詩人の結婚 作曲家と暮らしてみたら

この連載について

詩人が、ひょんなことから作曲家と結婚した。詩人と作曲家。ことばと音楽が紡がれる、さぞかし優雅な日々になるかと思いきや……。二人のユニークな結婚生活と創作の日々をお届けします。

第1回

詩人と結婚した時点で覚悟してるよ

2025年7月23日掲載

 夫は作曲家である。言ったそばから変な感じがする。音楽を専門的に勉強してきたわけでもない自分の結婚相手が作曲家だなんて、何かの間違いじゃないか、と思う。
 しかも妻の私は詩人。「生きてる詩人っていたんですね!」と言われてしまうような浮世離れした肩書き。つまり「詩人と作曲家の夫婦」というわけだ。 

 先日は美容院で、初めて担当してもらったカラーリストさんとこんな会話をした。
「旦那さんは何をされていらっしゃるんですか」
「作曲家です」
「へえー。詩人と作曲家!? 芸術家夫婦なんですね」
「いやいや、そんなこともないんですけど」
「作曲家ってことは、音楽の人ですよね? 音楽家と一緒に暮らすなんてロマンチック!」
 意外と好意的な反応に驚く。結婚前は正直、詩人と作曲家の夫婦なんて聞いたことがない、これほど胡散臭い組み合わせはないのではないか、と心配していた。ポジティブに受け取っていただけるのは嬉しい。皆、面と向かっては本音を言えないだけかもしれないけれど……。

 だがしかし。現実は「ロマンチック」とは程遠い。同じ家に〆切を抱えた人間が二人、顔をつき合わせて住んでいるのだ。すべてを優雅に、ゆったりと暮らすことなんて不可能だ。第一、一言で作曲といってもだな……と私はあるトラウマを思い起こす。

 四年前、坂東がお箏の演奏家のために「間の観察」という新作を制作していた時期のことだ。ちなみに「お琴」の表記が馴染み深いが、邦楽の世界では「お箏」が正しいようだ。言わずと知れた日本の伝統的な弦楽器で、お正月の時期になると、その優美な音色を耳にする機会も多い。私もそんなイメージを抱いていたのだが……。
 死 ぬ 。奇怪な音色がリビングにまで響き続け、執筆中の私は発狂しそうになった。絶妙に不安定な響きと、異様な緊張感。うまく表現できないが、人間に本来備わっているべき平衡感覚が失われてしまうような、「自分は一体何を聴かされてるの⁉」と頭を抱えたくなる曲なのだ。
 坂東曰く「既存の音階を微分音で崩しまくり、三半規管がめまいでグルグルになる音響を作れないか」という試みだったらしい。そりゃトラウマにもなる。加えて、そういう話をするときの坂東がひどく嬉しそうな顔をしていることを、私は見逃さない。自分が完璧に設計した作品で、聴衆の身体反応までコントロールしたい。作曲家には、理想を実現化するための執念と、ある種の支配欲を垣間見ることがある。

 あるときは「観て!」と尺八の演奏の動画を見せられる。通常、縦で吹かれるはずの尺八が横笛になっている。尺八なのに奏法はフルート。それ、ありなのか(ふざけているわけではなく、彼は作曲家として至極真面目に取り組んでいる)。彼はさらに、尺八を逆側から吹くありえない奏法を打ち出し、「象息(ゾウソク)」と名付けた。見た目も音色も、長い鼻を振りかざして鳴き立てる象そっくりだ。果ては、それらを主軸にしたコンサートまで開催。観客はみんな驚き呆れて笑っていた。

 それに比べると、私の作業は幾分地味で孤独だ。自分の中のイメージや思念を探りながら、言葉に写しとる作業なのだから。〆切前の私は「見ているこっちの胃が痛くなりそう」な様子らしい。坂東曰く、身体中が緊張していて、ギュ〜〜〜ッと自分の内側を絞り出す音が聞こえてきそうとのこと。
 やがて朦朧としたままトイレに駆け込む。ストレスですぐお腹を下すからだ。乱れた髪と、血の気のない顔でパソコンに向かう。どうも原稿がぱっとしない。段落を入れ替えてみる。うう、この表現で読者に伝わるだろうか。奇怪な箏の音が響く。ゔびぃぃぃぃ〜ん。うああああああああ!

 ……これが我が家の飾らない日常である。

 波乱の要因の一つは、夫・坂東祐大の作曲家としての守備領域が非常に広いこと。現代音楽をメインに活動する傍ら、ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』や、アニメ『怪獣8号』など映像音楽の分野でも活躍。米津玄師や宇多田ヒカルの楽曲にアレンジに参加したこともよく知られており、実は「報道ステーション」のテーマ曲まで手がけている。どれが彼の代表的な仕事かと言われると、少し困ってしまうほどだ。
 私はというと、10代で現代詩手帖賞や中原中也賞といった詩の新人賞を受賞して文筆活動を開始。以来「詩人」の肩書きで詩集やエッセイ集を7冊刊行している。かつては「JK詩人」と呼ばれた時期もあったが、デビューから17年目を迎え、大学で詩の創作も教えるようになり、今や立派な(?)アラサーである。

 気づけば一緒に暮らし始めて(結婚前の同棲期間も含め)4年が経つ。正直何の心の準備もなかった。それは坂東も同じだったと思う。相手の事情に巻き込まれ、自分の厄介な事情に巻き込み、それぞれの仕事に打ち込み、互いの人間関係に巻き込んで。気がついたらこうなっていた。「気がついたらこうなっていた」という漫然とした状態を、我々を知らない人に説明するのは難しい。

 この結婚エッセイの連載を始めるにあたり、私は何度か緊張しながら坂東に尋ねた。「本当に書いてしまっていいの」、つまりは書かれる覚悟があるのか、ということだ。彼は半分おどけたように、けれど迷いなくこう答えた。

「詩人と結婚した時点で覚悟してるよ」

 私は空を仰ぐ。今までこの手の言葉を信用して何度失敗してきただろう。過去の恋人たちの顔が浮かぶ。「書かれるのが怖かったら詩人と付き合ったりしないよ」と笑える余裕があるのは、関係が良好なときだけなのだ。
 私はなおも食い下がる。自分たちを知らない人から感想として色んなこと言われるよ、ネガティブな意見も言われるかもよ。それって大丈夫なの?
 彼は腕組みをして、少し考えている様子。
「面白く書いてくれたらいいよ。うーん、でも営業妨害になりそうなことはやめて」
 その回答に安堵する。でも首を傾げる。作曲家の営業妨害って、逆に何?

 正直私はまだ「結婚エッセイの正解」がわかっていない。夫は他者でもあり、自分の身内でもある。他者として相手を尊重しつつ、身内の目線で親しみやすく、かつ第三者が読んでも面白いように(もちろん、ただの「夫自慢」になってはいけない)書かなくては。元々自分から「書きたい!」と意気込んでいたはずが、そう考える度に少し気が重くなっていった。
 なぜなら、私は人と暮らすことに向いていない。生活力はゼロだ。すぐに部屋は物で溢れるし、洗濯物は溜め込むし。丁寧な暮らしへの興味も、特別なルーティーンやこだわりもない。「家」というものに対して、いつも「恥」や「ジャッジされる」という後ろ向きな感情を抱いている。女性が家事を担うべきとは全く思わないけれど、少なくとも「自分は妻として全く正解じゃない」という罪悪感がつきまとう。
 20代の頃は「結婚できない」「恋愛向いてない」「きみと合う人はいない」と否定的な言葉をかけられて、心が折れかけたことが何度もあった。結婚や恋愛ってそんなにいいものなの? 人と暮らすってそんなにえらいこと? と反感を抱いていた時期も長かった。
 そんな私がたまたま「結婚できた」からって、意気揚々と結婚エッセイなんて書いていいのか? そんな資格ある? それって今までの読者を裏切ることにならない? そんな思いに苛まれて、滑稽なことに第一回にして筆が止まりかけていた。真面目に考えすぎて無能化するのは、自分の良くない癖だ。

 悩んだ私は、坂東と一緒にマンションのゴミ捨て場に段ボールを運びながら(生活感よ)尋ねる。
「ってかさ、結婚エッセイの目的って何? なんで書くんだっけ? 出版社に依頼されたから書く、って本当にそれだけでいいの?」
 坂東はこともなげに答えた。
「僕が書いてほしいって頼んだからじゃない?」
 ああ、そうだった。彼はなんでも「面白がりたい」人なのだった。どんな恥ずかしいこと、ついてないこと、傷ついたことにも「それ書いた方がいいよ。面白いよ」とよく口にしている。私が書こうとすら思わなかった些細なエピソードでさえ「今話したこと、エッセイで読みたい」と言ってくれる。
「詩人と結婚した時点で覚悟してるよ」という言葉を思い起こす。書くことへの「覚悟」が決まっていないのは、むしろ私の方だった。

 自分たちの営んでいる生活を「正解」なんて全く思っていない。むしろそういうのは、押し付けがましくて「気持ち悪い」とさえ感じてしまう。私たちは、創作と日常の危うい橋を渡りながら、面白おかしく、なんとかやっているだけ。でも世の中の正解に合わせていたら、心が追いつかなくて死んでしまう。
「結婚がいいものか」、まだ結婚ビギナーの私にはわからない。相手をちゃんと支えられているのかどうかも正直自信がない。私も夫も正しい大人ではないし、標準的・模範的な夫婦でもない。むしろ、超レアケースだ。今まで両親も恋人も、私を「模範的な妻」「模範的な女」にさせようとしてきた中で、坂東は私の生き方を受け入れた(諦めてくれた)。それが私には救いだった。

 目の前にいる夫は、間違いなく面白い。興味深い人。というか、「変な人」だ。色々と葛藤したけれど、この人と暮らしていながら慎ましく黙っているなんて、やっぱり私にはできない。彼と暮らし始めて、人生は激変した。けれど、今後10年も一緒にいたら、私はこの暮らしに鈍感になるかもしれない。
 その前に新鮮な目で綴ってみたいのだ。「詩人が作曲家と暮らしてみたら、お互いどうなってしまうのか?」と。
 どうか温かな目で(好奇心でも構わない)この連載を見守っていただけたら嬉しい。

著者プロフィール
文月悠光

ふづき・ゆみ
詩人。1991年北海道生まれ。10歳から詩を書きはじめ、高校3年の時に発表した第1詩集『適切な世界の適切ならざる私』で中原中也賞、丸山豊記念現代詩賞を最年少18歳で受賞。詩集に『屋根よりも深々と』『わたしたちの猫』『パラレルワールドのようなもの』(富田砕花賞)『大人をお休みする日』。エッセイ集に『臆病な詩人、街へ出る。』『洗礼ダイアリー』。夫は作曲家・坂東祐大。2023年度より武蔵野大学客員准教授。