ある翻訳家の取り憑かれた日常

第19回

2023/10/07-2023/10/20

2023年10月26日掲載

2023/10/07 土曜日

泣きそうになるぐらい翻訳ばかりの日々。訳しても訳しても、終わりが見えない……。終わりは見えないが、どんなに長い本でも、コツコツやれば、絶対に終わりは来る。それだけを信じて作業をする。

今日も朝から晩まで、『The Real-Life Murder Clubs』(大和書房)と『LAST CALL』(亜紀書房)にかかりきりだった。二冊とも年内に出版だ。それにしてもギリギリの攻防だな~。

今年はとても忙しかったが、その最後の月に殺人系ノンフィクションが二冊出版されるとは! 今年はよく働いたと言ってもいいのではないだろうか。えらかったよ、私。来年はもう少しゆっくりしたいなあ(希望)。しかし、最後の仕上げの作業はまだ残っている。気を抜かずに最後まで作業すること。最後が一番大事なのだ。

2023/10/08 日曜日

延々と翻訳原稿の見直し。半泣きで作業。
翻訳家になるにはどうしたらいいかとはよく聞かれる質問だが、外国語の習得というよりも、日本語を大量に書ける(処理できる)かどうか、そこが重要なんじゃないかと思いはじめている。かなりの文字数なので、まずはそれを実際にタイプ可能かという根本的な体力を試されるような気がしている(特に、ノンフィクションは)。

30万字にも折れない手首。
500ページにも負けない肩。
締め切りを死守する根性(私はこの点ちょっと怪しい)。

翻訳とは、まさに重労働なのだ。

私はタイピングが早いほうだとは思うし、嫌いな作業ではないけれど、それでも長時間打ち続けるこの仕事、いつまで続けることができるのやら。翻訳って聞くとかっこいいイメージがあるかもしれないけど、実際は泥臭い仕事だ。

エッセイだって同じだ。さらっと書けばいいと勘違いされがちなエッセイだが、そんなにさらっと書けるわけがないではないか!!(さらっと書けていいなと言われると、いちいち怒る私) 全然さらっとしてないのよ。どんな文章も「さらっと」は出てこないわけ。なにやら、濃厚な感情とか、薄汚い思惑とか、そういうものが渦巻いていて、それをぎゅっとまとめて、多くを削って、ようやく形になる。もちろん、私の場合の話だけれど。

突然頭が真っ白になって、書けなくなる日がやってくるのかもしれないという恐怖との戦いの日々だ。そうしたらどうするのか。Netflixでも見て、一日中ゴロゴロすればいいのでは?(願望です)

2023/10/09 月曜日

自宅勤務のくせに、新しい一週間のはじまりが憂鬱だ。なぜだかわからない。Rainy days and Mondays always get me downという歌詞があるが、まさにそれ。ただし、私は雨の日は調子がいい。雨の日は作業が進む。雨の日は「無理して外に出なくてもいい」と思えるだけで、少し幸せな気分になる。

庭の草刈りは結局出来ないまま、気温が下がり、青々としていた雑草が少し枯れてきた。一気に作業をしてしまえばいいのだが、どうにもやる気が出ない。山を見たら、ところどころ紅葉していた。雪で真っ白になるまであと一ヶ月ぐらいだろうか。

夕方に、母友というかママ友が、自分の田んぼの新米を持ってきてくれた。毎年こうやって持ってきてくれる。さりげない優しさだ。

2023/10/10 火曜日

そろそろ東京でのイベントの支度をしなくてはいけないなと思いつつ、なかなか作業がすすまない。ギリギリまで翻訳作業があるからだ。下手をすると新幹線の中まで持ち込まないと間に合わないかもしれないけれど、それだけは避けたい。必死になって原稿と格闘している。

2023/10/11 水曜日

美容院。伸びていた髪を切る。私の担当を長らくしてくれている若い美容師さん、ずっと誰かに似ていると思っていたのだが、ようやくわかった。エルフの荒川ちゃんだ。メイクも荒川ちゃんぐらいバッチリしている美容師さん、明るくて大好き。最近わかってきたけれど、私はギャルが好きだ。

息子さんが小学校高学年になり、ちょっと反抗期がはじまって大変らしい。ああ、そういう時期もあるよねと、少し遠い目になった。子どもの反抗期、地獄だよね。わかるわかる。

2023/10/12 木曜日

昔であれば、東京に行くのも一大事だったのだけれど、最近は「東京行ってくるわ」と言えば、息子たちからは「ウス」みたいな返事が返って来て、それだけで成立するようになった。息子たちはそれぞれ、自分の食事ぐらいは用意できるし、おこづかいさえ与えていれば、コンビニに行って弁当を買ってきたり、近くの焼肉屋で焼肉食べたり、勝手にそうしてくれる年齢になった。母親が何をやっているかなんて興味はないが、東京に行けることはうらやましいと思っているみたいだ。お母さんはね、仕事をしているんですよ、これでも! 遊びじゃないんですから! というオーラを出しながら東京に向かっている。

しかし先日次男が、「俺は都会の放つ光の強さに負けると思う」と、私が19のときに考えたようなことを言ったので驚いた。私が東京への進学を目指さなかった理由は、ダイアパレス(ダイア建設)のCMだった。スーツを着た男性たちが立ち並ぶ摩天楼の中心でバスケをしているCMで、バックグラウンドには『東京砂漠』が流れていた。あれを見て、「無理! ついていけない!!」と思ったのだ。

今考えると、本当にどうでもいい理由なのだが、私の勘はあながち外れてはいなかったと思う。いや、思いたい。京都では成立した生活だったが、あれが東京で成立したとは到底思えない。

2023/10/13 金曜日

大イベントの日。
東京に行く新幹線のなかでNetflixの『トークサバイバー』を観ていたのだが、面白くて吹きだしてしまうため、ハンカチで顔を隠しながら観ていた。まるで変態ではないか。あっという間に東京到着。そこから集英社に向かい(いつ行ってもすごいビルだね)、取材2、対談1、夜に酒井順子さんとのイベントがあった。酒井さんにお会いできるとは夢にも思っていなかった。20年ぐらい前に、暗い目をしながら密かに文章を書いていた私に伝えてあげたい。あなたは将来、酒井順子さんに会えると。

2023/10/14 土曜日

体力ゼロで死にそうに。帰りの新幹線のなかでも『トークサバイバー』を観ていたのだが、爆笑していたら、通路挟んで横の中国人観光客に「何を見てるの? そんなに面白いの?」と聞かれてしまった。うん、 Netflixなんだけど、日本のトークショーで、面白いんですよ、ずっと笑っててごめんと答えたら、いいよいいよ! 笑うのはいいことだよ! もっと笑って! と、なぜだか応援される。そして、私のiPad miniを指して、「君もminiが好き?」と聞いた男性は、自分のminiを私に見せてくれた。黄色いカバーつき。

「いろいろ買ったけど、私はminiが今のところは好きかな。移動には最高です。でも最近、proのでっかいのも欲しくなってます」と言ったら、ワハハハと笑って、僕もいっしょだよと言っていた。京都駅で降りたファミリーに、京都を楽しんでと声をかけて別れた。

2023/10/15 

東京から戻って二日目。あまりにも多くのことがあって、感情的にも体力的にも限界に達して寝ていた。

なかなか疲れが抜けない。ドラマをテレビで流しながら、ゆっくりと部屋を片づけた。いや~、今回の東京滞在はすごいことがたくさんあったなあ!

2023/10/16 月曜日

SKさん、逝去の報せ。私が派遣社員をしていたとき、とても優しくしてくれた数少ない大人の一人。結婚してから一度も会っていないにもかかわらず、顔は鮮明に浮かんで来る。痛みや苦しみのない世界の住人となり、今は楽になっただろうか。大好きなサッカーを天国でも続けて下さい。

しかし、自分でも驚くほどのダメージだ。彼が亡くなることがこんなに悲しいとは、思ってもみなかった。SKさん、悲しいよ。若すぎるじゃないか。

2023/10/17 火曜日

朝から寒気。風邪引いたのかもしれない……などと思いつつ、原稿を書く。次の訳本の読み込みを進めた。途中で、訳文も同時に進行させようと思いつき、結局、次の一冊の作業も先に進めることにした。予定からはずいぶん遅れている。急がなくちゃ……。

2023/10/18 水曜日

高校生たちが近所の体育館で剣道の練習をしていた。夜だったので迎えに行き、息子たちの同級生も乗せてそのままファミレスへ。

最近のファミレスはロボットが料理を運んでくる。次男は猫のロボットが運んで来たステーキの鉄板をドン!と勢いよくテーブルに「縦」に置き、そしておもむろに食べはじめた。縦、である。普通、横でしょ。

それを見た同級生のS君が「おい、ちゃんと鉄板を横にして、きちんと食べろよ。そんな姿を見られたら、彼女に幻滅されるぞ」と言った。次男は「彼女の前ではこんなことせえへんよ」と答えた。するとS君は、「こういうことって、意識していないところで出てしまうもんやで」と大人の回答をしていた。S君の向かい側に座っていたA君は「フフフ」と笑っていた。

S君、次男に注意してくれてありがとうと考えながら、私は何も言わなかった。長男は、猫のロボットが運んで来たチーズハンバーグを丁寧にテーブルに置くと、静かに食べていた。私はA君とサラダについて語り合った。A君曰く、「サラダの中にフルーツが混ざるのは、きついっす」ということだった。

2023/10/19 木曜日

ケアマネさんから連絡があり、義父が入院を言い渡されたらしいと聞いた。足が動かないので整形外科に行くと、「このまま入院です!」と告げられたそうだ。「入院だけは嫌だ」と断ったと義父がヘルパーさんに伝え、「誰にも言わないでくれ」と付け加えたらしい。しかしヘルパーさんは機転を利かせてケアマネに報告、そして私のところに電話が来たというわけ。というのも、ヘルパーさんもケアマネさんも、義父が脳梗塞で倒れたことがあると知っている。脳梗塞で倒れたことがある人の言う「足が動かない」は、それなりの衝撃がある。

寝耳に水だったが、とりあえず急いで夫の実家に行くと、義母はデイサービス、義父はパジャマ姿で寝ていた。結局のところ、たいしたことはない話で、数日前に転んでそこが内出血して痛いということだった。入院の必要があったかどうかは、本当のところはわからない。本人曰く、ちょっとした怪我だということだった。「あんたらには言わないでくれと頼んだのに」と義父は言っていたが、それならそもそもヘルパーさんにしゃべるなと思うのだが、それは冷たいのだろうか。そんな思わせぶりなことを言ったら報告されるのわかるじゃん? と、はっきりと口に出して言いたいのだが、ぐっと我慢した。

こんなことが多いのだ、最近は。

2023/10/20 金曜日

今年はカメムシが大発生しているとニュースになっているが、確かに大発生している。次男がアルバイトしているコンビニの窓にも、夜になると緑色のカメムシがびっしりくっつくようになった。そのびっしりくっついた大量のカメムシを集めて、どこか別の場所に放すのが次男の仕事のひとつらしい。

「どうせまた戻ってくるんじゃないの?」と聞いたら、「せやな」と言っていた。いろいろなことを経験して、大人になっていくんだなあと思った。カメムシ、一旦集められて、再び野に放たれて、またコンビニのガラスに戻って、カメムシたちも「人間は僕らに何をやらせるんや?」と思っているのではないだろうか。

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。