バディ考~世界は二人組で満ちている!

この連載について

バディ(buddy)。辞書的には、相棒、仲間、親友を意味する言葉であり、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、映画やドラマ、マンガなどのフィクションにおいて「バディもの」と言えば、固い絆で結ばれた「特別なふたり組」を期待させるものであり、「ブロマンス」と呼ばれる男同士の親密な精神的繋がりに心奪われることもしばしばだ。
で、これはバディについての連載なんだが、ただバディにうっとりする目的で書かれるものではない。特別なふたり組について考えることにより、現実世界での恋人や夫婦といったふたり組のありようをアップデートできるんじゃないか、できるといいな、きっとできるよ、という気持ちで書いていくつもりだ。
バディをフィクションとして消費し、「ああ楽しかった」で終わるのではなく、現実に応用可能な概念として深掘りしてみたらどうなるか。古今東西新旧さまざまな作品を挙げながら分析・考察していく。男同士のバディだけを取り上げるつもりはない。男女バディ、女バディ、あるいはもっと別の形があるかも……人間関係を新たな可能性へと押し開かんとするバディ研究にお付き合いいただければ幸いである。

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バディってなんだ!?

2021年9月10日掲載

星野源と新垣結衣が結婚することを発表し、世間は『逃げ恥』婚のニュースに沸いた。『逃げるは恥だが役に立つ』は、海野つなみのマンガが原作で、ドラマ化にあたっては野木亜紀子が脚本を担当した。作品を知らない人でも、「恋ダンス」くらいは知っているんじゃないだろうか。

ティーン向けのマンガですらキスから先をバンバン描くのが当たり前の時代に、焦れったいほどゆっくりと進む「むずキュン」な恋で世間を悶えさせたあのふたりが、現実でも夫婦になる。そりゃあまあ盛り上がりますよね。ふだん芸能人の結婚に「なんだ、職場結婚か」としか思わないわたしもめちゃくちゃうれしかったもの。仕事とプライベートは別だし、フィクションとリアルは違うとわかっていても、「ドラマから学んだ夫婦のイロハを実生活に応用し幸せになってくれ」と思ってしまった。マジで余計なお世話だが、それくらい素晴らしいドラマだったってことです!!

『逃げ恥』のヒロイン「みくり」は、大学院を修了したものの就職先に恵まれず、やむなく家事代行業をはじめる。父親の紹介で通い始めた家には、彼女いない歴35年、プロの独身こと「平匡(ひらまさ)」がいた。愛想は悪いが、判断が合理的で無駄がない。同じく合理的であることを好むみくりにとって、それは歓迎すべきことだった。

従業員と雇い主としてスタートした関係は徐々に変化し、最終的にふたりは結婚するのだが、このときの生活方針は完全に男女バディのそれである。マンガ版『逃げ恥』を見てみよう。

平:話し合って見直して
その都度お互いがなるべく楽になるよう最適化していきましょう
問題があったらまた会議で
み:最高経営責任者会議で!
平:そうですよ
僕たちは この家庭という場所を協力して運営していく
共同責任者なんですから
僕たちは雇い主と従業員というところから始まりましたけど
お互いが働いていて対等な立場での結婚というのは
ある意味 起業かもしれませんね

結婚とは夫婦が力を合わせて運営する一大プロジェクトである。それが『逃げ恥』の打ち出した結婚観だった。性別役割分業の解体。対話による夫婦平等の推進。ラブラブの期間を経てこういう考えに落ち着くのではなく、最初からこれなのがすごい。

こんなのロマンティックじゃない、と思うだろうか。思うひともいるのだろうな。しかし、結婚の中身が日々のくらしであると考えるならば、あらかじめストレスフリーにくらせるシステムを組んでおくことこそ大事なのであって、好きだの愛してるだのといった甘い言葉で口を塞がれる方がよっぽど萎える。愛していれば言わなくても伝わる、なんてことはない。これからのロマンティック・ラブとは互いの義務や役割を愛で有耶無耶(うやむや)にしないことなんだと言いたい。

さきほど「恋ダンス」の話をしたが、ドラマ版『逃げ恥』の主題歌であった「恋」において、星野源は「夫婦を超えてゆけ」と歌っている。夫婦を超えてゆく、とは一体どういうことなんだろう。誰かと誰かが出会って、恋をして、夫婦になって、さらにその先……にあるのはやはり性愛の炎が消えてしまってもふたりが仲睦まじく暮らし続けるための何かであり、それってつまりバディ的な何かなんじゃないだろうか。みくりと平匡が共同経営者という体(てい)で結婚生活をスタートさせたように、わたしたちにとって必要なのは、結婚や夫婦といった「一見ゴールっぽく見えるもの」を超え、その先へと歩を進めることなのだろう。

ちなみに、星野源には「ばらばら」という曲もあって、そこでは「世界は ひとつじゃない」とか「ぼくらは ひとつになれない」とか歌っている。なんだか寂しい感じがするが、最後に「そのまま どこかにいこう」とあって、ばらばらのままでいいじゃないのさ、というオチになっている。ばらばらの肯定は、安っぽい恋愛至上主義をぶっ壊すものだ。愛さえあればひとつになれるという幻想を捨て去り、ばらばらの個が歩み寄り重なり合う瞬間を大事にする……これもつまるところバディ的な何かなんじゃないのか。

星野源の話はさらに続く。彼が出演していたドラマ『MIU404』は良質なバディものであった。『逃げ恥』と同じ野木亜紀子が脚本を手がけており、こちらは原作なしのオリジナル作品である。

舞台となるのは、働き方改革の一環として警視庁内に創設された刑事部・機動捜査隊の臨時部隊「第4機捜」。星野が演じる「志摩」は、第4機捜に配属されたはいいものの、自分と組むバディがいなくて困っている。そこにやってくるのが、やんちゃすぎる交番勤務員として煙たがられている「伊吹」(綾野剛)だ。

仕事上ふたりで行動しないといけないからそうする、という義務感からスタートして徐々に内実が伴ってくるパターンは、バディもののお約束である。また、ふたりの見た目なり性格なりが好対照をなす、というのも大事なポイントだ。もともとエリート街道をひた走ってきた志摩と、トラブルメーカーとして敬遠されてきた伊吹。人間不信の志摩と、人間を信じたい伊吹。私服のセンスもまるで違う。まさにふたりは「ばらばら」で、だからこそ、何かをきっかけに結束したときの感動は大きい。

つまりバディというのは、ただふたりで行動してればいいってもんじゃなくて、どこかの時点でちゃんとバディに「なる」必要があるのだ。実際、『MIU404』では、志摩・伊吹以外のメンバーに関しても、バディなんて仕事上必要なだけだしこんなもん期間限定なんだからビジネスライクに行きましょうよ、みたいなことを言っていても、やがてどうしようもなく相棒を思ってしまう瞬間が訪れる。

バディ成立の瞬間に立ち会うことは、作品を愛するファンにとっても大事である。ときどき、バディなんだろうけど、なんでバディになったのかを説明してくれない作品があって、そうなるとこっちののめり込み具合もそこそこで終わってしまう。このひとたちはピンチのときに、このひとたちは絶望の淵でバディになるのね、なるほど。このひとたちは一緒のときに、このひとたちは離れているからこそバディになるのね、なるほど。このなるほど=納得感があればこそ、特別なふたり組が尊く思えるのだ。

ネタバレにならない程度に書いておくと、『MIU404』は警察の話なので、事件解決に向け協力する中で育まれる絆がまずあり、それとはまた別に、これまでの人生で背負った心の傷を互いに見せ合うことで育まれる絆がある。前者だけで終わってしまう作品も多くある中、2本の絆を用意しているのが、野木脚本の憎いところだ。2本の絆が時間をかけてすっかり縒り合わさる頃には、唯一無二の、文字通り特別なふたりになっている。もう誰にもほどけない。すごく尊い。

それにしても、星野源の仕事を追っかけるだけでバディのことがいろいろわかってくるのはどういうわけだ。考えてみれば『箱入り息子の恋』も『地獄でなぜ悪い』もそうだった。恋愛ものと片付けることもできるが、よーく観察すると、好きになった女子の王子様になり切れない男子が、せめてよき相棒であろうと死に物狂いの努力をしている。星野源(の事務所)がどういう基準で仕事を選んでいるのか、わたしには知る由もないが、彼の好演が日本のバディもののレベルをひそかに底上げしているのは間違いない。

『逃げ恥』も『MIU404』もまずはふたり組を作る。最初の時点では義務感で一緒にいる、即席のふたり組だ。バディ成分が充填され、特別なふたり組になるのはその後のこと。ただし、バディになったからといって、ひとつに溶け合う必要はない。「同じ」は少しでいい。「ばらばら」な方がかえって都合がいいときすらある。わたしはそのことに、とてつもない風通しのよさを感じる。そういうふたり組でいいなら、わたしもやりたい。

これまで自分の夫婦関係を説明するときに、「磯野と中島(『サザエさん』)」とか「ぐりとぐら」とか言ってきた。そのように言えば、世間様の考える夫婦イメージに絡め取られなくて済むと思ったからである。はじめは思いつきでなんとなく使っていたこれらの喩えは、いずれも男同士のバディであり、愛だの恋だので説明されがちな男女関係から距離があるのがよかったのだと思う。

まあ、わたしら男女だし夫婦だけど、それより友情で磨き上げたこの関係、理性で立ち上げたこのシステムを見てくれよ。頼むよ。ただそれだけの願いが、いまの社会ではなかなか叶わない。なんか息苦しい。そう感じているのはわたしだけじゃないはずだ。そこでバディものの出番である。あの特別なふたり組には、なにがしか学ぶべき点がある。そして、そのことを読者のみなさんと一緒に探っていけたらと思っている。というわけで、次回もどうぞよろしくお願いいたします。

著者プロフィール
トミヤマユキコ

1979年、秋田県生まれ。早稲田大学法学部、同大学大学院文学研究科を経て、東北芸術工科大学芸術学部講師を務める。手塚治虫文化賞選考委員。朝日新聞書評委員。大学では少女マンガ研究を中心としたサブカルチャー関連講義を担当し、ライターとしても幅広く活動。
著書に『40歳までにオシャレになりたい!』(扶桑社)、『夫婦ってなんだ?』(筑摩書房)、『少女マンガのブサイク女子考』(左右社)などがある