ある翻訳家の取り憑かれた日常

第16回

2023/08/26-2023/09/08

2023年9月14日掲載

2023/08/26 土曜日

原田とエイミー

カサブランカのユキから突然呼び出された。

「ちょっと大事な話があるから寄ってよ」と言われ、原田は久しぶりにカサブランカに立ち寄った。エイミーがバックパック一つで原田のマンションにやってきてから数週間が経過しており、原田も、エイミーも、もしかしたらこのままずっと二人で暮らしていけるのでは、二人の未来に問題なんて一つも起きないのではと、根拠もないというのに、ただただ、そう信じ込んでいた。そう信じ込むことだけを心のよりどころにして、まるで誰かから身を隠すように静かに、それでも幸せに暮らしていた。

カサブランカのドアを開けると、そこにはママとユキと、そしてもう一人、女性がいた。原田と目が合うと、ゆっくりと頭を下げたその女性は、面影がどことなく親父さんに似ているような気がした。原田も、なんとなく頭を下げた。頭を下げながら、その女性はきっと、エイミーの母親だと思った。

原田は言葉を探すようにしながら、カウンターのスツールに腰をかけた。原田は混乱していた。突然のことに、何を言っていいのかわからなかった。エイミーの母親も原田と同じように、混乱し、言葉を失っているように見えた。

「カオルちゃん、恵美ちゃんがどこにいるか、知ってるよね?」と、ユキは言った。ママはカウンター奥のキッチンに入ってしまって、出てはこなかった。「わかるでしょ? 恵美ちゃんのお母さん。ずっと恵美ちゃんのこと、捜してた。ここから先はお二人でどうぞ」と言い、ユキは「ちょっと買い物行ってくるね」と言い残して、カサブランカを出て行った。

エイミーの母親としばらくのあいだ話をした原田は、「わかりました」と答え、軽く会釈してカサブランカを出た。エイミーの母親は、原田に深々と頭を下げていた。

地下鉄に乗り、マンションの最寄り駅につくと、原田は駅前のスーパーに立ち寄った。自分用のチューハイと、エイミーが好きなコロッケと、翌日の朝のパンと牛乳を買って、マンションまでの道をゆっくりと歩いて戻った。マンションの前からエイミーの待つ部屋のベランダを見上げてみる。いつものように、明かりが灯っている。きっとエイミーは、映画でも観ながら自分の帰りを待っているはずだ。

原田はゆっくりとマンションのエントランスに入っていき、エレベーターのボタンを押した。原田の顔はすっかり青ざめていた。ようやく1階に到着したエレベーターに乗り込み、6階で下りると、廊下を真っ直ぐ歩いて、エイミーの待つ部屋に戻った。

インターフォンを押した。中から、エイミーの明るい声が聞こえてくる。ドアを開けたエイミーは美しい笑顔を見せながら、「おかえり、カオル」と言い、原田の手からスーパーの袋を受け取り、中身を見て、「ありがとう」と言った。エイミーは、なんとなくぼんやりしている原田の右手を引っ張って、「早くごはんにしようよ」と言った。原田はそんなエイミーの顔を見つめながら、「エイミー、話があるんだ。俺たちのことだよ」と答えた。

2023/08/27 日曜日

東京。

いつも、荷物は最小限にしているが、持って行く機器が多いので、ついつい重くなる。機器と書くと大げさだが、iPad miniとiPhone、ヘッドホン、Apple Watch、それから充電器各種なのだが、これが意外に重いんだよね。しかしこれだけ揃っていれば、新幹線のなかが、最高に楽しい空間になるのだ。

京都から東京なんてあっという間だ。あっという間に行けるし、あっという間に戻ってくることができるのに、毎度疲れてしまうのはどうしてだろう。あの、新幹線の座席が悪いんじゃないかななんて思う。

5年前に心臓手術をして、その後遺症と言える症状がひとつだけある。それは、脚の痛みだ。手術後にほんの数日寝たきりになったことで、筋肉が落ち、その部分が痛むのだ。座るだけではなくて、寝るときも、マットレスに当たる部分が痛む。これが地味に困る。移動は脚の痛みとの戦いだ。それも、いつも左脚の大腿部が痛むのだ。トシか。老人か。本気でつらいのだ、これが。

そんなこんなで、痛い脚を引きずりながらも、B&Bで武田砂鉄さんとイベントだった。砂鉄さんとは初めてのお仕事だったが、とても話しやすい方で、面白かった。さすがの砂鉄さん人気でB&Bは超満員。『射精責任』もめでたく増刷したので、あとは息長く売れてくれればと思う。

2023/08/28 月曜日

帰りの新幹線はひかりで。少し時間はかかるが、新幹線内が空いているので気が楽だ。しかし、左脚が痛い。この痛みをどうにかしたいから、EX予約の早割でグリーン車で移動している(かなり安くなる)。普通車の座席だと、痛くて座っていられないのだ。こんなことをして、もうそろそろ数年になる。筋肉をつければいいという話なのだが、なかなかね……。

人もまばらな夕方の新幹線の車窓からは、明かりの灯ったマンションがたくさん見える。あのなかに、原田とエイミーのマンションがあったりして……なんて思いながら、少し胸が苦しくなる。あるといいな、原田とエイミーのマンション。ベタな幸せだけが詰まったマンションがあったっていいでしょう? だってこんなに厳しい世の中なんだから。

2023/08/29 火曜日

ダウン。疲れて一日中寝る。体力がないというよりも、メンタルだ。なぜ落ちるのか。落ちるというか、摩耗するのだ。これは私だけじゃなくて、多くの人が経験することだと思う(イベントなどに登壇すると)。早く慣れるといいのだけれど。

2023/08/30 水曜日

翻訳原稿に戻る。が、しかし、ダウン。体力ではない。メンタルの摩耗が止まらない。頭の中が混乱して原稿を書いている場合ではない。結局、寝ながら一日中TikTokで動物を見ていた。

2023/08/31 木曜日

子どもたち夏休み最終日。疲れがなかなか抜けずに今日もだらだらとしてしまった。午前中ダウン。

大阪からやってくる食材配達のお兄さんに、村井さんはトークショーをやられているんですかと聞かれた。ぎえっと驚いた。どこで情報が漏れているのかわからんなあと思いつつ、不思議な気分になる。どうも、会社の代表の方が、ハリー本を読んで下さっているようだ。ハリーはとにかく人気なのだ。東京でも、ハリーにたっぷりお土産を頂いた。

2023/09/01 金曜日

ようやく体調が戻り、朝からニコラ・ストウの『The Real-Life Murder Clubs』(大和書房)。スケジュールから相当遅れてしまっているので、大急ぎでの作業になってしまった。大急ぎとはいえ、間違いのないように注意しなくてはいけない。今日から新学期で家のなかが静かになったので、作業がしやすい。

しかし8月はハードな一ヶ月で、家のなかが荒れ放題だ。二日ぐらいかけて、ほこりやゴミの断捨離をしたいものだ。とにかく、本。本ですよ。山ほどあって、もうどうにもこうにも整理できない。ますます、庭に専用の一軒を、小さくてもいいから建てたくなる。

午後、『射精責任』担当編集者藤澤さん、とうとう琵琶湖にハリーに会いにやってきた。

2023/09/02 土曜日

小川たまかさんとイベント in 梅田。

霜降り明星の粗品のネタに「26年間住んだ大阪、変な街やったのう、ハゲタコ!」というのがあって、「梅田、もっと横断歩道を作れ! 行きたいけど行かれへんとこ多過ぎんねん! 横断歩道足りてないねん、あんなもん!」と彼は言うのだが、ほんまにそうやね。会場は梅田だったが、地下街がダンジョン過ぎて、本当によくわからないわ、梅田。何度行ってもわからないよ、梅田! ハゲタコ!

それでもなんとか会場ラテラルに到着して、今日は、なんだかすごくリラックスした感じのイベントだった。驚いたのは、「こちらのお酒、あちらの方からです」みたいなシステムがあり、客席から登壇者にお酒が届くことだ! 小川さんは大のハイボール好きらしく、ぐぐっと一杯飲まれてからとてもいい感じに明るくなられて、それを見ていた本当に優しいお客様が、小川さんにもう一杯を頼んでくれた。そんなこんなで、題材としては「責任ある射精について女三人が語る!」だったわけだが、なんだかすごく、いい感じの雰囲気ではじまり、いい感じで終わったのでした。小川さん、素敵な人だったなあ!

2023/09/03 日曜日

イベント終了でダウン。一日寝たり起きたりを繰り返した。これもうね、イベント熱と呼ぶことにします。

なにか気持ちも落ちつかないので、午後はゆっくりと料理&掃除。iPad miniでミシェル・オバマのドキュメンタリーを観ながらスープを煮る。

今年のじゃがいもは大きい(というか、アイダホのあたりではこれが基本サイズでは?)。なぜ大きいのか理由は忘れたが、確か、酷暑が影響していたと思う。味は普通、いや、すごく美味しいので、スペアリブと香草と塩をぶっ込んだスープにしている。じゃがいもと肉だけだけど、シンプルだし豪快で美味しい。

先日、スタインベックの『ハツカネズミと人間』について『すばる』の連載(湖畔のブッククラブ)に書いたが、労働者が一日中働いた後に食べるスープみたいで、肉&野菜一種&塩のスープが最近のマイブームだ。スタインベックの『ハツカネズミと人間』、一生忘れられない一冊になった。やるせないのである。

2023/09/04 月曜日

夫の父親、つまり義父の通院日。徘徊が始まっている義母を留守番させられないため、二人を連れて総合病院へ。義父がなぜだか高血圧の薬を飲まなくなっており、血圧が高い状態だった。なぜ! なぜ! なぜ! 

それには彼なりの理由があるのだろうが、私には一切理解できなかった。先生も理解できず、とにかく出された薬は飲みましょうということで終了。次は二ヶ月後。なぜ飲まないのか……考えていたらちょっと愉快になってきた。飲まないのに、通院する必要があるのだろうか。ないじゃん。どうなの?

病院の待合室で、何度も立ち上がって歩いてしまう義母。何かを捜して、何かを求めて、彼女はとにかく進んで行く。トイレに行くんですよ、銀行に行くんですよ、なにが悪いんですかと本当に普通の表情で言うものだから、まあ、いいかと歩いてもらっている。建物の外に出たら問題だろうが、病院内を歩き回るぐらい仕方がない。

待合室でママ友にバッタリ。健康診断で貧血でひっかかったらしく、再診だそうだ。や~だ~、お互い気をつけようね~とかなんとか言って、診察室に消える彼女を見送った。こんな会話だけで、すごく嫌だった病院が、楽しい場所になった。ありがとう、ママ友よ。

診察終わり、薬を薬局でピックアップし、義理の両親を家まで送り届け、自宅にもどったら、昼すぎ。体中に広がる、嫌な疲労感。午後は原稿を書かなければならなかったので、朝早く起きてハンバーグを作っておいたのだが、久しぶりに一匹で留守番させたハリーがキッチンをめちゃくちゃにする勢いで飛びついたらしく、全部食べられていた。泣きそうだった。夕食を作り直し、原稿を書き、もう体力もゼロになったところで戻って来た夫が、キッチンを見て、「これだけ汚い状況で平気なのは、精神的に何かおかしい」と言っていた。

おかしいのは私の精神世界ではなく、現実世界のほうです。

2023/09/05 火曜日

夫からすると、自分は会社員で働いているから、義理の両親の通院日などを自宅で作業している私が行くのが当たり前というか、(申し訳ないけれども)それでいいと思っているふしがある。しかし不思議なのは、在宅勤務をしている日であっても、自分は「会社員なので」、きっちりと在宅勤務をする必要があり(つまり9ー17時でびっちり働く必要があるので)、フリーランスの私が仕事を中断して、付き添いに行くのは当然のことだと思っているふしがある。

昔、派遣社員をしているときに、派遣社員のことを頑なに「派遣ちゃん」と呼ぶ正社員の女性がいて、その頑ななプライドが怖かった。「派遣ちゃんは居眠りしないで」とも言っていたが、いや、居眠りは社員でもNGだろう。

私は、会社勤めがまるっきり出来ない人で(集中力がないから)、本当にどうしようもないダメ派遣社員だった。それでも、暮らしていこうと必死だったんだと思う。考えたら辛くなってきた。そしてこの「辛さ」は、多くの人が経験していると思う。出来ないとわかっていても、苦しみながら、なんとか周りと合わせようと奮闘する時期は、誰にでもある。悲しいことにね。

2023/09/06 水曜日

朝からニコラ・ストウの『The Real-Life Murder Clubs』(大和書房)。昨日、担当編集者の鈴木さんに、一部原稿を送ってみた。まだ完成形にはほど遠いが、原書に書いてあることは、ちゃんと訳すことができているはずだ。もう後半にはいってきているので、あともう少し、粘っていこうと思った。仕上げに翻訳に磨きをかけるのが楽しみだ。

ジャングル編集者の内籐さんから、『LAST CALL』(亜紀書房)の初校を、そろそろ戻しますねと連絡があった。わいは忙しいフェーズに入って来ました!!!

『LAST CALL』は少し特殊な一冊だ。NYのクイアだけを狙った連続殺人鬼。ピアノバー、ウイスキー、タバコの煙、そして解体された遺体。残酷なのに、なぜかクール。クールなはずなのに、嫌な汗をかきます。つまり、極上のノンフィクションだ!

2023/09/07 木曜日

やばいやばいやばい。原稿が遅れがちになっている。土日なしで作業だ。

それにしても、連載と翻訳と単発の原稿をやっていると、一年が飛ぶように過ぎていってしまうね。少し仕事を減らすべきかどうか、悩んでいる。悩んでいると書くあたり、本気で減らそうとは思っていないということがわかります。

2023/09/08 金曜日

今日は、大切なミーティングがあった。

日記だというのに詳細を書くことが出来ないのだが、来年もがんばって仕事をするぞという気持ちになった一日であった。

うーむ!! 村井理子、今日も反省なし!

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。