子育てに迷う

この連載について

自分も子育てでいろいろ悩みながら、子どもの問題について親のカウンセリングを長年続けてきました。また、地域の診療所で外来診察や訪問診療も担当しています。育児の悩みや家庭でのコミュニケーション、そのほか臨床の現場で出会ったこと、考えたことなどを書いてみます。

第24回

山空海温泉のこと

2024年9月27日掲載

春ごろに『日本百ひな泉 〜これからの温泉の新基準!』(岩本薫、ひなびた温泉研究員著)という本を買った。それから毎日のようにどこか開いて読んでいる。ひなびた温泉をすすめるその本を読むまでは、温泉に行くというのは、ネットで写真や口コミを見て、値段も気にしながら、良さげなホテルや旅館を予約することだった。温泉に行くと、浴衣を着て、湯に入って、食事には、いろいろな「名物」が出てきて並べられ、チャッカマンで火をつける鍋などがあって。もちろん美味しいのだが、結局は満腹になって、こんなに食べなければよかったな、と思って寝る。温泉も、石やら木やらで格好よく上等に作ってあって、広くて明るくて清潔で、つかって、あ〜とか言って。そういう「素敵な宿に行く」のが自分にとって「温泉に行く」というイメージだった。

ところが、この本を読んでから、そういうのではない温泉の旅があるということがわかった。というか、思い出した。昔、つげ義春のマンガで、こういう温泉の旅、湯治宿の話を読んだことがあった。人里離れた場所に、小さな温泉地がある。小さな宿の小さな部屋で、日がななにもせずただ湯に入って過ごす。「ひな泉」の本には、そういう場合の湯は「源泉かけ流し」であるべきだと書かれている。

源泉掛け流しというのは、地面から湧き出たお湯や水を、湯船にそのまま注ぎ入れて、溢れるままにしておく。そういう湯船のシステムのことだ。循環させては、お湯の力が失われてしまうという考え方である。湧き出すお湯の量がよほど多くないと、大きな浴槽にはできない。なので、多くのひなびた温泉の湯船は、小さい。だから小さな宿なのである。(もちろん、日本の中には、源泉が大量に湧き出して、それによって大きな浴槽を源泉かけ流しにできるホテルや旅館もあるそうであるが。)

お湯の力、という言葉はなにか、スピリチュアルな、非科学的な感じがする。そこが素敵だと思う。まあ、とにかくそういう価値観に、魅せられてしまった。源泉かけ流しに「かぶれて」しまった。平氏にあらねば人にあらず、のように、源泉掛け流しにあらねば温泉にあらず、のように知ったかぶりで他人に話す人間に、いつのまにかすっかりなってしまった。飲み会でも、少し酔いが回るとすぐに「源泉掛け流しというのはねぇ」と説明しはじめるので、それはこの前に聞いたって!と何回言われたかわからないほどである。

その後、いろいろな温泉の本を読んで気がついたのだが、私が住んでいる関西は、ほかの地方と比べて、源泉掛け流しの温泉がかなり少ないエリアである。九州や東北地方、北海道などはかなり多い。うらやましいことである。少し前の記事で十津川温泉に行った話を書いた。十津川の温泉はみな源泉かけ流しだった。このほかに、ひなびた温泉の本には、大阪にある山空海温泉という温泉が紹介されていた。

先日、実家の徳島に車で出かけることがあり、帰りは新名神道路で京都に帰ってきたのだが、途中、川西インターチェンジで高速道路を降りて、その山空海温泉に行ってみた。山の中の川をせき止めたダム湖に沿った道をくねくねと進む。かなり山の中に入ったところにその温泉があった。建物はかなり古く、小さな工場のような建物である。駐車場までの道は細く、対抗車がきてもすれ違えない。駐車場も舗装されていない。そこに車を止めてから、100メートルほど細い川に沿った堤の上を歩いていく。近づいていくと、温泉の建物というか大きな小屋のようなものがある。草の生えた地面にテーブルや椅子が置かれている。

近くのコンテナハウスのような建物から、管理人のおじさんが出てこられた。70代後半ぐらいの方だろうか。短パンとTシャツである。こういう書き方をしてはなんだけれども、愛想がよいという感じでは全然なかった。しかめっつらで、妻と私に向かって「5時までやけど」とだけ言った。それでいいです、と私は答えて、看板に書かれている入浴料の800円、2人分で1600円を払おうとした。

少し緊張していたので、千円札2枚を出して渡そうとしたら、財布から100円玉が落ちてしまった。すると、落ちた100円玉を、管理人さんはじっと見ている。意味がわからず、妻と私がだまっていると、百円玉を指差して「それちゃうの?」と言った。どういうことかわからず、さらに私たちが黙っていると、「その100円とあわせて、2100円でお釣りが500円、やろ?」、そう言って、にこっとされた。

元のぶっきらぼうな少し怖い印象から、ガラッと変わった。そのくだけた笑顔と優しそうな声で、こちらの緊張もとけた。その表情を見たら、この人が管理しているのであれば、この温泉は、建物は見るからに古びているが、おそらく快適な良い温泉なんだろうと予想できた。

建物の手前が男湯で、奥が女湯。アルミのドアを開けて入ってみると、3畳ほどの脱衣所があって、ロッカー、扇風機、壁には鏡。トイレが広く、コンクリートの床が清潔で、奥に、風呂の掃除をするためと思われる道具が整然と並べて置かれていた。あの管理人さんが毎日、風呂や脱衣所、トイレを掃除されているのだとわかる。

風呂には、先客が2人いた。 30歳くらいの人と40歳くらいの人。2人とも黙って湯船につかっている。湯船からは広い窓を通して山だけが見えている。ときどき道路を通るバイクや車が見える。湯船はふたつあって、熱い湯と、それが流れ込む、ぬるい湯。熱めの湯には、壁から緑色のホースが下がっていて、お湯が注がれている(これは後で管理人さんに聞いたが、加温された源泉であった)。もうひとつ、洗い場の隅に、1人が体をかがめてすっぽり入れるほど、60センチ四方ほどのステンレスの浴槽が置いてあり、そこにホースが差し込まれていて水が溢れている水風呂があった。ここの源泉は18度の冷泉で、それがこの小さなステンレスの浴槽に注ぎ込まれている。

にわか、源泉掛け流しかぶれの私も、良い温泉はこういう水風呂が設置してあることが多いとわかってきた。体が温まりすぎるので熱い湯だけに入り続けることは難しいのである。サウナも同じようなものであるが、あたたまった後に水風呂で体を冷やして、また熱い湯に入るのである。そうすることで、風呂で長い時間を過ごすことができる。

私とその2人の客は、黙々と、何のあいさつもせず、目すら合わさず、順番に熱い湯に入り、水風呂に入り、熱い湯に入り、水風呂に入り。それを繰り返した。水風呂に入ろうとしたときに、人が入っている場合には、ぬるいお湯につかるか、浴槽のヘリに腰掛けて体をさました。1時間近くそうしていたのだが、お互いに何も話さないということから、独特の安心感がえられた。「どこから来られたんですか」とか、「ここには、よく来られるんですか」など、そういう言葉を、人は交わしたくなるものである。そういう言葉を言いそうになっているのは、それは相手も同じである。なのに、それを言わないということ、そのことを相手もまたわかっているということ。そうやって、ただ黙ってお湯につかり続けるということが、目的にかなったことであって、この空間に、一緒にいるけれども、何も話さなくてもよいという、ひなびた温泉ならではのリラックスを与えてくれた。

考えてみれば、不思議なことだ。はじめ、この温泉に来たとき、無愛想に見えた管理人さんが話しかけてくれたことでリラックスできたし、この場所を信頼できた。しかし、風呂の中では、何も話さないということが深いリラックスを与えてくれた。

カウンセリングで、子どもが何も話さないとか、家族で会話が少ないとか、そういう嘆きを聞くことがよくある。でも、山空海温泉で私が体験したようなことはどうだろう。無愛想に見えた管理人さんが、少しだけ話した一言がいつまでも心に残っているように。風呂の中で互いに何も話さなかったことが深いリラックスを与えてくれたように。家族のあいだでも、そういう時間をもつことはできるのではないか。それはたくさん話をするよりも、なにか深い経験や癒しになるのではないか。あれから私は何度も山空海温泉に通っている。あの水風呂に入るために。

著者プロフィール
田中茂樹

1965年東京都生まれ。医師・臨床心理士。京都大学医学部卒業。文学博士(心理学)。4人の男の子の父親。
現在は、奈良県・佐保川診療所にて、プライマリ・ケア医として地域医療に従事する。20年以上にわたって不登校やひきこもりなどの子どもの問題について、親の相談を受け続けている。
著書に『子どもを信じること』(さいはて社)、『子どもが幸せになることば』(ダイヤモンド社)、『去られるためにそこにいる』(日本評論社)、『子どもの不登校に向きあうとき、おとなが大切にしたいこと』(びーんずネット)がある。