞きたいことは山ほどあったが、何も聞かずに帰りを待っていた。すると笑顔の二人(双子)が山ほどのゴミを抱えて戻って来た。よかった、ちゃんとゴミを回収したんだと安心した。

「火はどうしたの?」と聞くと、バーベキューセットを持ってきた子がちゃんと片づけたということだった。「よかったら、これからはうちの庭でやってもいいよ」と声をかけたら、「湖でやるからいいんじゃないか。庭でやって何が楽しいんだ」という返事が帰って来た。

まあ、私が子どもだったとして、母がそんなことを言おうものなら、「は? 夕日を見るのが目的ってわからない?」など、クソほど憎たらしいことを言うはずなので、うちの息子たちはまだ優しいなあと考えた。

2023/6/21 水曜日

義母と歯医者に行く日なのだが、朝から雲行きが怪しかった。朝イチに不安そうな義母から電話がかかり、「今日は歯医者さんらしいけど、もう新しい歯が生えてきていますので、行く必要がありません」と言われる。義母は宇宙人なのだろうか。

「お義母さん、新しい歯は生えてきていませんので、今日は行きます。私、午後に、どうしてもやらなくちゃいけない仕事があるから、さっと行って、さっと帰ってきたいんです。とにかく準備をしておいてください」と、ちょっと強めに言って、電話を切った。

車をぶっ飛ばして実家に行くと、義母が玄関先に立って待っていた。言いたいことがあるときの義母はいつもこうだ。パジャマ姿なのに、ばっちりメイクしている。口紅が燃えるような赤。決意の赤。意気込みの赤。その口紅を使って、チークを入れたのだろう、顔がとんでもないことになっている。狩りの時期か? 

私の話を聞こうともせず、「とにかく行きません」の一点張り。午後に締め切りがあるために焦りに焦っていたが、ここで強く言っても逆効果なのはわかっていたので、あの手この手で説得する。一番効果があったのは「お義母さん、歯が抜けたままだとブサイクですよ」のひとこと。最後の切り札の「ブサイク」である。

歯医者から戻り、ヨレヨレになりながらも原稿を書き、午後に京都新聞入稿。夕方から翻訳。ああ疲れる。でも、しっかりと翻訳が出来た日は、疲れたとしても納得して眠ることができる。

2023/6/22 木曜日

新潮社Webマガジン考える人連載の「村井さんちの生活」、更新。「村井さんちの生活」は、書きはじめてそろそろ六年ぐらいになるのだろうか。最も長く続いている連載だと思うし、私の連載のなかでは最もアクセス数が多いのだと思う。まあ、なにもかも(ある程度)あけすけに書いているというのと、義父の湿度の高い性格が人気になっているということで、ありがたいことだと思います。

しかし、お待たせしてしまっている連載がいくつかあって、担当編集者のアイコンをツイッターなどで見かけると、ひぃっとなる。そして画面のこちら側から、「もう少し待ってください、本当に申し訳ありません」と両手を合わせたりしている。

2023/6/23 金曜日

太田出版『射精責任』の念校出す。いやはや、この一冊は発売前からよく炎上していて、発売後がどうなることやら。とっても楽しみだ。タイトルから衝撃的な内容を想像する人が多いと思うが、私からすると、事実をただ淡々と、データに基づき書いている本で、高校生に読んでもらいたい内容なのだ。それから私たち大人世代にとって、若い世代に渡したくないバトンは、渡さないようにするという仕事があると思う。

わ~念校が終わったぞ~と思っていたら、亜紀書房ジャングル編集者内籐さんから「例の一冊の進捗を教えてください」と連絡入る。なんという鋭い勘だ。ひとつ終わったら、次。そして、その次。仕事は終わらない。

2023/6/24 土曜日

草刈りをしたいのに、雨続きでなかなか作業ができない。私の草刈機はマキタ製で充電池方式で、かなり手軽に、そのうえ静かに作業ができるのだが、雨が降ってはどうにもならない。草が最も刈りやすいコンディションは、草が乾いている晴れた日なのだ。

以前、義父がまだ元気な頃の話なのだが、なにかと粘着質の義父が夏になると突然草刈機を担いでやってきて、うちの庭の雑草を刈りまくるということが度々……いや、50回ぐらいあった。私はこの義父の行為(or 好意?)がなにより嫌いだった。というのも、私が仕事をしていると突然やってきては、爆音で草を刈るのだ。なんの許可もなしに。それも、作業がいい加減なので、ところどころ草が長かったりする。家の外壁に刃で傷をつける。義父の草刈機はとてもうるさいガソリン式だから、余計に腹が立つ。そして何より腹が立つのは、義父は刈った草を片づけない。刈りっぱなしでそのまま帰っていく。こうなるとテロではないだろうか。

私はそんな義父のやり方に嫌気が差して、大枚叩いてマキタの最高級機種の充電式草刈機を買い、一分の隙もなく草を刈り込み、丁寧に片づけ、庭をゴルフ場のようにすることに執念を燃やすようになった。ゴルフ場のようになった庭を見た義父は驚愕し、それを私がやったと聞くと、二度と草刈りには来なくなった。「まんが日本昔ばなし」に出てきてもいいような話だと思うが、どうか。

今となっては草刈りが私の趣味だ。残念ながら今日は草刈りが出来なかったので、とりあえず草刈機のメンテナンスをした。

2023/6/25 日曜日

今日も雨。湿度が高い。先日買ったmorusという小型乾燥機がとても気に入っているので、今日はゆっくり洗濯でもするかと、朝からmorusを回した。いいね!

2023/6/26 月曜日

髪をカット。コロナ禍以降、初めてマスクを取った美容師さんが若かりしころの華原朋美さんにそっくりで驚いた。本当にそっくりなのだ。

「朋ちゃんに似てるって言われませんか?」と聞いたが、すぐに朋ちゃんが誰なのかわからなかった若い美容師さん。

「ああ、ダイエットの人ですね!」 

これがジェネレーションギャップというものなのかと考えていたら、うっかり口から「ヒューヒューだよ」と(発作的に)でそうになり、これが中年ダジャレ症候群の初期症状なのではとドキリとした。この美容師さんとは、コロナ禍からの付き合いだが、若いのに本当に話がうまい。というか、聞き上手だ。

「それで、お義母さん自体は怖くないんですかねえ?」
「怖いと思うよ。だってさ~、毎晩、知らない男性が家の中をうろうろしてるのが見えるんだもんねえ」
「うわー、それきついなー」

レビー小体型認知症の義母の幻視について、美容師さんはとても興味があるようで、行く度に聞かれるようになった。私も、義母の見ているものについて興味があって、彼女にいろいろと話をしている。

「でも、そんなお義母さんに付き合っているお義父さんが一番大変そうですよねえ」
「確かにね。それでもデイサービスに行かせたくないっていうんだから仕方ないよ。いくら言っても、「わしが面倒みる」って聞かないんだもん」
「うわ~、やだな~。そんな年になってもダンナに縛られるの、絶対に嫌やわ~」
「私もイヤやわ~! デイサービスも行きたくないけどさあ~」
「それな~!!!」

2023/6/27 火曜日

朝から張り切って翻訳をしたものの……今日はあまり調子がよくない。私以外の翻訳家の方がどのようにスランプと闘っているのかはわからないが、私の場合、調子が悪く、ストレスが溜まってくると、たった一行が苦痛でたまらなくなる。その苦痛をなんとか乗り越えながら、徐々に体を慣らすことができれば、いわゆるランナーズハイの状態まで辿りつくのだが、そこまでが本当に長い。そして、そういう時に限って、自分の仕事以外の用事に時間を奪われることが多くなる。

翻訳がどうも調子が悪いので、ずいぶん前から書きためている文章に手を加えた。私はGoogleドキュメントとスケジュール帳にかなりの文字数を溜め込んでいる。そこからアイデアを拾ってエッセイを書くこともある。

2023/6/28 水曜日

ジャングル編集者内籐さんと話をする。ハリーの連載が途中で止まってしまっていることが本当に心苦しくて、それをお詫びする。なぜ止まってしまったかというと、理由はシンプルで、この一年、本当にいろいろとあってしんどくて、100%明るい文章が書けなくなってしまったのだ。

ハリーは相変わらずかわいいし、でかいぬいぐるみみたいで最高なんだけれど、その様子を書く私が、そのかわいさ、尊さを上手く表現できなくなってしまっていた。

で・も・ね……。そろそろ復活するよ。

2023/6/29 木曜日

是非出席してくださいと言っていただき(たぶん、全員にそう言っているのだとは思うが)茶話会に出席した。何度も案内を頂き、一度も行っていないので申し訳ないという気持ちもあった。だから、行った。午後に原稿の締め切りがあったのだが、それでも行った。もうこうなると義理というか、いつもの感謝を込めてみたいな状況だったわけだ(企画して下さったのはスーパー素敵な人たちだからね)。

私はこの「茶話会」というものがこの世で最も嫌いだ。「茶話会(さわかい)」という名称すら嫌いだ。なぜ嫌いなのかというと、シンプルに面白くないから。それから出席者がほぼ100%女性なのもハードルが高い。お茶飲んで、話して、何がおもろいかわからん。なぜ、茶を飲む? 知らない人と?? なぜ菓子を食う? 意味わからん。

だから、いままで完全に避けてきたのだが、今回は無理して出席して、感情が爆発しそうになって途中退席した(爆発してるやん)。「すいません、帰ります」と部屋を出たが、別に誰もなにも言わなかった。あたし一人が抜けたって、なんの支障もないわけです。わがままです。わかっています。

悩みや感情を誰かに吐き出すなんて、相手がよほど仲のいい友達としか出来ないと思っている。それに私はその部分を文章でやってる。しかし茶話会は、知らない人に感情を押しつける行為じゃないのか? 意味不明にしんどい。だから、もう出ない。誰も悪くない。私の性格が悪い。

帰りにドミノピザでLサイズのピザを二枚買った(息子たちへのおみやげ)。そして家に辿りついて、茶話会のことを考えてイラッときて、ちょっと泣きながら本読みした。つらい。

2023/6/30 金曜日

原田とエイミー

結局、原田がエイミーに連絡をとることはなかった。

ユキから手紙を受け取った夜、大急ぎで自宅に戻った原田は、ポケットからエイミーに渡すはずだった万年筆と彼女からの手紙を出すと、ダイニングテーブルに置いて、それをじっと見つめていた。「またいつか、会えますように。」 エイミーが書いた文字を何度も見ながら、原田はうれしくてたまらなかった。そんな喜びと同時に、もう一度彼女に会えたとして、それから? という気持ちがわいてきた。会えたとして、それからどうしたらいい? 彼女は一体、どうしたいというんだ? 社交辞令に決まってる。いや、もしかしたらからかわれているのかもしれない。ガッツポースで喜んだ原田はもうどこにもいなかった。

俺がアメリカに行けるわけでもないし、彼女が次に日本に来るのがいつなのかもわからない。もし彼女が再び東京にやってきて、親父さんの店を手伝いはじめたとしても、それが永遠に続くわけはない。彼女はアメリカ人なのだから、ゆくゆくはアメリカに戻るのだ。そしたら、俺はまた傷ついた心を抱えて、この狭いマンションで一人、酒を飲むのか。

それだったら……俺の心が潰れてしまう前に、エイミーのことは忘れたほうがいい。原田はそう思った。
ほんの数週間の、俺にとってはラッキーな日々だった。退屈な日常を、ひととき忘れることができた。学生時代に結婚した元妻と離婚した痛手を引きずっていた俺が、あれだけ元気になったんだから、この日々は無駄じゃなかったはずだ。

それに、カサブランカのママもユキも、俺には無理だって言ってたじゃないか。そりゃそうだよ、俺には無理だ。原田はエイミーのために買った万年筆と、彼女からの手紙をデスクの引き出しの奥にしまいこんだ。そして、冷蔵庫から缶チューハイを取り出して、一気に飲んだ。原田が万年筆とエイミーからの手紙を再び見ることはなかった。

季節は移り変わり、あっという間に一年が過ぎた。原田は以前と同じく予備校講師として働き、週に最低でも一度は親父さんの店に立ち寄り、飲み足りない日はカサブランカにも行っていた。親父さんの店は相変わらず繁盛していたが、親父さんの口数が減ったことが原田には気になっていた。エイミーの様子を聞こうかと何度か考えたが、忙しそうにしている親父さんを邪魔しないようにと我慢した。親父さんが自分からエイミーのことを話すことは、一切なかった。

カサブランカのユキは、時折エイミーとメールを交換しているようで、「恵美ちゃんの近況、一杯おごってくれたら教えてあげる~」と、からかいながら原田に言うときがあった。「結構です」と原田は断るものの、ユキは無理矢理、エイミーから送られてくる写真を原田に見せることがあった。

「ほら見て、恵美ちゃん、ほんっとかわいい!」 

写真に映るエイミーは、もう彼女のことは忘れたはずの原田の心を激しく揺さぶるのに十分なほど、眩しく、美しかった。

(続く)

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。