まさかこれが自分の生活なのか、とうたがいたくなるときがあります。
それは自分にはもったいないようなしあわせを感じて、という場合もあれば、
たえられないほどかなしくて、という場合もあるのですが、
それはもちろん自分の生活であるわけです。
その自分の生活というものを、つまりは現実を、
べつだん、大げさにも卑屈にもとらえず、そのまま受けいれたとき、
みえてくるのは「ほのおかしさ」ではなかろうかと思います。
ままならない生活にころがる「ほのおかしさ」を私はずっと信じています。
これが生活なのかしらん / 洗濯と半泣き
☆このたび、9月23日に小原晩さんのエッセイ集『これが生活なのかしらん』が刊行されます。
ひとり暮らし、ふたり暮らし、三人暮らし、寮暮らし、実家暮らし……
いままでのさまざまな暮らしについて綴ったエッセイのなかから、
発売を記念して1つの詩と5編のエッセイを公開いたします。
第1回目は、本書の冒頭を飾る詩「これが生活なのかしらん」
そしてひとり暮らしのなかで起きた、ある夏の夕暮れの出来事を描いた「洗濯と半泣き」です。
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これが生活なのかしらん
これが生活なのかしらん
たずねたくなるときがある
なんべんフォークをまわしても
巻きあがらないパスタをみつめて
これが生活なのかしらん
うたがいたくなる朝がある
ひとりで味わうアイスコーヒー
禿げた夫は死んでしまって
これが生活なのかしらん
わらいだしたい雨がある
両手いっぱいに買いもの袋を提げた
スーパーマーケットの帰り道で
これが生活なのかしらん
かたりたくなる酒がある
むつかしい むつかしいよと
ままならないまま大人になって
これが生活なのかしらん
ふっとひらけた場所にでる
生きていること
ほのおかしくて
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洗濯と半泣き
ひさしぶりの休日に、たまった洗濯ものを回した。夏の夕暮れのことである。
私の住んでいるアパートは洗濯機を置く場所のないかわりに共同のランドリースペースがある。
そろそろ洗い終わったかしら、と三階の部屋から一階のランドリースペースへ降りて行くと、ぎょっとした。
地べたに、びしょびしょにぬれたTシャツや、バスタオル、枕カバー、下着などが散らばっているのだ。すべて、さきほど洗濯機に入れた、私のものである。
私は鳥肌を全身にたてながら、くるっくるっとまわりを見渡した。
それから洗濯機のふたを開けてみて、空になっているのを確認し、くずれ落ちそうになる膝をぐっとこらえた。
いったいなにが起こったのか。だれの仕業なのか。どういう意図なのか。意味はあるのか。さっぱりわからなかった。そのわからなさが、より恐怖をあおるのだった。
このまま地べたに自分のものを放置しておくわけにもいかないので、私は自分の部屋に戻り、ゴミ袋をとってきて、びしょびしょの布たちを拾い上げ、半泣きでゴミ袋に入れていった。それからゴミ捨て場に置いた。とてもじゃないけれど、一度あんなふうになった洋服や下着を身につける気にはなれない。
私は部屋に戻り、いったいぜんたいどういうことなのか考えようとしたけれど、私の回した洗濯機を蹴りつけ、停止ボタンを押し、かぱりと白いふたを開けて、水でずっしり重くなった布たちをおっこら持ちあげ、地べたにびちゃ、びちゃと音をたてて捨てていく人間の後ろ姿を想像すると、だんだんと息苦しくなってきたのでそれ以上考えるのはやめた。
それからというもの、歩いて十分のところにあるコインランドリーを使うようになった。けれどコインランドリーに通うのはとてもおっくうなので、五回くらい通ったあたりで、さすがにもうだいじょうぶじゃないか、あれは神さまのいじわる的な、そういう類のものだったのじゃないか、そう言い聞かせるようになって、私は性懲りも無く、またアパートの洗濯機を使った。
洗濯のおわるころ、おそるおそる下へ降りると、ふつうに洗い終わっていた。ほっ。きれいに洗われた布たちを乾燥機にうつし、またおわるころに降りて行くと、きちんと乾いていた。
さて、そのあと五回ほど私の洗濯ものは、地べたにばら撒かれた。そのたびに、洋服や下着やタオルを捨てたので部屋からはどんどんものがなくなった。
ああ、他人の洗濯物をばら撒くほどの、悲しさ、怒り、パニックとはどんなものだろう。
私はいつも半泣きでこそあったものの、ばら撒かれるたびに、その人間の狂気について、ふわふわと考えた。
どんな狂気も、他人事ではない。おなじアパートに住む、おなじような生活水準の人間のやったことなのだから、なおさらである。
なにをそんなに狂うことがあるのかとは思うけれども、それは自分が狂っていないから、そんなに悠長なことを思えるのだ。
狂気は、とうに私たちのなかで眠っているのだから、いつ自分が他人の洗濯ものをばら撒くようになるかわからない。きっかけひとつで、すべてがひっくり返ってしまうことを、私たちはよく知っているはずだ。
ということはつまり、と私は考える。
社会というつかみきれない、だれのためにあるのだかわからない怪物を、うらめしやうらめしやと呪ってみるのであった。
☆書籍の紹介ページはこちらhttps://www.daiwashobo.co.jp/book/b10033028.html
一九九六年、東京生まれ。
二〇二二年、自費出版にて『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を刊行。
原稿を書くときはいつもアイスコーヒーとカルピスを用意します。
白いものと黒いもの、甘いものと苦いものがあるとなんとなく落ちつきます。