もっとむずかしい対話

この連載について

ときに小学校で子どもたちと。ときに企業で大人たちと。ときにカフェで互いに見知らぬ人々と。
小学生から大人まで、いろいろな場で哲学対話をひらき、実感する対話のこわさ、わからなさ、そしてむずかしさ。
世界にまみれながら、書くことを通して、対話を探し回ることを試みる。

第1回

「何のために対話するんですか?」

2024年1月24日掲載

 対話は重要だとひとは言う。対話は必要だとあなたは書く。対話していくことが大切だという言葉で、さまざまな文章が締めくくられる。

 じゃあ、対話したい?

 だがこの問いかけを前にすると、人々は気まずそうな微笑みを浮かべて、後退りする。ずいぶんとうさんくさいことを、と笑うひともいる。

 ぜひうちでやってほしいと声をかけられて、出かけていく。見知らぬひとたちが、居心地悪そうに輪になって座っている。大きく深呼吸をして、自分を奮い立たせ「こんにちは!」と声を出してみる。思いのほか、わたしのふるえた声が響いてしまう。ごまかすように、わたしを呼んでくれたひとに目をやると、輪の外の離れたところに立っている。どうぞ、と言うと「あ、自分は外から見てます」と言われる。

 うちでもやってほしいと声をかけられ、また出かけていく。参加者は対話に興味関心が高いという。輪になった椅子に座り、参加者を待つ。ひとり誰かが入ってきて、だだっ広い会議室に椅子だけが丸くなっているのを見て、ぎょっとされる。入口に立っているスタッフさんに「いちばん逃げられる場所ってどこですか?」とこっそり尋ねているのが聞こえる。

 うちで話してほしいと声をかけられ、出かけていく。話し終わり片付けをしていると、学生さんがこちらにやってくる。対話を研究したいという。場づくりや、そこで人々がどう変容していくかを考えたいという。すてきなことだ。これまでにどんな対話の場に参加したり、ひらいたことがあるかを尋ねてみる。「いや、やったことはないんです」と相手は答える。

 なぜだろう?

 対話というものはおそろしく、それでいてうさんくさいものであるというのは、これまで書いてきたとおりだ。わたしたちは「共に考えあう」ということに慣れていないどころか、傷ついている。それゆえに、わたしたちは対話を拒絶する。手が届かない、夢物語だと思い込む。

 にもかかわらず、そもそもわたしたちの社会では「対話」というものを経験したことがほとんどない。対話をすべきか、そうでないか、あるいは対話をしたいか、そうでないか以前に、わたしたちは対話をしたことがない。対話が何なのかすら、よくわかっていない。よくわからないからこそ対話をしないし、対話をしないから、対話はよくわからないままだ。

 ただ、何が対話ではないかは、はっきりしている。それは、暴力である。

 何のために対話するんですか、とよく聞かれる。仕事がうまくいくため? 組織づくりのため? 問題を解決するため?

 はっきり言おう。暴力に抗するためである。

 対話もひとつの暴力になりうる、とひとは言う。それはそうであると思う。わたしたちは、集うということに傷ついてきたし、傷つけることも、傷つくこともおそれている。対話をしようと集まって、場が暴力的な仕方で痙攣し、押し潰れていくのをわたしたちは想像することができる。

 だが一方で、それはあまりにも簡単ではないかとも思う。対話は暴力だとまとめてしまえば、何かを言った雰囲気にはなるが、それで終わりだ。そうではなく、暴力ではなく対話として、この試みは浮かび上がってこなければならない。もっと言えば、代替案としてだけでなく、暴力に抗する身振りとして、対話への試みがなければならない。

 しかし、その非暴力についての思想はとりわけ日本においては、それほど知られているとはおもえません。[…]ここには戦術のみならず、平和そのものについての考え方の根本的な違いすらひそんでいるようにおもいます。つまり、平和とはたんに「波風の立たない」状態なのか、それともダイナミックな抗争状態さえはらんだ、絶えざる力の行使によって維持、拡大、深化されるべき力に充ちた状態なのか。つまり、たんに「平和」を乞い願うだけなのか、それとも「平和にパワーを」(ECD)というスローガンでいくのか? 次の引用は、キングのなかでもっとも重要なテキストからのものです。

     

 実に、話し合いこそが直接行動の目的とするところなのです。非暴力直接行動のねらいは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるをえないような危機感と緊張をつくりだそうとするものです。[…][1]

(酒井隆史『暴力の哲学』河出文庫、2016年、41-42ページ。)

 人々は対話を嫌がる。しない方が、波風が立たないからだ。だが、対話がないとこの社会が行き詰まっていくことも、どこかでわかっている。わたしたちはつながりを失っている。言葉を交わすよりも、ミサイルを撃ち込んですべてを破壊している。問題解決を急がせる社会に疲れている。助けてと言えない社会を生きている。すべては地続きだ。

 対話の場をつくることは、対話を拒む社会に対して緊張をつくり出す。それが暴力的に見えることもあるかもしれない。ただ、対話は絶えざる力の行使によってようやく維持、拡大、深化されていくものである。放っておいても、対話は出現しない。

 だが、わたしは臆病でもある。これらは、ふるえる声で試みられる。暴力への誘惑に苛まれながら、うんざりとする自分と葛藤しながら、行われる。とはいえ、臆病であることは、試みないことではない。臆病だからこそやるのである。対話は、傷ついた社会の「修復」でもなければならない。

 わたしたちはつながることができる。

 わたしたちはつながりの中で、助けてと言うことができる。

 わたしたちは暴力を選ばないことができる。

 わたしたちは互いを人間だと見なすことができる。

 わたしたちは競争しないことができる。

 わたしたちは相手に勝とうとしないで、一緒にいることができる。

 わたしたちはわかりあえなくても、一緒に生きることができる。

 わたしたちは相手が嫌いでも、一緒に生きることができる。

 わたしたちはあなたを殺さないことができる。

 わたしたちは、対話を試みようとすることができる。

 なぜそんなことができるのだ、とあなたは問うかもしれない。対話を経験していないのに? 対話に絶望しているのに? 対話がない社会に生きているのに? たしかにそうだ。だが、わたしたちは、非-暴力の痕跡を自分にみとめることができる。

 たとえば、現在の〈わたし〉の記憶の彼方で、〈わたし〉の無力な身体が他者に差し出されていた、という事実は、暴力の可能性を秘めつつも、その力を発動せずに〈わたし〉の圧倒的な受動性を支えていてくれた他者が、どこかにいたことを証明している。すなわち、一方に歴然として暴力の連鎖があり、わたしたちの記憶の彼方に、非-暴力の痕跡がある。わたしたちは、後者の痕跡を前景化させることで、暴力に晒されながらも非-暴力を模索する道を、自らの可能性として見出せるのではないだろうか。

(岡野八代『戦争に抗する ケアの倫理と平和の構想』岩波書店、2015年、240ページ。)

 現にわたしたちは暴力の最中にあっても、誰かによる非-暴力を経験している。それはとても見えにくく、おぼろげかもしれないが、確かにあるものだ。

 わたしを脅かす他者。だが、わたしに可能性をひらくのも他者である。

 「暴力はやっぱり対話とはちがうよ」と、友だちが帰り道にわたしに言った。さっきまでわたしたちは、「対話は暴力にもなりうるのではないか」という話が出た対話に参加していた。友だちはずっと黙っていた。

 「暴力はひとを幸せにすることはできない。言葉は傷つけるかもしれないけれど、ひとを幸せにすることはできる」

 かぼそい声が、夜になり冷えてきた空気にひろがっていく。隣には小さな川が流れていて、都会の川にしては澄んでいた。

 「暴力には持っていないものを持っている」

 そうなのだ。対話は、暴力よりも大きい。言葉は、暴力よりも広い。きき合うことは、暴力よりも深い。なかなか馬鹿にできない営みなのだ。

 対話をこわがりながら、それでも対話を試みることをつづけよう。むずかしい対話をはじめよう。ひとりだと、とんでもないことのように思われるかもしれない。完璧な「対話」を目指して、はじめる前に立ち止まってしまうかもしれない。だが、この社会には、わたしたちの身の回りには、対話が足りない。もっともっと、つくる余地はあるのだ。

  以前、支援現場にいるひとたちとご飯を食べていたとき、若くしてNPOの代表をつとめるひとが、そこではたらく大学生に「自分で団体つくってみなよ」と言った。わたしには意外に思えた。ずっと自分のところで働いてほしいと考えるのではないかと思ったからだ。大学生は、照れながらも躊躇しているようだった。他の団体の代表をつとめるひとも「うん、がんばれ」と応援している。ふしぎな光景だった。どうして、とわたしが言いかけて、目の前のひとが言った。

 「だって、それだけ社会に居場所が増えるんだよ」

 かれらは、そうだね、と当たり前のようにうなずいて、焼き鳥を口に運んだ。そういえば、と違う話がなめらかにはじまった。酒に酔った隣の客が知らない話題でどっと笑っていた。後ろでは店員さんが「おうかがいします」とサラリーマンの団体客に対応していた。

 あなたも対話をはじめればいい。だって、それだけ社会に対話の場が増えるから。

  1. マーチン・ルーサー・キング 著, 中島和子, 古川博巳 訳『黒人はなぜ待てないか』みすず書房、1966年、96ページ。

著者プロフィール
永井玲衣

哲学者・文筆家
学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。Gotch主催のムーブメントD2021などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。連載に「世界の適切な保存」(群像)、「ねそべるてつがく」(OHTABOOKSTAND)、「これがそうなのか」(小説すばる)、「問いでつながる」(Re:ron)など。詩と植物園と念入りな散歩が好き。