「学校」という制度が私たちに刻み込んできたものとは何か。大人になった今、私たちの社会とのかかわり方や、自分自身のあり方、そして子どもとの関係にまで、それが無意識のうちにどのような影響を及ぼしているのか。
本稿は、その否定性の痕跡を一つひとつ浮かび上がらせ、剥がし取っていこうとする試みです。
「主体性」という自由をまとった支配
映画『小学校 〜それは小さな社会〜』(山崎エマ監督/2024年)は、東京都世田谷区のごく普通の公立小学校の日常を一年かけて追った記録である。入学式の春から卒業までの時間が、解説や解釈をはさまれることなく淡々と映し出される。
大きな声で元気に返事をする1年生、号令とともに一斉に動く身体、給食や掃除の係を率先してこなす姿、揃えるべき靴の角度をミリ単位でチェックし、記録する児童たち──。それらはありふれた日本の学校の日常ではあるが、私たち大人が思っているよりずっと濃密に、規律や規範といった「望ましさ」の回路が子どもたちの身体に流れ込んでいく様が露わになる。
この映画のキャッチコピーはこうだ。「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは“日本人”になっている」「では私たちはいつ、どのようにして「日本人」になったのか」(注1)と。
神戸市出身で大阪の公立小学校に通い、その後19歳でアメリカに渡った山崎監督は、この映画に関するインタビューで、海外での自身の経験についてこう語っている。
普通にしてるだけのつもりが、ちゃんとしてますねとか、責任感ありますねとか、時間に遅れないですねってとても褒められて、小学校の時の価値観が自分の強さになったなという感覚がある (注2)
そんな自分が小学校で何を学び、そして日本社会にいったい何をもたらしているのか——。その問いに応答するかのように、小学1年生(6歳児)と6年生(12歳児)の1年間の日常的な風景を捉えたのがこの映画だ。
私がこれを見て痛切に感じたのは、教育とはつまるところ、子どもたちを「より望ましい状態」、つまり制度が規範的に設定する「こうあってほしい子ども像」へと導く営みにほかならないという、ある意味で自明の事実である。だが問題は、この「望ましさ」がどこで誰によって規定されているのか、そしてどのような力学によって子どもたちの身体と内面に浸透していくのかが、学校という制度環境の内部ではほとんど問い返されることがない点にある。この映画においても、その前提は不問のまま維持されている。
つまり、学校教育における「望ましさ」はすでに所与の前提として固定化されており、その前提そのものを吟味したり、反転させたり、あるいは逆走してみたりする回路は、少なくともその制度の内部では確保されていないのである。
このような学校教育の中では、「望ましさ」という前提がまるで土壌のように敷かれ、そこから伸びてくるものが「主体性」や「自主性」として結実する。教育の意義や目標を語る際、ほぼ例外なく掲げられるこれらの語は、表面的には、生徒が自らの意志で学び、行動し、成長していくという、自律(あるいは自立)のイメージをまとっている。
だが、ここで語られる「自主性」とは、実際には、生徒が教育制度の内部であらかじめ設定された「望ましさ」を自分の内側に取り込み、それをあたかも自分自身の欲望であるかのように引き受け、その実現へ向けて努力することを意味しているのである。
たとえば、教師が「自分で考えて行動しなさい」と促すとき、多くの場合そこで言われる「考える」とは、制度が求める正しい行動を自力で選びとることを意味している。つまり、生徒は自発的に判断しているつもりでも、選択肢の幅や方向は、制度によってすでに形づくられているのである。
このとき教師は、生徒に望ましさを露骨に押しつけるのではなく、生徒が自らその望ましさを選んだと思えるように導く存在として肯定される。命令せず、生徒に判断させ、生徒自身の動機として望ましさを抱かせる教師こそが、「よい先生」として評価されるのだ。
しかし、まさにこの構造こそが、教育においてもっとも深い地点で暴力性を孕んでいる。なぜなら、強制を表に出さず、自由の名のもとに望ましさを内側へと滑り込ませるこの操作は、子どもの内面を管理の回路に組み込み、規律訓練の枠組みをより精密な形で主体の内部にまで延長し、きわめて不可視で不可逆的な影響を及ぼすからである。
今日の学校を特徴づけるのは、近代以降の規律訓練(discipline)型の指導が依然として残存しつつ、その外側を包み込むように、新たな環境管理型(=直接的な指示ではなく、学習環境そのものをデザインし、子どもが自発的に望ましい行動を取るよう誘導する技法)の指導論が重ね書きされている点である。教師の指示通りに「前にならえ」で一斉に動く集団性や、時間割・号令・姿勢といった身体を微細に規定する規律の技法は、いまだに多くの学校で日常的に作用している。しかし、効率性や合理性の観点から見れば、こうした集団的統制の方法は柔軟性に乏しく、運営の要請に必ずしも勝手よく適合するものではない。
そこで登場したのが、「主体的に動ける個人」を育成するという新たな論理である。「自分で考え、自分で判断し、自分で動く」という個人像が、教育の理想モデルとして掲げられる。これが、今日の教育改革文書にも繰り返し強調される「主体的な学び」であり、生徒一人ひとりが自己決定し、自己計画し、自己実現していくことが、教育の最適解として提示されている。
しかしそこで浮上するのが、この「主体的」モデルとの相性が悪い子どもたちの存在である。意欲を示さない、計画を立てない、判断を誤る、時間が守れない、周囲に合わせられない——そうした生徒たちは、これまでの規律訓練の文脈では「指導すべき問題行動」を起こす対象として扱われてきたが、しかし今日では、彼らは「適切な配慮」の名のもとに別の場所へ導かれ、環境調整のためのゾーニングの対象となる。
つまり、「主体性」の語が想定する理想像に馴染まない生徒たちは、もはや従来型の厳しい指導の対象として扱われるのではなく、配慮、個別最適化、特性理解といった「正当な」名目によって、正規の指導の枠組みからそっと外されてしまう。こうして、制度が求める主体性を体現できない生徒は、このプロセスの中で不可視化され、制度が効率よく回る領域だけが優先的に保全される。そうした変化のことを、私たちは今日「多様化」と呼んでいるのである。
では、現代の教育における「管理」とはどこで作用するのか。規律訓練型の管理が、身体の配置や行動の反復を通して主体を形成する技法として今も作用しているのに対し、今日の環境管理型の管理は、その規律の論理を包摂しつつ、主体の「選ぶ」「判断する」といった自由の形式そのものを統治の媒体として組み込んでいる。生徒は、教師に命令されたからではなく、自ら選んだこととして望ましさに向かう。つまり、支配が「自由」という形式をとって実行されるのだ。
先の映画のある場面は、この自由の形式をまとった支配の典型を鮮烈に示している。新入生歓迎行事の合奏練習で、1年生の女の子Aさん がシンバルをうまく叩けず涙をこぼす。そこで指導教員のE先生は次のように声をかける——
「Aさんならできるよ」「先生はAさんのことを信じてるから」
この「信じてる」は、一見すると生徒への信頼を前提とした励ましの言葉として響く。しかし、これは実際には「条件付き」の信頼である。できない彼女に練習を促した直後に発せられる「信じてる」は、「あなたが練習をがんばれる子だと信じている」という意味を帯びる。裏を返せばそれは、「もしあなたが練習をがんばらないのなら、あなたを信じることはできない」という条件への反転を常に孕んでいる。事実、Aさんがうまく叩けず、合奏の最中に涙をこぼした際、E先生は彼女をみんなの前で叱責する──「泣いたら上手になるの?」
その後、この映画は、本番でAさんが合奏に成功する姿を「立派にやりとげた成長の物語」として提示する。しかしその物語は、いったんAさんを「できない子」として貶めた上で、その不足を可視化したうえで「克服」へと導くという構造を条件としている。いわば、最初の「できない姿」が物語の成立のための前提として利用されているのであり、ダイエット広告のビフォー写真が不可欠の素材として用いられるのと同じ構造である。
これを書きながら、私自身にも似た経験があったことを思い出した。小学6年生の体育のプールの時間、私は最初こそ25m泳ぐのがやっとだったものの、夏のあいだ練習を重ね、最終的には足をつかずに1000m泳げるようになった。
ところが夏の最後の水泳大会、担任は私に、彼があらかじめ用意した原稿どおりに全校生徒の前で話すよう求めてきた──「僕は最初は25mを泳ぐこともできませんでしたが、一生懸命練習したおかげで1000m以上泳げるようになりました」。そのときの担任の表情は、「名誉なことだろう」とでも言いたげで、事実上、断る余地はなかった。
しかし、私は25m程度であればもとから泳げていたのである(この差異は私にとっては重要だった)。にもかかわらず、「25mも泳げなかった子が努力して報われた」という成長物語を語らされることで、私はその物語に都合よく押し込められてしまったのだ。言わば、担任が描きたい「成長の物語」に合わせて、私の過去の一部が書き換えられたのである。
そこには1000m泳げるようになったという達成の喜びは微塵もなかった。全校生徒の前で、貧弱な水着姿を晒しながらその物語を語らされた後に残ったのは、「もともとは全く泳げなかった鳥羽君」という哀れな自己像だけであり、私はただただみじめだった。
こうした、大人の成長物語に子どもが巻き込まれる経験は、決して珍しいことではない。しかも、周りの大人には悪意があるわけではなく、むしろよかれと思って行われるがゆえに、子どもが受けた傷を自分で認めるには、ときに長い時間が必要になる。自分が大人の「善意」によって傷つけられたのだと理解することは、簡単なことはないからである。
先の映画では、一度みんなの前で叱責されたAさんが、E先生に再び叱られることへの恐怖を、別の教員 (W先生)に打ち明ける場面がある。そのときにW先生が発した言葉が印象的である——「いっしょに怒られてあげる」
この言葉は、一見すると寄り添いの姿勢を示すやさしい言葉に聞こえる。しかし、そのやさしさは、叱られるという構造そのものには一切手を触れず、その枠組みを所与のものとして受け入れることで成立している。子どもの恐怖には寄り添っているように見えても、「望ましさ」へ向かわせる力学そのものを相対化する視点を欠いており、問題の回路には踏み込まない。
そのため、この言葉はAさんにとって一時的な慰めにはなるものの、彼女の存在を丸ごと肯定することにはつながらないのである。
こうした「望ましさ」を前提に、それを内面化させる力学は、個々の教室のやりとりにとどまらず、学校文化そのものの内部に深く染み込んでいる。むしろ、私たち大人が学校を語るときに用いる説明の枠組みや価値づけのしかたそのものが、この力学を当然の前提として組み込んでいると言ってよい。
たとえば、学校選びの場面ではしばしば次のような言説が語られる。すなわち、学力レベルの高い進学校は校則が緩く自由であり、それは「自律した生徒」が多いからだ、という説明である。
しかし、ここで言われる「自律」とは何を意味しているのか。ここで自律したとされる生徒——「ちゃんとした行動ができる生徒」「自分で考えて判断できる良い子」たちは、社会で優勢な価値観——すなわち礼儀、効率、協調性などの規範を望ましいものとして内面化し、それに沿って自らを律するようになった子どもたちのことにほかならない。
つまり、彼らが自身の判断で行動して見えるのは、外から規範を押しつけられずとも、自らその規範を選び取ったのだと信じて行動しているためである。校則がなくても秩序が保たれるのは、校則に代わる内的規範を、すでに子ども自身が背負っているからである。
この構造こそが、教育の暴力性をいっそう見えにくくする。外部から与えられた規範に従うのではなく、あたかも自分でその規範を選んだかのように思い込むとき、支配は不可視化され、抵抗の契機は限りなく薄れていく。しかも、このプロセスは、教師の「子どもの自主性を伸ばしたい」「子どもを成長させたい」という善意と不可分に絡み合って進行する。暴力性は、善意という外套をまとったときにもっとも見えにくくなるのである。
ちなみにこの不可視化は、家庭の領域でも同じように進行している。以前に比べて、声を荒げて子どもを叱りつける親は明らかに減った。それ自体は歓迎すべき変化であるかもしれない。しかしその一方で、「良い子」であろうとする子どもの性向を利用して、親の期待を子どもに読み取らせ、先回りした「望ましさ」へと向かわせようとする大人はむしろ増えてはいないだろうか。露骨な命令や禁止が後退する代わりに、親が抱く「望ましさ」を子どもが内面化し、それに応え続けることが求められるようになっている。ここでもコントロールはより巧妙になり、より見えにくい形で作動する。
しかも、子どもがその「望ましさ」を達成できなかったとき、問題は別の方向へ向かう。せっかく親が自分のためを思って言ってくれているのに、その期待に応えられない自分は悪い子なのではないか、ダメな人間なのではないかと、矢印は自責に向かうのである。
こうした構造の中で育った子どもたちは、大人になっても、外側から与えられた「望ましさ」の基準を、自分の内側から湧き上がるものと誤認し続ける。その結果、学校を離れてもなお、他者の期待を読み取り、それに応答することが生の中心的な構えとして組み込まれてしまう。この「外部の規範を自分の欲望として引き受けてしまう」構造こそが、「学校後遺症」の核心のひとつなのである。
ここであらためて、映画『小学校』に話を戻したい。この作品が私たちに突きつけるのは、単なる規律訓練の過剰さだけではない。そこで描かれるのは、子どもを包み込む保護の機能と、子どもを枠にはめる規範の力とが同時に作用する「小学校」という場所の、避けがたいアポリアそのものである。
公開以来、この映画には、賛辞と批判の双方が多く寄せられてきた。時に過剰とも見える小学校での規律と情操の教育こそが、日本社会の秩序だった安心社会を支えているのだと評価する肯定的な意見。他方で、子どもをきっちりと枠にはめ、自由を奪うことで社会を形成・維持していく暴力性を批判する否定的な意見もある。
私自身はどちらかといえば後者の立場だが、だからといって、規律訓練への生理的嫌悪だけでこの映画を語るのは、学校の捉え方としても、この映画の読み方としても十分とは言えない。「だから学校はダメなのだ」と一刀両断できるほど、学校が子どもに与えているものは単純ではないからである。
確かに、個人的にも靴並べのシーンなど「それはさすがにやりすぎでしょ」と感じる場面はあった。しかし、学校にそうした面があるからといって、すべての子どもがその環境によって「模範的日本人」へと一様に染め上げられるわけではない。同じ環境のもとでも、まったく異なる人格として育っていくのが子どもの力なのである。
また、現実社会において学校的な規範や倫理の恩恵をまったく受けずに生きている人はいない。たとえ過去に学校に通っていなかったとしても、その人は社会の至るところに張り巡らされた小学校教育の残滓──他者のふるまい、公共空間の秩序、日常の礼儀作法──の影響を間接的に受けている。学校での学びは想像以上に多層的で複雑であり、私たちは皆、その網の目の中で守られ、かつ制御されながら生きているのである。
こうした点を踏まえると、先に挙げた二つの捉え方は、どちらか一方を選び取って他方を退けることができるような関係ではない。むしろ、そのあいだに生じる緊張関係そのものを引き受けるほかない、ということが見えてくる。
「学校後遺症」を解く鍵は、まさにこの点にある。それは、規範性に縛られながら、同時にその規範に守られているという二重性であり、それゆえに学校を単純に肯定することも、全面的に否定することもできないという事態である。映画『小学校』が描いたのは、制度の暴力でも、ただの善意でもなく、そのあまりにも複雑で矛盾に満ちた「学校という場所」の姿だった。
では、このような二重性を承知した上で、大人は子どもとどのように関わればよいのか。ここで、ドイツの教育哲学者O.F.ボルノー(1903-1991)の議論は重要な示唆を与える。(注3)
ボルノーは、教師が子どもに向ける心の姿勢として、「信頼」と「期待」を決定的に区別した。「期待」とは、相手の内側に「こうであってほしい」という像を密かに押しつけ、その像に沿って行動することを求める働きかけであり、その意味では明確な支配である。教師だけでなく、親が子どもの将来像や性格像を過剰に描き、そのイメージに合わせるよう暗に促すとき、そこで進行しているのは、自由の形式をまとった内面化である。
子どもが大人の期待に応えようとするとき、それはいかにも自らが選んだ道のように見える。しかし、実際には「望ましさ」の基準をけなげにも大人のまなざしから取り込み、その内面で再生産しているにすぎないのである。
これに対して「信頼」とは、子どもの現在の全体像をそのまま受け止め、子どもを無条件に信用し、その内にある可能性がどのような方向へ開かれていくのかを、あらかじめ規定しない態度を指す。教師がしばしば行う部分的能力に依拠した承認——〇〇ができるなら認める——や、親が示しがちな条件付きの愛情や承認——〇〇をするならあなたを愛する——は、いずれも子どもの自由を狭めるはたらきをもつ。こうした限定的な信頼は、一見すると励ましや肯定のように見えても、実際には子どもの行動を縛り、心を閉ざさせる作用を伴ってしまうのである。
子どもの全体像を受け止める信頼のことをボルノーは「包括的信頼」と呼んでいる。これについて、さらに彼は「信頼の賭け」という概念を提示する。これは、子どもがその信頼に応えてくれるかどうかを、大人があらかじめ確かめることができないにもかかわらず、それでもなお信頼し続けるという態度を指している。
教師にとって子どもに嘘をつかれることはつらい経験であり、親にとっても、子どもに裏切られたと感じる瞬間は深い痛み(ときに強い怒り)を伴う。しかし、ボルノーの考えからすれば、そうした痛みは、むしろ関係が開かれている証である。嘘をつかれたとしても、裏切られたとしても、なお信頼し続けること——その不断のはたらきこそが、教育と養育に共通する、人が人を育てる営みの根幹だということである。
ちなみに、この「期待」と「信頼」をめぐるボルノーの考え方の背景には、子どもが他者からの影響を無抵抗に受けてしまう脆弱な存在であるという深い認識がある。子どもは、大人が「この子はこういう子だ」と信じて向けるまなざしを無意識のうちに受け取り、良くも悪くもその像に合わせて自分を形づくってしまう。その意味で、期待はそのまま子どもの内面に刻まれやすく、子どもはきわめて無防備な存在なのである。
だからこそ、親や教師は、子どもに期待をにじませるのではなく、包括的信頼のもとで子どもとかかわる必要がある。大人の善意がもっとも暴力的になるのは、その善意が「自由」の名を借りて内面へと入り込むときなのだから。
信頼とは、相手の自由を奪わず、相手の未来を決めつけず、相手の内側に自らの像を刻み込まない態度を指す。教師も親も、自らが子どもの内面に実際の影響を与えてしまうという事実を自覚したうえで、その関わり方をゆるやかに引き受ける必要がある。
教育がなんらかの価値を含む以上、「望ましさ」そのものを放棄することはできない。必要なのは、望ましさを大人の思い通りにコントロールできるものとして扱うのではなく、包括的信頼を前提にした非操作的な関わりの中で、どのように提示しうるのかを問う姿勢である。
言い換えれば、私たちが手放すべきなのは望ましさそのものではなく、それを透明な前提として無自覚に作用させ、結果として子どもの内面化を不可視のうちに進めてしまう構造のほうなのである。そのためには、包括的信頼に支えられた働きかけが不可欠であり、そこにこそ、自由の形式をまとった管理を解除するための最初の一歩がある。
*本論考では、映画『小学校』に触れながら、そこに描かれた学校や教師の姿を、現代の学校が抱える構造的課題の縮図として取り上げ、批判的に検討した。しかしこれは、映画に登場する特定の人物たちを非難したり、個人の人格や努力を貶めたりする意図にもとづくものでは一切ない。そもそも、映画はひとつの独立した表現作品であり、そこに映し出される姿は、登場する人々の「ありのまま」をそのまま固定化したものではない。また、学校も教師も日々変化を続ける生きた存在であり、単純なレッテル貼りで語ることは、現場で尽力されている方々に対する不当な扱いとなりうる。本論考の目的は、作品を契機として、現代の教育環境に潜む構造的な問題をより多角的に考えるための材料を提示することである。ここでの議論が、学校や教育のあり方を問い直すための一助となれば幸いです。
注1 映画『小学校 ~それは小さな社会~』の公式サイト
YouTubeでこの映画の短縮版『Instruments of a Beating Heart』が視聴可能。
注2 「日本の小学校」描く映画が海外から称賛!山崎エマ監督に作品に込めた思いをインタビュー TOKYO MX +
注3 『徳の現象学:徳の本質と変遷』オットー・フリドリッヒ・ボルノー著、森田孝 翻訳 白水社 及び『人間学的に見た教育学』オットー・フリドリッヒ・ボルノー著、浜田正秀 翻訳 玉川大学出版部
1976年、福岡県生まれ。大学院在籍中の2002年に学習塾を開業。現在は、株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、学習塾「唐人町寺子屋」塾長、単位制高校「航空高校唐人町」校長、及び「オルタナティブスクールTERA」代表として常時120名以上の授業(小6~高3)を担当し、進路指導にも力を注いでいる。全国の学校や公共施設等にて、教師や保護者を対象とした講演活動も数多く行っている。
著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論──BTSから世界とつながる』『光る夏 旅をしても僕はそのまま』(晶文社)、『それがやさしさじゃ困る』(赤々舎)など、編著に『「学び」がわからなくなったときに読む本』(あさま社)がある。

