ぼくらはこうして大人になった

この連載について

若いころに抱えていた違和感を手放さない人は、世間では子供じみている人と見做されるけれど、
手放したつもりがただの見ないふりで、かえってこじらせてしまう人もいる。

私はどうやってこんな自分になったんだろう。そんなことを考えたい大人のための連載。
毎回読み切りですから、気軽に楽しんでいただければ幸いです。

3

愛の孤独

2023年8月30日掲載

あの人がこんな私に惹かれたのは、私の中に塞ぎきれない穴ぼこがあって、いつもそこから血を出しているのが見えたからだろう。あの人は、私の穴ぼこを埋めることができれば、自分の傷が癒されると考えたのかもしれない。

去年の7月に新しいパートが決まって、私が初めて仕事に行った日、その職場が自分には合わない気がして私はすっかりしんどくなっていた。そんな日に、あの人は「僕もしんどいから一緒だね」と言った。でも、私が欲しかったのはそんな言葉じゃなかった。

あの人と話し合って、私は結局その職場で働くのを止めた。会社にはあの人が電話してくれた。あの人は私に優しい。私がやってほしいと頼むと、嫌な顔ひとつせずなんでもやってくれる。人を助けるということに関して、彼はそれがまるでもともと義務であったかのように淡々とやってしまう。

でも、同僚の愚痴を言いながら、僕の方が大問題を抱えているとばかりに訴えてくる彼といっしょにいると、私も苦しくなる。よほど調子がよいときでないと、私はまともに話を聞いてあげられない。彼は私がその日少し調子がいいと分かると、いまがチャンスとばかりに胸の内のドロドロを吐いた。そのドロドロのせいで、私はいつもすっかり具合が悪くなった。

あの人は、自身のトラウマのせいで自分を守ることに必死で、まだあなたに出会えていないの。あの人がいくらあなたを愛しても、あなたはあの人にとっていつまでも偶像だから。あの人はいつまでも報われないし、あなたも幸せになれない。だから、早く別れたほうがいい。

こう助言してくれたケイコは、あの人のことを知る私の数少ない友人だ。ケイコは、私があの人のことを嫌いではないことを知っている。あの人ほど真剣に生きている人はいない。そういう共通了解が私とケイコとの間にはあったし、その真剣さが彼の人生の中で報われることを心から願ったこともあった。

でも、あの人にとっての私は、まるで彼自身だけを映す鏡のようだ。その事実が、私の心の最後の一糸を引き裂く。あの人は、母親に対する怒りでどうにか生かされているような人なのだ。

私があの人の愛の宛先になることはこれからもないだろう。私は岸辺に立ったまま、あの人のことを生涯近づくことができない島のように眺めている。

私は、あの人に言おうと思う。私はもう、あなたとは一緒にいられない。でも、一緒に生きてはいけるよと。別々の軌道を回る星として、お互いを遠くに見遣りながら、この世界でひとりとひとりで生きていこうと。

著者プロフィール
鳥羽和久

1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に中学生40名を集めて学習塾を開業。現在は株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(筑摩書房)、『推しの文化論 BTSから世界とつながる』(晶文社)など。朝日新聞EduA相談員。