「学校」という制度が私たちに刻み込んできたものとは何か。大人になった今、私たちの社会とのかかわり方や、自分自身のあり方、そして子どもとの関係にまで、それが無意識のうちにどのような影響を及ぼしているのか。
本稿は、その否定性の痕跡を一つひとつ浮かび上がらせ、剥がし取っていこうとする試みです。
「異物」を排除する学校
初めての授業。プリントを1枚忘れただけで教室の隅で怯えるように座っている女の子がいた。彼女 はきっとそれくらいできつく叱られることを繰り返してきたので、いま目の前が真っ暗だ。休憩時間に、「誰だって忘れ物くらいするから堂々としていていい」と伝えただけで、彼女は涙をこぼしながらお辞儀をした。『それがやさしさじゃ困る』鳥羽和久(赤々舎、2025)
この日のことは今も私は鮮明に覚えていて、なぜ、彼女はこれほどまでに怯えなければならなかったのか? ということについて、ずっと考えてきた。
忘れ物という、取るに足りない事柄でさえ、彼女にとっては取り返しのつかない「大きな間違い」であり、その間違いを犯したときに自分がどう扱われるかを、身体が先回りして「反応」してしまった彼女の苦しさが忘れられないのだ。
彼女の身体の反応は、個人の性格というより、教室という制度空間の歴史と結びついている。こうした過剰な気づかいや怯えは、学校が長い時間をかけて形づくってきた規範や視線の影響を、子どもが自分の身体で受け止めてしまっている証拠でもある。
やや過剰ともいえる学校的規範の浸透は、教室の中だけにとどまらない。現代社会においては、学校を原型とした規律やふるまいが至るところに見られる。
企業の朝礼での整列や社訓の唱和、身だしなみや姿勢の良し悪しが評価を左右する職場の空気、お辞儀の角度やスリッパの向きにまで「正しさ」を求める接遇マナー、実質よりも形式を優先する「報連相」文化、さらには担任教師さながらに部下の生活態度にまで口を出す管理職の存在など、挙げ出したらきりがなく、その範囲は広い。
家庭においても、子どもの放課後時間を学校さながらに「時間割」で管理しようとする親の姿が見られるし、習い事の現場でも、学校をそのまま写し取ったかのような時間管理や規律の運用が広がることで、学校から離れても、その延長のような環境で日々を過ごしている子どもは多い。
もはや社会のさまざまな領域で、学校を基準とした行動様式や価値観が、“よいこと”という前提のもとにほとんど無意識に踏襲されていると言ってよいだろう。
このような「学校化社会」について、教育学者の木村元は著書『学校の戦後史 新版』(岩波書店、2025年)の中で精緻な分析を行っている。
木村によれば「学校化社会」とは、学校内部で形成された規律・管理・評価の枠組みが、学校外にまで拡張し、社会全域の行動様式を形づくるようになった状態を指す。
戦後日本において、学校が子どもの生活を囲い込む基盤装置となり、その中で形成された価値観やふるまいの型が、社会の側でも扱いやすい秩序として受け入れられ、結果として学校の論理が社会のいたるところに組み込まれていくのである。
つまり学校化社会とは、学校と社会のあいだの境界を越えて、両者が相互に規範を補強し合いながら、人々の行動や感覚の前提そのものを形づくってしまうような状態であり、そこでは学校で覚えた時間感覚や姿勢の作法が、いつの間にか社会の身体の律動そのものになっていくのである。木村は、この構造を読み解くことで、学校が子どもの世界にとどまらず、社会の常識や価値観の形成に深く関与してきたことを明らかにしている。
このような学校的規範の社会化は、当然ながら、現代社会の秩序や日常生活の安定を支えるうえで一定の役割を果たしている。決められた時間に動く、期限を守る、場の空気を読みながら衝突を避けるといった行動様式は、集団を円滑に運営するための基本的な作法として長く共有されてきた。
子どもたちは学校生活のなかで、こうした作法に自然と馴染み、それに合わせて行動を調整する力──いわば状況に身を合わせてやり過ごすための初歩的な耐性──を身につけていく。多少の理不尽に遭遇しても感情を抑えて場を乱さないようにするその力は、場の緊張を和らげ、集団のリズムを損なわないための潤滑油として働くこともある。
こうして共有された前提や身体化された耐性は、人々に「ここでは大きく乱れない」という予測可能性をもたらし、共同体の中で安心してふるまうための基盤として長いあいだ機能してきた側面がある。
しかし、このような耐性は、当事者にとっては異なる意味を帯びることがある。特に子ども時代に身につけた自己抑制の癖は、後になってもそのまま身体に根づき、本人の意思とは別に行動の選択肢を狭めてしまう。言いたいことを言い出せない、助けを求めるべき場面で声が出ない、逃げるべきと頭ではわかっていても動けない、そもそも自分の意思というものがはっきりしない……。
こうした反応はけっして怠慢ではなく、長年にわたって自己を抑えることが望ましいと教え込まれてきた人がごく自然に身につけてしまう強力な反射のようなものだ。
つまり、学校が育てた耐性は、社会全体から見れば都合の良い資質として歓迎される一方で、個人にとっては、自分の感情や欲望を大切に扱う力を奪い、生活の自由度を徐々に削り取る危険をはらんでいる。しかもこの侵食は、はっきり目に見える変化として起こるのではない。日々のふるまいの中に細かな沈殿のように積み重なり、生活のリズムや身体感覚にひっそりと染み込んでいくため、本人は自分が変わっていることにほとんど気づけない。気づいたときには、その反応が自分の本来的な性格であるかのように感じられてしまうほど、日常の一部として定着してしまっているのだ。
こうして、子どもの頃に教室で覚えた静かな自己制御が、大人になっても心の奥に居座り、選ぶべき道を選べない身体をつくってしまう。大人になっても、私はどうせこういう性格だからと、学校で形成された不自由な自己像のまま生きていく人は少なくない。これはまさに学校後遺症のひとつの形である。
このように、学校で身につけた耐性は、場の緊張や衝突から身を守るための、いわばふるまいを整えるための即応的な自我として働く。教室という環境の中で、場を乱さないよう反応を調整する力は、その時々の孤立や摩擦を回避するうえで確かに役に立つ。
しかしその耐性は、芽生えかけた欲求や衝動、違和感といった主体の内側で動き始める微細な感情の流れを支えるものではない。むしろ、それらを押し込めることで環境と折り合いをつける反応であるがゆえに、同じ流儀でふるまえない他者に出会ったとき、無意識の苛立ちや不快感へと転じてしまうことさえある。
「私はちゃんとしてきたのに、なぜあの子はやらないのか」「空気を読んで行動するのは当たり前なのに、どうしてあの子はできないのか」。そうした感情が芽生えるとき、子どもはすでに学校という環境の価値観を「正しく」内面化し、その基準に合わない存在を「異物」と見なしてしまう。
実際、教室ではしばしば「わがまま」「協調性がない」「皆に迷惑をかける」といった言葉で、基準からずれた子どもが名指され、距離を置かれ、排除の対象になるのである。さらに、そういった子どもたちの間の「異物」の排除に担任が同調することで、名指された子どもがいじめや差別の対象になることさえ、少なくないのである(なんてこと!)。
ここまでを気安く読み飛ばしている読者に対して、あえてはっきりと言いたい。あなたも、私も、そして「普通」のふるまいを疑いもなく良いものと信じてきた多くの人々も、他者を簡単に「異物」と見なし、排除する側に回ってしまう危険を常に抱えているということを。
つい昨日のことだが(こんなことが頻繁に起きるのだ!)、ある公立中学の支援級に通うSさんが、担任から「協調性がない」「自分の考えを相手に押し付ける」と一方的に責められ、しかも、それを担任から聞いた親からもそれについて責められたと聞き、私は思わず天を仰いだ。いったい何のための支援級なのか。
Sさんは、こちらが真正面から受けとめる姿勢を見せたとき、驚くほど真剣に自分のことを話してくれる子だ。そして、話し終えて満足すると、今度は相手の言葉に耳を澄ませ、それに一所懸命に応えようとする。彼は決して「自分の考えを相手に押し付ける」ような一方的な子ではない。ただ、その場の力関係や空気の硬さの中で、その瞬間、その形でしか自分の身の置き場がなかっただけである。
発達心理学者のD.W.ウィニコットは、反社会的なふるまいも含め、子どもの行動を、その子の本質ではなく、環境や大人との関係への反応として捉えた。彼は、乳児期から形成される人格が、環境からの衝撃への反応にもとづいて構成されると述べ、反社会的傾向を、環境に対する強い訴えとして理解した(『完訳 成熟過程と促進的環境―情緒発達理論の研究』D.W.ウィニコット、大矢泰士訳、 岩崎学術出版社、2022)。
Sさんのように、その子が置かれた関係のあり方や場の緊張が、行動の輪郭を大きく変えてしまうことは決して珍しくない。それでも多くの場合、私たちは行動だけを切り取り、それをその子の「性格」や「本質」だと短絡的に理解してしまう。
こうして、私たちはあまりにも容易に他者を「わがまま」「協調性がない」と裁いてしまうのだ。しかも今では、相手に発達障害というラベルを貼れば、都合よく排除の理由さえも手に入れることができるようになってしまった。
学校における多様性理解の本丸として据えられているはずの支援級でさえ、このように通常級と同じ基準で子どもを裁くのであれば、公教育の中には、子どものふるまいに応じて関係を調整する余地はない。
しかし恐ろしいのは、こうしたどうしようもなさの一部を、知らず知らずのうちに「常識人」を自認する私たち自身が構成してしまっているという事実である。
学校的規範は、このように個人の内面を縛るだけでなく、他者を裁く視線としても働く。そして、正しさを守ることに必死であった子どもほど、その正しさが自分を傷つけたのと同じ手つきで、他者のふるまいを採点し始める。「こうあるべきだ」を守ることが、自分の価値と優位性を手軽に証明する方法になってしまうからだ。社会にとっては安定をもたらす規範が、いつの間にか子ども同士の序列や排除を作り出し、目に見えない線で人を分断する力にもなっていくのである。
こうして形成された正しさの感覚は、子ども時代にとどまらず、大人になってからもそのまま社会の規範として再生産される。教室で「異物」とされた子どもがいたように、職場でもまた、場の空気に沿わないふるまいをする人が「協調性がない」「社会性が欠けている」と評され、暗黙のうちに評価を下げられていく。時間を守ること、与えられた役割を粛々と果たすこと、余計な摩擦を生まないこと——学校で「良い子」とされた要素が、多くの現場でそのまま「有能な社会人」の条件として引き継がれているのである。
そして、この社会的再生産は、人々の身体のなかで静かに反復される。とりわけ、学校での規範を忠実に受け入れてきた人ほど、社会でもその規範を手放すことが難しい。会議で異論を言えない、怒りを表に出せない、常に周りに合わせていないと恥ずかしいと感じる、困っていても助けを求められない。子どもの頃に身につけた耐性が、大人になってからも身体の深部で作動しつづけるからだ。
そしてこの耐性は、場との摩擦を避けるために自分の感情を押し込めて一時的な安全をつくりだす反応であるがゆえに、その反応の型が他者に向かうとき、今度は厳しい視線として立ち現れる。「私がここまで抑えてきたのだから」「あの人だけ自由でいられるのは不公平だ」といった思いが、無意識の苛立ちや排除の衝動となって姿を現すのである。こうして、子どもが教室で学んだ振る舞いは、別の形で会社の会議室や職場の休憩室に持ち込まれ、そこでも「正しさ」が序列と排除の基準になってしまうのである。
正しさの感覚は、個人の行動だけでなく、「何が当たり前か」という認識そのものを形づくっていく。長いあいだ同じ規範に身を浸すことで、その価値観はあたかも自然の摂理のように感じられ、別の感じ方やふるまいを想像すること自体が難しくなる。つまり学校的規範は、行動の型を整えるだけでなく、私たちが世界をどう見ているか——その常識の土台にまで入り込んでいくのである。
とはいえ、この既定の常識をいちいち疑わずに生きることは、多くの人にとってはむしろ健やかに暮らすためのひとつの秘訣のようなものでもある。私たちは、毎日の行動をすべて原点から考えていたら身がもたない。あいさつの仕方や他者との距離の取り方、言葉づかいや順番待ちのマナーといった、ごく基本的なふるまいを「考えずにできる」ことによって、ようやく社会の中で安心して身を動かすことができている。常識という共通の前提があるからこそ、人と関わるたびに緊張したり、いちいち立ち止まったりせずにすむのである。
さらに、常識は私たちの感情の土台にも関わっている。日々の判断のたびに「本当にこれでよいのか」と自問し続ければ、生活のリズムはすぐに不安定になり、心の落ち着きも失われる。常識とは、本来、世界と関わるときの足場のようなものであり、そこに身を預けるからこそ、私たちは毎日の生活を大きく揺らさずにすむのである。
もともと常識(コモンセンス)という言葉は、本来アリストテレスの言う「共通感覚(koinē aisthēsis)」を語源としている。彼が指したのは、社会に通用する決まりごとではなく、複数の感覚を統合し世界をひとつの像としてつかむ、人間に備わった基本的な認知能力だった。
つまり常識とは、本来は外側から押しつけられる規範というより、世界に触れ、そこに生きる個々の感覚がつくり出す、ある開かれたはたらきのことだったはずである。
ところが学校化社会では、この「共通感覚」は大きく変質する。生き生きと世界に触れるための感覚ではなく、むしろ他者と自分を同じ型に揃えさせるための尺度として扱われてしまう。誰もが同じように行動し、同じように感じ、同じようにふるまうことが「常識」であるかのように誤解され、その常識に従えない者が「非常識」「協調性がない」と名指される。そうして本来は世界を広く受けとめるためにある共通感覚が、逆に世界から多様性を奪い、他者の生や感受性を狭める道具へと姿を変えてしまう。
とはいえ、学校が規律や同調を重視する空間として存在していただけでは、今日のような学校化社会は成立しなかった。日本において決定的だったのは、1970年代以降の高校進学率の上昇や部活動の拡大によって、ほぼすべての子どもが長時間学校に滞在するようになったことである。そこで培われた揃える感覚が生活の当たり前として身体化されたこと、そして社会の側がその感覚を秩序維持に役立つものとして積極的に受け入れたのである。
さらに、校内暴力や不登校への対応として生徒指導が強化され、学校の内部で「逸脱」を問題として処理するまなざしが広がった。この視線はやがて学校外へも持ち出され、「揃わない行動」に対する不安や敵意が、学校と社会の双方で増幅していくことになった。(この箇所も木村元『学校の戦後史 新版』を参考にしている)
こうした構造のもとで、「常識」は、いつしか世界を均質化するための規範に摩り替えられる。誰がいつそれを望んだわけでもないのに、学校で身につけた正しさが社会の基準となり、その基準がまた子どもへと返っていく。常識の名のもとに、世界を閉じ、他者を排除し、自分自身の可能性までも静かに締めつけてしまうのである。
しかしその一方では、学校の規範の型に完全には飲み込まれず、社会の中を軽やかに往来していく人たちがいる。規範を否定するわけでもなく、かといってそれを自分の芯にまで沈め込むこともない人たちだ。(かつて学校の規範に対する反発を不器用にも全身で表現していた私にとっては、この上なくうらやましい人たちでもある)。
彼らは、学校の空気を深く吸い込みながら育ちつつ、その空気をうまく換気しながら生きている。学校がつくりだす硬さをその都度すり抜け、調整し、ユーモアに変えてしまうような生のあり方である。
彼らのふるまいには、学校的規範に対する一種のゆるやかな距離がある。たとえば、場に応じてルールを参照はするが、それを自分の価値そのものとは結びつけない。忘れ物をしても必要以上に萎縮せず、「あ、やっちゃったな」と軽く受け流し、謝るべきときには淡々と謝る。空気を読むが、読みすぎて自分の声を消してしまうことはない。そうした態度は、規範を内側に沈め込まず、あくまで場の装置として扱うことの巧みさから生まれている。
また彼らは、子ども時代に学校とは異なる呼吸をもつ場所に触れていることが多い。家庭にゆるやかな時間が流れていたり、放課後に身を置ける別のコミュニティがあったり、異質さが許される友人関係を持っていたりする。学校だけを世界のすべてとしない複数の空気を知っているため、学校の規範を絶対視しない。規範はあくまでも数ある空気の一つであって、自分を全面的に規定するものではないと、どこかで経験的に理解しているのである。
彼らは、身体の感覚を使って世界との距離を調整する。ため息一つで場をゆるめ、冗談で空気の硬さをほぐし、沈黙のタイミングで自分の立ち位置を変える。学校では教わらないこうした身体的な技法が、規範との摩擦を和らげ、他者との関係に柔らかな隙間を作る。規範への抵抗というより、規範に対するいなし方が、彼らの軽やかさを支えている。
彼らはまた、規範に親密すぎない距離を保つ。規範を信じないわけではないが、規範に身体を明け渡しもしない。ちょうど天気に合わせて服装を選ぶように、規範を今の場に必要なものとして使うだけで、そこに自分の人格や価値を紐付けしようとはしない。その距離感は成熟というよりも、むしろ生き延びるための呼吸に近い。
彼らは学校で学んだ規範やそれによって生じる後遺症を完全には否定しないだろう。自分の中に残る硬さや気にしすぎる癖をある程度自覚し、その癖を丁寧に扱いながら、行動の選択肢を少しずつ増やしていく。学校で身についた反応を抱えたまま、その反応と自分のあいだに薄い隙間をつくることで、世界との関わり方を調整する。規範を消すのではなく、規範との関係の持ち方を変えていく。その微細な操作が、彼らの軽やかさの正体である。
こうした人々の生き方は、学校化社会を単に批判するだけでは見えてこない。しかし、彼らのふるまいは、規範の内面化以外にも世界と関わる無数の方法があることを静かに教えてくれる。社会の中で生きるとは、ただ規範に縛られることでも、規範から離れて漂うことでもなく、その都度、空気を入れ替えながら自分の生のリズムを取り戻していく作業なのだ。
ただし、この軽やかさは万能ではない。規範に距離を置けるという自覚は、裏を返せば、規範に押しつぶされる人の痛みに鈍感になり得るということでもある。彼らは体制に迎合しているわけではないが、軽やかでいられるという事実そのものが、しばしば、揃えられてしまう側の窮屈さを見えにくくしてしまうことがある。軽やかさはしばしば個人の資質のように語られるが、それは環境や偶然の積み重ねによって可能になったものである。軽やかでいられるということは、その背後に、そうは振る舞えなかった人びとの緊張や痛みが折り重なっている可能性を常に含んでいる。
だからこそ、その軽やかさは、他者より一歩先に立つための資源ではなく、むしろ自分が何を免れてきたのかを静かに引き受けるための、ひとつの姿勢として扱われなければならない。
1976年、福岡県生まれ。大学院在籍中の2002年に学習塾を開業。現在は、株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、学習塾「唐人町寺子屋」塾長、単位制高校「航空高校唐人町」校長、及び「オルタナティブスクールTERA」代表として常時120名以上の授業(小6~高3)を担当し、進路指導にも力を注いでいる。全国の学校や公共施設等にて、教師や保護者を対象とした講演活動も数多く行っている。
著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論──BTSから世界とつながる』『光る夏 旅をしても僕はそのまま』(晶文社)、『それがやさしさじゃ困る』(赤々舎)など、編著に『「学び」がわからなくなったときに読む本』(あさま社)がある。

