ぼくらはこうして大人になった

この連載について

若いころに抱えていた違和感を手放さない人は、世間では子供じみている人と見做されるけれど、
手放したつもりがただの見ないふりで、かえってこじらせてしまう人もいる。

私はどうやってこんな自分になったんだろう。そんなことを考えたい大人のための連載。
毎回読み切りですから、気軽に楽しんでいただければ幸いです。

私の証明

2023年2月9日掲載

兄は父親が嫌いだと言うことを憚らなかった。父はみんなのためだから仕方がないよと言いながら、家に帰ってくるのは月に1回くらいしかなかった。一度だけ母が「あの人は誰も愛せないのよ」と口ずさむように言った。私はとっさに違うと思った。もうあなたのことは愛していないかもしれないけれど、父は子供のことを愛している。

いつもふてくされてゲームばかりしている兄と違って、私は勉強ができた。高校で英語と国語はいつも学年上位だった。7限目まで授業を受けてクタクタで帰ってきたのに、母はまだ家にいない。妹の私が作ったパスタを、兄は感謝する様子もなくむしゃむしゃと食べながらメールを打っている。

母は兄を大切にしていた。甘やかしていたと言ってもいい。それに比べて私にはそっけなかった。あなたはできるから。母がそう言うから私はできる人になったのに、そのことが私から母を遠ざける結果になった。母は私のことを大切に思いながら、どこかで疎ましく感じている。その疑念を何度も頭で消したが、黒板消しの跡みたいに消えてなくならなかった。

父はいつもひとり黙って家を出た。母も見送ることをしない。母は父のことが好きではなかったが、嫌いでもなかったと思う。1か月後にすっかり日焼けをした父が家に戻ってきても、母は何も言わなかった。きらきらと健康的な父の姿が疎ましかった。その幸せに私は触れられもしないんだろうか。

父は建築家で何の後ろ盾もなく30代で設計事務所を作り、数人のアルバイトを雇うだけでそれなりの業績を出していた。全国を飛び回って、珍しいおみやげを買ってきてくれた。兄はそんな父に憧れていたし、自分にも同じような道が開かれているような気持ちになっていた。しかし兄は父から自由さだけを受け取り、肝心なことは何も学ばなかったようだ。

父には恋人がいたと思う。母が知っていたかはわからない。兄が父に反抗し始めたのもそのころだ。父は悪いことをしているが、悪人ではない。母と洗濯物を畳みながら、父の恋人はいま何をしているだろうと考えた。彼女の冷たい人生に父という陽だまりがあるなら、それでもいいのではないか。そして母の人生と私の人生の冷たさはつながっている気がした。

私は早熟だったと思う。親や学校の先生など身近な大人の噓を見抜いて半ば見下していた。大人が設定したレールに乗ってうまくやることが、そんな大人を嘲る唯一の方法だと知り、結果を出して悦に入っていた。でもこれはいま思い返したことで、どこまで当時の意識かはわからない。そういう傾向があったとしか言えない。

私はうまくやることに乗っ取られたようだ。ささやかな試みがいつの間にか怪物になった。私の証明は母を私からますます遠ざける。それがわかっているのにやめられなかった。母は私を褒めようとするたびに感情を失くす自分に戸惑っているようだった。母にも葛藤はあるのだろうか。それともたいして気にしていないのだろうか。

結局のところ私は、当たり前の学問を当たり前に身にまといたかったのだ。他と同じようになりたかったのだ。しかも、できれば見下ろせるくらいの場所に立っていたかったのだ。でも、なぜあれほど大学受験に向けた勉強を頑張ったのかと考えると、それだけでは説明がつかない。そこには純粋な生きる意志のようなものがあったのだと思う。

大学は自宅から通える範囲から選んだ。勧誘されるままに管弦楽団に入った。楽器はヴィオラで、毎週火曜日にレッスンに通った。先生は坂の上にある住宅街のマンションに住んでいて、家族がいなかった。気難しい人だったが、時折取るに足りない下品なことを話して子供のように笑った。不快だったが次第に慣れて気にならなくなった。

2度目の定期演奏会で弾いたのはブルックナーの交響曲9番だった。でも私にはそんな狂気も咆哮も必要なかった。当時付き合っていたコンマスが恍惚の高音を奏でているのを見て別れようと思った。崇高を気取る彼は、浮かれたモーツァルトの音楽を馬鹿にしていたんだった。モーツァルトはその軽さが悲しいのだ。わからないなんてどうかしている。

私を好きになってくれる人がいたので、流れのままに何人かと付き合うことを繰り返した。彼らに共通していることは、私のことを買いかぶっているということだった。見上げられても嬉しくない私は、次第にその人のことを疎ましく思うようになって別れることを繰り返した。すぐに別れることができずに数人と付き合う時期もあった。

兄は気性が荒くて危なっかしい人だった。私が医療系の事務職に就職した2年目に結婚した兄は見違えるようだった。結婚した人に対してやさしさの感情が芽生えて別の人になったようだ。見慣れない兄の笑顔が不自然で不気味だった。兄と結婚したその人は、こんな人と結婚して幸せなんだろうかと思った。

兄は仕事がうまくいかなかった。結婚して1年目に娘を授かり3年で離婚した。娘は相手に引き取られた。母は兄が塞ぎ込んでいると離婚した相手をなじった。話を聞きながら私は離婚した原因を母の中に見た。母には自覚がないのだろうか。違う。長い間やり過ごしてきた人は、その姿勢がそのまま人生の背中になる。茶碗を洗う母の後姿を見ながら思った。

「お前の人生は楽そうでいいな。」実家に戻った兄は私に言った。お前の人生楽そうでいいな。じゃあ楽じゃないあなたは絶望して死ねばいい。とっさに思ったが何も言わなかった。兄も私を買いかぶっている人間のひとりだ。兄がなぜ離婚をしたのか私にはわかる。みすぼらしいプライドが高いのが見ていられない。

「相手があなたに対して卑屈になっているとき、その相手はすでにあなたに傷つけられているのかもしれない。」 先日読んだ本にそう書いてあった。私は兄をすでに傷つけたのだろうか。そして、私は付き合った男性たちをも傷つけていたのだろうか。結局悪かったのは私なのだろうか。

いや、人を傷つけるというのは単に比重の問題なのではないだろうか。密度が違えばどちらかが沈み易くなるというだけの話なのではないか。父と母も比重を(たが)えていたのかもしれない。母は父に対して何も言えないところがあった。もっと言えばいいのにともどかしく思うこともあった。でも私はその比重を基本的には好ましく思っていたのだ。

父は還暦を超えて、最近は家にいることが多くなったようだ。父と母の関係は相変わらずだが、実家に帰った私に母は「お父さんともっと仲良くしなさい」と言う。何をつまらないことを言っているんだろうか。他人に転移していることに気づかない人間はやっかいだ。でも私もすでに同じことを繰り返しているのかもしれない。

私は34歳になった。29歳になって実家を出てそれから独り暮らし。恋人はいるが、結婚するかはわからない。洗濯物を干しながら、これからも一人で家事をやっていくのかなと思う。結婚しなかったとしても、一人で生きていけるために身に付けたものが私にはあると思う。一人がいいと一人は寂しいの間に、いまの私はいる。

著者プロフィール
鳥羽和久

1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に中学生40名を集めて学習塾を開業。現在は株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(筑摩書房)、『推しの文化論 BTSから世界とつながる』(晶文社)など。朝日新聞EduA相談員。