「学校」という制度が私たちに刻み込んできたものとは何か。大人になった今、私たちの社会とのかかわり方や、自分自身のあり方、そして子どもとの関係にまで、それが無意識のうちにどのような影響を及ぼしているのか。
本稿は、その否定性の痕跡を一つひとつ浮かび上がらせ、剥がし取っていこうとする試みです。
大人はかつての教室を何度も生き直す
これらはすべて、あなたに刻印された否定性の話。
大人になっても勉強に苦手意識がある。計算が苦手。常に正解を探そうとしてしまい、自由に考えることが苦手。答えが一つでないと不安を感じる。間違えるのが怖い。誰かに評価される状況になると緊張する。「自分は頭が悪い」という思い込みが抜けない。学びを努力義務としてしか捉えられない。人より遅いことはダメだと感じる。自分のペースで考えることに罪悪感がある。「わからない」と言うことが恥ずかしい。人から注意されると過度に反応してしまう——。
大人になっても偏差値が気になる。自分の過去の最高偏差値を自慢したくなる。他人の学歴が気になる。学歴コンプレックスだ。他人の成果を聞くと動揺する。すぐに比較してしまう。「一番」とか「上」「下」といった序列語で世界を見てしまう。偏差値や順位で他人を評価してしまう。頭がいいからって調子に乗るなよと思う。他人の成功を素直に喜べない。失敗するのが怖い。「褒められたい」「見下されたくない」が行動の原動力になっている。怠けること、サボることに強い罪悪感がある——。
球技が苦手。グループ行動に苦手意識がある。人前で話すのが苦手。人前で歌うのはちょっと無理。体の動かし方を他人に見られるのが苦手。いつも私は姿勢が悪い気がする。「服装や髪型は清潔・控えめに」が染みついている。みんなと同じでないと不安。過剰に空気を読みすぎる。場のリーダーや「陽キャ」に苦手意識があり、自動的に避けたり従ったりしてしまう。沈黙が怖い。場にうまくなじめないと感じることが多い。友達は多い方がいいと思う。「チームで協力」と聞くだけでストレスを感じる——。
子どもの成績や行動で自分が評価されている気がする。子どもが勉強したがらないとイライラする。「ちゃんとしなさい」が口癖になっている。私はできていたのに、なぜこの子はできないのかと思う。子どもを他人と比べてしまう。自分が達成できなかったことを子どもにはさせたいと思う。私は勉強に自信がないが、だからこそこの子にはちゃんと勉強してもらいたい。子どもが怒られていると自分が責められている気がする。子どもの自由を願いながら、内心では不安になる——。
この連載で扱うのは「学校後遺症」である。ここでいう学校後遺症とは、かつて学校での評価・序列・規範・集団関係などで刷り込まれた価値観が、大人になっても無意識に行動や感情のパターンを支配している状態を指す言葉である。そうした価値観の残響に気づかないまま、私たちは自分を責め、他人と比べ、息苦しさを日常のものとして受け入れてしまう。大人になってもその否定的な感情は手当てもされぬままに抱え込まれ、否定の輪郭をなぞるようにして、子どもに再生産されていく。しかも、それが社会全体に広く共有されているからこそ、会社や家庭の倫理はますます硬直し、自由であるはずの生が窮屈に形づくられていく。こうして私たちは知らぬまに、かつての教室を何度も生き直しているのである。
その感覚を、驚くほど明晰に言葉にした15歳の作文がある。中学校を卒業したばかりのHくんが学校と自分の将来について書いた作文である。以下にその全文(ママ)を引用する。
今、私は退屈な授業や理不尽な校則を押し付ける学校にかよっているのですが、私はそれと同じような会社に就くと思います。なぜなら、私はそんな会社でその生活をすることを望んでいるかもしれないからです。
私はそれがいやだとも思いますが、これまで学校という名の訓練場でその生活に慣れているからそう考えるのだと思います。
だから、社会ではたらく人は、同じような考えの人が多いんだと思いました。なので、私もその一人になるのだと思います。
そんな私には将来の夢はありません。私はその途中で死ぬと思います。
このことは多くの人が思っていることだと思うのですが、私が思うその原因は、こんな人を作る学校にあると思います。(私は教師にはなりません。)ですが、途中で私の夢を見つけたいです。
彼にとって学校は退屈で理不尽きわまりない場所だが、それと「同じような会社に就く」人間として自身の将来を予見している。
最もヒヤッとするのは、彼にとってそれは「いや」なことのはずなのに、一方で自身がそんな生活をすることを半ば「望んでいるかもしれない」と洞察している点である。学校という「訓練場」にすっかり慣れきったせいで、自分の欲望を叶えることもないままに「その途中で死ぬ」だろうと予感している(極めて衝撃的な表現で、長年彼と勉強を共にしてきた私は、この箇所を読んで言葉を失った)。しかも、社会で働く人たちは多かれ少なかれそんなものだろうと考えている。彼の言うように、もしこのような社会全体に対する眼差しが学校で育まれたものだとすれば、学校はいったい彼に何を与えたのであろうか。——この問いが本連載を始める強い動機となった。
私は少し前に「受験後遺症」という論考を書いた(『世界』岩波書店2024年2月号)。そこでは、「勉強」を成人後も受験や資格試験の準備と同一視し、学びを手段としてのみ理解する社会的傾向を批判した。目的達成に役立つもの以外の勉強を無駄とみなし、好奇心や探究を生活に根づかせられない。そうした大人の態度が子どもに伝わり、親子の関係や社会の学びの風土を痩せさせていると指摘した。
さらに私は、戦後の「いい学校=いい就職=いい人生」という単純な方程式がすでに信奉されなくなったにもかかわらず、親たちの受験熱が冷めない現実を取り上げた。受験の低年齢化と教育費の高騰は今も続き、その背景には学校や資本による「優秀児の囲い込み」という欲望がある。教育哲学が欠落するなか、幼少期からの苛烈な競争は子どもの心に深い傷を残し、意志形成や回復力を損なう。加えて、親自身の「負け組」意識が子育てに投影され、子どもを競争の構図に引き込み、自己否定を内面化させる。こうして世代をまたいで残り続ける傷を、私は「受験後遺症」と呼んだ。
重要なのは、この後遺症を抱えているのが、受験勉強に邁進した過去を持つ大人に限られないことである。むしろ受験から距離を置いた大人たちさえ、その価値観を深く内面化しており、「やり損なった私」という感覚をトラウマのように抱え込んでいる。そしてその痛みが、子どもに過剰な期待をかける力学として働き、次の世代へと受け渡されていくのである。
だが、このような考察を通して見えてくるのは、「受験」という問題だけを切り出して語ることの限界である。受験の周辺には確かに深刻な問題がある。しかしそれは、学校という制度が私たちの内側に長い時間をかけて刻み込んできた習慣や価値観の、ほんの一部にすぎない。
管理されることに慣れた身体、序列を当然とする感覚、評価に依存して形づくられる自己像──そうしたものは、受験勉強に熱中したかどうかにかかわらず、大人になっても抜け落ちない痕跡として私たちを縛り続けている。受験の「勝者」であれ「敗者」であれ、多くの人が学校で植え付けられた独特のこわばりを抱えたまま日々を送り、それが家庭や社会全体にまで影響を及ぼしている。私は、この広がりを、「学校後遺症」と呼ぶべきではないかと考えるに至った。
学校制度は、近代国家の形成と歩調を合わせるように整えられた。明治期に導入された近代的学校制度は、国民を統合する装置であり、国家主義的理念や軍隊的規律と強く結びついていた。子どもたちは時間を守り、上意下達に従い、集団の中で同一の行動をとることを当然とされた。こうした「身体の管理」は、学力の養成以前に学校教育の根幹を形づくった。
点呼や整列、起立・礼・着席といった一連の動作はその象徴であり、それは「組織に従うための訓練」だった。現代の学校は、表向きは自由や個性を尊重すると謳うが、その深層には依然として管理と規律の論理が脈打っている。理不尽な校則や、細部まで規定された生活指導はその典型であり、子どもたちはそこで「社会とはこういうものだ」「とにかくルールは守りなさい」「常識人たれ」と刷り込まれる。こうして学校で形成された従順な身体は、のちに企業社会で求められる労働倫理とも重なっていく。15歳のHくんの作文に見られた「会社での生活」への予見も、学校が社会における「組織」の縮図として機能している現実を、彼自身の身体がすでに感得しているからこそ生まれた感覚なのだ。
このように見てくると、「学校後遺症」とは決して一部の人だけの問題ではない。学校を経験した私たちの多くがそれを共有し、社会全体のふるまいさえもを規定している。
評価によって植え付けられた苦手意識、管理が生んだ身体のこわばり、親子に連鎖する不安──。それらはいずれも学校が残した痕跡である。私たちが「普通」「常識」と呼ぶ日常の多くが、実は学校で刷り込まれた規範の延長にすぎないとさえいえる。
時間を守る、言われたことをきちんとやる、他人と同調しながら行動する──。これらの習慣は、社会生活を円滑にする利点を確かに持ちながらも、同時に個人の自由や創造性を抑圧する力として働き、社会から柔軟性を奪っている。
本稿は、その痕跡を丁寧に剥がし出す試みである。連鎖を止めたいのであれば、まずは大人が自分を手当てできなければならないからだ。
次回からは、具体的な学校への提言を示すことはもちろんのこと、「学校後遺症」という視点を手がかりに、私たち自身がいかに今もその中で生きているかを何度も照らし出していく。大人が自らの後遺症に気づき、それを言葉にしてみること。そこからしか、社会を硬直から解き放ち、別の方向に動かすことはできないからである。
もっとも、筆者は学校に対して負の面しかないと考える立場では全くない。学習塾や単位制高校、フリースクールといった学校外の教育に携わりながら、学校に通う多くの子どもたちを観察してきた私は、むしろ学校でこそ子どもたちに与えられるものがたくさんあることを身をもって知っている。
だから、これからの連載は、学校後遺症の構造やその具体的な表れを探ることと、新しい学校のかたちを模索することとが、互いに響き合いながら進んでいく内容となるだろう。
1976年、福岡県生まれ。大学院在籍中の2002年に学習塾を開業。現在は、株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、学習塾「唐人町寺子屋」塾長、単位制高校「航空高校唐人町」校長、及び「オルタナティブスクールTERA」代表として常時120名以上の授業(小6~高3)を担当し、進路指導にも力を注いでいる。全国の学校や公共施設等にて、教師や保護者を対象とした講演活動も数多く行っている。
著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論──BTSから世界とつながる』『光る夏 旅をしても僕はそのまま』(晶文社)、『それがやさしさじゃ困る』(赤々舎)など、編著に『「学び」がわからなくなったときに読む本』(あさま社)がある。