ままならない私たち~生きづらさを身体から考える

この連載について

「前へならえ」と言われたら、すぐにできるように「身体をしつけて」しまった私たちは、いつしか身体の声が聞こえなくなっているのかもしれません。
「小さく前へならえ」ができずに体が硬直してしまった経験のある尹さんと、社会主義国家による身体活動によって尊厳を傷つけられたと感じたグリゴレさん(その後チェルノブイリでの被爆体験も…)。
2人の身体は、自分の意識ではコントロールできない領域で、もっと敏感に色々なことを感じているようです。
自分だけのものだと思っていた「身体の違和感」をもっと見つめてみたら、生きづらさが和らぐかも。
そんな願いから、往復書簡がスタートしました。

第15回

山海の幸とルサンチマン 尹より

2024年5月1日掲載

 弘前に訪れた春の気配を感じるお便りでした。ミモザの触れたくはなるけれど、そうするにはあまりにデリケートな様子を思い浮かべ、何事も好奇心のままに触れていいわけではないのだし、この世界には目に見えない境界が確かにあることを思い返しました。

 高崎の今年の桜は咲くのが遅く、4月に入ってから咲き始めました。と言っても私の子供の頃は、入学式の時期にちょうど桜が満開になるのが当たり前でしたから、季節のめぐりについて早い遅いというのも人間の勝手でしかないのでしょう。

 先述したように、私はいま群馬に住んでいます。その前は京都に住んでいました。さらにその前は長野、福岡、東京、神戸と移ろっています。近頃は引っ越すペースも2年周期と早まっています。子供の頃、将来について具体的に描いたことはありませんが、なんとなくひとつところで働き、定住するものだとばかり思っていたので、まさかこういう暮らしをするとは思ってもいませんでした。
 もしかしたら「旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る」ことになるのかもしれないなと、先日旅先で54歳を迎えた折に思ったのです。当の芭蕉はと言えば、50歳で亡くなっていたのでした。そう思うと、私の人生はもう余生に入ったとみなしたほうがよいのかもしれません。その方が伊能忠敬や北斎みたいにやむにやまれぬ思いのままに生きることができそうな気もしてきます。

 旅に出ていたというのは、新著(『句点。に気をつけろ』)の刊行にかこつけて尾道から海を渡り高松、高知へと抜け、各地でトークイベントやワークショップを行っていたのです。
 尾道と言えば、小津安二郎の「東京物語」。尾道の街中にも笠智衆と原節子が佇む写真が張り出してありました。
 私はときどき料理をしながら、あるいは風呂で髪の毛を洗いながら不意に小津安二郎ごっこをします。実際にあったセリフではなく、笠智衆と原節子が映画で言ってそうなセリフのふたり一役です。

「そうかい」
「そうですわ」
「そんなもんかい」
「ええ、そうですわ」

 意味を伝えることに過剰な今どきの風潮の中で、小津の作品に見られる日本語は不気味にも感じ、そしてまたなんとなく懐かしくもあります。何が「そう」なのか皆目見当がつかないわけでもない辺りが、妙にむず痒くもなるし、言葉はこういうのでいいのかもしれないとも思えてきます。彫琢(ちょうたく)の果てに意味を失ったようにも見えます。もしくは暮らしの間尺(ましゃく)で入り用の言葉とは「そういうもの」なのかもしれないのであれば、ことさら意味を見出そうとする手つきの粗雑さをかえって思うのです。入り用と書きましたが、今どきの私たちの「生活の柄」はどんなものになっているでしょう。

 尾道もそうでしたが、瀬戸内海の穏やかな海の表情が空に滲んだ青さは、神戸に生まれた私としてはとても落ち着くのです。瀬戸大橋を渡り四国に近づくほどに、神戸よりは青が少し濃くなる印象です。
 高松を訪れると定宿にしているスタジオでオーナーと話をするのを毎度楽しみにしています。彼女は映像作家で、近年は瀬戸内の様々な祭りを撮影しているそうです。
 船のドックが彼方に見えるスタジオのキッチンでコーヒーを飲みながら、いろんな話を互いに持ち寄りました。江戸期から続いた、ある島の網元の立派な家が解体されホテルになること。酒樽を締める、竹を割いて編んだ箍(たが)を作る職人が途絶えつつあること。剣術に欠かせない木刀の作り手も減っており、良い樫(かし)も手に入りにくくあること。
 身近なところ遠いところから失われていく事柄がたくさんあります。そうしたものを支えていた、文字に残らない技があり、そこに幾代にもわたる人生が織り込まれている。そこで交わされていた言葉たちは、職能たちにしか通じない暗号のようであり、でも表面は「そうかい」で済むような言葉でしかなかった気もします。「そうだからそう」以外に説明のしようがない。何気なさすぎて気にもとめられない。

 高松から高知へ向かう列車の中、『忘れられた日本の村』(筒井功著)を読んでいました。アイヌの言葉の名残をとどめるマタギの村や天皇の即位に当たって麻の礼服を貢納し続ける山奥の村。この狭い島の襞(ひだ)に折り畳まれた暮らしの何とさまざまなことだろうとため息が出ます。代々行ってきた数多くの習わしがあり、それが当たり前であったことが当たり前すぎて、いつの間にか蒸発してしまった。車窓から山間の風景を見て思い出したのは一昨年、木曽福島で出会った地元の古老に聞いた70年ほど前の暮らしぶりです。

「この辺りに昔、馬市があって、あそこに見える峠を越えて馬5、6頭を連れて来たもんよ。仲買人がおって、そりゃたくさんの馬がおった。百姓やりながら馬を飼っておった」

私が「峠の道はとても狭かったですか?」と尋ねたのは、柳田国男の『遠野物語』や『忘れられた日本人』(宮本常一著)に登場する土佐源氏を思い浮かべたからです。

「そう、狭い。途中に川があって馬が怖がって渡りたがらん。目隠しをして渡らせた人もおった。女衆が笹を刈って背負って。笹は軽いもんだから」

笹を飼葉(かいば)代わりにしたのかと意外に感じたのは、馬を知らないがゆえのことです。

ご老体は最後にこう言いました。
「朝早くから親に追い立てられて子供にはつらいことよ。今は恐ろしくて(峠の道は)通れんよ」

 民俗学の本で、人が通れるほどの狭い道を馬や牛を追う人の話を読んだことがあっても、まさか実際に経験した人の話を聞くとは思いもしなかったのです。馬を追うにも技があることでしょう。峠には道路が開鑿(かいさく)されて、老翁がかつて通った細い道はもう踏み固められることもなく、木々が覆ってしまっているかもしれません。

 高知駅に着いたアナウンスを聞いて我に返り、前回この地を訪れた2014年のことを思い出します。その折は、パタゴニアの元日本支社長だったジョン・ムーアさんを訪ねました。
彼は仁淀川を遡った先の戸数もわずかな、平家の落人が開いたとされる集落で伝統野菜の種を集める活動をしており、その取材に訪れたのです。印象に残っていたのは、車で街道を走っていると「よろず悩み相談引き受けます」といった、拝み屋と思しき看板をいくつか見かけたことです。拝み屋とは~暮らしにまとわりつく霊的な障り、生きていく上での困難ごとを晴らす稼業と言えばいいでしょうか。
 さすがは空海が修行しただけあってか、山岳での行に励む修験(しゅげん)やとか呪力で願いを叶えようとする雑密(ぞうみつ)とかがまだ完全に干上がっていない感じです。その界隈に詳しい同行のカメラマンがすれ違った老婆の顔を見て、「犬神憑きのような顔をしてますね」と言ったのでよく見れば、シャーマンだった私の祖母にそっくりでした。

 10年ぶりに訪った高知でのトークイベントは参加した方の雰囲気もよく、その空気のまま終了後に宴が催されました。真夜中に藁焼きのカツオに舌鼓を打つなど、海と山の幸を存分に味わったのです。高知は県民所得が全国最下位と数値ではそのように発表されていますが、それとそぐわない食の豊さを大いに感じました。
 私が高知で過ごした中でとりわけ覚えているのは、イベントに参加した方からの「ルサンチマン」についての話でした。日本語では怨恨や嫉妬とも訳される語ですが、下手に日本語に引き寄せるよりは、ルサンチマンはルサンチマンとして理解した方がいいと、発言した人からの提言もあり、それに従ってみます。

 「戦争は、政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならない」(クラウゼヴィッツ『戦争論』)という言明が良くも悪くもヨーロッパが育んだ合理主義だとしたら、その冷徹な知性に一貫性があるかと思いきや、この頃の世界情勢を見ると、独裁者の結局は極めて個人的な感情、ルサンチマンに基づく個人の態度が戦争の発端になっているのではないか。その方はそう話しました。

 もし政治や経済やその他の要素の高度で複雑な絡み合いが戦争遂行の大きな歯車となっていたとしても、最初の一押しが個人の感情の問題とすれば、権力者の抱くルサンチマンそれへの処方箋は言葉によって成し得るだろうか?とも彼女は問いかけました。そうなると道徳という規範を持ち出すか。倫理という内面の掟に目を向けよ、と言明するか。
 またしても言明という言葉、つまり概念に頼る以外に術はないのでしょうか。人間は概念を実行するように仕向ければ、上等な存在になれるわけではないでしょう。人間の知性は言葉に基づくと思われ過ぎているから、そのように勘違いされているけれど、そうではないのではないか。
 ルサンチマンを引き起こす根は言葉ではなく、記憶に、すなわち身体にあり、そこに近づかない限り、人間を戦争へと誘う感情の炎は消えることはないのではないか。大意において、そういうことを彼女は言おうとしました。

 言葉ではなく身体である。ここに飛躍を感じる人もいるでしょう。戦争を個人に還元しても仕方ない。システムの問題として扱わないと、また同じことの繰り返しだろうという人もいるでしょう。そうかもしれません。ですが、何度繰り返したら気が済むのでしょう。同じことを繰り返しながら新たな結果を求めることはできないはずです。一人ひとりの存在のあり方がこの世界を作り上げているとしたら、やはり一人ひとりが明晰に自身を把握しない限り、戦争は確かにやむことはないでしょう。

 己が何者かを探ること。私はどこから来て、どこへ去るのか。辿ることのできない淵源(えんげん)へと私たちの存在は、身体は、記憶は繋がっています。謎は深く、それへと辿ることができないのは、不可能だからなのか。それとも記憶できないくらいの圧倒的な確かさがそこにあるからなのか。
 私たちの身体、生命はそこからやって来たし、いずれそこへとひとり去っていくのは確かなようです。ですから、極めて個人的なところから紐解かない限り、何も始まりはしないのではないかと思うのは、そう間違ってはいないように思います。

著者プロフィール
尹雄大 × イリナ・グリゴレ

尹雄大(ゆん・うんで)
1970年、神戸市生まれ。テレビ制作会社勤務を経てライターになる。主な著書に『つながり過ぎないでいい』『さよなら、男社会』(ともに亜紀書房)、『異聞風土記』(晶文社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)など。身体や言葉の関わりに興味を持っており、その一環としてインタビューセッションを行なっている。

イリナ・グリゴレ
1984年ルーマニア生まれ。2006年に日本に留学し、2007年に獅子舞の調査をはじめる。
一時帰国後2009年に国費留学生として来日。弘前大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院博士課程に入学。主な研究テーマは北東北の獅子舞、日本で生活する女性の身体とジェンダーに関する映像人類学的研究。現在はオートエスノグラフィー、日本における移民の研究を始めている。