ある翻訳家の取り憑かれた日常

第15回

2023/08/12-2023/08/25

2023年8月31日掲載

2023/08/12 土曜日

原田とエイミー

原田の部屋のベランダから東京の夜空を眺めていると、アメリカに残してきた全てを捨てていいと思える。母との関係に嫌気が差し、祖父を頼り、20年ぶりに戻った東京で、ようやく自分を取り戻すことが出来た。アメリカで常に感じていた息苦しさから解放されたような気がした。そんな時に出会ったのが原田だった。

原田はいつもカウンターの隅に座り、静かに飲んでいた。会話したことは数回しかなかったけれど、誠実そうな人柄は伝わってきた。他の客は何かと私について知りたがるし、なぜアメリカからやってきてこんな場末の小さな居酒屋でアルバイトをしているのかと興味津々だったが、原田はそんなことを一度も私に聞かなかった。他の客のように酔っ払って私にしつこくすることも、一切なかった。だからこそ、原田のことが気になった。

誕生日、祖父が早めに店を閉めてお祝いをしようと言ってくれたあの日、ふらりと原田が店に現れた瞬間のことは、一生忘れることはないだろう。私は、とてもうれしかったのだ。私の気持ちに気づいていた祖父は、さりげなく原田に声をかけてくれた。私は彼と並んでカウンターに座り、夜中まで語り合った。あの日からずっと、私は原田のことを考え続けている。私は彼のことが好きだ。

アメリカに戻るよう母に強く言われ、やむを得ず日本を離れた。カサブランカのユキに、祈るような気持ちで連絡先を残した。彼からは一度も連絡がなかった。私はそれを彼の答えだと考え、彼を忘れようとしたが、諦めることはできなかった。

今、こうして再び日本に戻り、そして、私は原田と一緒に暮らしている。今まで生きてきて、こんなに幸せだと思ったことはない。原田はいつまでもここにいていいと言ってくれたし、私も、ずっとここで原田と暮らしていたい。

祖父のお葬式の帰りに、半ば強引に来てしまった場所。でも、私にとっては世界のどこよりも安心できて、幸せでいられる場所。私のために買ってくれた万年筆を、再会したときに、恥ずかしそうに手渡してくれた彼と一緒にここで生きていくことが、そこまで難しいことだとは思えない。

2023/08/13 日曜日

子ども、夫ともに夏休み。家のなかが、なんだか狭苦しい。夫が家にいると、なんだか窮屈に感じるのはなぜか。定年退職したらどうなるのか、そんなところが一気に不安になる。

最近、マンションのリノベーションサイトばかり見ているのは、なにもマンションでの一人暮らしに憧れているわけではなく、庭にもう一軒、小さめの家を建てたいという夢があるからだ(内装とかキッチンまわりを参考にしている)。今、我々が住んでいる家は手狭で、私「だけ」の部屋がない。仕事はリビングでしているし、いままでもそうだったが、コロナ禍以降、夫までリビングで仕事をするようになって、なんて説明すれば正解なのかはわからないが、窮屈だと感じるようになってきた。大変申し訳ないことだ。

それなら「もう一軒、自分だけの空間を建ててしまえばいいんじゃないか」と、今住んでいる家のローンも終わってないくせに考える私を、夫は「お兄さんにそっくりの博打打ちなんじゃないか」と言っていた。まあ、そうなのかもしれない。フリーランスの人間の人生なんて、まさに博打じゃないか。

2023/08/14 月曜日

故郷にある家屋(すでに亡くなっている祖母の名義)を解体して、更地にして、売却するために、生き残りの者たちががんばっているわけだが、権利関係が複雑で、司法書士、弁護士にいろいろと依頼して、今、なんとか事態は前進しているのだが……弁護士から兄の死亡時の負債額を聞き、やっぱりあの人は普通ではなかったと納得した一日だった。なんて言ったらいいか……ダイナミックな生き方であり、死に方だったな。いいんじゃないですか、彼らしくて。

2023/08/15 火曜日

文芸誌『すばる』締め切り。『湖畔のブッククラブ』は海外物ノンフィクションしばりで本を読み、その感想を書くというコーナーなのだが、なんと、私がそのしばりをうっかり忘れて、海外物ではあるがフィクションを読んでしまった。それもスタインベックの『ハツカネズミと人間』を。ほぼ古典ではないか。

重要な約束を忘れるなんて、ダメな俺……とは思ったけれど、『ハツカネズミと人間』は素晴らしい作品だった。あんなにも短い物語のなかに、あれだけのドラマ。傑作を書くために枚数は要らない。思い返すたびに、胸がぎゅっと苦しくなる。感想、すごく難しいわ。

2023/08/16 水曜日

昨日『すばる』の締め切りだったものの、間に合わず、今日も朝から必死に書いた。文字数は少なめだが、それだけに難しい。文字数多くて苦しいと書いたり、文字数少なくて難しいと書いたり、私は本当に喧しい人間だなと思う。しかし総じて、書くことは大変なことだ。書くことが大変過ぎて、最近は読む時間が確保できない。もっともっとフィクションを読みたい。

最近の若手の小説家、特に女性がすごくないですか⁉ 天才ばっかりじゃない?? 読んでいて、わくわくしてくる。早く翻訳を仕上げて、小説をたっぷり買って、涼しい部屋で読み漁りたい。家事も子育てもすべて放棄し、ハリーと一緒に本が読みたい。犬とか動物に囲まれて、読書して暮らしたい。

2023/08/17 木曜日

結局、『すばる』の『湖畔のブッククラブ』、本日入稿。フーッ。月刊誌は緊張するねえ。ウェブ連載だと、多少遅れてもなんとか間に合わすことは出来るけれど、紙媒体だとそういうわけにもいかないので、ドキドキしながら入稿した。来月こそはノンフィクションを読まねばならない。そして、きちんと締め切りを守るのが私の仕事だ。

2023/08/18 金曜日

一ヶ月ぶりのメンタル・クリニック。におの浜まで電車で行くか、それとも車で行くか、毎度悩むのだが、今日もあまりの暑さに負けて、車で行った。

クリニック近くの商業施設駐車場に車を停めて、歩いてクリニックへ。待合室のクーラーがぼんやりとした温度設定で、大変暑かった。大変な暑さの日だというのに、待合室は高齢の患者さんでいっぱいの状態。しばらく待っていると名前を呼ばれ、診察室へ。

「どうです? 最近は」
「調子いいです。仕事が忙しくて、ときどき、嫌になりますけど」
「嫌になったとしても、やっているんでしょう?」 
「はい、嫌になったとしても一応、作業は進めます」
「それだったら満点ですよ」
「そうでしょうか」
「あなたはそういうことが出来る人ですよ。意志が強そうだし」
「……うーん……」
「ハハハハ!」
「……フフフ…」

2023/08/19 土曜日

長男が新学期用の服が欲しいと言い出したので、二人でショッピングセンターへ。長男は潔癖症なので、一日に何回か着替えるのだが(めんどくさいやつだ)、最近は色だとか素材だとかサイズ感などにもいちいちこだわるため、選ぶのに時間がかかる。もうさ、お金あげるから自分で行ってくれない? と、何度も頼むのだが、「母さんもたまには来てよ」と言われ、ため息をつきながら付き合うのだった。

いや、ため息つかずに付き合ってやればいいのにね。絶対に将来、後悔すると思うんだよね。なぜあのとき、明るく付き合ってあげなかったのかって。かわいいじゃないか、高校生の息子が、一緒に買い物に行こうと誘ってくれるなんてさ。私は一体、何が気に入らないのだろう。

なんだか最近、体も心もとても疲れやすいが、夏バテだろうか。心臓に問題があるわけではないのだけれど。それは毎月のように検査をしているからわかっている。やっぱり更年期だろうか。

2023/08/20 日曜日

自分の顔が、年々、母親に似てきていることが地味に私にダメージを与え続けている。インターネット上の記事などで、自分の顔を見るのが死ぬほど嫌だ。母親に似てきていることの何が嫌なのか、説明するのは簡単ではないのだが、自分の顔にふと重なる、若かりし日(とはいえ、50代だけど)の彼女の顔が、彼女の苦悩を私に思い起こさせるトリガーのようになっている。だからもう、本当に嫌。昔から(記憶にある限り、小学生の頃から)写真は大嫌いだが、最近はその大嫌いに拍車がかかった。ときどき、トークショーのあとなどで写真をお願いしますと頼まれることがあるのだが、本当に申し訳ないけど、辛すぎるのでそんなことを頼まないで欲しい。いや、OKするけど。死にそうな心でOKしてます。みんなはどうなんだろう。人生の一部を切り取られて見せられる苦悩って、ない? あたしはすごくある(偏屈じゃん、ただの)。

2023/08/21 月曜日

ニコラ・ストウの『The Real-Life Murder Clubs』(大和書房)を淡々と訳している。いまちょうど、黄金州の殺人鬼についての章を訳していて、久々にジョセフ・ジェイムス・ディアンジェロの動画などを見直している(資料として)。

逮捕された直後に法廷に姿を現したディアンジェロは、車椅子に座った弱々しい老人で、この人が100人近い人間を襲ったなんて到底想像できないと思ったものだが、法廷に現れる前日、独房でがっつり筋トレしている姿が動画に残っていて、やっぱりサイコパスは油断ならんと考えた。

生存している被害者女性が、ディアンジェロの目の前で彼に対して意見を述べる場面があった。ディアンジェロはぼんやりと前方を見つめるだけだったが、もうすでに60歳を超えた敬虔なクリスチャンでもある被害者女性は、真っ直ぐディアンジェロを見つめ、rot in hell(地獄で朽ち果てろ)と言っていた。力強い言葉だった。go to hell(地獄に行け)ではなくて、行くのは当然で、そのうえ、朽ち果てろというんだから、人生を狂わされた怒りの強さが伝わってくる。

黄金州の殺人鬼については、いろいろな資料を読んだが、ポール・ホールズ捜査官の行ったDNA鑑定がすごかったね。GEDmatch(家系図作成サイト。ちなみに私も登録している)に黄金州の殺人鬼のDNAを登録し、遠い親戚を探し出して、最終的にディアンジェロに辿りついた。ディアンジェロ宅のゴミ箱からティッシュを持ち出し、DNA抽出後、黄金州の殺人鬼のDNAと比較して、見事マッチしたというわけだ。

ポール・ホールズには面白い話があって、ディアンジェロとわかった直後、どうしても興味があって、ディアンジェロの家の前まで一人で行ってみたポールだったのだが、途中で「やっぱり怖い。殺られる」って思って警察署に戻ったということ。バリバリ現役の捜査官でも、ディアンジェロの凶暴さの前には為す術なく、狼狽えるということだ。あんなお爺ちゃんであったとしてもね。犯行の一部始終を知っていたら、当然そう思うだろう。そりゃ怖いわ。

2023/08/22 火曜日

本日も、ニコラ・ストウの『The Real-Life Murder Clubs』(大和書房)翻訳。どんどん進んできた。訳しやすい。すでに知っている事件を追っている内容であるという理由もあるけれど、やはり書き方がうまいのだろうと思う。

英文でも、明らかに訳しやすいものと、訳しにくいものがある。日本語でも、この作家さんは自分に合っている、逆に、ちょっと読むのに時間がかかるという得手不得手があるように、英語でも当然、あると思う。私は、いくつも入れ子になったような英文がすごく苦手で(というか、誰もがそうだと思うが)、その書き方が好きな作家だと訳すのに非常に苦労する。ストウはそのタイプではなく、あくまでインタビュアーに徹しているところがとてもいい。

入れ子地獄のようになっているのが、『母親になって後悔してる』の原書『Regretting Motherhood』だ。あれは本当にすごかった。訳者の鹿田さんは見事に訳しておられたが、尊敬しかない。

2023/08/23 水曜日

本日も、ニコラ・ストウの『The Real-Life Murder Clubs』(大和書房)翻訳。私は自分の翻訳の能力に対して、一切、自信を持っていない。だから翻訳について聞かれるときは、常に暗い、陰湿な目をしつつ、答えをしぼり出している。どんなところを工夫していますかとか、今回はどのようなお気持ちで訳しましたかとか、よく聞いて頂く機会があるのだが、そのたびに、なんだか申し訳ないような気持ちになっている。私は自分の訳すものに、常に自信がなく、間違っているのでは、著者の考えた通りに訳すことが出来ていないのではないかとビクビクしている。ただただ、原書に忠実にやっています。それだけなんです、申し訳ありません。はぁ、怖い。

エッセイは、「とにかく書いたれ!!!」である。

2023/08/24 木曜日

ニコラ・ストウの『The Real-Life Murder Clubs』(大和書房)翻訳。連日の作業。このモードに入ると、あとはゴールを目指すだけだから、気持ち的には楽だ。内容は得意な殺人物なので、するすると頭のなかに訳文が出てくる。それを指が追いかける。とても調子がいい。

途中、気分転換にTiktokを見る。最近は、あのちゃんとみりちゃむが好きで、作業の合間に爆笑し、そしてさっと気分を変えて、再び翻訳に戻っている。それにしても、あのちゃんと粗品ペア、みりちゃむと錦鯉の渡辺ペアが最高である。息子たちはゲラゲラ笑ったあとに翻訳に戻る私を見て、「よくそんなややこしいことができるね」と言っていた。

2023/08/25 金曜日

車を運転していたら、首輪をしてないハスキーが国道を猛然と走っているのが見えた。ええええ! と驚いて、慌てて場所を見つけて車を停めて、「おーい!」と呼んだら、普通に尻尾を振って近づいてきて、何度も飛びかかって、じゃれてくる。乗るかなあと思いつつ、車のドアを開けて「乗る?」って聞いたら、あっという間に飛び乗った。国道を走り続けていたら、どこかで轢かれていただろうから(それも高速道路に繋がる国道だったし)、よかったなあと思いつつ、そこから車で5分程度の夫の実家に行き、水を飲ませてみた。まったく警戒する様子なし。

警察にでも連れて行こうと思い、車を走らせていると、面倒見のよい町内会会長を見かけたので、一応聞いてみた。すると、「おお、村井さん、久しぶりやなあ」と言いつつ、この犬はどこかで見たことがあるということで、次は老人会会長を連れてきてくれ、面通し。老人会会長も「見たことあるなぁ」。そこに通りかかった第三の老人が「ゲートボール場の横の家の犬じゃ!」と確定的証言をし、早速現場へ。

玄関先の呼び鈴を数度鳴らすも反応なく、仕方なく車中で犬とともに待機。最終的に飼い主と連絡がつき、無事、人懐っこいハスキーは涙目の飼い主の元に戻った。事件解決である。

こんなことをX(旧ツイッター)に書いたら、見知らぬ人に散々絡まれる。村井、被弾慣れしているが、犬を捕獲しても責められる世の中ってなんなの。Xの空気は淀んでおるな。爽やかな空気が流れるSNSの誕生が待たれる。

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。