コンプレックス プリズム

この連載について

 劣等感とはいうけれど、それなら誰を私は優れていると思っているのだろう、理想の私に体を入れ替えることができるなら、喜んでそうするってことだろうか? 劣っていると繰り返し自分を傷つける割に、私は私をそのままでどうにか愛そうともしており、それを許してくれない世界を憎むことだってあった。劣等感という言葉にするたび、コンプレックスという言葉にするたびに、必要以上に傷つくものが私にはあったよ、本当は、そんな言葉を捨てたほうがありのままだったかもしれないね。コンプレックス・プリズム、わざわざ傷をつけて、不透明にした自分のあちこちを、持ち上げて光に当ててみる。そこに見える光について、この連載では、書いていきたい。

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謙虚殺人事件

2020年2月25日掲載

 謙虚とかいうのがよくわからなくて、尊敬する人が謙虚なことを言うと「そういうこと言わないでほしいな」と真顔で思ってしまう。自虐的なことを言われても「いやいやそんな」というにはいうが、本当は肩をつかんで「あなたは天才。わかる?まだわからない?なんで?いつまでそれで行く気?なめてんの?」ぐらい、正直言いたい。尊敬する人たちに対しては積極的に、素晴らしさを自覚してほしいと思っている。俺はすごいって思ってほしいし、そう思っている人々を「最高!最高だね!!」って言い続けたい。こういう気持ちを邪魔するのは、要するにその人をすごいと思えない人たちで、すごいと言われていることを否定したいけど自分が否定しても意味がないから、張本人に「自分は大したことない」と言わせて喜んでいるだけなのだ。悪趣味。謙遜することを求めたり、謙虚な態度を求めるのではなく、その人も堂々と「俺はお前を認めない。何にもすごくない」と言えばいい。私は、誰もが堂々とすればいいと思う。彼らは、その人をすごくないと思う自分自身を、ちゃんと誇ればいいと思う。自分の価値観に自信を持たないから、謙遜なんて遠回しなやり方を選ぶ。人の言葉をまっすぐに受け止めない。「俺はすごい」は自慢でも、誇張でもなく、その人は自分をそう思っているっていうだけの主張であり、他人にもそう思えなんてこの5文字は言ってない。それを、どうしてストレートに受け止めないのか。口だけは達者とか、自己主張が激しいとか、自己弁護的だとか、そんな風に、その人の言葉そのものではなく、言葉の外側を勝手に解釈し、それらを揶揄する態度ってなぜ発生するのだろう。発言した言葉ではなく、その言葉がどうして今、どうしてこの場で、どのような意図で、発せられたのか、勝手に想像して非難する人があまりにも多い。人間は、だから自分の言葉を発するのをやめてしまう。他人が自分の言葉ではなく、言葉の周囲にある態度しか見てないって気づくから。他人が望む自分像を演じるための道具になって、言葉はすっかりセリフになる。

 俺はすごいってすごい人間に言わせてほしい。すごくないって思う人間が、その人に「いやあなたはすごくないです」って言えばそれが何よりストレートで、会話だって思う、どっちもそれは大切な言葉だ。謙遜ってなんのためにあんの、なんでそれを他人に求めるの、空気を読めというが空気しか見てない人間たちにとって言葉ってなんなの?自分が思うことは、自分で言えばいい。他人に言わせるな、空気を読ませるな、人を屈服させて喜ぶなんて時代はもうおしまいにしましょう。

 

 

 

☆このたびWeb連載「コンプレックス プリズム」が、再編集と加筆修正をし、書き下ろしを加え書籍化されます。3月13日(刊行予定)。

リンク先:http://www.daiwashobo.co.jp/book/b497715.html

著者プロフィール
最果タヒ

詩人。中原中也賞・現代詩花椿賞。最新詩集『愛の縫い目はここ』、清川あさみとの共著『千年後の百人一首』が発売中。その他の詩集に『死んでしまう系のぼくらに』『空が分裂する』などがあり、2017年5月に詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』が映画化された。また、小説に『星か獣になる季節』、エッセイ集に『きみの言い訳は最高の芸術』などがある。