ふたりの読書会

この連載について

書評家のワコさんと大学生のリリ。三〇歳も年の離れた、二人きりの家族。
親子のようで、親友のようで、そのどちらでもない。
二人は、いくつもの本を通して日々揺れ動く気持ちを伝えあう。
白い蝋燭に火をともしたら、二人きりの読書会が始まる。
ゆっくりと心が満ちていく読書の時間へ──。

第3回

夕闇にすいか 前編

2025年7月10日掲載

 夕方は苦手。空があやしい色に染まって部屋の中が薄暗くなっていく。それは誰にも止められなくて、どうしようもなくて、なんだか悲しくて不安になる。これは、淋しいという気持ちの中の特別な一ジャンル。空はきれい。きれいだと思う。どんなときも。きれいで、恐い。ずっと見ていると、ドキドキしてくる。空を見ながら、待ってた。たいていひとりで。でも、ワコさんと待っていたときもある。ワコさんが私のことをなんにもかまおうとしないぶっきらぼうな感じが好きだった。ワコさんといたときの夕方は、あまり悲しくはなかった。じゃあ今は、ワコさんとずっと暮らしてるから、悲しくはないのかな。いや、悲しくないわけじゃないし、不安じゃないわけじゃない。あの特別な一ジャンルは、消えることはない。でも、だいぶ薄い。なんだろうね、好きなのに。

 リリはそんなことを思いながら、床にしゃがんで窓から夕方の空を見上げていた。今日はワコさんがめずらしく夜の会食にでかけて、久しぶりに一人の夜を迎えようとしていた。もう一九歳なので留守番が不安だったり悲しいわけではなく、一人でゴロゴロするのは悪くないのだった。でも、のんびりの草原にふいに現れた亀裂にすっぽりと入りこんでしまったように身動きができなくなる。

 リリは目を閉じて深呼吸をするとゆっくりと身体を傾けて床に寝そべった。どんどん暗くなる部屋にあわせるように意識からも光が消えていくように眠りに落ちていった。

 

 次に目が覚めたときは、あたりはすっかり暗くなっていた。時計は午後七時をまわっている。窓に雨が当たる音がかすかにしている。

「時間どろぼうのワナに落ちちゃったねえ〜」

 暗闇で目を覚ましたとき、母親のそんな声が蘇ってきた。リリは、生前の母親が仕事から帰るのを部屋で待っていて寝てしまうことがよくあったのだが、買い物袋を提げた母親は一言リリに声をかけると、部屋の電気をつけ、手を洗い、冷蔵庫に食べ物を入れ、食事のしたくをする、といったことをあわただしくこなしていった。リリは寝起きのぼうっとした頭でそれらを映画でも観るように眺めていたのだった。仕事着の白いシャツをたくしあげてテキパキと調理をする姿は、かっこいいな、と思っていた。

「さっさと起きて、時間を取り戻さなきゃ。宿題はしたの?」

 母親はキッチンから声だけを送ってきた。その声がスイッチを押したかのように、リリは「はい」と返事をすると、しゃきっと起き上がった。

 今は、どれだけだらだらしていていも「時間どろぼうのワナ」とか言う人はいないな、とリリは思う。自分で起きなきゃ。

 暗闇の中に、すっと立ち上がった。

「さっさと起きて、時間を取り戻す。腹が減っては戦はできぬ」

 つぶやきながら冷蔵庫を開いた。野菜室にはキャベツやトマト、にんじんなどの基本的な野菜がつまっていて、チルド室にも豚肉と鶏肉が並んでいる。ワコさんが一通り買いそろえていた。中学生までは、でかけるときはおかずを作りおいてくれていたが、高校生なってからは、もうできるでしょ、とばかりに、食材を置いていくようになった。

 母子家庭だった頃から、リリは焼きそばなどの簡単な料理は作っていた。最近は普段の食事もワコさんと交代で作っているのだった。

「あ、これ、昨日の残りの鶏ハムだ」

 赤い蓋の密閉容器をリリは取り出した。ワコさんが塩麹につけて作り、ゆうべサラダにして食べた鶏ハムの残りが中に入っていた。

「これで何か……。今日はちょっと蒸し暑いし……そうめん、あったかな」

 鍋にたっぷり水を入れて火にかけた。そうめんをゆがくための湯が沸くまでに鶏ハムときゅうりと大葉を千切りにし、トマトを櫛形に切った。さらにつゆの素を目分量で三倍に薄め、すり下ろした生姜と共に深皿に入れた。

「そうめんは冷やしすぎない方が好きなのです」とひとりごとを言いながら、茹でてさっと水に通したそうめんをつゆの中にざぶんと漬けた。その上に鶏ハムときゅうりとトマトをもりつけ、最後に大葉と白ゴマを散らした。「かわいいのできた。いただきます」とリリは小さな声で自画自賛し、手を合わせた。

 そうめんを食べ終え、皿や調理器具を片づけて一息つくと、しずかだなあ、とリリは思い、雨の音がしなくなっていることに気づいた。

「雨、止んだんだ」

 窓をあけると、なまあたたかい空気が入りこんできた。ベランダの手すりに無数の水滴がついている。梅雨時期の、ひとときの雨上がり。建物や道路や草木が、天然のシャワーを浴びたあとの湿気を放っている。夜の空気がなんだかもあもあ、そわそわしている、とリリは思う。

 サンダルに素足を入れ、スマートフォンを首から提げて、リリは散歩に出かけた。

 夕方に眠ったので、頭も感覚もすっきりと冴えている。薄雲を透かして半月が光っているのが電線ごしに見えた。雨上がりの匂い。生き物の気配、そして夏が始まる気配でもあるな、とリリは思う。淡いけど、そわそわを促す匂い。これ、あれだ、すいかだ。すいかの匂いに似てるんだと思う。と、リリの視界の隅にすいかが映り込んだ。

「あれ?」

「あっ」

 すいかの持ち主は、ワコさんだった。

「すいか!」

「今年初めて買ってみたけど、そんなに大きな声で驚くこと?」

 ワコさんが楽しそうに笑った。

 ワコさんは、お酒が少ししか飲めない体質もあって、二次会などには決して参加せず、たいてい早めに帰ってきた。今日も駅に着いたときには果物屋がまだ空いていたので、なにげなく目についた小玉すいかをお土産として買ったところだったのだ。

「だって、今の今、すいかの匂いがするなあ、って思ってたところだったから」

「すいかの匂い……?」

 ワコさんは顔を上げて、鼻からすーっと深く息を吸った。

「ああ、たしかに、そんな気もする。夏が始まりそうな雨上がりだもんね」

「そうそう、そうだよね!」

 リリはうれしそうに軽く跳ねたあと、すいか、貸して、と言ってワコさんからすいかを受け取り、顔を近づけた。

「切らないと匂いはあんまりしないね」

「汁をしたたらせないとね。そうそう、〝すいかの匂い〟っていう名前の本があるんだよ」

「え、ほんと!?」

「江國香織さんのわりあい初期の短編集でね、子どもの視点で夏の想い出が描かれていたと思う。とってもいいよ。リリも気に入ると思う。帰ったら探すね」

 

 ワコさんは帰り着くなり、はしごを使って天井まである本棚の一番上を探った。二重に本が入るようになっているので、外側の本を片手で慎重に避けながら奥を探った。

「あったあった、これこれ!」

 ワコさんが片手に白い本を握ってはしごを降り、途中でリリにその本を手渡した。左上に作者(江國香織)と本のタイトル(すいかの匂い)が書いてあり、真ん中にどんとすいかの絵が掛かれている。絵、といっても色鉛筆の赤と緑の二本の線のみのシンプルを極めた描写のすいかである。

「わあ、なんてシンプル。勇気ある装画だね」

「イラストレーターの安西水丸氏の絵なんだよ」

「へえ……」

 リリは、ゆっくりとページをめくった。

「すいかを食べると思い出すことがある。九歳の夏のことだ。母の出産のあいだ、私は夏休みを叔母の家にあずけられてすごした」

 最初の二行を読み上げた。

「いいね。いいはじまり」

 さらにページをめくって「夕方」の文字が目にとまった。

  

 ≪ いちばんせつないのは夕方だった。帰りたい気持ちがからだの奥からつきあげてきて、いてもたってもいられなくなる。私はからだの小さい子供だったが、まるで自分のからだが飼いならされていない猫かなにかになったみたいに、自分で自分をもてあました。≫

  

「飼いならされていない猫」

 思わず声に出した。「夕方」という言葉にまず反応したリリだったが、このフレーズにしんそこ感心したのだった。

 「読む?」とワコさんが訊くと、リリは、「うん」と力強く答えた。

 

「夕闇にすいか」後編につづく

<引用文献>

江國香織『すいかの匂い』(新潮社)1998年刊

掲載ページ P.9・1~2行目、P.11・7~9行目

著者プロフィール
東直子(ひがし なおこ)

広島県生まれ。歌人、作家。
1996年、「草かんむりの訪問者」で第七回歌壇賞受賞。2016年、『いとの森の家』で第三一回坪田譲治文学賞を受賞。
2006年に初の小説『長崎くんの指』を出版。
歌集『春原さんのリコーダー』『青卵』『十階』、小説作品『とりつくしま』『さようなら窓』『薬屋のタバサ』『晴れ女の耳』『階段にパレット』『ひとっこひとり』『フランネルの紐』、エッセイ集『一緒に生きる 親子の風景』『レモン石鹼泡立てる』『魚を抱いて 私の中の映画とドラマ』、歌書『愛のうた』、『短歌の詰め合わせ』、『短歌の時間』『現代短歌版百人一首 花々は色あせるのね』、穂村弘との共著『短歌遠足帖』、くどうれいんとの共著『水歌通信』、詩集『朝、空が見えます』、絵本『あめ ぽぽぽ』(絵・木内達朗)、『わたしのマントはぼうしつき』(絵・町田尚子)など著書多数。