ある翻訳家の取り憑かれた日常

第12回

2023/07/01-2023/07/14

2023年7月20日掲載

2023/07/01 土曜日

原田とエイミー

「カオルちゃん、落ちついて聞いてよ」とケータイの向こうのユキは言った。

「親父さんが倒れたの。いま、お母さんが病院に行ってるんだけど、かなり危険な状態らしい。九州に弟がいるみたいなんだけど、もう何十年も音信不通だって。あとは娘さんだけど……まったく連絡先がわからないらしい。あとは恵美ちゃんなんだけどさ、恵美ちゃん、いま、大学の友達とスペインに行ってて、全然メールの返事が来なくって! このままだと、あたしたちだけで親父さんを見送ることになっちゃうよ! どうしよう⁉」

原田はユキの話を聞きながらも実感がわかなかった。確かに、ここ数か月の親父さんの様子はおかしかった。疲れが溜まっているようにも見えたが、年齢を考えれば仕方がないようにも思えた。しかし不思議だったのは、いつもは何かと原田に話しかけてくれる親父さんが、原田が立ち寄ってもあまり笑顔を見せず、いつも厨房の隅に置いた丸椅子に腰掛けていることだった。常連客たちも気を遣って、あまり多くを注文しなくなった。もしかしたら体調が悪いのではないか……そう考えていたのは原田だけではなかったはずだ。今さら悔やんでも遅いが、何か出来ることがあったのではないかと原田は後悔した。

「とにかく、何かあったらすぐに連絡するから! じゃあね!」とユキは言った。結局、ユキから再度連絡があったのはこの日の三日後のことで、治療のかいなく、親父さんが亡くなったという知らせだった。遠方に住む弟とようやく連絡を取ることができ、すぐに東京まで駆けつけるとのことだった。

「あたしとお母さんも、弟さんに協力することにしたの。だって、私、親父さんには娘みたいに可愛がってもらって、お母さんだって、ずっと親父さんに応援してもらっていたんだもん。とにかく、葬儀の日程が決まったら連絡するから、カオルちゃんも絶対に来てよ。それから、他の常連さんたちにも連絡して。おねがい!」 最後は涙声になっていたユキだった。

親父さんの葬儀が開かれたのはそれから二日後のことで、店から数駅離れた街のこじんまりとしたセレモニーホールだった。カサブランカのママが以前、身寄りのない客の葬式をしたことがあって、「良心的なのよ」と言っていた場所だった。原田はユキに言われた通りの時間にセレモニーホールに向かい、親父さんと最後の別れをした。涙がこぼれそうになるのを悟られないように、原田はうつむき加減で親父さんの亡骸の前から立ち去った。カサブランカのママとユキは、年老いた親父さんの弟の代わりに、親父さんのささやかな葬儀の全てを取りしきっていた。原田は少し遠くからユキに軽く挨拶した。ママは泣きはらした目を隠そうともせず、親父さんに別れを告げようと訪れる人たちに挨拶をしていた。

原田はひとり、セレモニーホールを後にした。親父さんとの付き合いは、十年以上だった。ここ一年ほどは、親父さんの孫娘のエイミーにすっかり惚れてしまい、なんだか恥ずかしくて、店から足が遠のいたことが心残りだった。親父さん、情けない男でごめん。そう原田は心のなかで繰り返した。

いたたまれない気持ちを引きずるようにして、ポケットに両手を突っ込み、駅までの道を急いでいた原田だったが、ふと、小さな書店の前で足を止めた。もう俺にはカサブランカ以外、行ける店がなくなったんだなと原田は寂しくなった。今夜は一人で親父さんに献杯。小説でも買って帰って独りの時間を過ごそう。そもそも原田は熱心な読書家で、だからこそ、脚本家を目指すと語ったエイミーに惹かれたのだ。

原田は、入り口の自動ドアの向こうに見える書店内の様子を伺った。若いアルバイトの男性が、きびきびと働いていた。そんな姿を見つつ、ゆっくりと店内に入ろうとした。自動ドアが大きな音をたてて勢いよく開いた瞬間、原田の左腕を、誰かが後ろからそっと引っ張った。


原田はぎょっとして振り返った。そこにいたのは、黒いシンプルなワンピースを着た、エイミーその人だった。原田は思わず大きな声を出した。「えッ⁉ なんで⁉」 するとエイミーは「先生、なぜ連絡してくれなかったの?」と言い、少しだけ微笑んだ。

2023/07/02 日曜日

自分でもうんざりするほど料理が嫌いになってしまった。あれだけ好きだったのに。理由は(ちょっとこれは書くのをためらうのだが日記だから書いてしまえ)、息子の好き嫌いの激しさだ。まったく手をつけない、あるいは完全に残す、いつの間にかコンビニに行っておにぎりを買って食べているという姿を見すぎてしまって、もうなにも作る気になれなくなった。自分のなかに、どうにも消化しきれない気持ちがある。好き嫌いの多い息子が悪いわけはないのだが、同じように育てて、双子のもう一人はなんでも喜んで食べ、もう一人は多くを拒絶する(ように思える)。これが大変堪える。

ということで、夫にも料理をしてもらうことにしたのだが、初めて作ったビーフシチューの調理過程があまりにも(夫にとっては)困難で、途中、体力がなくなり寝落ちしていた。調理の作業が大変過ぎて寝落ちしてしまうので料理が出来ない人を、初めて見た。爆笑した。しかし、それだけ手の込んだ料理は大変なのだというのが本人には理解できたようで、「これからは作ってくれと軽く頼まない」と言っていた。

「料理、嫌になったんだよね」と夫に言うと、「(息子が)社会に出ていろいろな人と出会う過程で、好き嫌いもきっと緩和される」と言っていた。

2023/07/03 月曜日

眠気がなかなか抜けず、一日ぼんやり。新しく処方された眠剤が合っていないのだと思う。効き方はすごくいいのだが(つまり、めちゃ眠くなる)、翌日に持ち越すのが困ったことだ。半量に調節しようと思う。頭がぼんやりしていても、ゆっくりであれば夕食の準備をする元気はあった。

そういえば死んだ兄は料理が得意だった。楽しげに料理する人だった。その理由はたぶん、誰かを喜ばせることが単純に好きだったのではないかと思う。兄の元妻の加奈子ちゃんが、「そういえばあの人、週末になると家族のために料理してくれてたな~。上手なんだよね~」と、言っていた。兄が亡くなったアパートにも調理器具が山ほどあって、兄がそれを買い集めた様子を想像して、人生を立て直そうとした中年男の後ろ姿のようなものが見えた気がした。プラスチックのざるひとつをとっても、そこに兄の気持ちや息づかいが残っているようで、切なかった。料理だけではなく人生まるごと嫌になりかけた一日であった。暗すぎるだろ。

2023/07/04 火曜日 

集英社の8000ワード(『実母と義母』)を大急ぎで書いた。書く前は「今月もやってきました、この日が!」的なプレッシャーを感じるものの、何度か書いたら慣れてきた。慣れとは素晴らしいものだと思う。小学生の時なんて、原稿用紙たった一枚が、永遠に続く急な階段みたいに苦しくて、書いても書いても終わらなかったのに、天国のお母さん、あたし、今は20枚書けるようになりました! 

そんなこんなで今月も入稿することができた。書籍化は10月。これはとても楽しみだ。なんだか恐ろしいぐらい、実母と義母のことを詳しく書いちゃったからね。

2023/07/05 水曜日

亜紀書房『LAST  CALL』 がとても大変。長い! 全体のページ数の30%がなんと資料だ!! うわーーーーん。それでも毎日じわじわと訳して、ようやく最終章の手前になった。いやはや、人名も多いし地名も多いし、ザ・ノンフィクションという感じで、好きな人は好きなジャンルなのではないだろうか。
私? もちろん大好き! とにかく、仕上げをして、一刻も早くジャングル編集者の亜紀書房内籐さんにお渡しせねばならない。信じられる? もう7月だよ? 7月中には、もう一冊控えているんだよ? がんばって、私!

2023/07/06 木曜日 

21日発売の『射精責任』の取材やら、フェアのコメントだしでバタバタしている。8月、9はイベントが多く、今から「体力がもつだろうか」と考えたりしている。体力というか、実のところ、メンタルが問題なのだ。普段、山奥に隠遁しているので、動物よりも人間との交流が疲れるという悲しいことになってしまっている自分。人間が嫌いなのではない。大好きな人たちがたくさんいるのだが、イベントという嵐が過ぎ去ったあとの、心の荒廃っぷりがすごい。本当にすごい。

それを今から想像して、気をしっかり持って! と自分自身に言い聞かせている。そもそも私は、人の前に出るのが苦手なのだ。

2023/07/07 金曜日

ようやく一週間が終わる。フリーランスでずっと家にいるくせに、金曜になると「これでようやく家でゆっくりできる」みたいな気持ちになるのはなぜか。今週末は静かに過ごしたいと思いつつも、翻訳原稿の仕上げは確実にやらねばと少し気が重くなる。こういう日は、早く寝てしまうに限る。すべてをシャットダウンするしかない日もある。さよなら、現実。

2023/07/08 土曜日

亜紀書房の『LAST CALL』はエピローグに到達。このエピローグがとてもいい。すごくエモーショナルな文章を書く著者だなと思う。朝から感動してしまった。

午後になってようやく草刈りだ。庭の雑草が前代未聞な感じで伸びてしまっており、わが家だけ荒れ果てて見えるので(ご近所さんは庭を大変きれいにしている方ばかり)、今日は張り切って草刈りの準備を整えたものの……死ぬほど暑いではないか。30分でギブアップした。べつに庭に草が生えていても、誰かが死ぬわけではない。主婦の私の評判が死ぬというだけだ。

2023/07/09 日曜日

夫の実家の和室が大変な湿気で(今が梅雨だという理由以上に湿度が高く、これは建物自体に何かが起きているのだと思うのだが)、なんと壁にカビが生えてしまった。大問題である。

義母が気に入っていた部屋なのにカビが生えてしまったら気の毒だ。これはなんとかしなくちゃな……と考えていたら、夫が私の横で義父と義母に「僕の家にある除湿器持ってくるわ」と言った。

「俺の家にある除湿器?」と思った。まさか夫は私が買った、めちゃ高性能の除湿器のことを、私が愛用している除湿器のことを、大量の本を湿度から守るために常時運転している、あの私の愛用機種のことを言ってるのかと思って、「まさかそんなことがあるわけがない」と思ったのだが、そのまさかだった。「うちにすごいパワフルなやつがあるからさ。あれ、持ってくるわ!」とさらりと言っていた。

自宅に戻って夫に「あれ、私の除湿器の話じゃないよね?」と聞いてみた。夫は何かを察知したようで、「ち、ち、違うよ、俺が新しく買って持っていく」と言うので、「そりゃ親孝行だね。ご両親も喜ぶと思いますよ」と言った。

2023/07/10 月曜日

義母のデイサービスから電話。「最近、ぼんやりと過ごされることが増えました」ということだった。義母のとても良いところは明るいところなのだが、最近は椅子に座って前を見て、じっとしているらしい。デイにいることすら理解出来ていないのかもしれない。ケアマネさんは、今の彼女の状態であれば、デイにいても自宅にいてもあまり差はないので、できれば連日、あるいは一日おきにデイに行き、お風呂に入ったり、リハビリをしたほうがいいと言う。それは私も当然、そう思う。しかしどれだけ説得しても、義父は「デイには二日以上行かせない」の一点張りなのだ。理由は「わしが寂しいから」。

なんなんだろう、義父はウォンバットかなにかなんだろうか? 前世がウォンバットなの? どういうこと?

2023/07/11 火曜日

デイサービスから電話。義母が足にぐるぐるに包帯を巻いているので、お風呂のときに包帯を外したそうだ。すると、今度は足の指に何重にもテープが巻かれていて、なんだかすごい状態になっているので、看護師さんがそれも外してみたそうだ。

「白癬だと思います。病院に行かれたほうがいいです」

昔の義母ならあり得ないことだが、今の彼女は自力で入浴が出来ない。だから、こういうことになってしまう。デイに通う日数を増やして、デイで入浴してもらうのがベストなのだ。本人が嫌がってないのだから、私としては是非毎日通って欲しい、昼まででもいいのだからと思うのだが、それにウォンバットが立ち塞がるのだった。

義父は「デイでうつされたんや!」とキラキラした目で言いだした。義母を送り届けてくれたデイの職員さんに怒ったらしい。

「やっぱり入浴はさせない」と鼻息も荒く言う義父。それを聞いた夫が激怒し、なんだかもう、えらいことになっていた。ここで誰が一番可哀想なのかは明白で、私たちが出来る最善のことは、義母を皮膚科に連れて行くことである。

2023/07/12 水曜日

息子の同級生のお母さんと話をした。彼女も義理の両親の介護をしているらしい。家のこともあるしとても大変なのだけれど(そこのお宅も双子男児なのだ!)、なんとかやってるんよ、でもね……と、声のトーンを思い切り落として、眉間にグランドキャニオンみたいなしわを寄せた彼女が私に語った話がめちゃくちゃにわかりみだった。わかりみ本線日本海が久々に出たわ。

「この前さ、ロクに介護の手伝いもしないうちの夫がさ、デイサービスに提出する書類の緊急連絡先に、私の携帯番号を書いたんよ。さも、当然のように。あーし、完全にキレたわ。その場で『あんた、逆の立場だったら同じことするんか? うちの母が認知症になって特養に入るってなったとき、あんた、自分の携帯の番号を緊急連絡先に書いてくれるんか⁉』って詰め寄ったんよね」

「そしたらなんて言った?」

「俺は仕事だから無理って言ったわ。あたしだってフルタイムで仕事しとるちゅうねん」

「ふぅん……どこも同じだねえ……」

2023/07/13 木曜日

一ヶ月ぶり、いつものクリニックへ。普段は電車を乗り継いでにおの浜まで行くのだが(たまには電車もいいだろうと思って)、あまりに暑いので車で行った。拍子抜けするほど楽だった。これからは車で行こうと思う。久しぶりに会った医師は私をじっと見て、

「さて……」と言った。さてと言われても……と考えつつ、「元気です」と答える。

「何か不安に感じることはありますか?」

「そうですねえ……数年間断酒したんですが、最近、暑くなってきてビールの宣伝とか見ると、今までは全然気にならなかったのに、飲みたいと思うようになってきましたね。病気がきっかけでお酒の量をかなり減らしたので、スリップでもしたら嫌だなあって」

「また病気になって断酒ってわけにもいかないしねえ?」

そりゃそうやろ。次は一ヶ月後。

2023/07/14 金曜日

一週間があっという間に過ぎてしまう。仕事が徐々にプレッシャーになってきた。締め切りも遅れがちになり、メールも見落としがちになるものの、なぜかインターネットショッピングは大いに捗っており、このあたりのバランスをきちんと取らないとダメだと思う。しかし不思議と、書けないとか、訳せないとか、そういうことではなくて、頭の中は大いに忙しい。睡眠中に夢を見ながら書いてしまう。眠りにつくときにも書いてしまう。理由は、かなり前から書きためている文章があり、そこに手を着けたいのだけれど、まずは目の前にある翻訳が終わってからだよと自分をセーブしているからだ。とにかく、すべてを年内にきっちりと納品できるように、じわじわと前進し続けるしかない。

えー、もう年末を意識しなくちゃいけないの~? 今年も早そうだな~!

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。