ときに小学校で子どもたちと。ときに企業で大人たちと。ときにカフェで互いに見知らぬ人々と。
小学生から大人まで、いろいろな場で哲学対話をひらき、実感する対話のこわさ、わからなさ、そしてむずかしさ。
世界にまみれながら、書くことを通して、対話を探し回ることを試みる。
瀬尾夏美さんともっとむずかしい対話をする
アーティストの瀬尾夏美さんのことは、彼女が東北に住んでいるときから知っていて、展示があればすぐに見に行った。だから2011年の東日本大震災で災厄を経験したひとびとの声をききとったり、作品をつくったりしている姿は、遠くから眺めるものだった。だがひょんなことから知り合いになり、22年からはじまった「カロクリサイクル」という、災禍や戦禍を体験したり目撃したひとたちの声を記録したり表現の場をひらくアートプロジェクトに呼んでもらって、時に一緒に場作りをするようになった。
わたしは瀬尾さんの話をきくために、彼女のおすすめの町の喫茶店に行った。地域のおじいちゃんやおばあちゃんがひっきりなしに来る、にぎわいのある場所で、くもりの日にもかかわらず、細い陽が窓からわたしたちの机に差し込んでいた。
***
励ます
永井:瀬尾さんを見ていてほんとに尊敬するのが、「励ます」こと。 わたしの場合は、どうやって応答できるかってことを、十数年ずっとやってきたような気がするんだけど、でもそれだけじゃなく自分もまた呼びかけたり、誰かを励ましたりしたいなって、瀬尾さんの振る舞いを見て思うようになったな。瀬尾さんの口からもよく「励ます」という言葉も出てくる。
瀬尾:「励ます」というのは、滞りを押し出すみたいなイメージ。わたしは旅先で、どっしり生きている人たちに、すごくいい話を聞かせてもらうことが多くて、そこにはめちゃくちゃ喜びがあるんだよね。あと、惜しみないわけですよ。かれらに「歓迎してもらう」ってことがいろんな形で起きる。そこで、被災の話だったり、語らずにはおれないような戦争のことを聞かせてもらったり、亡くなっていった人の存在とか、ともに生きているあり方を見せてもらうことが多くて、そのあり方にすごく感動する。「おお、みんなめちゃくちゃちゃんと生きてる!」って、自分は励まされる。
一方で都市に帰ってくると、「自分は何もできない」「自分がやっていい気がしない」みたいに思い込まされてしまっている人がたくさんいる。基本的に、きっとよき動きをしたいと思っているのに、自分にその資格があるのかっていう最初の問いで止まっちゃうところがある。でもそれって自分で自分に問うているだけだとわかんなくなっちゃうよね。それなら、微力でも、「大丈夫! できることたくさんあるから!」って言いたい。
わたしが最初に行って、歓待してもらって受け渡されたものを、自分の生活圏に戻ってきて出会う人たちに渡していく。エネルギーを渡すと循環が生まれて、滞っていたものが、動き出す。そうすると、もうますます世界を信頼することが楽になる。
「農村社会」って触ったことないと、封建的なイメージとか、差別的なこと言われるんじゃないかって都市の人たちは思うかもしれないけど、そんなことないって感じてる。たしかに、マイノリティの理解というところでは、言語は違うかもしれない。たとえば「トランスジェンダー」って言葉は知らないかもしれないけど、違う仕方であなたを受け入れてくれる可能性はすごくたくさんある。だから、みんなが人間同士として出会える機会がつくりたいなって思う。
永井:「対話ってきっとこんな嫌なことしてくる人いますよね」とか「この地域はこうなるでしょう」とか、思う人いるかもしれないけど、やっぱりあんまりない。気づいてないだけとか、想定できていないみたいに受け止められることもあるかもしれないんだけど、それだけじゃないものがたくさんある。もっと多様で、もっと莫大なことが起きるんだけどなあ。でもそれってそんなにわかりやすくもあまりないし、時間もかかるから、かたや「感動」を求められすぎてもつらいね。
瀬尾: 参加するひともハードル上がるしね。
永井:ものすごい期待で来る人もいっぱいいる。「人生が変わる気づきがあるかも」みたいな。終わった後に「えっこんな感じなんですか」ってなったり。超地味ですけど、無数のことが起こっています、って言いたいけどね。
現場はへんてこりん
瀬尾: そんな即効性のあるもんじゃないっていうのも、思っていただけたら幸いかなって。
被災者は守るべきとか、助けるべきという前提自体は間違っていない。局所的に辛苦が重なっている時は、他の人が行って一緒に手伝わないと間に合わないだから、そういう意味で、助けに行くべきなんです。ただそこでボランティアに行っていい人と悪い人みたいな、助けられるスキルがあるかどうかとか、そういうことが先に問われすぎている。
現場って想定できないぐらい複雑だし、多様だし、たしかに被災地って変な人がいっぱい来るから、まあわたしみたいなのもいるし、謎の自転車で世界中を回っている大道芸人とかも来る。それって、一見迷惑そうかもしれない。みんな片付けしてるのに大道芸やってんの?って。でも現場では大道芸にめっちゃ興味あるおじいさんとか、子どもとかが見てたりもする。
助けるイメージって一つじゃなくて、思いがけず支援者と被災者が親友になったり、生涯付き合う文通相手になったりもするわけで、簡単には想定できない。今すごく、ボランティアも制度的に整えようとしすぎてる感じがあるけど、実際の現場って、もっとへんてこりんなんだよね。自分も歓迎してもらったり、反対に迷惑がられることもあったけど、話していけば仲良くなれたっていう体験もあるから、初めての人に出会うことや話を聞かせてもらうっていうこと、その人たちがちゃんと生きているってことをすごく信頼している。だからまだの人は「ぜひ」みたいな感じでいます。
永井:そうやって、瀬尾さんは「旅に出たらいいよ」って言うじゃない。
瀬尾:そう、王道の語り。
永井:わたしもよく悩んでいる人に、もっと街なかで知らない人と話せばいいのでは、とか言うんだけど、なかなかやりたい人はいないよね。だからわたしね、対話の場や「のと部」に来るっていいと思うんだよね。そういう場で知らない人と話すのって、「え、話せるじゃん」っていう体験を持って帰るっていうことだと思っている。そこでどんな素晴らしいアイデアに出会うかとか、自分のことが発見できるというよりも、「なんだかよくわかんないけど、知らない人ともこんなふうに話せるんだ、一緒に座っていられるんだ」ってことを知れることが大事なんだろうなって、最近はとりわけ思うようになった。
瀬尾:知らない人と話したいよねえ。隣にいるあの人たちとか、めっちゃききたいことがあるもんね。
わたしたちの隣には、八人組のおばあちゃんたちが座っていて、元気いっぱいにおしゃべりをしていた。どうやら麻雀をするグループらしい。「麻雀ってどういう漢字書くんだっけ?」「雀でしょ」「なんで雀なの」などと話している。
「のと部」というのは、24年10月からはじまった「東京から能登を応援する」部活のような場所。瀬尾さんたちのスタジオで月に一度集まり、何ができるかを考え、実践している。わたしも参加したことがあるが、足踏みしているひとを励まし、互いに支え合っている雰囲気が、とてつもなく稀有で、大事だった。
永井:なんでそんなききたいの? 子どもの時から?
瀬尾:そうなのかな。そんなことないだろうね。でも絶対ききたい。絶対きかせてもらいたい。これはなんなんでしょう。私は何をしているんだろう。
永井:そうそう、何をしているのかな。しかも瀬尾さん、何時間もかかる同じ話を、何度もききたがるんでしょう。
瀬尾:うん。語りのピークっていうか、「やっぱりその話ですよね!」みたいなところに一緒に行きたい。
永井:同じ話でも、相槌を一つ変えるだけで、また違う扉が開くって言ってましたね。
瀬尾:いままで喋ったことなかったっていう話を聞くと、なんか嬉しいんだよね。
世界への信頼
永井:なんなんだろう。それは何が起きてるんだろうね。
瀬尾:やっぱり、話してもらうってめちゃくちゃ幸せなことだっていう前提があると思う。「こいつに話してみるか」って思ってもらえるって、わたしはここにいていいっていうことでしょう。まあ、寂しがりなんじゃないかな、究極。
永井:面白くないもんね。一人きりで考えていてもね。
瀬尾:「全部自分で考える」のって飽きちゃう。あと、意外とみんなそんなに話をきかれてないっていうのがあるじゃん。だから、突然、ききたいやつが現れると、まあ話してみっかみたいな感じでさ、話してくれる。なんていうか、話を聞いている時って、一緒にものづくりしているよう感覚がある。その人が大事にしている人の存在や、大事にしたいものを一緒に確かめたりとか、共同作業でそれを探していくプロセスを手伝うのが好きなんだと思う。そういう経験を重ねていくと、また他の人からきいた話と組み合わさって、自分の中でも新しいものがつくれたりするし、だんだん世界に実感が湧いてくる。その後も手紙をもらったり、やりとりを重ねて、その人の人生が自分の中に入ってくると、わたしもどんどん安心して生きられるようになっていくんだよ。
永井:釜ヶ崎で出会ったおじさんから、いきなり電話かかってきたりしてね。こんな世界はうれしいなって思う。
瀬尾:気楽になっていくよね。話をきいているんだけど、同時にきかれてもいるじゃん。相手も私の感じを確かめながら、一緒に会話しているから。だから、わたしを知ってもらっている。別に自分の話をしないことも多いけど、「きいてくれるこの子がいるんだ」って受容されていくと、たとえばその人が別の経験をした時にも、「あいつに電話してみるか」とか「瀬尾ちゃんの記事見て考えたよ」とかってなって、関係性の連続性が出てくる。そうすると、どんどん楽になるっていうか。楽しいですよね。
永井:小山美砂ちゃんっていう「黒い雨」による被ばく問題を取材している友だちがいて、彼女に黒い雨が降った現場の広島の湯来町を案内してもらったことがあるのね。そこで彼女がその場所で、どれだけ時間を書けて関係性を丁寧につくってきたのかというのも実感した。彼女は取材のときも、いきなり黒い雨のこととかをきかないわけですよ。雑談もたっぷりする。まずは相手の話をゆっくりきく。すごい記者だよね(元毎日新聞記者。現在はフリーランス)。美砂ちゃんがくると、取材を受けてきた人たちが野菜を持ってきたりするし、美砂ちゃん自身が取材された記事を、慣れないスマホで検索したりしているわけ。この地域だけめちゃくちゃ「小山美砂」の検索率が高いぞ、みたいなね。それ見てなんか泣きそうになった。瀬尾さんの話ともつながるなと思う。
瀬尾: 「時間を明け渡す」っていうのかな。自分だけで使うんじゃなくて、一緒に使うみたいなことが、多分一つの信頼になると思う。この前、わたしが陸前高田にしばらく住んでやってきたことを話した時に、「移住するとやっぱ聞ける話変わるんですか」「当事者になったから、その村社会の一員になったから聞けるんですか」みたいなことを言われて、そうではないなって思った。うん、全然そうじゃない。
瀬尾さんは、映像作家の小森はるかさんとともに、東日本大震災で津波などのすさまじい被害を受けた岩手県陸前高田市に滞在し、声をきき、記録し、作品をつくってきた。陸前高田は、町全体の土地を10メートルほどかさ上げしている。「僕の暮らしているまちの下には、お父さんとお母さんが育ったまちがある」。ふたりの映像作品「二重のまち / 交代地のうたを編む」は、その言葉からはじまる。
瀬尾:まず、被災という意味で言ったら、絶対当事者にはなれない。同じその場所にいなかったし、同じものを見たわけでもないし、そういう意味では違う。だから、当事者になりたいとか、なろうとかは全く思ったこともない。当事者性を拡張していけば、グラデーション上に自分も乗ってはいるけれど、被災者であるとか村社会の一員みたいなものに自分はなろうとしなかったし、なれないから、だからこそできることをやりたいと思って、きくことを続けてきた。
でも、住んでいるとやっぱり共有しているものがあるって思ってもらえるというのがあって、それは風景がどう変わってきたかとか、町のルーティーン、たとえば祭りだとか、その準備がこうでとか、あと、そこにある人間関係とか、そういう意味で物語を共有している相手だとは思ってくれているから、だからこそきけることっていうのは確かにあるかもしれない。
もう一個は、連続性。昨日のわたしを知ってくれているこの子が、明日もいてくれるっていう、その連続性によって聞けることってある。あとは私が持っている文脈と、 相手が大事にしてきた文脈が呼応すること。たとえば、人をなくすという経験を、相手はしんみりと大事にしたいけど、復興の中って、そういう一番大事にしたいことが置き去りにされる瞬間がある。「早く進まなきゃ」とかって言ってね。でも、この子なら自分の気持ちを馬鹿にしないで聞いてくれるって思ってくれて、わたし自身もそういうことが大事だと思って生きているっていうのがあると、わたしが持っている人生の連続性と、彼女が大事にしたいものが合致する。それできけることってある。そういう意味では、移住することによって、安心して話してもらうための基盤はできやすいなとは思う。
陸前高田や仙台にいた時はそれを頼りにやってきたところがあるけど、今はもう、いろんな人の声が自分の体の中にあって、それらがいろんな形で交差しあっている感じがあって。目の前のこの人の存在や、語っていることはたしかに特別だけど、一方で、誰もが似た感覚を持っていたりもするってことがわかるようになってきたから、かならず移住しなきゃいけないっていうよりは、移住しなくてもきけることが増えてきた感じはするかな。「初めましてでも結構聞けるかも」って思えるようになったのは、高田での経験のおかげだと思う。自分なりに自分自身を信頼して、旅ができるようになってきたっていうか。やっと自分が何をしたいか説明できるようになったし、まあきっと大丈夫。大丈夫ってよくわかんないけど。
あんたも超やるじゃん
永井:瀬尾さんの丁寧にひとりの話をずっときくっていうのがある一方で、わたしは対話で一回に何十人の話をきいているなと思うんだけど、これは何をしていることになるのか、よく考えるんだよね。
対話というと「相互理解」とか「共通合意を目指すんですね」って言われることがあるんだけど、あんまりしっくりきていない。あと哲学対話だと「ロゴス」が導いていくのだ、という考えがあるとは思うけど、そこにあんまり興味もない。一方で「ナラティブ」「物語」っていう言葉も使われるけど、わたしはこの言葉、全く使いこなせてないのよね。
むしろひとりひとりが、わけわからないほど濃密な断片を見せてくる、みたいなイメージを持っていて。でもそれは一瞬なの。あれ、なんか今すごい宇宙みたいなの見えたけど、とにかく凄まじかったな、なんだかまだまだ奥行きがありそうだな、というのが一瞬垣間見える。誰かの濃密な断片をきいて、自分が動かされて断片を語ってしまう。そうやってどんどん影響を与え合うのが対話だなって。そうすると「このひとめっちゃ人間だった! 計り知れない人生があって、めちゃくちゃ生きてきてるんだ!」ってことがわかってしまって、なんかヒリヒリするし面白いし、なぜかケアされる、ってことがある。時間をかけてゆっくりきいていく一対一の場も大事なんだけど、断片が影響し合ってたくさん生まれていく対話の場も良さがあるよね。
瀬尾:その場でね、みんなすごい考えているんだ!っていう信頼が湧いてくるよね。みんな、すごーくちゃんとできるじゃん。これ、上から目線じゃないからね。「あたしも超考えているけど、あんたも超やってるじゃん!」みたいな。「人生全部込みで、今ここに集ってるじゃん!」って。言葉の意味を共有してバッチリ理解してるとか、そういう意味じゃなくて、むしろ、一つの言葉に対してそれぞれめっちゃブレてるとか、絶対に意見が合わなそうみたいな人たちでも、全身全霊で時間を差し出し合って考えられることに価値がある。わかり合うことでもないし、この人のことをわかるってわけじゃないけど、でも、確実に信頼に足る人だ、この社会結構信頼に足るぞ! みたいな、そういう心のケアになるというか。もちろん、連続性っていうのも、世界が信頼に足るって認識することをサポートしてくれると思うんだけどね。
親子とかパートナーとか、そういう緊密な関係だけで全部解決しようとして、無理がきちゃうシーンって、すごいあるじゃん。だから、みんなにとっていろんな場所があったらいいよね。
永井:『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』(森達也)っていう本を見かけたんだけど、いいタイトルだよね。
瀬尾:読んでないけど、いいこと言うね。
永井:対話が苦手で、こわいから対話をはじめたけど、やればやるほどそう思うもんね。嫌なことも含めて世界はやっぱり想像していたよりずっと豊かさを持っている。でも悩むのは、これを説明するのがむずかしい。「他者や世界への信頼を獲得しましょうよ」とか言っても、ひとはなかなか来ないよね。だから、ココルームのかなよさんみたいに「ふりをする」身振りをしてみたりするんだけど、取材で語る言葉、みんなに伝える言葉、ひとりで考えている言葉、いろいろなことを言い過ぎて、わかんなくなっちゃうこともある。全部ほんとうに思ってはいるんだけど。
瀬尾:わたしが作品を作るのは、日常にない「しんみり感」を「やっぱり大事だよね」って確かめあいたいからっていうのがある。死者の話とか、弔うってなんだとか、人を思うってどういうこと?とか、本当に大事な問いって、みんな日常的に考えてるかもしれないけど、あんまり共有されなかったりする。簡単に言うと、「誰も取りこぼされないように」とかそういうことになるかもしれないけど、でももうちょい違うじゃない、この温度。
たとえば、人の記憶や語りの記録って大事だよねっていう時の、適切な温度って多分ある。自分がただ共感するためにそれを読んだり聞いたりするのでもなく、社会を変える運動のために使うのでもなくて。「ただ大事にしたい」という温度感。
そしてね、それをちゃんとやるには、それなりに時間をかけて物を作んないとできないって、私はすごく信じている。そういう意味で、作品というものを囲む場とか、美術館を未だに信頼しているというか、もちろん展示会場で直接対話するわけじゃないけど、そういう温度になってくれる人たちがとどまってくれるはずだって。
なんかさ、実際に農村で出会うおばちゃんたちって明るかったりするじゃん。でも、そのおばちゃんがすごい困難を経験してたりするの。このおばちゃんの語りがあり、この風景と受け継がれてきた暮らし方があり、とか、一方で彼女たちが社会的に置かれている状況の過酷さとか、それをがなぜそうなるのか構造的に理解した上で作品化しないと、とも思っている。直接会っただけではわからないこともあるんだよね。だから、たくさん勉強もして、そういう構造を理解することと、現場で得る感覚と、どっちも含みこめるような複雑さを大事にして、作品をつくる。そうすると、現代美術だ! インスタレーション! どーん! みたいなのじゃなくて、激渋な聞き書き集とかになってしまうわけなのですが。
けど、そうやってつくったものを、キャベツ作っているおばあちゃんも楽しんで見てくれる。他方で、都市に生きる人たち、生きづらさを抱えるマイノリティの人が見てくれた時にも、違う仕方でこれを理解してくれる。キャベツ畑のおばあちゃんとこの人たちが作品を介して出会う可能性があるのは、めちゃくちゃすごいじゃんって思うしね。面白いもん。
本音ってなんだろう
永井:わたし「ごまかす」とか「介する」とか好きで、「本音」とか「膝を突き合わせて」みたいなのあんまり好きじゃないんだよね。対話とか作品づくりってなると、本音を話しましょう、みたいに場が設定されたりするけど、何がいいんだっけなってなったりする。隠している本音をさらけだしていくというよりは、一緒にしんみりすることで、ゆっくり言葉を見つけていく、生み出していくという方がしっくりくるな。瀬尾さんも「本音」にあまり興味なかったよね。
瀬尾: 対話の場とかで、「これって怖いっすよね」とかってぽろっと出たときの、断片的な「怖い」とかは、その人が今まで思っていたこと、真ん中にあったことかもしれなくて、それは本音というのかもしれないよね。「本当のこと」というかさ。でも、それが「本当のこと」だっていうのは、実は本人しか気づかないことかもしれない。周りの人から見れば、あの人ずっと黙ってたねって思われてるかもしれないけど、本人の中では「ああ、これがわかってよかった」みたいなことが起きてたりする。
でも本音を喋っているかどうかでって外からジャッジされたらさ、ちょっと辛すぎるよね。っていうかその本音って、あなたが想定しているわたしの本音でしょって思っちゃうし。
永井:いちばん話したいことは、いちばん言いにくいことでもあるから。でもごまかしたり、遠回りしたり、何かを挟んだりしながら、何とか語ろうとすることもある。「本音っぽくない」語り口で話すときもあるし。あとそもそも話さなくても、一緒にしんみりすることはできる。
瀬尾: 本音社会。チームビルディングと本音みたいな、なんか過剰に求められてる感あるよね。
永井:会社とか学校が多いよね。対話はじまる前に「今日はせっかく永井さんに来てもらったから、みんなバンバン本音で喋ってほしいです」って紹介されたりね。でも対話では、「今はじめて気づいた」とか、話してみたあとで「私こんなこと考えてたんだ」とかあるじゃん。
瀬尾:それこそ、哲学対話って、旅みたいなものっていうかさ、旅できるから面白い、みたいなところがあるじゃん。普段自分が思考している範囲じゃないような言葉に出会ってしまったり、違う角度で見たらこうでしたよとか、これありましたよみたいなことをどんどん言う人に出くわしたりする。すると、これまで自分が想定できなかったような、自分の中にあったものと急に結びついてさ、「え、わたしここにジャンプしていいんですか」「なんか新しいもの見つけちゃいました」みたいな、そういう面白さがあるんだと思う。その場に居合わせた人たちと、一緒に遊んでる感じというか。
永井:それをどうやって説明したらいいかなっていつも悩む。「対話、なんでするんですか」って言われた時に「一緒にいる、みたいなことやってみたいんですよ。試みる場が私にとって必要だし、もっとあったらいいのにと思う」「じゃあそういう目的なんですね」って。「いや、でも目的とかじゃない。確かに遊び的な要素も」「じゃ、遊びなんですね」「いや、遊びじゃない」「あ、じゃあ大人の遊びっすね」みたいな。
瀬尾:全然違う、すごい違う。
永井: とか、「知的遊戯ですか」みたいな。
瀬尾:すごいね、難しいこと言ってくるなあ。
永井:「社会を変えるわけじゃないですよね」って。「いや、でも変わっちゃう部分も変えることもあるし、変われと思っていることもたくさんあるんです」みたいな。「じゃあ変えるためにやるんですか」「いや、そうじゃなくて」みたいにさ。まずわたしの中でもごちゃごちゃしてるのよ。でも体系的にあんまり説明したくなくてさ、うーん。
時間を無駄にし合う
瀬尾:丸森のさ、私がいつも同じ話を聞かせてもらいたいおじいさんがいるんだけど、とにかくダベることが大事って言うの。「 ダベリングすっぺし」って。それで、おじいさんは、私がどんな友達連れていっても、とにかく聞いてくれるのね。「何に興味があるの?」って。それからその答えとして、丸森にはこういう神様がいてね、とか話してくれて、彼もその場を楽しんでいる。
2019年の東日本台風で水害・土砂災害に見舞われた宮城県丸森町にも、瀬尾さんは滞在していた。たくさんの人と出会っていく中で、伝説の物語とともにかつての水害が継承されていることにヒントを得て、台風に名前をつける対話の場をひらいた。その様子は映像作品にもなっていて、わたしはどこかの展示室でそれを見た。また瀬尾さんは、かつてのものを引き継ぎながら、新たに民話もつくってしまった。そのことは『声の地層 災禍と痛みを語ること』(生きのびるブックス)で読むことができる。
瀬尾:このダベリングって、時間をいかに無駄にし合うかってことで。まあ、無駄にするっていうと強すぎるかもしれないけど、期待しすぎずに差し出しあって、その場を楽しむと言うかね。
地域社会で生きる人たちって、一人の人の中に、百人くらいの人のタイムラインが同時にあるんですよ。あのじいさん、今、あの角曲がっているかな、とかさ、今日はちゃんと道路渡れるかなとかって細かいことを含めて、みんながつねにみんなのことを想像している。あのじいさん、大根、今収穫時期で重いから手伝ってやっぺし、とか、孫の迎えに行った時は、あの先生疲れてないかなみたいなこととか、そういうタイムラインがめっちゃいっぱいあって、さらに誰かが死んだりとか、誰かが生まれたりとか、想定外の出来事もいっぱいで生きているから、そもそも自分の時間は全部自分で使えるって前提じゃないんだよね。
そんな中、丸森でもう継ぐ人がいない棚田を小学生たちが一日手伝いに行くみたいな新聞記事を見つけたんだけど、そのタイトルが、「大事にしていることが伝わればよい」だったの。めっちゃいいなと思って。
永井:めちゃくちゃにいい。最高だ。
瀬尾:大事にしていることがお互いに分かっているという信頼さえあればいいんだなって思ったんだよね。そりゃみんな安心して暮らせるよって感動したんだけど、でもそれは、日々たくさんの時間を差し出し合っていろんなものを共有していて、不断の努力とも言えるし、そうじゃないと暮らせない過酷さがあるんだという気もする。もうサービスを享受するだけじゃ暮らせないっていう大変さ。やっぱなんていうか、自分の時間は全部使えると思っている都市生活とのギャップはすごい。私も東京にいるときは、この隙間で原稿書かなきゃとか思ったりして、矛盾があるんだけど。
永井:だから、厄介だなと思うのはさ、都市的な生活って、自分のためだけに時間を使うんだけど、なのに「主体」感があんまないっていうか、奪われ続けているみたいな感覚も同時にあるよね。他者もたくさんいるの。でも顔がないっていうかさ、記号だったり、SNSの匿名の誰かだったりして、それに怯えたりしてしまう。
瀬尾:それめっちゃあるよね。 そうなると作品もどんどんつまらなくなっていっちゃうよね。
すごくいいなって思うのは、丸森の人って、そうやってめっちゃ関わりあいながら生きているんだけど、全員多趣味なの。たとえばカツミさんから、ある朝メールが来てさ、「萌えてます!」って。「孫を迎えに行くまでの30分だけ隙間で、山に登ってきた、だって萌えているから!」とか言って、山の写真を送ってくれたり。あと、民話の会のシマヅさんはさ、どうしても聞きたいからって、山を2、3個越えて、おばあさんに会いに行って民話聞いてさ、でも犬の散歩があるから帰ってきたのとか言って。みんな毎日、すごい忙しいの。それぞれ全然違う趣味を持っていて、その感動を良かったねって受け止めあいつつ、適度に受け流す。みんなちゃんと自分の関心とか大事なものを切り捨てないで生きていて、そういう意味で全然主体性は奪われていない。
永井:目に浮かぶよ。この間の丸森に行けたの、よかったな。瀬尾さんの本では知っているけど、生身のみんなと出会いなおせたなって。
人形劇作家の工藤夏海さんが丸森に通って、丸森のひとたちと人形劇をつくった。上演されたのは瀬尾さんがききとってつくった新しい民話「やまのおおじゃくぬけ」。会場は丸森中のひとが来たのではないかというほどの大満員で、心の底からすばらしい場だった。
瀬尾:本当にすばらしくって、大好き。でも、だんだん小さくなっていく可能性が高いコミュニティではある。わたしとしてっは、都市のような、互いを見合っているような状況に抵抗する意味でも、こういう小さなコミュニティのすごさを広く伝えたいけど、自分の身の置き場や生き方としては、引き裂かれてもいる。ここの一員になっちゃったら、もう作れないし、書けないってすごく思っている。中に入りすぎると、ここはすごく素晴らしいんだって言えなくなっちゃうでしょう。とはいえ、都市の人間になりすぎたら、私自身も何もできないって気持ちになっちゃいそう。
しんどいけど
永井:とにかくやっていくしかないんだけど、あまりにも社会状況も悪くなっているしんどさもある。
瀬尾: 政治がねえ、それこそ大事なものに向き合おうとしてないんじゃない?って思う。人が安心して暮らす上での大事なものについて話す場がなさすぎる。
永井: 語れる場をつくるのも大きな力ではあるんだけど、政治にも傷つけられつづけるわけじゃん。やっぱ社会も変われよと思うっていうか、変えるぞって気持ちになる。戦争もそうだし。
瀬尾:絶対に構造自体を変えなきゃいけないことがある中で、いま、そんなの無視して突っ走ろうとする世界を見ているじゃん。でも、これは大江健三郎が引用しているんだけど、補償がなされないまま年を取っていく被爆者たちに何かできることありますかって問いにね、広島の原爆病院の先生が答えた「見捨てられたという気持ちを持たせないことですね」って言葉があるの。あなたの抱えている傷は絶対にちゃんと見てるよ、あと、忘れないようにちゃんと書き残してるし、わたしたち、ここに超いるよって伝えたい。そういう形の抵抗はできるし、絶対続けるっていう気持ちでいる。絶対やるし、で、そういう人を増やすことはできるはずだって思っている。
永井:絶対やる。やるよね。
瀬尾:一方で、でっかい流れがね。昔の戦争の時もこうだったのかな想像ちゃうよ。選挙戦のたびにデマが横行するのを見てると、われわれはほんとに愚かなんだなとも思った。戦争の時ってしょうがなかったとか、そういう流れだったから抗えなかったって聞いてきたけど、同時代で起きていることを見てると、思いがけず簡単に、すごく大事なものも手放しちゃうのかもなって……。
そんな時に、いかに多層的な他者の存在を想像できるかってことが、すごい大事なんだと思う。自分の利になる主張をしているからって投票するとかじゃなくて、もっとみんながちゃんと尊重される意思を持った人のことを信じるとか。そういう信念みたいなのを抵抗として持っていないと、すぐ流れるなって思う。そういう意味で地に足つけていこうぜっていう気持ちではいる。
永井:そうなんだよな。なんで、ふわふわしてんだよみたいな。
瀬尾:そんなこと許しちゃったら、この人たち丸ごといないことにされちゃうよ、そこに私もあなたも入っちゃうよって思うもん。
永井:だからね、もうふわふわしたこと、ネットに書くよりは、対話の場にきて言ってほしい。
瀬尾:言って誰かに怒られたり、違和感ぶつけられる経験もあっていいよね。
永井:そう、それ大事だよね。とはいえ、その場にいる人をめちゃくちゃ傷つけてしまうこともある。だからといって、一言でも差別的なことを言ったら退出してください、っていうのもむずかしいよな。
瀬尾:差別かどうかのジャッジメントもむずかしいよね。語りたいことにたどり着くまでの過程で、間違って表現しちゃう時もあったりするから。
永井:人って、 言いたい言葉じゃない仕方で表現しちゃうことってあるからね。えって思ったことでも、もっときいてみたらぜんぜん違う意図だったりする。それを待てるようになったり「こう言いたいわけじゃないんだろうな」って思えるようになったのって対話のおかげだと思うんだけど、SNSはそれができないからしんどい。
だから対話ってしんみりもするけど、一方で緊張したり、ちょっと居心地悪い思いをする場でもあって、それが大事だと思う。あ、この言葉は違ったなとか、誰かに何か言われたりとか。むしろもっと、居心地悪い思いを、ちゃんとできる場所をつくりたいなとも思う。安心できることと、居心地の悪さと、両方あったらいい。
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普段は口が重いのだが、こんなことがあったとか、これに悩んでいるとか、これをやってみたいとか、瀬尾さんにはついつい話しすぎてしまう。でも瀬尾さんは、アハハときいてくれて、まあでもとにかくやっていきましょう、と話が終わる。そのとおりだ。やっていきましょう。わたしもやはり彼女に励まされながら、誰かにその言葉を手渡したいなと思うのだった。
瀬尾夏美(せお・なつみ)
アーティスト、作家。1988年東京都生まれ。土地の人びとの言葉と風景の記録を考えながら、絵や文章をつくっている。東日本大震災のボランティアを契機に、映像作家の小森はるかとのユニットで活動を開始。岩手県陸前高田市での対話の場づくりや作品制作を経て、土地との協働を通した記録活動をするコレクティブ「NOOK」を立ち上げる。現在は江東区を拠点に、災禍の記録をリサーチし、それらを活用した表現を模索するプロジェクト「カロクリサイクル」を進めながら、“語れなさ” をテーマに旅をし、物語を書いている。単著『あわいゆくころ――陸前高田、震災後を生きる』(晶文社)、『二重のまち/交代地のうた』(書肆侃侃房)、『声の地層――災禍と痛みを語ること』(生きのびるブックス)、共著に『10年目の手記』(生きのびるブックス)、『New Habitations: from North to East 11 years after 3.11』 (YYY PRESS)。
哲学者・文筆家
人びとと考えあう場である哲学対話をひらく。政治や社会について語り出してみる「おずおずダイアログ」、せんそうについて表現を通して対話する写真家・八木咲とのユニット「せんそうってプロジェクト」、Gotch主催のムーブメントD2021などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)『世界の適切な保存』(講談社)。第17回「わたくし、つまりNobody賞」受賞。詩と植物園と念入りな散歩が好き。