続・古典を読んだら、悩みが消えた。

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「上手に嘘をつけ」と教える芭蕉――生きるうえで避けられない“嘘”とうまく付き合う方法(『鶉衣』第3回)

2023年5月26日掲載

作品:『鶉衣』より「八百坊記」

 横井也有の『鶉衣』、今回のテーマは「嘘」です。タイトルは「八百坊記」。
 これは「八百坊」という名の庵(いおり)を結んだ友人から、この「八百坊」という屋号について「なんか書いてくれない?」と頼まれた也有が書いた文章です。
 庵というのは隠遁するための小さな住居。庵を作ることを「庵を結ぶ」といいます。年を取ったら仕事を引退して、小さな庵でも結んで、そこでゆったりと隠居生活をする。それが昔の老人としてのひとつの生き方でした。
 そして、その庵には名前をつけて、その名にあったような第二の人生をはじめる
 私が子どもの頃、近所に「人魚庵」という名をつけた家がありました。ご夫婦のふたり暮らしで、ご主人は詩人。小児麻痺の方で、いつもベッドにいました。
 それでも私たち子どもに音楽を教えてくれたり、バレエについて話してくれたりして、そういうものに無縁だった私たち、田舎の子どもたちの教養を高めてくれました。
 そんな老人になりたいと思ったものです。

 さて、也有の友人も庵を結び、名前を付けました。で、その名前が「八百坊」。これは「嘘八百」からつけたもので、現代風にいえば「嘘つき庵(あん)」。
 ふざけた名前です。

 「嘘つきは泥棒の始まり」などと言って、最大の悪徳のひとつだとも言われています。人から嘘をつかれると気分が悪いでしょ。
 しかし、モーゼの十戒の中に「嘘をついてはいけない」というものはありません(「隣人に対する偽証」はある)。仏教の戒律には「不妄語戒」といって嘘に対する戒律はありますが、こちらは仏教に帰依した信者のための戒律で、ふつうの人のためのものではない。
 だいたい、生きているかぎり「嘘をつかない」なんてできるはずがない。自分を守る嘘だけでなく、人を守る嘘もあります。嘘は「生存」に必要なものなのです
 也有も俳文「八百坊記」の中で「嘘は天地に充満している。わが口に嘘を言わない日はあるかも知れないけども、耳に嘘を聞かない日はないほどだ」と書きます。
 それどころか、也有たちのする俳諧師というのは嘘をつくことが商売だともいうのです。彼は松尾芭蕉の言葉を引きます。いわく。

 「詩歌連俳は、上手に嘘をつく事也」と。

 俳聖と呼ばれた芭蕉翁が「詩歌や俳諧・連歌は上手に嘘をつくことだ」とおっしゃっている、と。
 この「上手に嘘をつく」というのは何もバレないように嘘をつくというのとは違います。「講釈師、見て来たように嘘をいい」といいますが、そんな嘘です。現代では虚構とかフィクションなどといってごまかしていますが、まあ、小説家なども上手に嘘をついている人たちです。
 さて、也有は詩歌や連歌の人たちは知らないが、自分たち俳諧師は芭蕉翁のこの教えを守って、みな争って嘘をついている、と言います。
 でも、ひょっとしたらこれも芭蕉の嘘かも知れないし、あるいは門人の誰かが「芭蕉がそんなことを言っていた」なんて嘘を伝えたのかもしれない。そう自省するところはさすが俳諧師です。

公式文書は絶対に”正しい”か?

 さて、也有はここで『徒然草』の話を出します

 「そもやつれづれ草に、うそ聞く人の品々を言たれども、うその品はいはず」

 「『徒然草』にはうそを聞く人についてはさまざまな種類をいっているが、うそをつく人の種類はいっていない」と。
 というわけで、ここでちょっと『鶉衣』から離れて『徒然草』を見てみましょう。
 『徒然草』の著者である吉田兼好はいいます。

 「事実というものは、そのままでは面白くないので、世間に語り伝えられていることはだいたいが作り話である(世に語り伝ふること、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり)」

 兼好法師はさらに書きます。
 もともと人は事実よりも大げさに話を作りやすいもの。それがさらに昔の話だったり、遠い場所の話だったりしたら、言いたい放題に話をでっち上げる。しかも、そのでっち上げたものを文字に書き留めたりしちゃったら、そのまま定着してしまう、と。
 文字によって定着された嘘、こわいですね。

 話はちょっと飛びますが、宝塚歌劇に『月雲の皇子』という作品がありました(作:上田久美子)。『古事記』の時代を扱った作品です。その中で歴史を編纂する史部(ふしとべ)を束ねる渡来人である博徳(はかとこ:輝月ゆうま)が、史部の若い人々や皇子たちに文字と記録(記憶)について次のように教えるシーンがあります。

 「文字は政(まつりごと)に欠かせぬ力、武器の一種なのだ。
  人間は過去の記憶の積み重ねの上に現在の自分を存在させているものだが、ここで史部(ふしとべ)の諸君が作っている文書は、国の《記憶》。
  記録ではなく《記憶》なのだ。
  文書は国の過去を形作り、未来まで国の存在をゆるがぬものにする。要はそれは国家の礎(いしずえ)。そう、文字の獲得と強力な国家権力の確立は同時に起こるものなのだ。」

 このあと登場する主役、木梨軽皇子(珠城りょう)が、これに対して「でも、それは事実としての歴史ではないのではないか」と疑義を呈します。しかし、博徳先生は「いまヤマトは国として生まれたばかり」、だから仕方ないのだといいます。
 正しいことだけを記録するのが歴史文書や行政文書ではない。行政文書を改ざんすることによって、過去も未来も、権力者の思うがままに変えることができてしまう。それが《記憶》の定着化としての文字であり、公式文書だということをいうのです。
 すごいでしょ。私はこの作品から宝塚歌劇に対する認識を変え、観るようになりました。
 これって昔の話かと思っていましたが、生まれたばかりではない今の日本でも同じですね。2023年3月上旬には、ある政治家が、自分が大臣のときに作った行政文書を、最初は「捏造」といい、次に「内容が不正確」などといっている。
 行政文書ですらこうです。人の話なんてもっとわからない。

 話を『徒然草』に戻すと、だから「あの人はすごい!」とか「神業を持っている」なんて話は信用しない方がいい。まあ、どこにでもある、ありふれた話だと思っておいた方がいい(めづらしからぬことのままに心得たらん)と吉田兼好はいいます。
 ただし、それでも神仏の示された奇蹟などは頭から否定すべきではないと兼好は付け加えます。

嘘つきの嘘は「誠」である

 こんな話を『徒然草』から引用する横井也有ですが、話を『鶉衣』に戻すと、也有は嘘をつく人にもいろいろな種類があると続けます。
 たとえば「大嘘」をつく人もいれば、「小嘘」をつく人もいる。仏のつく嘘は人を救い、荘子のつく嘘は人を教え、遊女のつく嘘は人を惑わす、と。
 しかし、俳諧師の嘘は人のためにいう嘘でもないし、自分のためにつく嘘でもない。いわば「さしさわりのない嘘」であると。
 世間の人の嘘は「俺は嘘なんかつかない」と言いながら偽りをいう嘘だ。それに対して、俳諧師は「自分は嘘をつきますよ」と言いながら嘘をいう。
 となると、その嘘は「誠」である。エピメニデスのパラドックスの逆ですね。
 しかも、さしさわりのない嘘。それを「これは嘘だ」といいながらはっきりとつく嘘は、人を誤らせるという罪がない。こんな嘘をつく人は、頼むべき友である。
 なんて書くのです。ほんとテキトーな也有です。

 最初にも書きましたが、だいたい嘘をつかないなんて不可能です。
 イエス・キリストは姦通の女に石を投げようとする人々に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言いました。
 嘘を責めることも同じです。「嘘をついたことのない人だけが、嘘つきを責めなさい」と言われて、責めることができる人は何人いるでしょう。もしいたら、その人こそ嘘つきです。
 嘘はみんながつくもの。でも、できれば「これは嘘で~す!」といってからつくか、あるいはついたあとに「あれは嘘でした」といっておくと問題が大きくならないかもしれません。

 最初に書いたように、これは自分の庵に「八百坊」、嘘つき庵という額をかけて、俳諧に遊ぶ人から也有が依頼されて贈った文章。
 「『嘘つき庵』だなんてふざけた名前を付けやがって。お前は嘘をつくのか」と文句をいう人がいるかもしれない。そうしたら「そうで~す」と答えるのが一番ですね。

 也有は最後に書きます。
 八百坊の「坊」と「屋」の字を勘違いして「八百屋」だと思って「茄子をください 」とか「大根をください」と買いに来るあわてものがいるかもしれない。そういう人に「ここは八百屋ではない」なんていうと「まぎらわしいことをするな!」と機嫌を悪くして怒るかもしれない。
 也有は「そんな無風雅な奴は相手にしない方がいい」といいます。
 そう、そういう無風雅な奴を相手にしない。自分の周りにいる人を、自分で決めていく。これも気楽に生きるためには大切なことですね。

人間はAIに使われている?

 さて、ここで突然、AIの話を……。
 昨年(2022年)の11月末に登場した会話型AI 、ChatGPTは瞬く間に世界を席巻しました。……と思ったら、今年の3月中旬に出たGPT-4によってその能力は驚異的にアップして、世界中の人をもっと驚かせました。今秋にはGPT-5が出るなんて話もあるし、画像生成AIだって日進月歩の変化を続けていて、AIの進歩は留まるところを知りません。
 ところがこのChatGPT、致命的な欠点があります。
 それは「平気で嘘をつく」というものです。
 たとえば「これこれに関して、誰が何を言っているか、その人の著書も含めて教えてください」と質問をすると、数名な著名な人とその学説、そして著書を答えてくれるのですが、その著書を検索してみると、その人のものでなかったり、この世には存在しない本だったりとめちゃくちゃです。
 でも、ChatGPTは嘘をつこうと思って嘘をついているわけではありません。だってAIですから「つこう」なんて<意図>や<意志>はどこにもない。ChatGPT はこちらの質問に対して、多くのソースやデータから《反応》しているだけなのです。少なくとも人間のような「自分の身を守るため」の嘘はつきません。
 この問題は「嘘」とは何か、ということを考えるいいヒントになります……が、それについて語っていくことは本連載の主旨から外れてしまうので、ここではやめておきましょう。

 さて、この会話型AI、みんなから「嘘つき」、「嘘つき」といわれるので、新たな戦略を取り始めました。WEBと手を結ぶようになったのです。「思考は俺(AI)がやるから、検索はお前(WEB)がやれ!」というわけです。それによって、嘘をあまりつかなくなりました。
 うまい手を考えつきました。むろん、それをプログラミングしたのは人間ですが、しかしまるでAIに操られて人間がやったようにも感じます。
 ポール・ギャリコに『猫語の教科書』という本があります。この中で、人間は猫を飼っているように思っているかも知れないが、実は猫が人間を飼っているのだといいます。猫が自分の家を建てさせるために、自分の食事を用意させるために、人間を飼っていると
 AIも人間という媒体を操りながら進化をし続けるのかも知れません。そして、そのうち意志的に嘘をつくようになるかも ……。

著者プロフィール
安田登

1956年千葉県銚子市生まれ。ワキ方の能楽師として活躍するかたわら、甲骨文字、シュメール語、論語、聖書、短歌、俳句等々、古今東西の「身体知」を駆使し、さまざまな活動を行う。
著書に『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』、コーヒーと一冊『イナンナの冥界下り』、『すごい論語』、『三流のすすめ』(以上、ミシマ社)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』(新潮文庫)、『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『野の古典』(紀伊國屋書店)、『魔法のほね』、『見えないものを探す旅 旅と能と古典』(亜紀書房)など多数。