ある翻訳家の取り憑かれた日常

第23回

2023/12/02-2023/12/15 

2023年12月21日掲載

2023/12/02 土曜日 

仕事の合間にぼんやりとSNSを見ていたら、懐かしいアンソニー・ボーデインの動画が流れてきた(『No reservations』(邦題:アンソニー世界を喰らう))。あの番組は大好きで、欠かさず見ていた。どこへ行っても躊躇することなく食べ、飲み、人生を謳歌しているように見えた(見えたんだけどな)。著作(『キッチン・コンフィデンシャル』、その他)も大好きだったので、若くして亡くなった、残念でならない作家の一人だ。今思い返してみると、楽しく飲んでいるときのトニーでも、濡れた犬みたいに寂しげな表情をしていたなと思う。大型犬の長毛種のイメージがあった(そして雨に濡れている)。孤独に生きた人なのだろう。年末に読み返してみようと考えた(なんと新装版の『キッチン・コンフィデンシャル』が出版されていた)。

2023/12/03 日曜日

「俺たち今日、京都行ってくるわ」と長男が言うので「え? そうなの?」と返すと、今度は次男が「おう」と言う。「ちょっと、服を買いに行ってくるわ」と言いつつ、二人が右手を差し出してくるので、それぞれに一万円渡した。私たちが若いころだと、一万円で服を買うなんて難しかったことを思い出したので、五千円をプラスした。二人は軍資金を得ると、着替え、仲良く二人で駅まで歩いて行った。その後ろ姿をトイレの窓から密かに見て、「これは夢だ、夢に違いない」と思いつつ、顔を叩いてみたが現実だった。

うちの双子は、一度として、大きな喧嘩をしたことがない。もちろん、幼少期のおもちゃの取り合いなんてことはよくあったが、それも酷いものではなかった。小学生になり、中学生になり、いつの間にか高校二年生になったが、激しい口げんかも、取っ組み合いの喧嘩も、一切ない。常に仲がよく、隣同士の部屋で過ごし、夜は一緒にトレーニング(竹刀の素振り、ランニング)をしている。双子の場合は極端に仲が悪いか、極端に仲がいいか、どちらかだとよく聞くが、わが家は後者らしい。子育てで成功したことなんてひとつもなかったと思っている私だけれど、二人が喧嘩をしないというだけで救われるような気持ちになる。

2023/12/04 月曜日

翻訳。パトリシア・マッコーネルによる『The Other End of the Leash: Why We Do What We Do Around Dogs』を、ただひたすら訳す日々。朝の9時までには掃除を終わらせて、そこから昼までノンストップで訳し、午後は15時ぐらいまで休憩をして(作業場横の窓から西日が差すと気分が落ち込むので)、そのあと寝る直前まで翻訳をするという日々が続いている。ページをどれだけめくっても、文字は出てくる。めくり続けると、紙のページがまるでタペストリーのように、延々と続く編み目に見えてくる。

気が遠くなるような作業だが、いつか終わりが来ることはわかっている。なぜなら、今まで最後まで終わらなかったことはなかったのだから。とにかく最後まで訳すことが出来るかどうかという、非常にシンプルな点を問われる仕事だ。できる、俺なら。

2023/12/05 火曜日

次男がコンビニのバイトから戻り、驚いた顔で「税金って高いんやな!! 俺、びびったわ!」と言っていた。コンビニにやってきたお客さんが、納付書で税金を支払ったのだろう。次男はそれをピピッとなにげに処理したわけだが、その金額の高さに驚いたというわけ。

「やろ?」と訳知り顔で答えた。「母さんも、どれだけ払わされたか。まったく暮らしが楽にならないわ」と言うと、「ふーん」と興味がなさそうだったが、そんな彼もあと数年したら自分で支払うようになるわけで、仕事終わりに買ってきたという唐揚げをむさぼるように食べながら、iPhoneで格闘技を見ているまだ幼い表情の次男を見て、「この子も苦労するのかな、将来……」などと考えた。なるべく苦労はして欲しくないなと、本当にシンプル極まりない親心で考えた。

2023/12/06 水曜日

とある場所から電話があり、衝撃的なことが判明した。言葉を失って何も考えられなくなったが、人生とは、寄せては返す波のようなもの。いいときもあれば、悪いときもある。悪いときが多いような気がするが、物事は考えようだ。ネタが増えたと思っておこう。

俵万智さんの短歌では、波のしぐさは優しかったが(寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら)、私の人生は荒波に揉まれるのがデフォルトのようだ。

2023/12/07 木曜日

終日、翻訳。是枝裕和監督が『実母と義母』を読み、感想を寄せてくださった。なんたる光栄。うれしくてちゃんと読むことができなかった(もちろん最後には読みました)。来年もがんばって書こう。

2023/12/08 金曜日

『「ダメ女」たちの人生を変えた奇跡の料理教室』が新潮文庫より文庫化されることになり、あとがきを書いた。久しぶりに読んでみたけれど、本当にいい本だなと思う。文庫化がきっかけで、多くの人たちに読んでもらえたらうれしい。

そう言えば先日、本当に珍しいことなんだけど、フライパンを焦がした。翻訳作業に集中していて、弱火で煮込んでいたのをうっかり忘れていた。作っていたのは、焼き豆腐と牛肉の煮物で、甘ったるいような焦げた匂いが部屋に充満していた。

すると焦げた匂いポリスの夫が焦げた匂いを指摘するので、「おかずを焦がした」と正直に言うと、開口一番、「もったいない!!」と言うではないか。自分でもびっくりするぐらい邪悪な声で「あぁ?」と答えてしまった。なんだよもったいないって。それ言っていいのは作った人間だけ。つまり、私だ。

『「ダメ女」たちの人生を変えた奇跡の料理教室』のなかで著者のキャスリーンは、フライパンを焦がしたからって、なんだって言うの? 次はちゃんと作ればいいじゃない!……というような、優しい言葉をかけて、料理教室に参加してきた女性たちを励ましていく。決して「もったいない!!」とは言わない。こういう、「ここだ!」という瞬間の声かけは子育てにおいても、犬の訓練においても大事だと思っている。べつに、なんでもかんでも励ませと言っているのではない。でも、否定的なひとことで、人間を奮い立たせることはできない。

2023/12/09 土曜日

歯を食いしばるようにして翻訳。『The Other End of the Leash: Why We Do What We Do Around Dogs』。アカゲザルの雄は成長すると生まれついた群れを離れて、別の群れに参加しなければならないらしい。その過程で半数の雄が命を落とす(道場破りみたいなものなのだろうか)。

一方で、命を落とさず別の群れにスムーズに加入出来る個体がいて、その個体は、死んでしまう個体に比べて、慎重で内気らしい。つまり、血気盛んな若い雄は、別の群れに未熟な状態で加わろうとするのだが(「うりゃあああ!」とか叫んで突進して、一気に潰されるイメージ)、内気な個体は、その性格のために元の群れを離れるのが遅れ(三十代まで実家暮らしのイメージ)、遅れたことで体がほどよく成長し(なかなか大きめになってしまった状態)、体格がよく(親の料理で栄養状態はいい)、別の群れに加わるときに有利なんだそうだ。なにそれ。人間と似てるよ。

2023/12/10 日曜日

巨大たぬきの謎が解けた日。

国道脇の空き地に突如として現れた巨大たぬき。滋賀名物信楽焼のたぬきの置物なのだが、そのインパクトたるや……。右手に通い帳と左手にとっくりを持った焼き物たぬきっていうのは、だいたい体長50センチぐらいのものなのだが、空き地に立っているたぬきは身長160センチ程度はある。私と同じぐらいの背格好だと思ってもらっていい。その巨大な置物が突如として国道脇の空き地に立つようになってどれぐらい経過しただろう。たぶん、数ヶ月だ。

まだ新品のその置物はぴかぴかしてて、買ったら数十万円は下らないと思う。たぬきの背後には、崩れかけた木造の小屋があり、たぬきの周辺にはびっしりと背の高い雑草が生えており、シュール過ぎる光景となっている。夜間に見ると、目と歯がギラギラ輝いていて、大変恐ろしい。誰が、何の目的で、相当高価なたぬきをその場に設置したのか、私はずっと考え続けていたのだが、今日、なんとなくその理由がわかった気がする。なぜかというと、今日の夕方に通り過ぎたとき、その巨大たぬきは七色の電飾を身にまとっていたのだ。クリスマスイルミネーションである。あのたぬきの持ち主は、きっとジョークであそこにあんなに巨大なたぬきを立たせているのだと思う。間違いない。暇な人なんかな。

2023/12/11 月曜日

翻訳。今日も朝からずっと翻訳と、推敲作業を行っていた。庭は枯れたジャングルのようだったが、いつの間にか見たこともないコケのようなもので全体が覆われている。ここは森なのか。私が作業に明け暮れている間に、新たな生態系が誕生したのかもしれない。

2023/12/12 火曜日

翻訳。苦しい。

2023/12/13 水曜日

翻訳。苦しかった。

2023/12/14 木曜日

訪問看護師さんから電話があって、義父の調子がかなり悪そうだと言う。「今まで見たことがない様子なんです。もしかしたら受診が必要かもしれません」ということだった。この看護師さんは、実は昨年末、義父がコロナウイルスに感染したときに助けてもらった看護師さんで(詳細は新潮社Webマガジン・考える人連載『村井さんちの生活』の「義父母、ついに感染」をcheck it out!)義父が演技派だということは知っているはずなのだが、「いやあ、今日は本当に具合が悪そうで……」ということだった。私は仕事があって、すぐには行くことが出来なかったので、夕方、牛丼を持参して様子を見に行ってみた。義父は寝ていたものの、パジャマ姿で起きてきて、牛丼をうまいと言って完食していた。私はこれを「牛丼テスト」と呼んでいる。完食したので、受診は必要ないと判断した。念のために夜に電話したら、「また牛丼頼む」と言われた。

2023/12/15 金曜日

いつものメンタルクリニック。10時半からの予約で締め切りと重なっていたので、早めに起きて、原稿を書いて送ってから、クリニックに向かった。今日も車で。電車だと寒いからね。

「お正月の予定は?」
「特に何もないです」
「実家には帰らないの?」
「もう実家には誰もいないんです。家族全員死んだので」
(カルテを確認して)「あ、本当だ」
「こちらでゆっくりします」
「それじゃあ実家は空き家で?」
「そうです。いま私、実家を潰しているところなんです」
「そりゃあ、大変だ。じゃあ、何度も帰ってるの?」
「いえ、遠隔操作で」
「ハハハハ、遠隔操作で!! あなた面白いねえ。あなたと話していると笑いが止まらないわ」
「そうですか、ハハハ」

高齢で新規患者の受け入れをやめたと宣言した先生が閉院すると言ったらとても傷つくから、そう言われるまえに転院出来るように新しいクリニックを探そうと思う。

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。