ときに小学校で子どもたちと。ときに企業で大人たちと。ときにカフェで互いに見知らぬ人々と。
小学生から大人まで、いろいろな場で哲学対話をひらき、実感する対話のこわさ、わからなさ、そしてむずかしさ。
世界にまみれながら、書くことを通して、対話を探し回ることを試みる。
田中悠輝さんと一緒にもっとむずかしい対話をする
対話についてひたすら「むずかしい」と言うだけの連載が一区切りした。そして気づいた。対話について書いているのに、わたしは対話についての対話をしていない。それは変だ。奇妙なことだ。対話について、もっと対話をしなければならない。
世界が奥行きを見せてくれなくなることがある。そういうときは、他なるものに出会いにいく。他者と共に言葉をさがし、身体を輪郭づけられ、そして世界に裂け目をつくりだす。もしかしたら、対話とはこういうことなのかもしれないという考えが、またひらりひらりと姿かたちを変えてくれる。もしくは、対話のかたくななむずかしさが、他なるものとの出会いによって、やわらかさを帯びてくる。
対話についてもっとききあいたいな、と思った。まわりを見渡すと、たくさんのひとたちがいた。きくことについて、出会うことについて、一緒にいることについて、考えることについて、変えることについて、ともに考えたいひとたちがいた。えらいひとに意気込んで会いに行くというよりは、まず友だちとして一緒にいるようなひとに声をかけた。
最初のひとりは田中悠輝さんだ。かれはわたしの友だちで、おしゃれで、おしゃべりで、子どもっぽいんだか、老成しているんだか、よくわからないひとだ。生活困窮者支援の場にかかわっていて(実はそれだけではないのだが)、「きく」とか「いる」と日々向き合っているひとだ。悠輝くんは、気軽にわたしをいろんな場にさそってくれる。そのおかげで、わたしは新しい世界をたくさん見せてもらった。
わたしたちは新宿の喫茶店「らんぶる」で集まった。座りやすいか座りにくいか判断がつかない赤いソファに縮こまると、悠輝くんはいつものように、最近見ている韓国ドラマの話をはじめた。わたしは長い時間それをきいたような気がするが、ほとんどその内容を思い出すことができない。
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きくは話すこと
永井:悠輝くんって、最近あったかくなってとか、昨日雨降りましたよね、みたいなコミュニケーションがすごいうまいんですよね。わたしが学んだのは、「きく」ってただ黙ることじゃなくて、話すことなんだって思ったんですよ。「きく」はむしろ「話す」ことなのかもしれないって。
その時、相手の実存的な悩みについて話しているわけではないんだけど、でも死にたくても話しているあいだは、生きていることができるみたいな話と一緒で、話しているあいだはここに居れるとか、死なないでいられるということがあって、わたしのやっている対話も、そういうことを目指してもいるんです。悠輝くんという人は、それがすごくうまい感じがして、しかも全然付き合ってあげている感がないし、なんだったら自分の話を延々したりする。
田中:そうですね。テーマがないとずっと勝手な話してます。今見てるドラマの最新話が無理な展開だったなみたいな話をすることって、結構勇気いることだと思うんですよ。でも会話ってそういうことでしょう。
永井:会話と対話の違いを考えたとき、会話って自然発生的なものだと思うんですけど、対話って意識的なものだと思っていて。そうなると、悠輝くんのは会話っぽいんだけど、実は対話っていうか。一緒にいるために話したりきいたりしている感じがする。だって別にそこまで本気で韓国ドラマの話したいわけじゃないでしょ。
田中:ああ、なるほど、面白い。そう考えると対話ってすごい果てしない道のりですね。対話に乗っけるために、そのアイスブレイクをずっとやってるみたいな。でも僕も元々すごい「意味」が好きな人間だったので。
永井:「意味」が好きだったんだ。
田中:世間話苦手だったですよ。でもそんなんじゃ、おいちゃんたちと仲良くなれない。鳥羽一郎の話とかわかんなきゃいけないし。この前は17歳の子とカラオケに行って、ボカロの曲ばっかでマジでわけわかんないと思ったけど、 そういう経験って大事だなと思う。彼らは好きなものを歌ってるし、好きなこと言ってるだけなんだよなって思ったら、じゃ、僕も好きなこと喋っていいんだろうなってなった。
とりわけね、僕より若い子とかの相談も受けるようになってきたので、こんぐらいしょうもない話もしてええんやで、っていうのも大事だろうと思っているんですよ。
永井:もうひとつ面白かったのは、内容に重きがそこまであるわけじゃないところ。この人のこの情報を絶対引き出さなきゃいけないというよりは、互いがいる「場」を考えながらコミュニケーションしていると思って、それは自分のやっている対話で意識してることに繋がるなって思うんですよ。対話っていうと、深い話をしてるように思われがちだけど、別にそんなことなくて。この前は「新しいことわざはもう生まれないのか」という問いが出た。
田中:めっちゃいい問いじゃない。
永井:傍から見たら、ただオモシロ話してるだけって見えちゃうけど、問いを真ん中におくことで、なんとか初対面の人たちが繋がろうとする試みがあったと思うんですよね。それって、おいちゃんと韓国ドラマの話するとか、梅の花が咲いたとか、あそこの銭湯のお湯が熱いとか、そういう話をし続けることと近いんじゃないかと思ったりもする。ただ一方で、やっぱりむずかしさは同時にあるわけじゃないですか。悠輝くんも若者に「うるせえ」って怒られてたね。
田中:怒られるよねえ。めっちゃある、むずかしさ。
永井:不安定なもので、偶然性に寄りがちではあるから。特に支援の現場では、きいてもらえないという思いを抱える相談者もいるだろうし。支援する側もきくばかりで、支援者自身が「きかれる」ということが喪失していくのも気にかかる。
田中:でも僕ね、きいてもらうこともあるんですよ。それこそ〈もやい〉でやってるコーヒー焙煎の時とか。おいちゃんたちは割と聞くのも好きだから、きいてくれるんすよ。しょうもない恋愛相談もして「こういう子に会ったんですけど、どう思います?」「田中くんは前もそれで失敗したんじゃないか」「うん。たしかにそうだね」って。
相談の現場だけやってたら、きいてもらえることはないかもしれない。今日寝る家がないって言ってんのにね。関係ない話してたらそりゃ怒られるよね。
だけど家ができた後、孤立しないように、のフェーズに入った時に、「居場所」をやってる団体は多いでしょう。「居場所」で会ってる人たちってのは、やっぱり話すだけじゃなくてききたくもあると思うんですよ。僕の無駄話も相手にとっては割と大事だったりするし、あっちも僕のことを心配してくれてるし。要件だけだと、会話ってすべりが悪くなるから。「薬飲んだ?」だけ言われると、「うぜ」ってなるじゃん。「花粉がひどくて、今年から僕も観念して薬飲むようになったんだよ」って僕が喋る。
認定NPO法人自立生活サポートセンター〈もやい〉では、悠輝くんはコーディネーターとしてはたらいている。ここでやっているコーヒー焙煎にわたしも参加したことがある。みんなに教えてもらいながら、仕入れたこだわりのコーヒー豆を選別する。あそこのラーメン屋に行ったほうがいいよとか、腰が痛いですねとか言い合った。作業を終えたらコーヒーを御馳走してもらった。これまであったかなしかったことを忘れることができるほど、天国みたいな味がした。
そんなことを思い出していたら、編集者の刑部さんが話し出した。刑部さんはよくしゃべる。よく笑う。楽しいひとだ。そしてよく「すいません」と言う。
刑部:会社で、無駄話始めて終わる時「なんか、すいませんね、こんな変な話して」って謝っちゃうんですよね。
田中:僕って基本すべり続けてる存在なんですよ。でもね、だからみんなが喋れるところはあると思う。
それに僕は、多様な人が交差する場所にいることが多いので、一人で喋ってるおじさんなんてざらにいるし、その場では変な間が生まれたとて、気にすることもない感じはあって、恵まれた場だと思うんですよ。人間に対しての寛容さがあるというか。
永井:やっぱりビジネスの論理が流れている場と、そうでない場がまるで違うなっていうのは、自分もすごく思う。ビジネスの論理がどっしりある場だと、経済的生産性のない話が無駄話だから。でも一方で、多様なひとが交差する場に行くと、相手が話の途中でどっか行っちゃうとか当たり前だし、気づいたらいきなり隣から恐竜の話が始まるみたいな。だからなんだかこっちも喋っちゃう。
仲良くすんのにも努力がいんねん
永井:わたしは対話の場を、誰かひとりに任せるんじゃなくて、そこにいるひとたちと一緒につくりたいんですよね。「居場所」はどうですか。
田中:やっぱりみんなが場に対してのある種の献身をしてると思うんですよ。どこか互いにケアしあっている。ここがすごく矛盾なんですけど、居場所に居れる人は、居場所に居れる人なんですよね。どうしても居れなくなっちゃうのは、人を傷つける人なんですよね。目に見える・見えないはあるんですけど、僕らもどうしても追い出すような形になってしまったりとかもあったりして。他の人たちへのダメージみたいなものを考えた時に、「ちょっとごめんけど今日は帰ってくれる?」ってあるし、それが居場所の難しさであると同時に、すごく大事な部分でもある。居心地のいい場所が誰の貢献もなしにできるみたいなことを思っている人が結構多いんだなっていうことはすごく思っていて。
居場所をいっぱいつくってきた大阪の「自立生活夢宙センター」の社長に話を聞いた時に「おいらも大変やで、仲良くすんのにも努力がいんねん」って言ったんです。しんどい時もあるけど「呼ばれたら行かなしゃあない」って。だから、みんなでやろうってその人が言ったときに、みんな動いてくれると。その人は一声で、当事者と介助者含めて、500人ぐらい動かせる人なんですよ。「なんでそうなったんすかね」ってきいたら、「やっぱ居場所ちゃう?」って。日常の居場所をつくってきたことが、運動にも生かされてるっていうのがすごく面白かった。
悠輝くんは生活困窮者支援にもかかわっているが、介助者としてもはたらいている。「夢宙センター」は、障害者当事者が運営をしていて、日常的に手助けを必要とする人が自分らしい生活を送れるように援助をする場だ。かれらと一緒にいながら悠輝くんは、監督になって『インディペンデントリビング』という映画をつくってしまった。いい映画だったと伝えると、かれは「タイトルがゾンビ映画っぽいよね」とひらひら笑った。
永井:自分が哲学対話始めた時は、終わった後に参加者が「あの人が…」と、まるで言いつけにくるみたいなことがあった。でも、なんか変じゃないですか。わたしが場の管理人みたいで。
社会運動でも同じようなことがあって、あるデモ集会の時に、「あなた運営の人?」って話しかけられて、植え込みに昇っている人がいるって言うんです。私はそれを聞いてその人に「何か言いました?」って聞いたら、「いや、言ってない」と。「じゃあ、一緒に言いに行きましょう」って言ったら、「それじゃあ私が密告したっていうふうになるじゃない!」って怒られて、「え〜でも一緒にやりましょうよ」ってとぼけたんですけど、いなくなっちゃった。わたしじゃ埒が明かないと思って、別の人に言いに行っていたんですけど。で、結局ひとりで行ったら、若い女性が植え込みに隠れて服を直してただけで。私が「危ないから降りてもらえますか」って言って、わかりましたで一瞬で終わりました。でもこういうことよくありますよね。音楽ライブでこんな人がいましたよって、Xに写真あげるみたいな。
特に社会運動なんて、お客さんと運営という関係ではないわけだし、多少はこちらに責任はあるとしても、一緒に場づくりしたいなって思うんです。対話もそうで、だから必ず「対話的な場を、わたしがつくるんじゃなくて、一緒につくりましょう」って言うんですよ。
田中:うんうん。「夢宙センター」の社長もナチュラルで仲良くできる人だって思ったけど、違くて、意識的に仲良くすることを選んでいたっていうことが驚きだった。その人はよく義理人情と恩返しだって言うんですが、根底に人に対するリスペクトと気遣いがすごくある。その関係が折り重なった先にそうした「居場所」ができる。で、まんまと、そういう「居場所」をつくりまくってるわけですよ。こうならなきゃいけないし、こういうところがいっぱいなきゃいけないなっていうことを思って。だから永井さんがいう、「あなたもつくるんだからね」っていう声かけはまさにそうだし、彼が居場所をつくって、それだけの信頼関係をつくってきたことが、数として社会運動に立ち現れるっていうことだと思う。
永井:対話だったら、だいたい2時間ぽっきりで、特別な時間をやってみましょうっていうので付き合ってはもらえるんだけど、一緒に場づくりしよう、一緒に居続けようってことを日常にしなきゃいけないわけです。わたしは対話って、何とか一緒にいようとする、座っていようとするってことが、一番大事な瞬間だと思うんですよね。一緒にいるって、賭けじゃないですか。「お前のこと嫌いだけど、とにかく一緒にいることに決めたわ」みたいな。でも、なかなか共有しづらい。
田中:そうなんですよね。日常の中にそれを落とし込むのはなかなかにしんどい。この前、東大阪にある「ぱあとなぁ」っていう自立生活センターの代表の地村さんと話してたんですけど、仕事で困った人がいて、やめてもらったほうがプロジェクトのためにいいんじゃないかっていう話があったそうで。僕も話を聞いていて、その人にやめてもらうっていうのがチームにとって自然な流れだと思ったんですよ。先方に申し立てをするかとか、上の人に言っちゃうかって飲みの席でも話してたんですけど、その地村さんっていう人は、「いやいや、それでその人を切ったら、僕たちの運動はもうおしまいやろ」って言ったんです。「その人を変えるのが僕らの運動やねん。障害者に理解がなかったその人を変えるってことを生活の中でやってるから、僕たちの運動は意味があったんだよ。あの人にわかるように言ってあげなあかんと思うのよ」と言っていて、すげえなって。そのぐらい腹の据わったメンバーが、関西の運動の中心にはたくさんいるんですよね。
火をつける
永井:ピギーの話をしてほしい。わたしの好きな話。
刑部:何ですか、それは?
田中:下関にいたとき、ある若者に「ヤクザの葬儀は花がいっぱい出てすごい」という話をされたんですね。で「それに比べて俺の人生はしょうもないで、田中さん、どう思う?」って世間話に相まった、本質的なものを感じさせることを言われた。あれってやっぱり自分の態度を問われる話で、個人と個人の具体的な、あなたと私のあいだで起こることなので、「わたしはこう思います」の部分を、純度高くしておく必要があるし。自分自身も自分の態度についてわかっておかなきゃいけないし、明確にしなきゃいけないと思っていて。それで僕は、「あなたの人生をしょうもないとは思いません」っていうことを伝えなきゃいけないって思ったんですよね。でも、その時に、そう、絶句ですよね。やっぱり言葉に詰まったんですよ、僕の中で。明確に自分の態度を言葉にしなきゃいけないって思ったけど、その時はうまく言えなかった実感があって。
「下関にいたとき」というのは、悠輝くんが認定NPO 法人抱樸(ほうぼく)で生活困窮者支援にかかわっていたときだ。ここでも相当いろんなことがあったらしい。気になるひとは、悠輝くんにきいてみたらいいと思う。今年からは、明治学院大学のボランティアセンターのコーディネーターにもなったらしい。たずねてみたらきけるかもしれない。でも忙しいひとだから、いないかもしれない。
田中:作家の高橋源一郎が、東日本大震災のときに、僕たち文学者はその時代に応答する言葉を紡がなきゃいけないのに言葉を失ったんだ、という話をよくしていて、印象的だったんですよ。僕も、その相談支援の現場で言葉を失ったんです。でも、そのうえでも話さなきゃいけないことはあるし、文学者だったら書かなきゃいけないことはあるっていう時に、ジョン・アーヴィングの『ピギー・スニードを救う話』を思い出したんですよね。
あらすじで言うと、地域の子どもたちに小馬鹿にされて、嘲笑まじりに「ピギー」と呼ばれている豚飼いのスニードさんが近所に住んでいて、主人公の「私」も一緒になって彼をバカにしていた。主人公の「私」はそれから名門校に入学して、地域の消防団に入って青春時代を過ごすわけですが、でもある日、ピギーの家が燃えてしまう。消防団の仲間が駆けつけて、ピギーがその中で多分死んじゃったってなった時に、普段ピギーを小馬鹿にしていた「私」たちは、どこか居心地の悪い気持ちになって、それぞれに嫌な空気をかき消すように「ピギー、ピギー」と囃し立て始める。そんな中、「私」は自分自身とみんなの心を救うために、ピギーはその日もしかしたら逃げられていたかもしれない、ピギーはフロリダに逃げたんだ、なんて作り話をするんです。何回もそういう作り話をするんですけど、そのたびに矛盾が出てきたり、嘘がバレたりして、結局スニードさんの遺体が見つかってしまう。最後に「私」であるジョン・アーヴィングが出てきて、そのことが私が作家になったきっかけで、「作家の仕事は、ピギー・スニードに火をつけて、それから救おうとすることだ。何度も何度も。」と結ぶ。そうして物語を作っていく、それが作家の仕事なんだ、というんです。
僕は僕でその下関で会った彼の人生がしょうもなくないと何とか言いたくて、何度もトライするけど失敗するっていう経験が、その書きぶりと重なった。現実は変わらないんだけれど、物語によって救えることもあるんじゃないか。次はもっとうまくやりたいな、次はもっといい言葉が欲しいなって。
刑部:自分には想像できない絶句するような体験をしている人から話をされた時の、その言葉って何なんでしょうか。
田中:一人一人との関係の中で生まれるので、これだ、というものはないです。なんだかRPGの選択肢じゃないけど、いくつも選択が展開されていて、今はごまかすとか、人から聞いたいい話をしてみるとか、頑張って自分の思いを話すとか、いろいろあるわけですよ。でもその選択肢ってどれも多分、一定の間違いをはらんでいる。けれど、どれを自分の責任として選択するかということの連続だと思うんです。
今後、この人と一緒に何ができるだろうか、と。言葉を嘘にしないために、この後の自分の行動はなんだろうかまで考えて、何が言えるかを、ほんとうの言葉で言わなきゃいけないと思う。行動と一致しない言葉なんて意味がない。あっちはそういうのはたくさん見てきているので、嘘っぽい言葉はすぐにバレる。
永井:支援の場にボランティアで行ったとき、おじいさんに「殺すぞ」って言われたんですよね。太田胃散が欲しいって言われて、「あれがあるといいんだよ、いっぱい酒が飲めるんだよ」って。すいません、お渡しできないんですよって言ったら、「俺はヤクザだぞ、ここをめちゃくちゃにできるんだぞ、殺すぞ」って。でもね、おじいさんわたしと同じくらいの身長だし、へろへろだし、多分違うしって思った。思ったのは、わたしにそう言わなくちゃいけないくらい、おじいさんは飲みたい、飲まざるを得ないんですよね。あのとき、絶句した。何度も思い出して、もう一回自分に火をつけて、反復するんですよ。
対話の場も、そういうことめちゃくちゃあるわけです。初めて会ったような子が、ぽつりと切実なことを言うとか。東日本大震災の被災地に通っていたとき「がんばろう東北って、なんだと思います?」って問われて、なんにも言えなかったとか。
ほんとうの言葉を言いたいって思う。頭の中で、あの瞬間を何度も思い出して、火をつけなおして、何度も失敗する。マリオがちゅんちゅんちゅんって落ちていくみたいに、ああ、もう一回最初からだって。でも、もっと言葉を探していく。その人にはいい応答ができなかったけど、われわれの生はつづくわけじゃないですか。そんな大変なことをしたくないって言われちゃうのもわかるんだけど、でもそこからだよなとも思ったりして。
田中:永井さんは、それをなんでやるんですか。
永井:その人に手渡そうとするとりかえのきかない言葉を探しているのかなあ。その場をただごまかすわけでもなく、その人に好かれようと思ってとっさに出る言葉でもなく、これをこの人にちゃんと手渡したいと思えるような、ほんとうの言葉を探しているんですかね。
田中:僕はね、相談はつづくし、またきくし、またその兄ちゃんに会うときになんて言うのか、というのが常に宿題としてある。でね、ピギー・スニードの話で、おばあちゃんが「だからスニードさんが生きてた時分にもうちょっと人間らしい扱いをしてやっていればそんな面倒くさいことをしなくてもよかったろうに」って言うんですよ。そうやって物語をつくるのは結構だけれども、それだったら最初から優しくしなよ、って。
最近この手のことを考えてるとよぎってしまうのは、最近亡くなっちゃったGさんっていうおじちゃん。彼とのことを反復して生きてるんですけど。積み残した約束とか、もっと言うべきだった言葉がいっぱい出てくるんですよ。はたと気付くんですよね。ああ、ずっと喋れるわけじゃないんだって。その1回1回のその場が大事だったんだって。
死んだ日から遡って、最後にラーメン食ったのいつだったかとか、最後に喋ったのはここだなとか、もう最終日は喋れなかったから最後の言葉これになっちゃったなとか、その時にようやっと、終わってしまうんだっていうことが分かる。何度かやってきたはずなのに、改めて思い知らされたのが今年の初めぐらい。そこからはそのさびしさを掻き消すように、忙しく生きている。
Gさんと悠輝くんは、わたしの目から見ても仲が良かった。Gさんは、わたしにも本当によくしてくれた。やさしかった。なぜ過去形で書かなくてはいけないのだろう。わたしはかれに病室で会うことができた。Gさんは眠っていて、西日にあたった手があたたかかった。耳はきこえているからと言われたので、「また来ますねえ」と言った。その日の夜にGさんは亡くなった。
田中:僕が映画撮り始めたのもそうですけど、記録を残すのはやっぱり大事で、映像、写真、言葉でなんとか残してあげたいみたいな気持ちがある。意識していなかった時代、よく起きていたのが、葬儀の時に遺影がないっていう問題。解像度が粗い集合写真を引き延ばした遺影って支援現場ではあるあるなんですよ。でもやっぱり、かっこよく撮ってほしい人は一定数いて。遊びで写真撮っていたときも「ありがとう、遺影にするわ」って言ってくれた人もいるし、人が生きていく時に必要なものなのかもしれないなって思った。
言葉は情報として正確だけど、もっとその人の温度感のある、空気感のあるものって、映像の方が出るって思っていて、そういうものを残したいなって思っているんですよ。
刑部:永井さんは対話を記録に残すことはありますか?
永井:記録かあ。ないと言えばないけど、あると言えばありますね。私が書く動機はほとんど、世界の保存なんですよ。Gさんも含めて、日々の対話も、いかに適切に保存できるんだろうみたいなことが、自分のモチベーションなんですよね。
保存って続いていくもの、手渡されていくものだと思ってて。悠輝くんがGさんと話したことを、また話してくれるわけで、言葉で語り直されて、それをまた私がまた別の人に手渡していく、継承的な動きだと思うんです。だから、例えば対話を丸ごと文字起こししておくとか、今日の対話はこういうものでしたって完結させちゃうみたいな、それ自体で自立しているものを残したりはしないですね。
問いなおす、問いかける、問いそこなう
永井:悠輝くんの最近の問いはありますか?
田中:いろいろあるんですけど、最近思ってるのは、我々(もやい)は食料品配布をいつまでやるんだろうか、それかあるいはいつまでやっていていいんだろうか。NPOの課題の一つに、根本解決ができないまま手当てをしてしまっている状況をいつまで続けていいんだろうか、ということがある。でも、食料を取りに来る人がいるという現実にずっと苛まれ続けているんですよ。現場の活動してる仲間みんな感じていることなんだけど、そういう問いを投げないことも問題だなって思う。
〈もやい〉は2020年から「新宿ごはんプラス」と合同で毎週土曜日に新宿都庁下で食料品配布と相談会を行っている。わたしがボランティアで顔を出し始めたときは、列に並ぶ人が300人近くということで頭を抱えていたが、とうとう今年、800人を超えた。それが何を意味するのか、何をうつしだしているのか、あなたはどう思うだろうか。
田中:あとは、やっぱり対人支援って、現場が一番面白いのと同時に一番大変でもあって、時間と労力を要するところでもあるけど、待遇の良くない割に高度なことを要求されている現場だとも思うんですよ。感情労働で、ケアワークで、待遇もそんな良くない中で、人もあんまり集まらない。中間支援的なものばっかり増えて、コンサルワークばかり増えてって、現場で走る人がいないみたいな。
クラウドファンディングとかも一般化してその事務局で働く人も増えたけど、結局あれは良くも悪くも手数料ビジネスなので、強固な集金システムができてるから、誰がやっても一緒だろうと思うんですよ。あれって資本主義って感じがすごくしていて、集金システムが資本で、それで労働が回っていれば集金システムは成り立つ。成果も見えやすくて、やるべきことも分かりやすい。だから、働く人が増えるし、増やしやすいと思う。
でね、たしかにそういうサービスがあることでサポートを集めやすくなった面はあるけど、実際の現場をつくってるのはその人じゃない。でもって現場で走り回っている人より中間支援の方が待遇が良いということはざらにあって。そりゃ現場の人増えないよねって。そういう構造についての問い直しとかもどっかでしなきゃいけないっていうのもちょっと思ってる。
永井:それが出てくるのは必然的だろうなと思う。対話の話で言えば、対話って注目されはじめていて、それはいいことなんだけど、どうやって対話の場をスキルフルに運用していくかって話ばかりになっちゃうんですけど、それってすごい不十分なんですよ。対話が必要だとして、じゃあ対話がなんでこんなにないんだろうとか、何がそうさせるんだろうという問いがないとうまくいかない。そしてそれは、何によって対話がない社会を生きさせられているのかっていう批判につながらなきゃいけないと思うんですけど、今の話はちょっと似ているような気がした。構造や変革の話がセットじゃないと、特に対話は気持ち悪い感じもします。
対話が大事ってどこで言われがちかと言えば、企業の新事業のためとか、日常の中に知的好奇心をくすぐれる場所が必要とか、それはそうだし間違いなく重要で絶対やったほうがいいことなんだけど、そういう導入の仕方でいいのかというもどかしさもあるんですね。対話によってコミュニケーション力をアップさせるとか、クリエイティブなアイデアが浮かぶとか、そういうことなんだっけなあって。
あるいは、対話の「すてき」な部分だけが受容されつづけて、いいね!いいね!と言われる。でも、対話も居場所づくりもそうだと思うんだけど、誰もやらない。やろうとしない。だってこわいし、気持ち悪いし、面倒くさいし、みたいな。それはそうだとして、じゃあなんでこわいんだろうとか、なんでこんなに大丈夫だと思える場が少ないんだろうとか、対話のことを考えるには社会のことを考えないといけないなと思いますね。
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ここからわたしたちは、なぜだかほとんど雑談に入っていったような気がするが、おぼえていない。編集者の刑部さんは録音をそっと止めていた。「らんぶる」も閉店が近づいており、次の予定もせまっていた。時間がきたら終わるのが対話であり会話なのだ。
わたしたちはそうしてばらばらに帰っていった。時間がきたらあっさり終わるのは、また会うためなのだから。
田中悠輝(たなか・ゆうき)
1991年東京都生まれ。2013年から認定NPO 法人抱樸(ほうぼく)で生活困窮者支援にかかわる。2015年に東京に戻り、2016年4月からNPO法人自立生活センターSTEPえどがわで介助者として働く。同年6月鎌仲ひとみ率いるぶんぶんフィルムズのスタッフとなり、映画『インディペンデントリビング』(2020年公開)を製作(現在はフリーランスの映像製作者)。2017年から認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやいでコーディネーターとして勤務。2018年から日本初の市民(NPO)バンク「未来バンク」理事。2024年より、明治学院大学ボランティアセンターのコーディネーターに着任。
哲学者・文筆家
人びとと考えあう場である哲学対話をひらく。政治や社会について語り出してみる「おずおずダイアログ」、せんそうについて表現を通して対話する写真家・八木咲とのユニット「せんそうってプロジェクト」、Gotch主催のムーブメントD2021などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)『世界の適切な保存』(講談社)。第17回「わたくし、つまりNobody賞」受賞。詩と植物園と念入りな散歩が好き。