老いのレッスン

この連載について

「高齢化」が社会問題として語られるようになって久しい現在。約3割が65歳以上の高齢者で占められる日本は今後ますます高齢化が進むと予測され、若者の社会保障の負担増や経済の衰退など、数々の課題が声高に叫ばれています。
また、男女ともに平均寿命が80歳を超える現代では個人が「老い」とどのように向き合うかも重大な課題となっています。
社会全体の「老い」、そして個人の「老い」と、人類が経験したことのないフェーズに進み続けています。
先の見えない時代だからこそ、社会と個人の両面から「老い」とはなにかを考え、どのように老いと向き合っていけばよいかを思想家と武道家の2つの顔をもつ内田樹氏と模索していきます。

第1回

「老いる」とはどういうことか

2024年4月25日掲載

<担当編集者より>

 内田先生、こんにちは。

 大和書房の刑部です。このたびは連載をお引き受けくださり、誠にありがとうございます。

 「老い」をテーマにお話をお伺いして参ります。まさに最近、高齢者の「集団自決」を求める発言が話題を集めていましたが、こういった言説に共感が集まる現状について、内田先生のお知恵をお借りしながら、向き合っていかなければならないと改めて感じております。

 さて、まずお話をお伺いしたいのは、社会の「老い」についてです。

 高齢者の扱いの変化が気になっています。「亀の甲より年の劫」ということわざがあるように、かつては年長者の経験や知恵を尊重し、敬うことが良しとされていた記憶があります。

 しかし、いつのまにか「老害」という言葉が市民権を得て、それと同時に「古いものより新しいものがよい」「古いものは前例踏襲的で悪いもの」という価値観が浸透したように感じています。

 一体いつごろから「老い」を社会の「害」とみなすようになったのでしょうか(昔からこのような考えはあったのでしょうか)。また、「老害」について内田先生はどのようにお考えでしょうか。

 こんにちは。内田樹です。

 これから刑部さんと「老い」をめぐって往復書簡をやりとりすることになりました。「老い」についても、「老害」という不穏当な言葉についても、僕は気がつけば当事者なわけです。自分のこととして「老い」について語る日が来るとは、しばらく前までは思ってもいませんでした。

「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」というのは「古今集」の在原業平の歌ですが、これは生老病死のどれについても当てはまることだと思います。いつの間にか、気がつけば、ことの当事者になっていた。人生って、そういうものだと思います。

 と書いてしまうと、もうそれで結論らしくなってしまいますけれど、ほんとにそうなんですよ。僕だって、ちょっと前まで19歳くらいのつもりでいたんです。だって、中身がその頃とあまり変わってないんですから…。中身は19歳のままで「がわ」だけがどんどん加齢していって、気がつけば古希を過ぎ。そんなものなんです。

 でも、中身にも実はそれなりの変化はあります。それを果たして「成熟」と呼んでよいかどうかはわかりませんが、かなり大きな「変化」があります。それは「老い」を受け入れることができる能力が身についたということです。「老いる力」と言っていいのかな。子どもには決して持つことができない力を老人は持っている。そういう言い方をしてもいいと思います。

 ちょっとSF的な想像をしてみてください。もし19歳の僕がいきなり「中身は19歳のまま外側が70歳になった人間」にされたら、どうなるでしょう(韓流ドラマとかでありそうな設定ですね)。たぶん、頭が真っ白になって、どうしていいかわからないと思います。「理不尽だ」と怒り出すかも知れないし、絶望してへたりこんで泣き出すかも知れない。

 じゃあ、その逆はどうでしょう。今の僕が「19歳」に戻ったとしたら。

 たぶん当座はうれしいでしょうね。節々が痛むこともないし、跳んでもはねても、疲れるということがないんですから。最初のうちは「わ~い、膝が痛くない~」とうれしがって跳ねまわるかも知れません。でもそのうちになんかそういう身体を持てあますようになると思うんです。

 だって、たとえば性欲とかすさまじいわけでしょう。ちょっと気を許すと、脳裏が「そういうこと」で埋め尽くされてしまう。レヴィナスの本なんか開いたって「おっさん、なにわけのわかんないこと言ってんだよ。俺はくそ忙しいんだよ」と放り出してしまうかも知れない。暴力性とか攻撃性も、今の比じゃないですからね。誰かの書いたものを読んでも話を聴いても、すぐに「げ、むかつく。なんだよこのやろ。殺すぞ、こら」的なリアクションをしてしまう。あ、これは別に「19歳一般」の話じゃなくて、「19歳の内田樹」のことですから、間違えないでくださいね。

 そういう「血気みなぎる」身体に戻されたら、それはそれで僕はすごく困ると思うんです。過去に一度そういう「血気みなぎる身体」をかつて生きたことがあって、そのせいでしなくてもいいことをし、傷つけなくてもいい人を傷つけ、壊す必要のないものを壊したことを73歳の僕ははっきり記憶していますから。そういう時代を通過して、「あれはいかん」ということをしみじみ反省して、これからは生き方を改めようと思った。そして、かなり努力をして、「あまりよけいなことをしない人間」に(これでも)なったんです。

 柳生宗矩の書いた「兵法家伝書」には「機を見る 座を見る」ことの大切さが説かれています。そこには、人がトラブルに巻き込まれるのは、「いなくてもいい時」に「いなくてもいい場所」にいて、「しなくてもいいこと」をするからだと書かれています。場違いなところにいて、場違いなことを言って、それが祟って命を落としたやつがいくらもいる。だから、武道の要諦は「そういうところにいない」ことなんです。それに尽きる。

 これはまったくその通りで、19歳の内田樹は「いなくてもいい時に、いなくてもいいところで、しなくてもいいこと」をしてトラブルに巻き込まれることばかりしていました。それは「血気みなぎる身体」がそういう無用のトラブルに魅了されていたからです。本人もわかっていたんです。「ああ、こっちに行ってはいけない」とか「この人とかかわってはいけない」とか「こんなことをしてはいけない」とか、ちゃんとわかっているんです。でも、「わかっちゃいるけど、やめられない」(@青島幸男)んです。そうやって「しなくてもいいこと」をして、傷ついたり、人を傷つけたりしてないと「持たない」というのが19歳なんです。

 そのことは本人だから熟知しております。あれをもう一度繰り返せと言われたら、それだけは勘弁して欲しい。

 だって、身体だけは「血気みなぎる」19歳のままで、机に向かってこりこり身辺雑記を書いたり、古い文学書や哲学書を読んだり、古い音楽を聴いたり、古い映画を観たり、ときどき武道と能楽の稽古をするだけで「持つ」わけないんですから。しかたがないから、夜中にあてもなく高速道路を爆走したり、神戸の「行きつけのバー」に行ってマスター相手にがあがあ吠えたり、あるいはもっと悪いことをしないと「血気」を持て余してしまう。

 そんなこと「これからしたい?」と訊かれたら「いやです」としか答えようがない。いやですよ、そんなの。もうたくさんです。

 となると、ありがたいことに、今の自分の「頭の中身」と老いた「身体のがわ」はそこそこしっくりなじんでいるということになります。「まあ、こんなもんだわな」と本人も納得している。

 ですから、「老いたことを苦痛だと思うか?」と訊かれたら「別に」とお答えすることになると思います。「まあ、こんなもんだわな」ですから。

 でも、たぶん若い人は「老いる」ということについて、もっと違うイメージを持っているんじゃないかと思います。

 まさか、70歳超えても実は中身は19歳のままで、「がわ」だけが老化しているとは思わないでしょう。その「ずれ」をなじませるために工夫を重ねてきたおかげで、それにはずいぶん長けてきた…というのが「老い」の実相だとはまさか想像もしていないでしょう。

 でも、人のことは言えないんです。僕も若い時には「老いる」というのが、どういうことかも「死ぬ」というのがどういうことかも、まったく想像ができませんでしたから。

 想像ができないことは想像しない。時間の無駄ですからね。だから、若い時の僕は「老いた自分」について想像したことがありませんでした。

 1968年に日本でスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』が公開されました。18歳の僕は封切りを見に行きました。そして、今から32年後の世界が「だいたいこんな感じです」というのを見せられて、なんだか不思議な気分になりました。「32年後というような遠い未来のことについて、キューブリックはよくここまで細部について想像ができるな。すごい想像力だな」と思いつつ「キューブリックさん、あんた、未来を見たんか?」(こういう場合は大阪弁になる)という疑念も兆しました。でも、まあ、そんなことはどうでもいいやと思ったのです。だって、2001年なんか来ないから。

 ほんとにそう思っていたのです。たぶん、1968年にリアルタイムで『2001年宇宙の旅』を観た高校生や大学生たちの90%くらいはそう思っていたはずです。「2001年て言ったら、オレたち50歳じゃないか」と言って、僕はいっしょに行った友だちと爆笑していたのです。「自分は絶対に50歳になんかならない」と思っていたからです。なんと。

 平均余命がどれほどか知っている以上、1950年生まれの子どもたちの多くは2001年にはめでたく知命を迎えているはずなんです。データ上はそうなんです。だから、僕も2001年にはきわめて高い確率で50歳になっている。でも、18歳の内田少年には「50歳になった自分」がまったく想像できませんでした。そして、子どもですから「まったく想像できないもの」は「存在しない」ことにしたのです。

 子どもは「老いた自分」について想像することがありません。どれほど想像力豊かな少年少女でも(赤毛のアンでも、『小公女』のセーラでも)「老いた自分」について、その細部を想像しているうちにあまりの楽しさに時の過ぎるのを忘れた……というようなことはないと思います。だって、いくら想像しても想像がつかないから。

 いや、現に自分の周りにはたくさん老人がいますから、老人が「どういうもの」であるかは子どもだって熟知しています。自分と同性で、背格好が似ている人を探せば、自分が老人になったときに、どんなふうであるかはだいたい可視化されるはずです。でも、子どもにはそれができません。どんな老人を見せられても、自分はきっと「こんなふう」になるんだろうなとは決して思わない。とても思えない。子どもは「自分が老いる」というのがどういうことかまったく想像がつかないんです。

 でも、それでいいんです。子どもってそういうものだから。これを子どもの定義にしてもいいくらいです。「老人になった自分について細部に至るまで想像することができない人間を子どもと呼ぶ」。この定義、なかなか使い勝手がよさそうですね。

 お手紙にあるように、「高齢者は集団自決した方が世の中のためだ」という暴言を吐いた人がいました。あの人はきっと「老いた自分」を想像したことがないんだと思います。若い人から「おい、お前がいると邪魔なんだよ。はよ死ね」を言われるような状況に置かれた自分を想像したことがない。想像できない。だから、「ああいうこと」が言えるのだと思います。老人になった自分を想像することができないから「子ども」なんです。

 子どもは老人になった自分を想像することができません。でも、老人は子どもがどういうものかわかる。身を以て知っている。だって、ずいぶん長いこと「子どもをやってきた」わけですから。子どもと老人の決定的な違いはたぶんそこにあるんだと思います。

 それでもときどき子どもの中にも「老人はどういうものか」をわりと真剣に考える人がいます。なかなか見上げた姿勢です。どうしてそんなことを真剣に考えるかというと、この人は「人間とは何か?」についての一般解を知りたいからです。「人間とは何か?」という問いを思量しながら、「自分の年齢までの人間については何を考えているかわかるけれど、自分の年齢を越した人が何を考えているかはわからない」では「人間」について論じることなんかできませんから。

 そういう場合はどうするかというと、「老人になったつもりで考える」というのが基本です。そうですよね。老人は老人がどういうものだか知っているし、子どもがどういうものかも知っている。だとしたら、「人間一般」について考えるときは、「老人になったつもり」になるしかない。

 意外な展開になってきましたね。

 では、どうやって「老人になったつもりで考える」ということをしたのでしょうか。

 演技したんです。恰好だけ真似をしたんです。中身はわからないから。老人が何を考えているか、ダイレクトに触れることができない。だから、まず「がわ」から入る。

 この技術にはかなり古い歴史があります。典型的なのは『徒然草』です。これは吉田兼好が二十代から六十代にかけて書いたものがランダムに並んでいます。でも、どれが若書きで、どれが老人になって書いたものか、区別がつかないんです。僕は池澤夏樹さん個人編集の日本文学全集の『徒然草』の現代語訳を担当したので、自信をもって申し上げることができますが、全243段のどれが何歳の頃の書き物かはなかなか判別できません。

 それは、吉田兼好が初めから「老人になったつもり」で書いていたからです。だから、全部「老人臭い」。人間一般についての知見を語ろうとする時には、「若者」視線じゃ無理だということに気づいたのでしょう。子どもから老人までをあたかも上空から俯瞰するような、そんな視点からでないと「人間とは」ということは書けません。だから、人間としての旅程はとりあえず全部踏破した「ふりをした」。

 兼好法師なかなかやりますね。それでも、「これは若書きじゃないかな……」と思う箇所はいくつかあります。何となくわかるんです。それは「世の中はむなしい。世俗の名利を求めたりするのは愚かなことだ。はやく出家して俗世との縁を断つべきだ」ということをことさらに主張している段です。なんだかちょっと「過剰に爺くさい」なんです。俗世を去って久しく、すっかり枯れちゃった人はそんなこと大声で言わないから。ですから、これはたぶん若書きではないかと思います。そういう感じのものがいくつか散見されます。

 じゃあ、その逆に「これは老人が書いたんだろう」と思うのはどれかというと、これもなんとなくわかる。それは「自分がどれほど有職故実に通じているかを自慢しているもの」と「オレ、昔はけっこうもてたんだぜ」という話。こういうタイプの「言わなければいいのに」という話はどちらかというと老人固有のもののような気がします。

 それから、「ぜんぜんオチのない話」もそうじゃないという気がします。「猫また」の話とか「しろうるり」の話とか「仁和寺にある法師の愚行シリーズ」なんかは、「老い書き(なんていう言葉はありませんけど)」のような気がします。平気でだらだらと「オチのない話」ができるのは老人の特徴ですからね。若い人はやっぱり「意味のある話」「メッセージのある話」をしたがる。

 そうですね、きっと。だから、『徒然草』を「メッセージのある話」と「どうでもいい話」に二つに(無理やり)分けると、「若書き」と「老い書き」が区別できるかも知れません。お暇な方は試みてください。

 もしそうだとすると、そこから言えるのは、若い人は「きちんとしたメッセージのある話」をしたがり、老人は「どうでもいい話」を選好するということです。

「老人は害になるばかりだから早く死んだ方がいい」というのはメッセージ性の強い言葉ですから、いかにも若い人が言いそうなことです。それに対して、別に反論するでもなく、慨嘆するでもなく、だらだらと「どうして若い人はそういうことをおっしゃるのかのう……」というようなことをぐだぐだ言うのが老人です。それ僕のこういう文章を読めばわかりますよね。すぐに脇に逸れる。若い人が知らない昔の話を始める。これは老人の書き物の特徴です。

 それがわかっているなら、初めから「そんな話」するなよと思うでしょ。でも、ついしちゃうんですよ。

 話を戻しますね。吉田兼好の場合、二十代から老人のような書き方をしていたという話です。これは鎌倉時代の話ですが、そういう風儀はそれからも残っていたんじゃないかと思います。若いくせにものを書く時になると、一人称に「老生」を用い、「なんとか斎」とな「なんとか翁」とか自称する人っていたはずです。それは兼好法師と同じく、彼らなりの「世俗の雑事から距離をとって、心静かに生きたい」という願望の表明だったのかも知れません。

 夏目金之助が「漱石」という号を用いたのは正岡子規が主宰していた『七草集』に漢詩を寄稿したときが最初です。その時、22歳。

 号は『晋書』にある故事「漱石枕流」に由来します。「石を枕にし、流れに漱(くちすす)ぐ」という風雅な句があるのですが、ある男がそれを引用する時に間違えて「石で漱ぎ、流れを枕にす」と言った。傍らの人に「それ、違うよ」と言われたのだけれど、間違えた男は負けず嫌いだったので、「違わないね。だって、オレは石で歯を磨いて、川の中に頭と突っ込んで寝るもの」と言い張ったというお話です。小石を口に放り込んで、がりがり歯を磨いたら、歯が欠けるんじゃないかと思いますけれど。とにかく、歯ぐらい欠けたってオレは我を通すぜという気骨を夏目金之助君は自分にふさわしいものと思ってこの号を選した。意味だけ採るなら「枕流」でもよかったんです。でも、「流れを枕にして寝る」のは、美容院でシャンプーしてもらっているときの姿勢みたいだし、暑い夏の夜なんかだとそれもけっこう快適かも知れませんからね。だから、あえて「漱石」を選んだ(んじゃないかな)。

 とまれ、この号のうちに夏目金之助君(22歳)は「知識が半端」「負けず嫌い」「何かというと屁理屈をこねる」という彼自身御し難い性向を示すものを感じ取った。そして、その号を撰した。「この性情はたぶん死ぬまで改まらないだろう」と思ったからです。なかなか仮借ない自己分析だと思いませんか。

 雅号を選ぶというのは、うっかりするとその名を死ぬまで使い続けなければならないわけですから、「老人になった自分」についてある程度輪郭のはっきりとした像を描いていないと下せない決断です。ということは雅号を選ぶときに、とりあえず明治の青年たちは「老人になった自分」についての見通しを持とうとしたということになります。

 雅号をつけるという習慣はもうすっかり廃れました。それは「老人になった自分」について想像をたくましくするという習慣が廃れたということです。そんな気がします。「生涯現役」とか「エバーグリーン」とかいうことにしがみついている老人はたぶん「老人になった自分」についての想像を惜しんでいるうちに老人になってしまった方たちなんでしょう。

 さて、長い枕を回収して、そろそろ刑部さんの質問に答えなければなりません。なかなか話が始まらなくてすみませんね。でも、何度も申し上げたように、こういうふうに本題に入る前に、どうでもいい話を延々とするのが老人なんです。

 ご質問は「一体いつごろから『老い』を社会の『害』とみなすようになったのでしょうか(昔からこのような考えはあったのでしょうか)。また、『老害』について内田先生はどのようにお考えでしょうか」というものでした。

 さあ、どうなんでしょう。少なくとも、明治時代までは老人を軽蔑したり、嫌ったりという風儀はなかったように思います。森鷗外に『じいさんばあさん』という老夫妻を素材にした短編があります。こんな話です(ああ、また脇道に逸れた)。

 文化六年(1809年)の晩春に麻布龍土町のある大名の邸の中に、小さな離れ座敷が建てられた。そこに家中のある人の兄という見知らぬ爺さんが引っ越してきた。髮は真っ白だけれど、腰はぴんとして、しっかりした拵(こしら)えの刀を挿(さ)さした姿もなかなか堂々としている。

 その二三日後に今度は婆さんが一人来て同居した。この人も真っ白な髮を丸髷に結って爺さんに負けぬように品格が好い。

 この翁媼(おううん)の仲の良いことは無類である。でも、隔てのない中にも礼儀があって、夫婦にしては少し遠慮をし過ぎているように見える。爺さんは眼鏡を掛けて本を読む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀剣に打粉を打って拭く。体を極めて木刀を振る。婆さんは家事をてきぱきと済ますと、爺さんの傍に来て団扇(うちわ)であおぐ。爺さんは読みさしの本を置いて、二人は楽しそうに話をする。

 爺さんの名は美濃部伊織という旗本で、剣術に長け、能書で、和歌の嗜みもあった。三十歳のときに一つ下の嫁をもらった。嫁の名はるん。十四歳のときに尾張中納言に召し使われ、長く奉公して十四年間勤めた。そのせいで婚期がいささか遅れた。

 るんは美人という性ではなかったが、体格がよく、押出しが立派で、目から鼻へ拔けるやうに賢く、てきぱきと仕事をした。伊織は色白の美男であったが、激しやすい性質だった。るんは夫をたいそう好いて、手に据えるように大切にし、七十八歳になる夫の祖母にもよく仕えたので、伊織は好い女房を持ったと満足して、癇癪を起すこともなくなった。

 ややあって伊織は勤めで臨月のるんを残して京都に行くことになった。ある日刀剣商の店で、良い古刀を見出した。買いたく思つたが、代金百三十両のうち三十両が工面できない。それを同輩の下島に借りた。

 そのうち刀の拵えが出来たので、伊織は友人を招いて、刀の披露かたがた馳走をした。そこに金を貸した下島が招かぬのに来た。座に迎えて膳を出したが言葉にいちいち角がある。自分の用立てた金で買った刀の披露に自分を招かぬのを不平に思つて、いやがらせに訪ねて来たのである。あまりに聞き苦しい言葉を吐くので、一同不快に思い、挨拶にはいずれ伺うから今日のところは帰ってくれと伊織は頼んだ。すると下島は「帰れというなら帰る」と言い放って自分の前に据えてあった膳を蹴返した。伊織が傍らの刀を取って白刃を一閃すると下島の額が切れた。同輩たちが抱きとめたので、下島は逃げた。

 でも、傷が思いのほか深くて、二三日して下島は死んだ。伊織は知行地を取り上げられ、越前に永のお預けとなった。残された美濃部の一家は離散することになった。るんは夫の祖母と夫の出立の後に生まれた子どもと三人で暮らしたが、祖母は八十三歳で亡くなり、子どもは五歳で疱瘡で死んだ。独りぼっちになったるんは筑前黒田家奧が物馴れた女中を欲しがつているというので、そこに職を求めた。以後三十一年間黒田家に勤めたのち故郷の安房に帰った。その翌年に越前で書や剣を教えて暮らしていた伊織が恩赦で江戸に戻れることになった。それを聞いたるんは喜んで安房から江戸へきて、龍土町の家で三十七年ぶりに伊織に再会したのである。

 というお話でした。佳話ですよね。僕は若い時にこれを読んで「るん」という名前がすっかり気に入って、娘ができたら「るん」と名づけようと決めていたのです。

 僕がこの短編を最初に読んだのはたぶん20代の半ばだったと思います。そして、その時に最も印象に残ったのは、「爺いさんは眼鏡を掛けて本を讀む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀劍に打粉を打つて拭く。體(たい)を極(き)めて木刀を揮(ふ)る」という一節でした。

 晴れた日に縁側で愛刀に打ち粉を振って、刀身を鏡のように磨き上げて、それを鞘に納めてから黒檀の木刀を手にして、襷掛けをして、ぴたりと身体を決めて刃筋の通った斬りをする。かっこいい……。こんな老人になりたいと思いました。ほんとに。

 そんなふうに思う読者は例外的なのかも知れませんけれども、とりあえず二人の老人を主人公にしたこの短編の中には「老い」を何らか否定的な要素とみなすような言葉は一語も出てきません。

 もちろん鷗外がこの短編を発表したときにも「じいさんばあさん」というカジュアルなタイトルだけを見た読者はまさかこんな話だとは思わなかったと思います。そして、一読して、心が洗われたようなすがすがしい読後感と、武士とその妻の凛とした生き方に対する畏敬の気持ちを覚えたと思います。

 鷗外が典拠としたのは大田南畝の『一話一言』所収の「黒田家奥女中書簡写」です。執筆当時53歳だった鷗外自身が「老い」について考えていたからこそこんなマイナーな史料が小説の素材として選択されたのでしょう。「老い」とはかくあるべきという物語を鷗外が綴ってみせたというのは、発表時の大正四年において、もう「老いとはどうあるべきか」について、指南力のある言葉が失われ始めていたからかも知れません。その辺のことは歴史学者ではないので、わかりません。僕にわかるのは「じいさんばあさん」のような小説はもう現代では書く人がいないということです。

 この百年で何が変わったのでしょうか。

 それについてこれからゆっくり考えてゆきたいと思います。第一便にしては、もう書き過ぎてしまいました。老人は「話が長い」し、「話が飛ぶ」んです。どうぞそこはご海容ください。

 刑部さんが提示した問い(「現代における老いの問題」)はたぶんこの往復書簡全体の主題になることでしょうから、ここで即答することは控えようと思います(まだ思いつかないし)。

 また次の問いをお送りください。刑部さんが出す問いについてひとつひとつ考えているうちに、だんだん「現代における老いの問題」に接近できるのではないかと思います。

 ではまた。

著者プロフィール
内田樹

1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授、芸術文化観光専門職大学客員教授。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス文学・哲学、武道論、教育論。主著に『ためらいの倫理学』、『レヴィナスと愛の現象学』、『寝ながら学べる構造主義』、『先生はえらい』など。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』)、第三回伊丹十三賞を受賞。近著に『街場の米中論』、『勇気論』など。神戸市で武道と哲学研究のための学塾凱風館を主宰。