ある翻訳家の取り憑かれた日常

第17回

2023/09/09-2023/09/22

2023年9月28日掲載

2023/09/09 土曜日

故郷にある古い家を取り壊すために、いろいろな手続きをしている。弁護士さんから電話があり、死の直前の兄のことをいろいろ聞かれるんだが、さっぱりわからない(特に財政状況など)。わからないので心の底から申し訳ないと思いつつ、兄の元妻(『兄の終い』に登場する加奈子ちゃん)に連絡を入れて、いろいろ聞いている過程で、兄の残した子どもたちがそれぞれ立派に進学していることを知る。

兄は自分の子どもが一人暮らしをしながら大学で学んでいることを知ったら、どう思っただろう。高校を中退したために、苦労し続けた兄は、きっと、泣いて喜んだに違いない。
兄だけではない。母も、父も、きっと。私? もちろん、泣いたわ。

弁護士さんからすると、なぜ私が実の兄のことを知らないのか不思議そうなので、兄とは疎遠だった時期もあり、また突然亡くなったので、よくわからないんですよ、ええ、そうなんですよ。ハイ、その通り、東北で。突然死です、ええ。久しぶりに会ったのが斎場でした、ハイ……。
住んでいたアパートは私が片づけましたよ、元奥さんと一緒にね。ハハハ、珍しいでしょう? ええ、そういうことです、ハイハイ……こんな会話を展開している。弁護士さんなので、何を言ってもぜーんぜん驚かないし、むしろ楽しそうなのが面白い。

2023/09/10 日曜日

ニコラ・ストウの『The Real-Life Murder Clubs』(大和書房)。
とにかく朝から晩までノンストップで訳している。専門用語が次々出てくるので楽しくてしかたないのだが、同時に刑事物のコミックを読みたくなってしまい(あるいは刑事ドラマでもいい)、作業の合間にチラチラと見ている。

刑事物を眺めつつ、ふと出来心で『ザ・ファブル The second contact』に手を出す。面白くてたまらず、何度も読む。ザ・ファブルの何が面白いかって、帯に書かれた文言が面白い。あれでまず、笑ってしまう。そして内容で爆笑してしまう。書店で見つけたら是非チェックしてみてほしい(私はコミックは紙で買う。いつか子どもたちも読めるように)。

忙しいときに限って他のことをしたくなり、ザ・ファブルから、今度は『九条の大罪』を読み返してしまった。明日あたり、『外道の歌』でも読もうかしらんとウキウキしている(こちらは電子で持っています。内容が大変厳しいので)。『少年院ウシジマくん』も最高だ。

2023/09/11 月曜日

果てしなく続く翻訳作業。早朝から原稿を書いている。朝から晩までずーっと訳しているのは久しぶり。そろそろ『LAST CALL』(亜紀書房)の初校が戻るので、気を引き締めてやらないといかん! と思いつつ、頭のなかが喧しくて眠れないこともあって、訳している途中に頭が真っ白になる瞬間が増えた。フリーズだ。本当に、真っ白になってしまう。両手も、がちっと固まったように動かなくなる。

少し休憩してパズルゲームをやりつつ、作業を続ける。翻訳の合間にパズルゲームをやるのが正解かどうかはわからない。余計ややこしいと思うのだが、不思議と心が安定する。

2023/09/12 火曜日

月刊誌『すばる』締め切り。すらすらと上手に書ける日と、全然書けない日がある。今日は、全然書けない日だった。困る。

2023/09/13 水曜日

ニコラ・ストウの『The Real-Life Murder Clubs』(大和書房)をものすごい勢いで仕上げている。インタビュー形式の一冊なので、訳しやすいかと思いきや、とにかく情報量がたっぷりなのでコツコツと進んでいる。

この本の素晴らしいところは、文中に出てくる事件やその概要がドキュメンタリー化されており、今でも視聴可能なところ。新しい楽しみ方だ。これもノンフィクションの醍醐味ではないだろうか。ノンフィクションはつまらないと思われがちなのだけれど、ノンフィクションほど、心の奥のほうにある恐怖を引っ張り出されるジャンルもない。まさに、そこには深い沼があるのだ。

連日翻訳する一方で、書評のご依頼を頂き、めちゃくちゃ難しい本を読んでいる。日本語で読むのも難しいが、これを英語から日本語に訳した翻訳家さんのご苦労をひしひしと感じながら読む。『性差別の医学史 医療はいかに女性たちを見捨ててきたか』(双葉社)は、いままで病院とは切っても切れない関係で生きてきた私にとって、サバイブしてきたこれまでの道のりを振り返り、自分が感じていたより平坦なものではなかったのかもしれないと思わせてくれる一冊だった。読みながらヒリヒリした。昔の病院は、ある意味、恐ろしい場所だったと思う。

2023/09/14 木曜日

毎月10日前後に送ることになっている、新潮社Webマガジン『考える人』の原稿が遅れてしまっている(連載開始2016年からずっとこのスケジュール)。

とにかく、8月以降、最高に忙しい。イベントで東京に行くのは楽しいのだけれど、その分、作業は遅れがちになる。ここ数年は、東京でイベントをこなして、通常は自宅で翻訳というのが私のワークスタイルになりつつあり、それは数年前だったら想像もつかなかったことなので、とてもうれしい。この年齢になっても、いくらでも人生は動く。億万長者になったら東京にマンションを買おう、そうしよう。

『考える人』担当編集者の白川さんとは、もう長いお付き合いになる。彼女はハチャメチャに面白い人だ。原稿が遅れながらもツイート(正確にはXeetだったかしら)をしていると、「お待ちしております」とLINEが入る。爆笑してしまうが、すぐに「すいません! 急ぎます!」と返す。そうやって明るく督促してもらうと、ちょっと滞っている原稿がすいっと書けたりするので、不思議よね~(反省してますごめんなさい)。

2023/09/15 金曜日

様々な原稿が遅れているので、焦りに焦っていて、夢の中でも一生懸命原稿を書いて、ぐったり疲れて起きたが一文字も覚えていない。わずかに記憶しているのは、書いたときに抱いた感情で、それをなんとか頼りにしながら、起きてから書いてはみるが、そんなもので原稿が書けるほど、この世界は甘くないのであった。

最近とても忙しく、いつもの「頭のなかが喧しい」状態がスタートしてしばらく経過している。あたまのなかのガチャガチャが止まらないのだ。目をつぶっても、次から次へと文字が流れ、情景が流れ、寝るどころではない。こういうときに仕事は捗るのだが、眠ることが出来なくなるのが困る。もちろん、眠剤は処方してもらっているが、この状態では効かない。効果の頭打ちである。こうなると、眠剤に頼るというよりは、日中にできるだけ体を動かしたほうがいいので、最近は昼間に外で活動するようになった。活動って言っても、涼しいショッピングモールのなかで歩いているだけだけどね! でも、そういう時間に物語が湧いてくることは多々ある。昼間のショッピングモールにいる人たちを観察しているだけで、原稿一本ぐらいは書けるのではないかという気分になる。

2023/09/16 土曜日

ちょっとした用事があって料理屋へ。とても久しぶりな気がした。しかし、ああいう店に家族と行くのは退屈というか(ごめんやで)、なんというか、やっぱり女友達(悪友)と行きたいよ。

暗い目をして世の中に文句を言いながら、ハイボール(濃いめ)をジョッキで飲みたい。チッ! と、舌打ちしながら窓の外を眺めたい。腕組んで、足組んで、タバコ吸って天井に向かってぶわっと煙を吐き出したい。あ~、うめぇ、久々のハイボールはうめえなあ。これだから女友達と酒はいい! と、心から思う瞬間が懐かしい。20年ぐらい前は普通にやっていた。

秋の訪れとともに、自分のなかに老婆の訪れも感じている。

2023/09/17 日曜日

子どもたちの記憶に残ると思われる、この今の時期に、私は料理への熱意をすっかり失ったと何度か書いた。熱意は戻ってきたり、再び引っ込んだり、押しては返す波のように不安定だ。

一番モリモリ食べる(実際に食べている)17歳という、生涯でも貴重なこの時期に、私はすっかり作ることを放棄した。息子たちは、べつにそれに不満を抱くでもなく、コンビニに行ってからあげクンを買ったりしている。辛いわと思いつつ、私のなかの何かのスイッチがオフ状態で苦しい。

彼らが幼いときに必死に作っていたのに、その記憶は彼らに残ってはおらず、今はすっかり『あんまり作らない母さん』になってしまったのは皮肉だなと思う。子育てはこんな時差の積み重ねのような気がする。そんなこと気にもならないさと、子どもたちは言うだろう。言うに違いない。そんな子たちなのだ。

2023/09/18 月曜日

ケアマネさんから、義母が除光液を顔に塗っているようだという連絡があった。WTFである。

「え、除光液ですか!?」と驚くと、「ええ、今日、ヘルパーが目撃したようです。だから、数か月前にお顔が腫れ上がったのも、あれはもしかしたら、除光液だったのではないかと思うんです」と言う、ケアマネさん。間違いない、と思った。誤飲・誤食には気をつけて下さいと主治医からは言われていたが、とうとう、そういう段階に来てしまったのかと思い、困ったなあ……という気持ち。

義母の変化を憂う気持ちと、私もきっと認知症になって、誤飲・誤食どころか、手がつけられないほど大暴れするんだろうな……という、予感めいた気持ちがごちゃ混ぜになる。

真鍋昌平さんの『九条の大罪』を読んでいると、特養選びも大変だぜ……という気持ちになるし、わいも手足を拘束される未来が来るのかなんて、思ってしまう。怖い。

2023/09/19 火曜日

DNAに関する記載内容(英語)が理解できず、散々悩んで、図書館に行って本を一冊読んでもわからない。ううううむ、わからない。今日一日悩むことになりそうだ。

2023/09/20 水曜日

ひたすらに、ただひたすらに翻訳。夜、眠れないことはないのだが、副作用で夢を山ほど見るようになった。

2023/09/21 木曜日

通院日。いつものメンタルクリニック。

「さて、最近はどうですか?」
「調子はいいですよ」
「眠れてますか?」
「ハイ! 先生が処方してくださっている例の眠剤(デエビゴ)、すごく効くし、目覚める瞬間までずっと夢を見るんですよ。それも超大作」
「それはまあ、副作用なんですが、しかし、どういう夢ですか?」
「この前は夢のなかで突然、『サヨナラは八月のララバイ』って古~い曲の歌詞を全部思い出して『これは男性が、なんだかんだと勝手なことを言いつつ女性を捨てる曲』だと判明した……という内容を、文章にまとめている夢を見ました。朝まで書きっぱなしです」
「ふーん……あなたきっと、創作の才能がありますよ。物語が書けるかもしれない」
「そうでしょうか……」

2023/09/22 金曜日

原田とエイミー

「エイミー、話があるんだ。俺たちのことだよ」 エイミーの顔から徐々に笑顔が消えて行った。

「今日、君のお母さんに会ったよ。来月、手術があるそうだね。君に、そばにいて欲しいと言っていた。君をずっと捜していたらしい」

エイミーは青ざめた顔で原田を見て、そしてこう答えた。「お爺ちゃんが大好きだった私をアメリカまで突然連れて行ったのもあの人だし、お爺ちゃんに会いに来ていた私を無理矢理アメリカまで戻したのもあの人。原田さんに頼んで、こうやって私をまた連れて帰ろうとしているのもあの人。あの人はいつも勝手なことばかりやるの」 

「親なんて勝手な生きものだよ、エイミー。俺の親だってそうだ。……エイミー、よく考えるんだ。今回帰ったからって、二度と戻れないわけじゃない。アメリカの生活を整理して、また来ればいい。俺はしばらく仕事を辞めないし、ここに相変わらず住んでいるはずだよ。カサブランカだってずっと営業してるだろうし、ユキだってあのまま変わらずお節介なことをやってるさ。今、君の全てはアメリカにある。ここには俺と、それからこのマンションの部屋しかない。そんな狭い世界で、いつまで生きていくつもりだ? 一度区切りをつけるためにも、アメリカに戻ったほうがいい。君のチケットはもう取ってあるそうだ。明日の夜のフライトらしい」

エイミーはそこまで聞くと、じっと原田の目を見つめた。エイミーの両目に涙がたまっていくのが、原田には辛かった。

「原田さんは、私が帰ったほうがいいいと思っているってこと?」と、エイミーは聞いた。原田はその質問には答えなかった。原田はこの先もずっとエイミーと暮らしたいと思っていたからだ。しかしそうとは言えなかった。

「俺は明日、いつも通り仕事に行くよ。アメリカに戻ろうと決めたら、合鍵はポストに入れておいてくれ。もしこのまま残るというなら、それでもいい。その時はまた二人で考えればいいさ。俺は君が決めたことなら応援するから」

***

エイミーと原田は、夜中過ぎになってようやく眠りにつこうとしていた。暗闇のなかでエイミーが原田に聞いた。

「しあわせよね、私たち?」
少し考えた原田は、はっきりと、「もちろんだよ」と答えた。

翌朝、玄関まで原田を見送ったエイミーは、原田にこう聞いた。

「私、邪魔ではなかったでしょ?」 

原田は、「邪魔なわけないだろ」と答え、職場に向かった。エイミーは笑顔で手を振り、原田を送り出した。

***

退勤した原田は大急ぎで自宅マンションへと向かっていた。もしかしたらエイミーは、そのままマンションにいるのかもしれない。母親と帰国せず、自分の帰りを待っているかもしれない。そうだとしたら、このままエイミーと暮らし続ければいい。我慢できなくなり、メッセージを送りそうになったが、彼女の決心が揺らぐことがないように、送るのはやめた。

それに、彼女に何を聞くと言うのだ。まだ部屋にいる? それとも空港? そんなこと聞いたところで、どうにもならない。そんなみっともないまね、できないだろと、原田は自分自身に言い聞かせていた。

最寄り駅のホームに着き、原田は階段を駆け上がった。マンションまでの道を、力の限り走った。マンションの目の前に到着すると、肩で息をしながら、恐る恐る、自分の部屋のベランダを見上げてみた。

明かりはついていなかった。

原田は大きく息を吐いて、ゆっくりとマンションのエントランスに入って行った。ポストを開けると、そこにはエイミーに預けていた合鍵が入っていた。左手でそれを取ると、重い足取りでエレベーターへと向かった。マンションの部屋のドアを開けると、中は暗かったが、つい先ほどまで彼女がそこにいたのは確かだった。部屋の明かりを点け、どさりと荷物を床に置き、上着を脱いでダイニングの椅子に放り投げた。

部屋はきれいに片づいていた。エイミーの荷物はなくなっていた。冷蔵庫を開けると、そこには原田のお気に入りのチューハイが並んでいた。エイミーが買い置きしてくれたのだろう。原田はそれを一本手に取ると、ベランダに行き、マンション前の通りを眺めた。もしかしたらバックパックを背負ったエイミーが歩いているかもしれない。原田はチューハイ缶のプルトップを開け、勢いよく飲んだ。

***

泥酔してワイシャツ姿のままソファで眠ってしまった原田が目覚めたのは、夜中のことだった。頭痛に耐えながら、テーブルの上のケータイをチェックすると、エイミーからメッセージが届いていた。原田はそれを何度も読み返すと、ケータイを放り投げて再びソファに仰向けになり、天井を見つめた。両目から涙が勝手に流れてくる。

原田は、「失恋ってこんなに辛かったけな」と考えながら、暗い部屋でいつまでも天井を見つめていた。

(終わり)

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。