ある翻訳家の取り憑かれた日常

第22回

2023/11/18-2023/12/01

2023年12月7日掲載

2023/11/18 土曜日

パトリシア・マコーネル著「The Other End of the Leash: Why We Do What We Do Around Dogs」(慶応義塾大学出版会)の翻訳を延々とやっている。もう本当に、延々と。

土曜日なので早起きして(早朝6時)、早速翻訳に取りかかった。誰もまだ起きていない、冬の早朝はとても調子がいい。私が仕事をしはじめるとハリーがノソノソと起きてきて、足元に、どかっと寝てくれる。パトリシアによると、額が広く、マズルが四角いオスは、オスのなかでもリーダータイプで大きな心を持つらしいが、ハリーもまったくそうだ。ハリーは人間に対しては一切敵意を持たないが、犬に対しては吠えたりすることがある。これはパトリシアの記述によれば、子犬時代の社会化が足りていないケースだそうだ。

つまり、子犬の頃にもっと積極的に交流の場に連れ出し(例えばドッグパーク)、他の犬と遊ばせて社会化の練習を積まなかったことが敗因。ここで私はいつも思うのだが、飼い主の社会化がいまいちな場合、やはり愛犬にもその傾向は引き継がれるのではないかということ。(人間の)子の公園デビュー(すでに死語か)がスムーズにいかない理由は大人の交流が問題になるからなのであって、そういう意味で犬の公園デビューも似ている。ドッグパークは一度も行ったことがない。犬は好きだが、飼い主同士のトークが辛いからだ。

2023/11/19 日曜日

次男の剣道の大会が神戸であるということで、「かあさん見に来てよ」と言われていたので、押しに押している作業が気になりつつも、「この一瞬を逃すべきではない育児」みたいな呪いの言葉に翻弄されている私は、這ってでも三宮まで見に行く予定だったが、前の日になって「別にどっちでもいいよ、彼女が見に来てくれるし」ということでした。

了解っす!!!!!! 

というわけで、翻訳。「The Other End of the Leash: Why We Do What We Do Around Dogs」。本は薄いのに、なんだか文字数多いぞ……と思ってよくよく見たら、印刷された文字が小さいのだった。kindleデータをベースに翻訳をしているものだから、あまり気づいていなかったが、この本は(も)、ど、ど、鈍器なのでは……? とにかくひたすら訳す。犬の本とは言え、動物行動学、生物学、心理学などなど、ジャンルが幅広くて難しい。よせばいいのに、参考文献を手に入れて読み始めたら、ずいぶん時間をロスしてしまった。それでも理解がよりいっそう深まったので、絶対に無駄な作業ではなかった。本来、参考文献はすべて読むべきなのだろう(いや、できるだけ)。


『ラストコールの殺人鬼』(亜紀書房)も、『未解決殺人クラブ  市民探偵たちの執念と正義の実録集』(大和書房)も、着々と準備が進み、二冊とも12月には出版だ。いやあ、今年はよく働いたよ……。

2023/11/20 月曜日

近くの体育館で剣道の練習があるということで、兄と弟を送っていく。高校生の緩い集まりなので、私は体育館前で二人を降ろして、そのまま家に戻る。

彼らが子どもの頃、スポーツ少年団のような団体に加入させなかった理由は、あまりに親の関与を必要とされたからだった。二人にどうしても入りたいと言われ見学に行った日、お母さんたちがずらりと並んで、体育館の冷たい床に座っているのを見て、「無理」って思った。3時間程度、そうして子どもを待つのだ。

先生たちへの挨拶、当番、その他説明を受けたが、もうぜんっぜん頭に入らない。私は小学生のころから、こういった活動に対する情熱が乏しく、加わりたい、一緒にがんばりたいという気持ちが薄かった。でも、今になってよくよく考えてみると、私の母が他のお母さん達の輪に入ることができなかったことが原因で、私は自分の心を騙して、「ここは入るべきところではない。だってお母さんが嫌なんだから」と考えていたような気もする。だって、今思い出しただけで、いろいろ甦ってくるもの。私はバレー部に憧れていたような記憶がうっすらある。赤いユニフォームに憧れていた。あの輪の中に入りたいと思っていた!

小学生だった息子たちにはすぐに、「無理」と言った。すると、「他のお母さんはやってるのに!」と怒っていた。私の育児でこういう場面は多いような気がする。思い返してみれば、あの瞬間がターニングポイントだったなと考えるときが、よくある。

時々次男に「小学生のころからきちんと習っておけばよかった」と言われることがある。その都度、なんとも表現しがたい気持ちになる。時間を巻き戻せるのなら、巻き戻して体育館の冷たい床に、かあさんはなにがなんでも座ると思うよ! ……いや、たぶん無理。

2023/11/21 火曜日

いつものクリニック。

「あなたの来月の目標を教えて下さい」
「来月ですか? うーん、今やっている仕事を終わらせて、ちょっと休んで家のなかを掃除したいですね」
「仕事は順調?」
「はい……ひたすらやるしかないという感じです。もう、とにかくひたすら、ゴールまで突っ切る感じっす」
「なるほど、頼もしいですね!」

などなど、医師と話をした。先生は上機嫌で年末になると酒の席が増えますな、節制しようと思っても、酒はなんとも旨いものだから、飲んでしまいますよね。僕? 日本酒かな。あなたは? なるほど節酒中ですか。でも、旨いよね、お酒。飲み過ぎない程度に飲んでリラックスするのもいいですよ……ということだった。いつもの薬。いつもの優しい看護師さん。いつもの、狭いけれどもとてもリラックスするクリニックの待合室。

帰りにパン屋に寄ってツナサンドを買う。ツナサンド、野菜ジュース、大量のお菓子。車に積み込んでみたものの、まったく感情が動かない。これを持って帰るのかという煩わしさしかない(ちょっとまずい精神状態なのかもしれない)。

2023/11/22 水曜日

しらいのりこさんのXを見ていたら、突然おでんが食べたくなり、しらいさんお勧めのおでん種を爆買いした。清澄白河にある「美好」というお店だ。見るからに美味しそうなおでん種に、翻訳漬けになってストレスが溜まり、料理が苦になっている私が反応しないわけがなくて(料理をしなくてよければ、翻訳のスピードは上がるのだ)、すぐにネット注文。注文しやすいセットがいくつかあったので、多少考えて、上から二番目ぐらいのものを選んでみた。楽しみは「銀杏」だ。美味しそう。

私はいつも、練り製品は静岡県焼津市にある「足平」というお店で買っているのだけれど、足平はごくごくシンプルといった感じ。美好はなんだか楽しげな練り物が多い。練り物はフライパンで焼いて食べるのもいいよね。

2023/11/23 木曜日

長男が学校に行きたくないと言い出した。長男、お前もか……という気持ちである。理由を聞くと、「面白くないから」。妙にシンプル。どうしても今日は休みたい、今日休んだら、明日は絶対に行くからと言うので、とりあえず休ませた。

もう高校生なんだから、休みすぎたらどうなるかぐらいはわかるでしょうし、自分でいろいろと管理してくれればかあさんはうれしいんだけどね……そう言いながらも、長男に甘い私は彼が好きな卵サンドイッチを作って部屋に持って行った。これではずる休みを奨励しているようなものだ。

しかし自分の記憶を紐解いてみると、ずる休みした日は妙にうれしかった。とにかく、自分の部屋のなかで、好き勝手に過ごすことが楽しかった。しかし午後になると、学校にいない自分の悪口が盛んに言われているのではないかとそわそわし、明日学校に行ったらクラスの全員に無視されたらどうしようと不安になるのだった。そういう時代だった。女子校とはそんな厳しさがあった(当時です、もちろん)。

自分の記憶では、中学も、高校も、あっという間にしれっと終わったような気がしていたけれど、実際はいろいろあったのかもしれない。とにかく毎日本屋に立ち寄って、本や雑誌ばかり読んでいた記憶しかない。

2023/11/24 金曜日

ここ三十年来仲のよいカナダ人の友だちがいる。日本にも何度か来てくれたし、カナダでは同じ建物内に一年間住んでいたこともある。不思議な縁で結ばれている我々は、数年に一回程度連絡を取り合いながら、細々と繋がっている(Facebookで互いの動向はわかっている。彼女はブルース・スプリングスティーンの追っかけなので、全米を移動しまくっている。推しがブルースって、なんとも50代で面白過ぎる)。

少し前、日本通の彼女から連絡があって、「JIROというラーメン店を知っているか」と聞かれた。ああ、ラーメン二郎? とすぐにわかったのだが、私は行ったこともなければ、まったく詳しくない。ただ、独特なコールがあって間違えるとdeathが待っているという噂だけ聞いたことがある。その二郎に何か用かな? と思って「食べてみたいの?」と聞くと、「最近TikTokでラーメンの食べ歩きを見ているのだけれど、とある男性が『JIRO』あるいは『JIRO inspired』の店でラーメンを食べている。その注文の方法が難解で、それがまず興味深いことと、私の知っているラーメンではなく、具材を高く積み上げているスタイルなのがいい。私も食べ歩きをしたいので、付き合ってくれないか」ということだった。

家系ラーメンを食べて二日調子が悪かった私が行けるのか。でも、一生に一度ってある。彼女と東京でラーメンを食べる。これってもう、一生に一度のチャンスだわと思う自分もいる。アンソニー・ボーデインの『No Reservations』を思い出す。アンソニーが亡くなったのは、本当に悲しいことだなあ、それにしても。

2023/11/25 土曜日

家の外で竹刀の素振りをしていた次男が、門灯を割った。次男、お前もか、の気持ちだ。門灯が割れてたら恥ずかしいわ~。なんで割るかなあと思ってよくよく聞いてみたら、門灯に面(剣道の防具の面)をかぶせて、バンバン打ってたんだと。かあさんはがっくりだよ。わかるだろ、それはダメってことぐらい。

庭は荒れ果て、門灯は割れる。だいじょうぶか、この家は。

2023/11/26 日曜日

気があまりにも早いと思うのだが、街に出るとクリスマスソングが流れている。クリスマスが寂しいのは私だけだろうか。子どもの頃のクリスマスはどうだっただろう。両親は必ずプレゼントを買ってくれたし、豪華な料理も出してくれたような気がする。でも、母がくれるプレゼントがいつも気に入らなくて、父と一緒におもちゃ屋さんに行って、交換してもらった記憶がある。母が買ってくれたのはオルゴールで、私が欲しかったのは『不死身の男ミスターX』(伸びるプロレスラーのゴム人形)だったのだ。父は笑っていたが、母は笑っていなかった。そして母は徐々に私にプレゼントを買うのをやめ、現金をくれるようになったのでした。それもうれしかったけどね。もらった現金ではゲイラカイトと人生ゲームを買いました。

2023/11/27 月曜日

翻訳しかしていない毎日。SNSを見る余裕もまったくなく、ただただ、机に向かってキーボードを打ち続けている。訳文を考えているスピードと、タイピングのスピードがぴったり合ってきたので、これから先はスムーズだと思う。一冊の本の翻訳でも、まだその本に慣れていない時期というのは当然あって、そういう時期はスピードがあがらない。でも、本の特徴を掴んでくれば、先に進みやすくなる。そんなことを一年ずっと繰り返しやってきた。今日で188464文字。これで7割。泣きそう。来年は適当に休みたい。

2023/11/28 火曜日

夫が両親を病院に連れて行き、ボロボロになって戻って来た。老人を病院に引率したあとの、あの妙な疲労感は一体なんだろうと思う。友だちに聞いても、通院の付き添いほどしんどいものはないと言う。不思議なことだ。そして数日はその疲れが抜けない。

夫は今日、義父の診察に、家に一人では留守番させられない義母まで連れて行った。義父の診察が終わり、会計が終わり、薬の処方が行われている間に近くの食堂で食事をさせ、薬をピックアップして、買い物をして実家に二人を戻す。こんなしんどいことを一人でやったというわけだ。いや、私は普段一人でやっているんだが、今回は夫がやったというわけで、これから先も夫がやることになる。

最後に寄ったスーパーで、夫が目を離したために義母が商品を手にしたまま店舗を出てしまった。その時義父は何をしていたかというと、一人で駐車場を歩いていたらしい。幼稚園児か。夫は会計しているところだった。一人で二人は大変だよな。しかし、双子の子育ても同じようなものだった。

2023/11/29 水曜日

翻訳。途中、スーパーに買い物に出たのだけれど、あまりに琵琶湖がきれいだったので、車で湖岸まで行って、誰もいない場所で停車して、車内でしばし音楽を聴いていた。去年の今頃突然亡くなった、PTA会長のNさん、辛かったやろなあと思い出していた。というのも、彼女に関する記事が新聞に掲載されているのをたまたま見つけたからだった。彼女の友人がインタビューに答え、「今も彼女の死を受け入れられない」と言っていた。そうだよね、受け入れられないよね。あんなにがんばっていた人だったのに。

2023/11/30 木曜日

翻訳。午前中に義父から電話。庭のミカンの木に実ったミカンを今から切りに来てくれと言われて、違うものを片っ端から切って切って、切りまくってやろうかという気持ちになり、とりあえず電話をガチャ切りした。

2023/12/01 金曜日

クリスマス音楽が流れる街はなぜか本当に悲しい。先日精肉店で「奥さん、田舎どこ? こっちじゃないよねえ? え? 静岡? 今年の正月はどうするの? 帰るの?」と聞かれて、「帰る実家がもうないんですよ。家族全員死んでます」って答えて、やめておけばよかったと思った。

申し訳ないので、クリスマスチキンを予約した。あちらも申し訳なさそうにしていた。

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。