ある翻訳家の取り憑かれた日常

第25回

2024/01/06-2024/01/18

2024年1月25日掲載

2024/01/06 土曜日

正月が終わって、一気に仕事モードと言いたいところだが、まったく仕事に身が入らない。思えば昨年末、急ぎの原稿のために根を詰めて作業し、疲れが溜まっているのだと思う。書く作業は重労働かといえばそうでもないのだが(肉体的には)、ため息が止まらなくなるような心の疲労が蓄積される気がする。普段は文字が好きなのに、こういうときに見る文字ほど辛いものはない。

どんな仕事も等しく辛いことはあると思うけれど、「期日内に書かなくてはならない」というプレッシャーは結構きついものがある。「もう嫌だ!」と大声で叫んだら、階下にいる長男から、「かあさん、大丈夫か?」とLINEが来ていた。

2024/01/07 日曜日

長男が自転車で長距離の旅に出た。長距離と言っても、琵琶湖周辺を走っている本格的な自転車乗りのみなさんからしたら、たいしたことない距離かもしれないけれど、全長60キロ程度のコースだ。突然、行ってくるわと宣言して、バックパックに飲み物その他を入れて、さっさと出て行ってしまった。

私自身、湖岸道路を車で走ることが多いのだが、ビワイチ(琵琶湖を自転車で一周することをこう呼ぶ)の皆さんとの距離が近い時があり、肝を冷やすので、ちょっと心配。いや、かなり心配。彼が自転車で出て行こうとすると、なんだかんだと理由をつけて止めるので、彼も、私に止められる前に行ってやろうと考えるのでしょう、突然出て行く。

「あいつ、どこ行ったの?」と夫が聞くので、「一人で自転車乗りに行ったよ。60キロコースだってさ」と答えると、夫はかなりうれしそうに「へえ!」と言った。夫は乗り物全般が大好きで、自転車とバイクは彼の趣味だ。夫も長距離の自転車の旅に出るのが好きだ。

「どの自転車に乗って行ったの?」と聞くので、「あの小さいやつじゃない?」と答えると、ソファでだらだら寝ていた夫が飛び起きて、「えっ!?」と言った。「あの、中学生の時に買ったやつか!?」と言うので、「そうだよ」と答えたら、大声で「可哀想に!!!」と言うではないか。確かに、長男の今の体格に比べれば小さめの自転車だ。でも、大きすぎる自転車ほど乗りにくいものはないし、少し小さいぐらいでいいんじゃないのか。私なんて、扱いやすい小さめの自転車のほうが好きだ。

「あの自転車、確かどこか壊れてたぞ」と夫は焦りだし、いきなりiPadを手にして何やら調べ、そしてこちらも突然家を出て行った。

二時間後に戻った夫は、満足げな顔をして、「俺、今、あいつ用の自転車買ってきた」と言った。「あいつも今年は高三だしな、子ども用自転車に乗ってる場合じゃないだろ。いい自転車買ったから、長持ちするぞ! 納品は来週!」

自分の購買欲を息子に買い与えることで満足させている夫であった。

2024/01/08 月曜日

会社から帰宅した夫が「あいつ(長男)に買ったのに、あいつ(次男)に何も買ってあげないのは不公平だな。あいつ(次男)にも自転車を買ってやろうと思うんだけど、どう思う?」と言った。

「あの子(次男)だって、自転車は持ってるじゃん!」と私は答えた。そう、すでに持っているのだ。一体何台必要なんだよ!

「でも、あいつ(次男)、俺より体がデカくなってんのに、中学生のときの自転車っておかしくないか?」と夫は言う。確かに次男は夫よりひと回り大きい。でも、次男は長男ほど自転車が好きというわけではなくて、ただの移動手段としか見ていない。駅前に乱暴に乗り捨てることもあって、一台、盗難されたこともある。次男は私と趣味がよく似ていて、自転車というよりもガジェットのほうが好きだ。

「本人にちゃんと確認してからのほうがいいと思うよ。求めていないものを買われて、大事に出来る年齢でもないと思うけど」と答えると、「あんたみたいなひねくれた性格の場合そうでしょうけど、普通、子供は親が買ってくれたものっていうのは無条件にうれしいって思うやろ」と夫は言っていた。私はひねくれているのだろうか。

2024/01/09 火曜日

次男が髪を伸ばしはじめており、マンバンにしようと考えているらしい。かなり伸びてしまったカーリーヘアをまとめたいようで、「かあさん、ヘアゴムちょうだい」と言う。「俺、襟足も伸ばして、襟足もカーリーにしようかな。確かに、襟足も伸ばしたほうがかっこいいかもしれない……」などなど、言っていた(以前私が、襟足を刈り上げるのではなく伸ばし、そこにもパーマをかけろと言ったのを覚えていたようだ)。先日は髪を染めていたが、次男はかなり自由な高校生となってしまった。

「そう言えばパパが、自転車買ってやるって言ってたけど、欲しい?」と次男に聞くと、フフフと笑いながら、「正直な話、モニタのほうがうれしい」という答えだった。そうくると思ったわ。

2024/01/10 水曜日

最近、翻訳以外の原稿のご依頼が大変増えて、よせばいいのに私も喜んでホイホイとお受けして、後から地獄の苦しみを味わうことになっている。考えてみれば、とあるトピックに関して原稿用紙10枚なり20枚を書くって言うのは、とてもきつい作業なのだ。書評であれば、本を何度も読み込まねばならないし、それ以外であれば自分が考え得る限り、最高の文章を書かねばならないわけで、そんなの難しいに決まっている。わかりきっていることじゃないの。それなのに、私は後先を考えずに、喜んですべてのご依頼を受けている。今日の作業も地獄だった。なんでこんなに苦しいことをやっているのか。

しかし、最後には必ず終わりがくる。やれるはずだ、俺なら。

2024/01/11 木曜日

次男が剣道の師範と京都に行った。数日前から京都で稽古だと聞いていたので、胴着は揃っているのか、防具は腐っていないのか(防具は手入れしないとカビが生えます)、いろいろ気になることはあったものの、本人にすべて任せていた。もうすぐ18歳、剣道の練習があるのなら、支度ぐらいは自分で出来るようになってもらいたい。結局、次男はどうにか自分で支度をすると、大量の荷物を担いで、家を飛び出していった。二階の窓から駅まで走る次男を見ると、なんと私が買ったばかりのCOGTHEBIGSMOKEのコートを勝手に着ている! 確かにユニセックスだが、いつの間に!

夜遅くになって、ヨレヨレになって戻って来た。師範に相当絞られたみたいだ。「コートは無事か?」と聞いてしまった。

2024/01/12 金曜日

夕方夫が帰宅したので、次男への自転車について話をする。

「やっぱり、自転車よりもモニタがいいらしい」と夫に話す。夫は「フン」みたいな顔をしていた。でも、自分が好きなものを、子供も好きだとは限らないではないかと説明してみた。「三人で(双子と自分で)自転車の旅に出るのが夢だったんだ」と夫。ここでなにも言えなくなった。

「本人は、モニタが欲しいんだって。映画好きだし、ゲーム好きだし、パソコンにも接続できるし、いいんじゃないかな」と言うと、「そうか」と夫は言っていた。

2024/01/13 土曜日

家族全員が家にいて、まったり。まったりはいいのだが、やはり自分のスペースが欲しいと考え、海外の小さな家(Tiny house)を集めたサイトを巡回していた。海外の場合、tiny(小さい)と表現しつつ、さほど小さくない家が多い。日本だったら四人家族で十分住める(住んじゃう)家だ。深い青色のタイルをびっしりと並べた外壁の小さな家があり、ちょっと気に入った。

2024/01/14 日曜日

次男が私の部屋にふらりとやってきて、「モニタってどれぐらいの大きさ?」と言うので、「まあまあ大きいのを買ってくれるんじゃないの? 今、モニタってそんなに高くないしねえ……」と答えると、次男は「ふーん」と答えた。

「パパは三人で自転車の旅に出るのが夢だったらしいよ」と私が言うと、次男は「俺だって、自転車が欲しいなって少しは思うよ……」と答えた。

もう、三人で話あって決めてくれよ!

2024/01/15 月曜日

長男が暗い顔をして学校から戻ってきた。「どうしたの?」と聞くと、べつに……と言って何も答えず、部屋に入っていった。ちょっと気の毒になったので、好物の玉子サンドを作って部屋に持って行くと、うれしそうにしていた。しばらく話をした。まあ、いろいろあるよね。もう青年だもん。

それからしばらくして戻って来た次男も暗い顔をしており、「あんたまでどうした」と聞くと、「なにを目標に勉強してるのかなって思って」と言い出す。

自分が17歳の頃をふんわりと思い出しながら、「モチベーションは後付けでもいいと思うよ」と言っておいた。「悩む気持ちもわかるけどね」と付け加えた。「かあさん、いいこと言うねえ」と次男は言いつつ、からあげクンを食べていた。そしてCreepy Nutsの曲に合わせて激しく踊りながら部屋に戻っていった。ハリーが後について行っていた。

2024/01/16 火曜日

祖母名義の家の処分を従姉妹と始めて数年経過したと思う。司法書士や弁護士などにいろいろと依頼しつつやっていたのだが、この度、唐突に、作業はすべて終わった。

祖父が戦後すぐに建てて、私の原家族を含め大勢の人が住んだ家が、私と従姉妹によって解体され、更地になる。祖父はこの未来を想像していただろうか。私が今住むこの家も、将来きっと誰かの決断によって更地になる。私は今からそれを意識して暮らして行こうと思った次第。お爺ちゃん、素敵な家を建ててくれてありがとうね。

2024/01/17 水曜日

「すばる」連載中の「湖畔のブックガイド」原稿を書く。今月も苦労しちゃったよ……。

最近、放置子という言葉をよく目にするのだが(親の養育が行き届いていない子供)、実はわが家にもそのような子がしばらく来ていた。わが家は子供部屋を開放していたのだが(友だちが自由に行き来出来るようにしていた)、常にわが家に滞在している子に気づいた。近所の子で、親御さんのことも知っていたので、滞在したければそうすればいいと考えていたが、さすがに外が暗い時間になると心配で、家まで送り届けたものだった。今、立派に大きくなって、会えば笑顔で話をするが、寂しい時間もあったのかなと想像している。そしてもしかしたら、私自身もそんな子だったのではないかと、胸騒ぎがしたりする。

2024/01/18 木曜日

難しい本読みで、ぐったり疲れた。面白いと、面倒くさいと、イライラするが同居するのが、本。

夕方になって、4月だと思っていた新車の納車が2月になると連絡があった。7人乗りの自動車で、中で仕事が出来るようにいろいろとオプションを仕込んである。楽しみだ。ハリーを乗せてどこまでも走るつもり。

2024/01/19 金曜日

とある書籍が文庫化されることになり、解説を書かせて頂くことになった。数日前から書こうと思っているのに、どうやって書いていいのかわからなくて泣いている。実は明日から浜松で、児童相談所の職員の皆さんの勉強会に出席する予定なのだ。新幹線のなかで書くか……と少し迷う。

午後、夫と一緒に琵琶湖の東側にあるバイクショップに長男の自転車のピックアップに行く。かっこいいバイクがたくさんあって、私も欲しくなってしまった。レンタルバイクもあるということなので、今度借りて走ってみよう。

はあ……年明けからなんだか心が騒ぐ。落ち着かない。少し休んだほうがいいのだろうか。

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。