ある翻訳家の取り憑かれた日常

第21回

2023/11/04-2023/11/17

2023年11月23日掲載

2023/11/04 土曜日

翻訳、翻訳、翻訳……
今年最後の一冊、『The Other End of The Leash』(慶應義塾大学出版会)だ。この一冊を今月中に終わらせれば、私は12月をそう焦ることなく迎えることができるはずなのだ。12月は『ラストコールの殺人鬼 (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズⅣ)』(亜紀書房)と、『未解決殺人クラブーー市民探偵たちの執念と正義の実録集』(大和書房)の出版が控えている。ぬおおお、今年はたくさん訳したなあ! いやしかし、もう一冊預かっている本があるので、12月は、そちらをゆるりとスタートさせながらの一ヶ月になる。大掃除もしたい。家の補修もしたい。壁も塗りたい。やりたいことがたくさんある。

2023/11/05 日曜日

翻訳。朝から晩まで翻訳。洗濯物が相当溜まっている。庭の草は生えまくっている。玄関には段ボールが山積みだ。まとめ買いした野菜ジュースが転がっている。新米が山ほど届いているが、精米していないので、精米に行かねばならない。靴が四方八方に脱ぎ散らかされており、その上でハリーが寝ている。自転車が庭に乱雑に置かれていて、処分していないペットボトルが入ったビニール袋が4つほどある。もちろん、缶もある。送られてくる本が玄関に置かれたままだ。もう限界かもしれない。

2023/11/06 月曜日

編集者の伊皿子りり子さんと、デスク周辺の環境について話をしていた。翻訳者は各自、独特な環境を作り上げていることは知っているのだが、井口耕二さんのキーボード配列も独特で、さすが大作を次々と手がけられる井口さんだなと感心。私の場合、作業が押してくると、なりふり構わぬデスク配置になるので、とてもじゃないがお見せできる代物ではないのだが、とにかく、翻訳作業とは、時間との闘い、自分との闘い、文字数との闘いなのだ!!

2023/11/07 火曜日

親友のロドリゲスがブログで、「勝手に転がり込んできた男を家から追い出すのは大変。体重に似てる」と書いていた。その通りだと思って感心した。

2023/11/08 水曜日

『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』(きこ書房)が来年、新潮社から文庫として出版されることになり、担当編集者の菊池さんからゲラが届く。久々に読んだけれど、とてもいいなと思った。2017年出版なので、ところどころに表現の古さは残っているものの、初めて原書を読んだときの感動が甦ってきた。料理が苦手な女性だけを集め、著者であるキャスリーン・フリンが料理教室を開いた様子が描かれている一冊なのだが、キャスリーンが教えたのは料理だけではなかった。彼女は生徒たちに、一番ケアしなくてはいけないのは自分なんだよと、丁寧に伝え、そして彼女らを勇気づけたのだ。

私たちは手を差し伸べ合うことができる。そう思わせてくれた。私たち、もっと協力して、仲良くして、楽しく生きるべきじゃない? そう考えてくれた人が多かったはずだ。

出版後のイベントには、予想を超える読者のみなさんが集まってくれた。それも、とても熱のあるイベントで、日々、女性が抱えている料理へのプレッシャーについて考えさせられた。ヤクザ専門ライターの鈴木智彦さんが、会場で丁寧に出汁を引いてくれたことを思い出して、なんだか懐かしくなってしまった。キャスリーンが来日してくれたときは、本当に楽しかった。あんなに人懐っこく、優しい著者には今まで出会ったことがない。

映像化しやすい作品だと思うので、Netflixさんが気づいてくれるのを待っている。

2023/11/09 木曜日

ここのところしばらく、『The Other End of The Leash』を訳している。これは動物行動学者のパトリシア・マコーネルによる一冊なのだが、大変面白い。犬のしつけの本はあまり読んだことがなく、訳したことなんてもちろんないのだが、「なるほど」と思うことが、次々と書かれている。

パトリシアは、私の憧れの生活を送っている。ウィスコンシン州にある広大な農場で、牛や羊、猫、そして数頭の犬と暮らしているのだ。私が夜な夜な見ているTikTokのアカウントは、パトリシアのような農場主がその暮らしを紹介しており、思わず、「こんな生活もいいな」と思ってしまうのだが、厳しいに決まっているので、あっという間に諦めて、ハリーを触って満足している。半分、牛のようなものだからな。

2023/11/10 金曜日

『The Other End of The Leash』(慶應義塾大学出版会)。朝から晩まで訳している。文字数が多めというわけではない……と思っていたが、ところがどっこい、結構な文字数だなと気づき始めた。気づき始めたが考えないようにしている。絶対に今月中に勝負をつけなければならない。

2023/11/11 土曜日

『The Other End of The Leash』。土曜なので、家のなかに家族全員がいる。それぞれ一万円ずつ渡してもいいので、私に話しかけないでほしいと考えながら、リビングに置いてあるパソコンでせっせと翻訳をしていたのだが、男三人が私の真横で格闘技を見はじめた。それも、延々と語るぞ、うちの男たちは!!! 

うるさくて作業どころじゃないわと思って、iPad片手に自室に籠もり、出来上がった原稿の推敲を始めた。普段だと、とりあえず最後まで訳してしまってから推敲をするのだが、訳しながら平行して推敲していくのも悪くないなと思った。単語の統一など、早めの段階でできていると作業がしやすくなるのもそうなので、家族がうるさいときは推敲をすればいいのだな。

2023/11/12 日曜日

『The Other End of The Leash』、鋭意作業中。夜はお好み焼きがいいとか言い出した男がいて、お好み焼きぐらい自分で作れよと凶暴な気持ちになる。というか、食べに行けばいいんじゃない? 関西だから、そこらへんにお好み焼きの店があるでしょ? と、言いそうになったのだが、大変不思議なことに、滋賀県内には、あまり美味しいお好み焼き屋がないように思える。ママ友に聞いても、「お好み焼き? さあねえ」といった感じだ。

結局、作業を中断して、買い物に行き、お好み焼きの準備をしようと台所に立ったが、焦って買い物に行っているために買い忘れが多く、それを悟った瞬間に、両目の奥からじわじわと涙が出てきた。私は翻訳がしたいだけなのに、なぜお好み焼きを作らなくてはならないのか。男たち、しっかりしてくれ。牛丼でええやろ。

2023/11/13 月曜日

山に雪が積もった。

朝、デイサービスの責任者の方から電話があり、義父が義母のデイサービスを休ませたことを知る。「お休みでもいいでしょうか」と確認してくれるのだが、これは答えるのが難しい。本人たちの気持ちになれば、休むぐらい勝手にさせてくれと思うだろうし、デイサービスさん側からしたら、認知症が相当進んだ義母が義父と二人で暗い家のなかで、何もせず過ごすことは心配だろうし(実際に、二人の生活は、寝るかごはんを食べるかしかないのだ)。

『The Other End of The Leash』の作業が死ぬほど気になりながら、義父に連絡を入れてみた。休ませた理由は「目医者(眼科)に行くから」ということだった。義父が、眼科に行くから、義母のデイサービスを休ませたということなのだ。意味がわからないのはそうなのだが、正しさを求める時期は過ぎたと思っているので、「そうなんですね」と答えておいた。

「それで目医者さんはどうだったんですか?」と聞くと、「目医者は休みやった」との答え。どのあたりから、どうつっこめばいいのか。それすら考えることを放棄して、私は翻訳に戻りたいと思った。

2023/11/14 火曜日

文芸誌『すばる』連載中の「湖畔のブッククラブ」の締め切りが今日なのだが、難しい本を選んでしまったために苦戦。その本とは、動物行動学者フランス・ドゥ・ヴァールの『ママ、最後の抱擁』、そして『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』だ。読めば大変面白いのだが、その内容について書くのは、まったく別なことで、一日中、何度か読み返しては、なんとか下書きを完成させた。疲労感。

明日、仕上げをして送ろうと思うが、一日遅れてしまった。いつも申し訳ありません。

なぜフランス・ドゥ・ヴァールに辿りついたかというと、『The Other End of The Leash』の参考文献にドゥ・ヴァールをはじめとする動物行動学者らの著作がずらっと出てきており、ついつい購入してしまうからなのだ。一旦買い始めると、すべて買おう、よし! という気合いが入ってしまうのをどうにかしたい。

2023/11/15 水曜日

先日、新潮社の金さんと白川さんと京都で打ち合わせしたときに、白川さんから預かったゲラを読む。一月発売の『異常殺人―科学捜査官が追いつめたシリアルキラーたち』(新潮社)で、著者はなんとポール・ホールズだ。「なんと」と書かれても、「誰?」という人がほとんどだとは思うが、彼はアメリカの犯罪ノンフィクション好きの間では知られた人物だろう。というか、半分、アイドル的存在なのでは? 犯罪捜査関連テレビ番組も持っているし、インスタアカウントでは、元警察官というよりは俳優のような存在感でイケメン光線を放っているように思える。

彼が有名になったきっかけは、なんと言っても黄金州の殺人鬼逮捕だろう。海外ノンフィクションファンの人であればきっと知っている市民探偵、ミシェル・マクナマラの朋友でもある。そんな彼がようやく書いた一冊だということで、楽しみにして読んだが、やはり犯罪捜査は面白いなと思った。

2023/11/16 木曜日

『それでも母親になるべきですか』ペギー・オドネル・へフィントン著、鹿田昌美訳(新潮社)が届く。表紙の女性のイラストに鹿の角が生えていて、鹿田さんリスペクトなのだろうかとふと思った(この日記担当編集者の大和書房・鈴木さんは、「サボテンではないでしょうか」と書いて下さっていた。確かにサボテンかもしれない)。内容的には大変骨太で、鹿田さん翻訳の『母親になって後悔してる』を思い出さずにはいられない内容である。それにしても、だ。鹿田さんの訳はいつも端正で、読みやすい。

そしてもう一冊、『シニカケ日記』花房観音(幻冬舎)が届く。
体調が悪いと思いながらも、「更年期にちがいない」と受診を先延ばしにしてしまった花房さんが突然倒れたのは、2022年5月半ばのこと。呼吸ができなくなり、倒れ込んだバス停から救急車で運ばれた病院で、即、ICUへ。花房さんは、心不全を起こしていたのだ。

実は入院して数日経過した花房さんからメールを頂いた。ちなみに、私と花房さんはそのとき一切、面識がなかった。その経緯は『シニカケ日記』に綴られている。私はとにかく驚いた! 

え、花房さんから!? あの花房観音さんから? それも、入院中!? 

もちろん、花房さんの作品はよく知っているし、花房さんの夫でライターの吉村智樹さんには、『全員悪人』について素晴らしい書評を書いて頂いたこともあるのだ。どきどきしながらも花房さんからのメールを数回読み、すぐに返事を書きはじめた。書きはじめたものの……。めちゃくちゃ悩んだ。

どう書いたら今の花房さんにエールを送ることができるだろう。ICUへの入院は私にも経験がある。あんなもの、できるならやりたくない。あっちの世界に行きかけて、戻って来た人間だけが知る恐怖も、私にはよくわかる。

こういう時、自分の経験なんて書く必要はない(みんな、忘れないで)。私のときはこうでしたとか、私の父はとか、母はとか、そんなのどうでもええねん。今の花房さんに一番必要なのは、同じピンチを経験して死にかけた村井理子の「今」やねん!!!! そう思って、何度も何度も書き直して、送った。あの日以来、花房さんとは折に触れてエールを送り合う関係になれたことが、とてもうれしい。なにより、私も花房さんも、元気だ!!

きっと花房さんは「タダでは転ばねえぞ!」と考えて、『シニカケ日記』を執筆されたはずだ。私もそうだった(『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社))。

シニカケた女たちがその経験を残し、しぶとく生き続けることで、どこかで誰かが元気になってくれれば、それほどうれしいことはない。

2023/11/17 金曜日

朝早くにママ友からメッセージが入り、なにごとかと思ったら、今朝の朝日新聞の「耕論」に顔写真とともにどーんと掲載されていた。その記事を撮影して送ってくれたのだ。『射精責任』(太田出版)についての話なのだが、新聞に掲載されるというのは想像以上にインパクトがあることで、身バレもしやすい(当然のことだが)。義理の両親が朝日新聞購読者なので、ヒヤヒヤしている。

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。