対話がこわい 孤立もこわい~つながりすぎる時代の関係の哲学

この連載について

私たちは不器用だ。つながろうとしてつながりすぎる。誰かを求めているのに突き放す。自分を見せようとして演出しすぎる。気に入ってほしいのに嫌われる。優しい言葉をかけてもいいのに沈黙する。理解したいのに誤解する。笑顔にしようとして傷つける。だが、私たちの言葉には力がある。平凡な言葉も、磨き上げさえすれば見違えた力で日常を語りだす。本連載では、新しい時代のコミュニケーション論を構想し、来るべきカンバセーション・ピース(団欒の姿)を想像することにしたい。

第7回

車窓も密室も放棄して、窓を開けること——星野源『いのちの車窓から』を読む(2)

2025年6月6日掲載

有名性が透明であることを禁止する

 離人的な〈車窓からの視点〉と、心がつながるエモさ。〈車窓からの視点〉しかない状態では、世界との直接的な交流を失う感覚に陥り、ネガティヴな感情が解消できないままに降り積もっていく。しかし、偶然に他者の心と自分の心が重なれば、そうした負の感情を(少なくとも一時的に)忘れられる。解離的な社会との付き合いと、他者との合一を求める気持ちとが共存しているメンタリティは、負に傾きつつも一定のバランスを保っていたが、あるとき崩壊してしまう。きっかけは、ドラマと楽曲が空前の大ヒットを経験し、「透明人間」ではいられなくなったことだ。そこに至るまでの経験を再構成してみよう。

 ライブツアー「Continues」(2018)の最中、成功の手ごたえを象徴するような残響を耳の奥に感じる。その華やかな成功の裏では、地味なホテル生活が続いていた。

街で声をかけられることが増えたので、ホテルからは一歩も出ない様にしている。ホテルから直接ライブ会場へ行き、演奏してホテルへ戻る。2日間の公演が終われば、翌日帰るのみである。風邪もひきたくないし、喉の負担を減らしたいから遊びにも行かない。じっとしている。とても地味。[1]

 だからせめて、ホテルに備え付けのアメニティや設備があっても、使い慣れたもの、シャンプーやドライヤーを持ち込み、部屋を塗り替える。有名性ゆえに外出すると他者の視線にさらされるので、ホテルという密室で自分の居場所を作ることで、心の機嫌をとっているのだ。

『いのちの車窓から2』には、これと同じように、〈車窓からの視点〉という透明さを捨てざるをえないことの苦しみがしばしば吐露される。たとえば、ドラマ・ツアー・新曲制作と仕事が立て込んでいる時期に「イーッとなった」エピソード。

明日はレコーディングなので、遠くに行ってしまうとみんなに迷惑をかけてしまう。だからとりあえず近場に失踪したい。[2]

 なかなかヤバいことがわかる文章だ。近場の失踪先として、仕事仲間に晴海埠頭を勧められ、タクシーを捕まえ急ぎ向かう。

 到着した星野は、展望スペースにポツンと置かれているベンチに座り、そこでようやく深く被った帽子とマスクを外した。

なんて楽しいんだろう。人がいない。誰も自分のことを見ていない。マスクを着けず、帽子も被らずに海が見られる。それだけでとても気持ちよかった。

素顔で外にいるのはいつぶりだろう。ここ数年、どこへ行ってもどれだけ顔を隠しても、街行く人に振り向かれ声をかけていただく。そのことに嬉しさを感じていたのに、最近はどうも苦しい。いつの間にか神経はすり減り、疲弊していた様だ。[3]

 星野源は、隠れていても見られないでいることができないほどブレイクした。だからこそ、ホテルの密室か、人気(ひとけ)のない場所のような、見られる保証のないところでしか解放感を味わえなくなっているのである。

車窓すら隠して「密室」をつくる

 このブレイクをもたらしたのが、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』と主題歌「恋」の大ヒットだった。自分を不可視の場所に置き、状況を窓越しに見つめる〈車窓からの視点〉は不可能になった星野は、窓すら覆って密室を作ることを選んだ。

仕事では楽しく笑顔でいられていても、家に帰ってひとりになると無気力になり、気が付けば虚無感と頭を抱え、何をしても悲しいなとしか感じず、ぼんやり虚空を見つめる様になった。

それは日々ゆっくりと、少しずつ増殖するウイルスの様に、私の体と精神を蝕んでいった。

街で声をかけられることが恐怖となり、誰にも見つからない様に猫背で顔を隠し逃げ回り、ベランダに出ることさえも怖くなり、晴れた日でもカーテンを閉める様になった。[4]

 彼はこのことを「ポップな存在になることによって、自分の中に負のウイルスが増殖していく」と表現しているが、明らかに適応障害だ[5]。彼の有名性が、透明であることを禁止してしまい、そのことを苦しく思っていることは本の随所で確認できる[6]

 窓越しに冷静で透明な観察者として外を見ること。時に自分の心が誰かの心とつながることで情趣を味わうこと。それで十分だった。しかし、彼の有名性が隠れていることを許さない。この苦しさに対処するために、星野は無人の場所や密室など、「見られる」が発生しない仕方で存在することを選んだ。必要なインタラクションをするとき以外は壁に囲まれたところに行き、車窓すらカーテンで閉じてしまうのだ。

 その心のありようは、移動中の星野の車の中で具象的に再現されている。

私の車は、外から見えない様に車内を真っ黒なカーテンで覆っている。運転席との間も完璧に仕切られ、フロントガラス越しにも後部座席が見えない様にしていた。誰にも見つからないために。

故に昼間でも車内は真っ暗だし、それを普通だと思っていた。ハワイから帰ってきても疑問に思うことはなかった。[7]

〈車窓からの視点〉すら放棄し、自分を囲む密室を形成することで、何とか心のバランスをとろうとする。しかし、これは対症療法であって、状況をゆるやかに悪化させていくやり方だった。息苦しさやパニックに襲われる頻度は上がっただろう。

 以上の議論から読み取っておきたいのは、〈社会と自己の解離〉を突き詰めた先に待っているのは、〈車窓からの視点〉どころか、密室の形成にほかならないということだ。安全に外を見ているという感覚を失ったとき、解離的な自己像を維持することができず、社交用の自分(ロボット、列車、キャラクター)すら破綻してしまう。誰もいない場所や、誰にも見られない場所に撤退し、閉じこもること。だが、それはしんどさからの緊急避難であって、状況を好転させるものではない。

「素直に感じること」を取り戻す

 車窓すら塞いで密室にこもることを選んだ星野を変えたきっかけの一つが、俳優の生田斗真だった。生田は、限界状態にあった彼に気づき、ハワイ旅行へと誘い出したのである。実際、海外では「見られる」を意識することなく過ごすことができて解放的な気分を味わったようだ。しかし、上機嫌な旅行帰りに「送るよ、この車で帰ろう」と生田に声をかけた星野は、生田から語気を強めて否定的な言葉を受け取ることになる。カーテンに覆われ、真っ暗な車内で過ごすことを当然視する姿を見て、単に元気がないだけではなく、彼が密室で過ごしていることに気づき、覆いを外し、窓を開けるよう言ったのである。ちょうどハワイで経験したような解放を、車の中でも感じるべきだと。

 優しくてよく気づき、サポーティブに接してくれていた生田に「これはダメだ」と言われて、星野は窓を開けることを決意する。

それから全てのカーテンを外し、窓を開けた。日本で、夕焼けを見ながら風を感じるなんて久しぶりであった。

隠れることは、なんて馬鹿らしいんだろう。[8]

 ただカーテンを開けたのではない。それでは、単なる〈車窓からの視点〉だ。彼は、窓すらも開けた。

 つまり、〈車窓からの視点〉も、密室の形成も放棄した先にあるのは、窓を開けて、風を感じることなのである[9]。窓越しに切り離された世界を見つめるのではなく、自分の肌で世界を感覚することを、「素直に感じること」と表現している箇所もある[10]。要するに、『いのちの車窓から』という連載は、〈車窓からの視点〉を先鋭化した末に、密室の形成に至った彼が、「素直に感じること」を回復していくプロセスを描いたものだと整理することができる。星野が今後エッセイを書くことがあるとしても、この名前でありえないのは、もう彼が車窓越しに世界を見ていないからだ(『いのちの車窓から2』の最後に書かれているのは、まさにそういう趣旨の文章である)。

「素直に感じること」を取り戻した文章の後、感性的な表現と素直さを思わせる表現が、(彼自身の言葉でないものも含めて)以前より頻繁に登場するようになる。「星野君には同じ何かを感じる」。「昔から友達だった様な感覚を覚えていた」。「感覚になった」[11]。「感覚になった」[12]。「だが最近は高い場所にいることに恐怖を感じる」[13]。「それまであったこの世の中への無力感が、さらに強固なものへアップデートされた様に感じた」[14]。「最悪の気分でいることはむしろ素直で正常な反応である」。「堂々と思っていい」[15]。「何かが溢れそうになった」[16]。「窓の外を見た。茜色の夕日が部屋に差し込んでいる。そこを一羽の鳥が優雅に通り過ぎた」[17]。「今は率直に思う」[18]。「今はありえないと感じる」[19]。「今を、これからの日々を、より良く生きることにも繋がるはずだと感じる」[20]。「『無関係決め込んで嘲笑する奴らばかりの世の中でいちいちちゃんと怒るなんてやるじゃん』と褒めることだ」[21]。「実感できた」[22]。この調子でいくらでも挙げられるほどだ。

ウンザリするほど季節を感じること

〈社会と自己の解離〉からの回復、つまり、素直さの回復にとって鍵となるのは、第五回で論じた「無為」である。社交に沿った振る舞いは、しばしば「気に入られなきゃ」、「現場を引っ張らなきゃ」、「和気あいあいとした雰囲気を作らなきゃ」、「売れなきゃ」という強迫的な競争心や体育会系の忖度につながる。しかし、無為はこうした強迫性をすべて置き去りにする[23]。何もしないというと消極的な感じがするけれども、人は何もしないことによって、コミュニケーションの中に作動する圧力(ストレス)を忘れることができるのだ。

 言い換えると、無為は、自分が内面化してしまった社会規範や競争心から距離を置き、自分の感性の働きや、快・不快の感覚への再注目をもたらすものだ。だから、生田斗真に誘われてハワイに行き、「信じられないほど真っ赤な夕焼け、どこまでも青い海、笑ってしまうほどに美味しい料理を堪能した」ことは、無為の実践だったのである[24]。何もしないことで、「自分と世界、自分と社会を繋いでいた無限にあったルール」から外れ、「剥き出しの世界」を自分の肌で素直に感じることを取り戻したのである[25]

 そういう素直さを、「受容的」と言い換えてもよい。ドラマの撮影現場で、星野の音楽番組「おげんさんといっしょ」に影響を受けて今仕事をしていると共演者から言われたというエピソードを書いているが、共演者に倣って、無為という受容的な姿勢をとっているからこそ、そうやって声をかけられることができたのではないだろうか。車窓に隔てられたり、密室を形成したりしている状況では、外側からの声を聞くことができない。

 その列車から降りた状態、〈車窓からの視点〉というガラス越しに世界を体験するような感覚を失った状態を、彼はこう描写している。

ふと気づくと、流れる景色と私の間に、車窓はなくなっていた。

足元を見ると、車両の床ではなく、土があった。私は窓の外にいた。機関車の外にいる。周りを見回しても車両はなく、人もいない。景色も流れていなかった。[26]

 レールを逸れて自分の足で歩くこと、自分の素直な感情や思いを置き去りにせずにいることだ。

 そうした素直に感じることを取り戻す姿勢は、星野が元々持っていたものだった。『逃げるは恥だが役に立つ』のドラマが公開される前、主題歌の「恋」がリリースされた頃に——つまり、彼が透明でいられないほどの有名性を獲得する直前に——書かれたエッセイには、こんな一節がある。

仕事があるということ、忙しいということは、とても幸福なことだ。同時にリスクがいろいろと生まれるのでしっかりと対策を講じ、心を無くさず楽しく普通に生きられるように工夫をしたほうがよい。

その中でも大事にしたいのは、季節を感じるということである。

忙しさと季節との関係は太陽と月のようなもので、多忙であればあるほど、季節は見えなくなり、逆に暇であればあるほど季節を感じてウンザリもする。[27]

 自分の外側で起こっていることを「素直に感じる」ことの重要性を、かつての星野はすでに知っていた。多忙によって解離が先鋭化したために、その感覚を忘却してしまっただけなのだ[28]

 私たちは星野源ではないし、文章を通して見える彼は彼本人でもない。だが、もはやそうした論点はどうでもいいことだ。これが誰の描写であれ、「いい子」であろうとして、〈車窓からの視点〉を生き、〈社会と自己の解離〉を経験することは現代人にとって珍しいことではない。その意味で『いのちの車窓から』は、一種の寓話であり、私たちはそこから寓意を読み取ることができる。言葉と心が、社交と個人が分離し、ガラス越しに世界に接する人は、その安心感を奪われたとき密室に撤退するほかなくなる。だがそこには、ウンザリするほど季節を感じることが欠けている。『いのちの車窓から』は、ウンザリするほど肌で感じること、それだけの無為や暇を持つことの重要性を再認識するいいきっかけになる。


[1] 星野源『いのちの車窓から2』KADOKAWA, p.28

[2] 同書, p.45

[3] 同書, p.47

[4] 同書, p.67

[5] 同書, p.68

[6] 誰も自分を気にしていない海外では透明でいられるため気楽に過ごせるという一節もある。「日本だとどうしても行動が制限されてしまうけれど、海外は基本どこへ行ってもあまり面が割れることがないので、一日中外を歩き回れる。エネルギーもしっかり消費し、その分食べる。そんな生活の変化がとても楽しい。」同書, pp.86-87

[7] 同書, pp.70-71

[8] 同書, p.71

[9] 興味深いことに、バラエティ番組「あちこちオードリー」(2025年5月21日放送回)では、MCの若林正恭は、ゲストの星野源と、本稿が扱ったものと同様のテーマについて語り合った後、「いい風だったんすよ」「風が気持ちいい」と、風に言及しており、星野もその話題に同意している様子がうかがえる。

https://www.tv-tokyo.co.jp/achikochi_audrey/lineup/202505/25556_202505212306.html

[10] 星野源『いのちの車窓から2』KADOKAWA, p.70

[11] 同書, p.83

[12] 同書, p.99

[13] 同書, p.107

[14] 同書, p.118

[15] 同書, p.119

[16] 同書, p.139

[17] 同書, pp.139-140

[18] 同書, p.175

[19] 同書, p.176

[20] 同書, p.181

[21] 同書, p.207

[22] 同書, p.219

[23] 同書, p.159

[24] 同書, p.70

[25] 同書, p.239

[26] 同書, p.243

[27] 星野源『いのちの車窓から』角川文庫, pp.168-169

[28] 「くだらないの中に」(2011)のミュージックビデオ撮影で命綱を断ったエピソードは、解離的な自己が感じることを麻痺させるさまを明瞭に伝えている。「当時の感情を詳細に思い返せば思い返すほど、イキりではなく本当に怖くなかった、というか『落ちるかもしれない』という事柄に対し、なんの感情もない、という感じだった。」星野源『いのちの車窓から2』KADOKAWA, p.194

著者プロフィール
谷川嘉浩

1990年生まれ。京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。哲学だけでなく、社会学や文学、デザイン、ゲームなど多領域にわたって研究を行う。
著書に『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。共著に『読書会の教室』(晶文社)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、『〈京大発〉専門分野の越え方』(ナカニシヤ出版)などがある。