ある翻訳家の取り憑かれた日常

第13回

2023/07/15-2023/07/28

2023年8月3日掲載

2023/07/15 土曜日

原田の左手を強引に握ったエイミーは、「先生、もう帰ろうよ」と言い、書店に立ち寄ろうとしていた原田を駅の方向に引っ張って行った。

「帰ろうって言ったって、親父さんにお別れはしたの?」

「おじいちゃんとは、もう何度も話をしたから。亡くなる前だって、その前だって、私とおじいちゃんはいつも何でも話し合っていたから。もう私のなかではお別れが済んでいるんで。先生が来るのを待っていたんです、ずっと」

「でも、親戚の人とか、来てただろ? いいの、帰ってしまって」

「じゃあ、先生はあの場にずっといたいんですか? いて何になるの? カサブランカのママがちゃんとやってくれてたから、いいじゃない。知らないの? あの二人、ずっと夫婦みたいなもんだったんだから」

そうエイミーに強く言われると、原田は彼女に従うしかなかった。確かに、カサブランカのママと親父さんの関係がそのようなものだとは薄々気づいていたが、はっきりと聞いたことはなかった。確かに、ママに任せていればすべて円滑に済むだろうとは思うけれど……。

「駅前のビジネスホテルに泊まってたんです。ちょっと荷物取ってくるので、先生、待ってて下さい」 

そう言ってエイミーは原田の左手を離さず、力強く引っ張っていった。原田は引っ張られるままエイミーについていき、言われるまま彼女をビジネスホテルの前で待ち、ホテルから出てきたエイミーから彼女のバックパックを受け取って、自分が背負って、駅まで歩いた。もちろん、エイミーと手を繋ぎながら。黒いワンピースを着たエイミーは、葬式帰りとは思えないほど笑顔を見せていた。その笑顔が原田の心を掴んで離さなかった。喪服姿でバックパックを背負った男と、輝くような笑顔で歩く美しい女の姿は、周囲にどう映るだろうと原田は思った。自分の左手にエイミーの柔らかい手を感じながら、これから先、何が起きるのか原田は想像もつかなかった。

「どこに行くつもり?」と原田は用心深く聞いた。

「困ったことがあったら原田先生に聞けって、おじいちゃんが言ってたし。彼は大丈夫だって。先生のところでお世話になっていいですか?」

原田は言葉を失ってしまった。言葉を失った原田の左手を、再びエイミーが強めに引っ張った。

「先生、帰ろう! 難しいことなんて考える必要、ある?」

結局エイミーは、原田のアパートにバックパックひとつで住み着いた。原田は、突然アパートにやってきた、一年以上も想いを寄せていたその人と、それからしばらくの間二人暮らしをすることになる。

2023/07/16 日曜日

次男、部活(剣道)があるんだけど、あまりにも暑いから車で送ってくれないかと言うので、いいよと答えて送ってあげた。学校駐車場に車を停めていたら、顧問の先生に見つかって「やあやあ、お母さん、今日は昼に流し素麺やるから、遊んでいきなさいよ」と言われ(ちなみに、この貫禄十分の先生は私より年下だ。嘘みたいだけど)、断ることもできずに「あ、はい……」なんて感じで体育館に行く。体育館はクーラーがほどよい感じにかかっていて、心地よい。

体育館二階の放送室のような部屋に冷蔵庫やキッチンがあり、大きな窓が開け放たれていて、そこから見事に夏空が見えていた。本当に見事。こんな風景、小学生の頃に見て以来かもしれないと思う。抜けるような青い空、白い入道雲と、深緑の山々。他にも生徒のお母さんが来ており、なんだかんだと話をして、子どもたちに対する軽い文句を互いに言いつつ、笑い、山のように素麺を茹でた。面白いお母さんだったので話が弾んでしまった。

先生が竹を真っ二つに割り、持ってきていて、体育館のスロープの手すりに設置して、ホースの水で素麺を流した。高校生が楽しそうに食べていた。ソーセージまで流れていた。なんでもありやね。高校生だから、なんでもできる。ルールなんてどうでもいいって感じで、まさに「夏」だった。

私は何をするにしても、過剰に気を遣ってしまい、それが一周回って意味不明になることが多いのだが、今回出会ったお母さんは、何でもかんでもぐいぐいと勢いよく進めて、それでヨシの雰囲気があって、とてもうらやましかった。私も、何かと自信を持って取り組みたい。気を回しすぎて逆に迷惑というシチュエーションを避けたい。

2023/07/17 月曜日

昨日の流し素麺の楽しい一日から一転、メンタルが劇的に落ちる。これだから中年は困る……。振り幅を意識したい。楽しいことがあると、次に落ちるのは更年期あるあるなのだろうか。ただ、落ちたと言っても嫌な気持ちではなく、センチメンタルな感じなんだ。青空とか、楽しそうな高校生の姿に、心のなかの何かが刺激を受けるのだと思う。

小学生の頃の、夏休みの風景が今も脳裏にこびりつくように残っている。自室の窓から見た真っ青な空。潮風、白い波、焼け付くような砂浜。兄と一緒に行ったプールと、でこぼこのアスファルト。懐かしいなあという気持ちを、「痛み」として感じる日がある。年を取れば取るほど顕著になってくる。今日はやはりメンタルが落ちている。

2023/07/18 火曜日

今日は朝から二本の原稿を入稿するという荒技をやってしまって、午前中に完全に燃え尽きてしまう。

2023/07/19 水曜日

長男が暇そうにしているので、「ちょっと買い物手伝ってくれない?」と声をかけたら、「ええよ」と明るく協力してくれた。彼は大人しいが非常に力が強いので、すごく助かる。「俺もなんか買っていい?」と聞いてくるので、なんでも好きなもの買いなよと言ったら、じゃがりこをひとつ手にして、思い直したように二つカゴに入れた。そして「あいつの分も買っていいよね?」と聞く。ちゃんと弟の分も忘れずに買うのが長男のいいところだ。「もっといっぱい買ってもいいよ」と言うと、次はグミを二袋買っていた。なんだろう、長男のこの控え目な性格は。次男だったら、こういうケースでは「ひゃっほう!!!」と叫び、カゴ一杯になるまで様々なものを買いまくるはずなのだ。まあ、二人とも、私の子にしてはいい子に育ってくれた。

2023/07/20 木曜日

長男、次男、友達で夕方に散歩に行くと出ていった。こういうとき、散歩というのは最終的に確実に湖水浴に辿りつく。歩いていて、そのまま水に入ってしまうというわけだ。少年なので仕方がない。

しかし、今日は少し勝手が違ったようで、浜辺を歩いていたら、女性に声をかけられたという。ビビリ上がった少年たちだったが、よくよく話を聞いてみると、車が砂浜にタイヤを取られて動けなくなっている。

「少し押してくれない?」と言われ、三人でよいしょよいしょと押して、車は無事に脱出、女性は「ありがとうね~」という言葉とともに少年らに1000円をくれたらしい。

舞い上がった少年らは「うひょ~!!!」と叫びながら水に飛び込んだ。飛び込んで、思い切り泳いだ。ぎゃはははと笑いながら、よかったなあ、人助けができたやん、ワイ~! などと、笑い倒していた三人。しかし、ここで事件が。

次男がiPhoneを水没させていた。ポケットに入れたまま、泳ぎまくっていたらしい。家に戻ってきて、なにやらもぞもぞ言い出したのでおかしいなと思ったのだ。私の目を見ようとしない次男のiPhoneを確認すると、まったく起動しない状態だった。完全なるアウト状態だった。近所にある修理屋さんに持って行くと、これはなかの基盤も変更しないとダメですねということだったので、諦めた。新しいiPhoneは、一旦私が購入して、コンビニでアルバイトをしている息子に分割で支払ってもらうことにした。「ママぁ、ありがとう~」と言っていた。いろいろ言いたいことはあったが、人助けが出来たのだからいいことにしようと、すべて飲み込んだ。

2023/07/21 金曜日

『射精責任』がとうとう発売。担当編集者、太田出版藤澤さんによると、もう倉庫には在庫がないということだった。たぶん、すぐに重版がかかるんだろう。翻訳本のわりには初版も多かったし、タイトルはセンセーショナルではあるけれども真面目な本なので、売れて欲しい。

「はじめて『射精責任』の原書(Ejaculate Responsibly: A Whole New Way to Think About Abortion)を手にしたとき、どう思いました?」とよく聞かれるようになったんだけど、翻訳者としての本音を言うと、比較的薄い本なので、咄嗟に作業量を考えて「ラッキーな一冊かも」と思った。タイトルも内容も斬新だったので、これはますますいいんじゃないの? 楽しい仕事になるだろうなと思った。

私みたいに、普段、厚い本ばかり訳していると、ときどき神様からのプレゼントみたいにページ数の少ない本の翻訳を依頼されることがあって、そんなときは単純に作業量が普段よりも少ないことを予想してうれしくなる。しかし、本書の場合、若干の炎上を伴ってこの世に爆誕したこともあり、ハラハラしながら、その滑り出しを見守っている感がある。

2023/07/22 土曜日

夫がこの日記を読んでいることが判明し、そのうえ、内容にダメだしされるという辛いことになった。身近な人に読まれているのは、本当に書きにくい。ただただ、脳内にあることを書いているだけなので(だって日記だもん)、正直、やる気を削がれてしまう。読んでも黙っていてくれるといいんだけど、そうはいかないのか。こういう微妙なラインを、家族という存在は決して理解しない。私の両親もそうだったし、兄もそうだった。今の家族もたぶんそうだ。それだから家族はややこしい。このひとことで説明がつく。

2023/07/23 日曜日

暑すぎる。この暑さは殺人的だ。ということで、朝から殺人鬼の本を訳す。亜紀書房『LAST CALL』はニューヨークのピアノバーを舞台とした連続殺人鬼ノンフィクションだが、ノンフィクションのなかでもかなり丁寧に、時系列にそって事実を並べていく、こつこつタイプの一冊だ(作家がこつこつしてるんだけどね)。パズルゲームに大いにはまっている私からすると、パズルと同じようなテンションで、じわじわ、少しずつ訳していき、最終的に巨大パズルが出来上がるのを楽しみに作業がすすんでいる。かなり長い時間がかかったけれど、ようやく本文は終了した。いやはや、本当に大変だったけれど、今回も素晴らしい一冊だった。特にエピローグがドラマチックでよかったな……。エピローグの最後で声が出たのは初めての経験かも。

夕方、双子の同級生のヒロがひょっこりやってきた。とても大人しい男の子で、会えばニコニコ笑うような、私からすればとてもかわいい、素直な高校生だ。最近、双子とヒロの三人でランニングに行くようになり、今日も三人で涼しい時間に走っていた。いつまで続くやら。続かなくても、それが青春だから、それでいいんやでなどと思う。無事に成長してくれていて、うれしい限り。みんなが幸せになりますように。

2023/07/24 月曜日

8月、次男の剣道の全国大会で東京に行くのだが、顧問の先生とのやりとりがLINEで行われ、それが次男にも共有されているために、「文章が長くて読みにくい」、「何言いたいのかわからん」「団体行動ができない人なんやな」などなど言われ、最高につらい。

確かに、私は団体行動が苦手で、できる限り逃げたいのだが、それが冷静に考えてみれば、本当に明らかにわかるような文章を私はLINE上で展開しており(それも長い)、本当につらい、どうしよう、先生、怒ってるかな……と次男に相談したら、「ネット上であれだけ叩かれてるのに、おじさん一人が怖いんか!」と言われてしまった。

2023/07/25 火曜日

井上尚弥VSフルトン。夫が出張でいなかったため、息子二人とハリーと観戦。ギャーギャー騒いで近所から苦情が来てしまうレベルで楽しんだ。私はやはりボクシングが好きだ。

2023/07/26 水曜日

サービス担当者会議。介護に関わってくれている人たちが義理の両親宅に大集合して、この先一年の介護計画について話し合いが行われた。

ケアマネさんがデイサービス担当者に話を聞いているときのことだった。襖がすーっと開いたと思ったら、そこにいたのは正座して、真面目な表情をしている義母。なんだか見慣れたシチュエーション。

義母は、実家で料理屋をしていた頃のことを思い出し、私たちが客だと思って接客しているようだった。お盆にミカンを載せて、「失礼致します」と静かに入って来て、お盆をテーブルに置くと、すっと立って床の間に行き、掛け軸の説明をしはじめた(内容は覚えていない。もう500回ぐらい聞いたことがあるのだが、どうしても忘れてしまう)。

私たちを料理屋の客と思っている義母は丁寧にいろいろと説明すると、「失礼します」と出ていった。ケアマネさんもデイの職員さんも慣れたもので、義母が出ていった瞬間から、会議は再スタート。しばらくしてからケアマネさんが「それにしても、本当に普通にしていらっしゃるから、認知症だなんてわからないですよね」と言っていた。確かにそうだ。義母の姿を見て、認知症だと気づく人は少ないと思う。

デイの人が義母の体重をグラフにしているらしく、最近ぐっと体重が減ってきているのを心配していた。内臓には問題がないことはわかっているので、「たぶん、フレイルのような状況だと思います」ということだった。もっと家から出て、体を動かし、しっかり食べなくてはいけない。今月から、デイサービスに行く回数を増やしてもらうことにした。義父の説得は私がした。義母の体重減少を強調すると、義父もわかっていたようで、すぐに納得してくれた。ついでとばかりに「おせち料理はどうする?」と聞いてきたので、目眩がした。あの人のこだわりは意味がわからない。

2023/07/27 木曜日

剣道部の練習からヨレヨレ状態で戻ってきた次男が塩ラーメンを作ってくれと言うので作っていた。それも二袋、同時。

「かあさん、ラーメン、いつできるんや!?」
「それはラーメンに聞いて下さい」
「おいラーメン、いつ出来るんや!?」

 ……

「ラーメンから答えがないんやけど!?」
「それはラーメンにもわからんということやね」
「ワハハハハハ!!!」

2023/07/28 金曜日

『LAST CALL』脱稿!……と言いたいところだが、本文だけね。それでも、一区切りついた。あとは巻末の資料を訳すだけなのだが、この資料が全体ページ数の3割を占めるというスーパー資料!

この著者は本当に誠実な人だと思うし、ノンフィクションはこれじゃなきゃとも思う。7月後半はあまりにも忙しく、めまぐるしかった。8月の東京遠征が思いやられる。8月だけではなく、9月もイベントが多い。たぶんまた、メンタルが落ちる。どうにかならないものなのか。次のクリニックの予約はいつだっただろう。なんとか乗り切りたいものだ。

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。