「学校」という制度が私たちに刻み込んできたものとは何か。大人になった今、私たちの社会とのかかわり方や、自分自身のあり方、そして子どもとの関係にまで、それが無意識のうちにどのような影響を及ぼしているのか。
本稿は、その否定性の痕跡を一つひとつ浮かび上がらせ、剥がし取っていこうとする試みです。
身体が沈黙する学校——ジェンダーの再生産と男性性、ケアの問題
抑圧というのは、継ぎめのない覆いのようなものである。世間の掟や性の規範が絶対的な力を持つ社会、そういったものが女性たちを名誉や儀礼の耐えがたい重荷の下に押しつぶしてしまう社会は、また他の種類の抑圧をも生み出さずにはおかないのだ。一方、圧制者(おとこ)たちの方も、つねに(すくなくとも公衆の面前では、他の人たちのてまえ)、極端なまでに自己に対して抑圧的にならざるをえない。このようなわけで、わたしの<男性的な>プロットと<女性的な>プロットは、けっきょく同じ物語なのである。
——サルマン・ラシュディ『恥 SHAME』(栗原行雄訳 早川書房)
前回の連載では、学校を規律権力および規範化の装置として捉えた。学校の支配は、直接的な禁止や命令だけによって成立しているのではない。むしろ、時間割による管理、整列の習慣、他者からの視線、評価制度、あるいは恥の意識や同調に伴う快楽といった微細な回路を通じて、「望ましい主体」を当人の自律として組み立てる点に学校の核心がある。
この構図を前提とするならば、教育現場で称揚される「主体性」や「自律」といった語は、実のところ、支配的な価値観に対して高度に順応した主体への賛辞として機能している実態が浮き彫りになる。つまり学校とは、権力が道徳の衣をまとって作動する場である。
そして、この装置をさらに掘り下げると、装置の内部に埋め込まれた「ジェンダー化された規範」が、抑圧の継ぎ目を見えなくしていることが立ち上がる。ここで言うジェンダーとは、個々人の属性としての性別ではなく、ある統治様式が「正当」「公共的」「指導力がある」としてコード化される過程、ならびにそのコードが制度の隅々に浸透して作動する仕方を指す。本稿は、この意味での「男性性」を、学校統治のコードとして分析する。
統治のコードとしての「男性性」:管理主義と身体の規律化
学校が是認しやすい価値——「指導力」「責任」「厳しさ」「成長」「公共性」——は、歴史的に男性的な主体像・身体像を標準として組み立てられてきた。さらに、学校教育が前提としてきた近代的理性の形式自体が、男性中心主義的に形成されてきたという問題もある(この点は後述する)。
このようなジェンダーの視点を欠けば、学校という抑圧装置の継ぎ目は不可視化され、抑圧はあたかも自然で連続したものとしてふるまい始める。ゆえに必要なのは、偏りを可視化し、理性の取り扱いそのものを組み替えるための視座である。ここで鍵となるのは、男性性が単なる性格特性ではなく、制度が要請する統治様式として機能するという点である。
私はこの文章の構想を練っている最中に、SNSで次のような投稿をした。(少なくない反響があった。)
声高に「男性性」が批判される昨今だが、いまだに多くの公立高校の担任に求められるのは、いざというときに権威的な指導で生徒を統率することができる男性的な素質であり、それがない担任は保護者から「頼りない」と叩かれる(この声がどれだけ多くの女性教員を潰してきたことか)。むしろ「男性性が足りない」と指をさされる現場がいまだにたくさんあるのだ。
(2026年1月12日)
この投稿には賛同のほか、「責任や厳しさを男性性に帰結するのは偏見だ」「それはジェンダーではなく管理主義の問題だ」といった反論も寄せられた。だが、ここで論点になっているのは、個々の教員の属性としての「男性という性」ではない。問題は、学校と社会が「指導力がある」「統率できる」「責任感がある」のようにみなす統治様式が、歴史的に男性的としてコード化され、そのコードが学内評価・人事・行事運営・保護者対応・教師-生徒間の対話作法といった現場の実践の中で反復されている点にある。
この意味で、管理主義(時間と成果の最適化を優先する統治合理性)とジェンダーの問題は切り離せない。管理主義は中立な技術ではなく、どの主体像に権威を付与し、どの振る舞いを「公共の場にふさわしい」とみなすかという選別を内蔵している。そして、その選別基準には、つねにジェンダー化された身体性が横たわる。すなわち、管理主義が要請する規律の背後には、ある種の男性性を標準とする主体形成の力学が働いている。
ここでしばしば現れる反論は、「あなた自身がジェンダーバイアスに囚われているからそう見えるのではないか。なぜ人間一般の問題として見ないのか」というものである。だが、「性別を見ない」姿勢は、それ自体が必ずしも中立ではない。むしろ、性別化された不利益が制度設計に埋め込まれている局面では、「見ない」ことによって不利益が固定化される。性別に還元せずに人として見ることと、必要な局面で「あえて性別に目を向ける」ことは矛盾しない。これらを両立しない限り、学校内の不均衡は「個人の資質」や「努力不足」へと偽装され、構造的問題は隠蔽される。
威圧的な指導で生徒を抑え込むことに成功している教員は、自分こそが指導力のある教師だとうぬぼれがちで、そうでない教員を「指導力がない」と軽視する語りが、本人だけでなく、学校全体で暗黙のうちに承認されていることがある。加えて、学生たち、とりわけ男子生徒は大人の権力勾配を敏感に察知し、特に若年の女性教師を「ナメる」ことで、学校が内面化している家父長的な秩序をそのまま実践して見せる。
こうして学校は、子どもに権力の嗅ぎ分け方を教え込む装置として作動する。誰が場を支配する正当な身体を持ち、誰が調整役に押し込められるのか。子どもはその非対称性を学習し、再演し、既存の秩序をさらに強固なものへと磨き上げていくのである。
さらに厄介なのは、生徒自身がすでに強権の効率を知っている点である。場の秩序を保つには、一人ひとりと向き合い、関係性を細やかに調整するよりも、強圧で沈黙させるほうが、はるかに手っ取り早い。だから彼らは、「頼りない先生」を即座に弱者とみなし、その価値を貶めることに躊躇がない。学校において、子どもは権力の被害者にとどまらず、ジェンダー規範を再生産し、能動的に担う存在でもある。
この帰結として、「頼りない」と指をさされる教員たちは、生き残りのために否応なく「男性化」を強いられる。「子どもを叱責できなければ一人前ではない」(注1)といった言葉を浴びせられ、やがて威圧的なトーンを身につけていく。それが子どもたちの信頼を獲得するための最短経路であるかのように錯覚させられる状況があるのだ。
ただし、実際には「頼りない」教員たちが本質的に「弱い」のではない。問題は、時間的余裕が奪われた教育現場で、関係性をゆっくりと編み直す実践が許容されにくい点にある。限られた時間のなかで即効性のみが求められるとき、威圧は合理的手段として選ばれやすい。その結果、学校が教員に要求するのは、教育的力量というより、時間的制約の中で生徒たちを統率・管理できる能力となる。
学校における「指導」という名の暴力が、ドメスティック・バイオレンス(DV)の研究が明らかにしてきた「強制的制御」の構造と酷似していることは繰り返し指摘されてきた(注2)。そこでは、恐怖を与えることで自由を奪い、暴力(あるいは言葉の暴力)が統制手段として用いられる。しかも、教育は「善き目的」を掲げるため、この暴力性は是認されやすい。DV加害が「お前のため」「家族のため」と正当化されるのと同様、学校の暴力は「あなたのため」「みんなのため」「将来に必要」と道徳化され、たやすく是認される。学校内の暴力は、教育的であるがゆえに、むしろ善として要求されやすい。
私の周囲(福岡市の公立中学校)でも、部活動をめぐってこの構造は日常的に観察される。先日は、発熱を理由に欠席を求めた生徒が「前日に休みがあったのに体調管理をしないお前が悪い」と顧問から恫喝され、無理に出席させられた事例があった。別の事例では、保護者同意のもとで私たちの教室の体験合宿参加を決め、費用も支払ったにもかかわらず、顧問が練習欠席を認めず、将来の試合出場やレギュラー外しを示唆しつつ「自己判断と責任で」参加を選ばせる形で圧力をかけ、結果として部員全員がキャンセル料を払って合宿を断念したことがあった。ここで作動しているのは、表向きは自己決定を装いながら、実質的には選択肢を奪うという、極めておぞましい、しかし学校では常套手段として用いられる統治技法である。
このように、生徒が欠席・退部することや、自発的に優先順位を変えることが認められない部活動はいまだに多く見られる。日常的には「自主性」を唱えながら、肝心な局面では判断と選択が許されない。こうして、生徒の時間は学校の所有物となり、身体は学校や部活動の資源になる。欠席は自己決定ではなく反抗と呼ばれ、体調不良は甘えに変換され、家庭の事情は周縁化される。
さらに、連帯責任という名の罰——部員の一人が問題行動を起こした場合に、部員全員が通常の練習を禁じられ、草むしりなどを課されるといった対応——、公開の場での吊し上げ、大声での叱責、部長やクラス委員などリーダーとされた生徒に押し付けられる理不尽な叱責も、なお日常化している。ここでは、生徒が問題行動を起こした場合にとどまらず、単に教師の期待に沿わないというだけで子どもが一方的に叱責されることが許容されている。このような環境にさらされた子どもは、理不尽への違和より、同調による安全を優先するほうが容易であることを学んでいく。そして、これが「学校後遺症」の芯を形づくっていくのだ。
学校の暴力の管理部門(生徒指導主任など)が男性教員中心であることは偶然ではない。強い身体を持つ男性教師が子どもを抑えて秩序をもたらし、学校を落ち着いた環境にするという考え方は根強い。しかし問うべきは、秩序と呼ばれているものの内実である。沈黙と従順がもたらす秩序は、成熟なのか。恐怖によって子どもが声を潜め、逸脱を思いとどまり、周囲の顔色をうかがうようになったとき、それはむしろ判断が事前に封じられ、新しい出来事が生成することが奪われた状態──行為の欠如による安定──にすぎないのではないか。
恐怖による統治がもたらすのは暴力の消失ではなく、暴力の内面化である。怒鳴る声が消えても、子どもたちの内部には、自己を監視し、罰する声が残る。その声は倫理ではなく恐怖の残滓であり、理性ではなく条件反射である。このとき学校は暴力を克服したのではない。暴力のベクトルを整理し、より見えにくいかたちで温存したのである。こうして温存された暴力が、いつかどこかで他人に傷を負わせる形で回帰しても不思議ではない。
ここまで見てきたことを整理すれば、学校統治を貫く一つの鎖が浮かび上がる。時間と成果の最適化を優先する管理主義は、即応性や統率を評価する統治様式を正当化し、その様式は歴史的に「男性的なもの」としてコード化されてきた。その男性性は、感情や依存、揺らぎから距離を取る近代的理性の形式と結びつき、結果として、痛みや違和感を発する身体を沈黙させる。管理主義、男性性、理性、そして身体の沈黙——これらは独立した問題ではなく、学校という制度の内部で連動しながら作動している。
「理性の男性性」という陥穽:周縁化される身体と不可視のケア
先日、クラスになじめないという理由で、帰宅後に毎日泣く娘を案じた母親が、学校に相談した。相談相手は男性の担任で、母親はクラスでの娘のようすや人間関係について説明を求めたという。しかし担任は、3回、4回と連絡を重ねても「たいしたことではない」とまともに取り合わなかった。ところが5回目、父親が同内容で連絡を入れた途端、担任は態度を一変させ、初めて真摯に話を聞く姿勢を示したという。このように、学校があからさまな性差別の主体になることは、けっして珍しい話ではない。
この過程で母親の訴えは「まだ問題化する段階ではない」「過剰に心配しすぎ」として後景化される一方、父親の訴えは、対処を先延ばしにすると不都合が生じかねない「現実的な案件」として前景化する。この差異は、語りの中身ではなく、誰が語っているか、そしてその語りが学校への管理負担をどの程度予告するかによって生じている。
こうした対応は、必ずしも特定の教師の性格や倫理観に帰されるものではない。学校の内部では、秩序や安定を乱しかねない事態を最小限の労力で処理するための判断が、つねに「理性的」「公共的」「現実的」なものとして正当化されやすい構造が温存されている。母親の訴えを軽視し、父親の訴えに反応するという振る舞いは、その構造が日常実践として露呈したものだと言える。
本来であれば、母親の訴えがあった時点で、担任は熱心に子ども(母親の娘)の声に耳を傾ければよかったのである。子どもとクラスの間の関係性を編み直すための時間を割き、その経過を母親に共有することさえできれば、母子ともに早めに安心を得られたかもしれない。しかし、このような「子どもの声を聞く」「関係をほどき直す」といった実践は、秩序維持の前線からは距離を置いたものとして扱われがちである。それらはしばしば「甘さ」や「情緒的配慮」、あるいは主たる統率を補助する付随業務として周縁化される。だから、いつまでも学校文化の中で関係を編み直す技法は共有されることなく、それらの多くは個人技に留まっている。
この周縁化は、現場の多忙さや時間的余裕の欠如といった事情と結びつきながら、同時に、学校が前提としてきた「理性」や「公共性」の理解そのものに組み込まれている。したがって参照すべきは、学校制度が無批判に前提としてきた、西洋近代において形成され、統治・管理・秩序維持と親和的に構築されてきた理性概念の歴史である。
フェミニズムの視点から理性概念を思想史レベルで検討してきたジュネヴィエーヴ・ロイド(Genevieve Lloyd)は、主著『THE MAN OF REASON』(未邦訳)において、近代が信奉してきた理性が価値中立的な普遍概念ではなく、男性的主体を規範として組み立てられてきたことを明らかにした。近代的理性の理想は、心と身体、知性と感情・感覚を切り分ける心身二元論の構図と強く結びついていた。真理への到達は、関係のなかで育まれる営みというより、感覚・情動・身体性から距離を取り、それらを乗り越える達成として理解されやすくなる(注3)。
この枠組みにおいて、感覚や情動、身体的具体性は、理性の一部として統合されるのではなく、純粋知性が超越すべき対象として位置づけられる。そして、この知的ドラマのなかで女性は、「理性としての男性」が真理へ到達するために背後へ残していくべき「感覚的領域」の担い手として配役されてきた。女性は生活の複雑さを引き受け、男性はそこから離れて純粋思考へ赴く。結果として理性は、女性的なるものを超越するプロセスを通じて男性的なものとしてコード化される(注4)。
ルソーの教育論はこの構造を別様に強化した。ルソーにとって、理性は自然から動的に発達するものであり、女性はその「自然」に近い存在として賞賛された。しかし、『エミール』におけるソフィーの教育を見れば明らかなように、女性の美徳は男性であるエミールの性質を補完するための、外部から課された「抑制」の結果に過ぎない。ルソーの描く補完的な関係において、男性は市民として公共の世界に参与する一方、女性は私的領域で自然を体現し、男性を癒やす役割を担わされる(注5)。
こうした歴史的背景を踏まえて、ロイドはフェミニストでありながら、感受性・関係性といった女性的特性を別の価値として称揚することに距離を置いた。なぜなら、これらの特性はそもそも「理性としての男性」を構築するために排除され、切り捨てられた残余物として構成された「女性性」に他ならないからだ。ここで重要なのは、理性や公共性が中立の地盤として先在していたのではなく、特定の分割(心/身体、理性/感覚、公/私)を通じて特定の主体像を中心に組み上げられてきたという点である(注6)。
したがって、「理性」「公共性」「主体」といった語を中立の共通地盤として用いること自体が、すでに問題を孕む。なぜなら、その地盤が暗黙に man(男=人間)を中心に据えて構築されてきたからである。かつてデリダが示唆したのも、この「中心」を温存したままの対抗が中心の再生産へ回収されるという問題であった(注7)。もし人間の規範が「男のかたち」を標準として設計されているなら、女性がその競争に勝つことは解放ではない。勝者は「男よりも男らしく」既存の土俵に最適化した者として称揚され、土俵自体は温存される。
共感的なケアを行う「女性」に対する再評価は、歴史的な不正義への正当な対抗に見える。しかしそれは、男性的理性の規範との対照によって準備された「女性性」というスペースの中に自ら収まりにいくことになりかねない。必要なのは、女性的特性を称揚すること以上に、「理性」「公共性」という概念が排除を前提に成立してきた構造そのものを問い直すことにある。
キャロル・ギリガンが「もうひとつの声」として示した関係性・責任・ケアは(注8)、学校現場において理念として外から導入されたものではなく、教師が日々、子どもの状況に応じて距離を調整し、不安や衝突を引き受けながら生活世界を持ちこたえさせる営みとして不断に実践されてきた。だがその実践は、統率や指導といった行為に比して制度の中心に位置づけられにくかった。ケアは評価や責任の言語から切り離され、不可視化され、外部化されがちである。その不可視化の構造を明るみに出した点において、ギリガンの仕事は重要である。
この不可視化が進むと、「女性教師は聞き役」「男性は統率、女性はケア」といった分業が、明示的判断を経ないまま学校運営の原理として固定化される。ケアは判断や実践として認識されず、ただそこにあることが前提とされ、結果として不可視化される。名づけられないケアは報いを伴わない負担として引き受けられ、その負担がどのように配分されているかを問い直す契機が失われる。
しかも、ケアの復権はそれ自体で学校暴力の相対化を保証しない。むしろ、強権的指導を前提としたまま、その副作用を緩和する後始末としてケアを担わせ続けることがある。「女性の先生はやさしいから相談しやすい」という言い方の背後で、女性教員は強権とケアの両立不可能性という制度矛盾を引き受けさせられる。男性教員が厳しさで秩序を担い、女性教員がケアで支えるとき、ケアは解放の倫理ではなく、支配を円滑に作動させる装置へ転化する。そこで問われるべき構造そのものが問われないまま残る。
したがって、必要なのは、「男/女」の対立の片側を救い上げることではなく、対立そのものを作り出す仕方──中心を一つに定め、周縁を沈黙させる仕方──を問い直すことである。ケアが再び檻にならないためには、やさしさが支えている回路自体へ干渉しつつ、それをずらすような働きかけが必要である。
身体という「外部」の沈黙:学校設計に埋め込まれた標準設計
学校におけるジェンダーの再生産は、理念や意識の問題というより、設計に具体的に埋め込まれている。学校が掲げる「自立した子ども像」や「たくましい体」は、一見中立的だが、実際には男性的価値の集合として構成されがちである。そこでは、継続的に動ける身体、痛みを訴えない身体、感情や羞恥を統御できる身体が暗黙の標準とされる。
例えば、休憩が10分しかない時間割や、トイレに行くのに許可を要する慣行は、女子生徒を基準に考えれば明らかに無理がある(注9)。「一発勝負」を前提とした受験制度は、生理等による体調変動の影響を受けやすい生徒に不利に働きうる。また、登山や長距離走を中核に据えた行事も、男子生徒や男性教員の体力を標準として設計された枠組みが全員に適用されている場合が少なくない。
こうした設計のもとでは、生理や体調不良、羞恥、冷え、体力差といった身体のリアリティは、合理的運営から排除され、排除された都合は「自己管理」の名で個人へ押し戻される。身体の不調や違和感は私事化され、公共性の問題として扱われない。学校は公共性の名のもとに身体を沈黙させている。
この沈黙は、学校文化のレベルでも繰り返し作動している。それは体育祭などの行事で顕著で、応援団長は男子が多く、校歌や応援歌では男性の勇ましさを称揚するような内容が歌われる。男子生徒を対象に上半身裸を強制する騎馬戦や応援合戦が行われる。「男子は組体操、女子はダンス」といった性別分け、さらには部活動での坊主の強制(驚くべきことにまだ残存している)——これらはいずれも、特定の身体を公共にふさわしい標準として強制的に規定する実践である。そこでは、個別の恥辱や不快さは顧みられず、痛みは努力によって乗り越えるべきものとされる。他にも、体育の着替えを教室で行わせることや、身長順で整列させることなど、大人の社会であれば到底許容されないような身体の扱いが、学校では日常的に行われている点も見逃せない。
これらの土台になる身体観は、単一の思想や理念から生まれたものではない。近代国家における軍事的訓練の作法、時間と成果を最優先する効率主義、そして集団を安定的に運営するための同質化の技法などが重なり合い、教育制度の内部に沈殿してきたものである。命令に即応し、隊列を乱さず、痛みや感情を表に出さない身体。時間割と評価によって計測可能な単位へと扱われる身体。例外や遅れを非合理として排除する身体。これらが教育の名のもとに正当化され、平常の運営として無意識に作動する。
私は昨年、西日本新聞の連載記事で、一部の公立高校(旧藩校・旧制中学校の伝統を引く高校に顕著)に残る校歌・応援歌指導を取り上げた(注10)。この指導は、学校全体の一体感や帰属意識を育む通過儀礼と説明されるが、実際には事前の説明や同意がないまま、上級生が新入生に大声や罵声を浴びせ、校歌や応援歌を絶叫させる手法が取られることが多い。恫喝や威圧が公然と容認され、新入生全員を逃げ場のない形で巻き込む事実上の強制参加が前提化される。
私は、校歌指導を契機に登校困難に陥った生徒や、長期の心身不調に至った生徒を複数見てきた。問題は決して個々の生徒の弱さではない。恐怖や羞恥といった身体反応が「乗り越えるべきもの」として処理される構造そのものである。恐怖に耐え、それを「克服」することで承認される通過儀礼は空疎であるばかりか、権威主義的支配に屈服する経験を内面化させる点で有害である。
記事の読者からは賛否両論が寄せられたが、その批判のなかには、こうした苦行に耐えることの有意義性を、将来のキャリア形成と結びつけて語る声もあった。私からすれば、苦行に耐えることで形成されるキャリアなど、初めから願い下げである。そもそもキャリアとは、人生の意味や方向性と複雑に絡み合う、開かれた概念のはずであり、単線的に意味づけられるべきものではない。にもかかわらず、「将来のため」という語りが自己目的化すると、現在の痛みや違和感は、いずれ克服されるべき障害へと還元されてしまう。
ここで起きているのは自己疎外である。すなわち、いま、ここで感じ取られている身体的・感情的な現実が、抽象的な未来像の名のもとに切り捨てられていくのである。しかし、教育の役割が、自己疎外を正当化する物語を与えることではなく、それに抗する自由の思想、つまり自分独特の生を歩んでいく面白さと勇敢さとを子どもたちに手渡すことでなければ、他に何があるというのだろうか。
高校に入学してすぐに、校歌指導を理由に一時的に登校困難になった男子生徒がいた。ところが高2になって彼に話を聞くと、「大したことじゃなかった。いまは楽しくやっているし、学校を批判的に考えたくない」と答えた。私は彼が自らを立て直した力に敬意を抱きつつも、同時にこれこそが「学校後遺症」として残る一つのかたちなのではないかとも感じた。人は生き延びるために傷を否認する。傷は日常を維持するうえでノイズとなるため、意識の前景から押しやり、聞こえないものにする必要が生じるのだ。
制度に適応できた者ほど制度批判を自分の努力や犠牲の否定と感じ、抵抗を抱きやすい。耐えてきた経験を無意味にしたくない心理が働くからだ。その感情は、ときに他者にも同じ抑圧を引き受けさせようとする衝動へ転じ、その復讐心によって支配は連鎖する。
これまでに見てきた、自身の身体を管理・統率できうるという素描の背後には、実のところ「私の身体は私の所有物である」という信憑が潜んでいる。身体は管理され、調整され、沈黙させられる対象であり、理性によって統御されるべきものだという前提である。この前提の背景には、心身二元論や近代的な所有権モデル、さらには身体的依存や感情から距離を取ることができると想定された男性的理性主体の像がある。そして、この前提そのものが、ここまで見てきた学校の身体統治を支えているのだ。身体の揺らぎが自己管理の問題へと押し戻されるのも、身体があたかも所有物であるかのように扱われているからにほかならない。
だが、私の身体は私の所有物ではない。私の身体は<私>である。理性が把握しきれない外部がつねにあり、身体はその外部にありながら<私>として生きられている。疲労、痛み、恐怖、違和感といった身体のシグナルは、統御の失敗ではなく、私が私であることの現れである。それらは排除されるべきノイズではなく、私が世界と関係を結び続けていることの証しなのだ。
学校は、身体の外部性を沈黙させることで管理可能な主体を作り出してきた。恐怖に耐え、違和感をなかったことにし、物語に適応することが成熟や成長と呼ばれてきた。しかしその過程で失われてきたのは、身体が発するシグナルへの応答であり、世界との関係を別の仕方で結び直す可能性である。
教育が手渡すべき自由とは、身体に鞭を打ち、強化する技術ではない。むしろ、自分が完全には管理できないものとともに生きる力の回復である。身体を沈黙させないこと。ノイズをノイズのまま抱え込み、そこから世界の別様の見え方を開くこと。それこそが、統治に抗する最もラディカルな実践ではないだろうか。
「抵抗」という名の防衛:「弱さ」を変化の契機とする
近年、多様な生徒を認めるという観点から「叱らない指導」が増えている。しかしその変化は、学校における加害の問題が繊細に扱われるようになったことを必ずしも意味しない。むしろ、叱責や罰を避けることと引き換えに、加害の責任をどう引き受け、どう教えるのかという問いが曖昧になっている場面も少なくない。誰かを傷つけた行為が「踏み込まないほうがいい」という判断で保留されると、加害は不可視化され、責任の所在は宙づりにされる。
こうした混迷のなかで、ジェンダーの問題はさらに複雑になる。学校は、一般社会より男女平等原理が働いていると言われ、生徒たちが直接的な不均衡を自覚しにくい局面がある。その土壌でジェンダー教育の際に「男性性は有害だ」「男性は特権的だ」といった語が投げ込まれると、知識のない男子生徒が戸惑うのは無理もない。彼らは男性性を自覚的に選び取ったわけではなく、その役割のなかで育ってきただけである。「平等に接してきたのに、なぜ責められるのか」という感覚は、一定の合理性を持つ。
ここで彼らに伝えるべき優先事項は、問題が「男性であること」自体にあるのではないという点である。問題は個々の男性ではなく、家父長制や性差別主義という歴史的に形成され暗黙裡に承認されてきた構造である。家父長制は単に「男性が偉い」という価値観ではない。それは、男性が公的領域の担い手として優先的に配置され、理性・強さ・主体性といった価値を体現する存在として期待される一方で、弱さや依存、揺らぎを引き受けにくくなる構造でもある。つまり、男性が特権化されると同時に、その特権によって男性自身の柔らかな生の自由も縛られているのである。
この二重性を説明しないまま「特権を自覚せよ」とだけ告げれば反発が生まれやすい。自分の欲望や生き延び方が一度も承認されないままに否定されたように感じてしまうからである。とりわけ、十分に男性性を獲得できなかったとの自己感覚を抱える男子生徒にとっては、事態はさらに複雑である。周囲の「男らしさ」についていけずに苦しんできたにもかかわらず、「男性」というカテゴリーで一括りにされれば、自分の複雑さや傷つきは誰にも理解されないのだ、という深い孤立感が強化されても不思議ではない。
大原則として、個人の欲望は決して否定されるべきではない。「私の欲望が否定された」と感じた時点で、対話は閉じてしまう。昨今のジェンダー教育における反発や、半ばミーム化したフェミニズムへの拒否反応はこの回路が関与している。この反発は、単なる逆ギレや無理解として片づけられるべきものではない。それは、精神分析的に言えば「抵抗」と呼ばれる反応、つまり、自分自身の脆さや不安、男性性の不備に直面することへの防衛反応として現れているのである。
抵抗が守っているのは、個人のプライドというより、彼らが自分を成り立たせるために同一化してきた「男性性」の体制そのもの——強さ、無傷性、自己完結性、支配の不在という幻想——である。男性性が規範として内面化されるとき、それは自我理想として作動し、同時に超自我的な命令として主体を駆動する。「弱いと思うな」「揺らぐな」「依存するな」「負けを認めるな」。この命令に従って辛うじて自己像を保ってきた者にとって、「男性性は有害かもしれない」「あなたは特権の側にいる」という言葉は、外部からの批判である以前に、自分を支えてきた足場を崩す呼びかけとして響く。
したがって、反発は、ただ批判を拒むのではなく、男性性が前提としてきた「欠如の否認」が揺さぶられることへの抵抗でもある。ここで問われているのは、善悪ではなく、「自分は万能ではない」「傷つきうる」「他者に依存している」という欠如を引き受けること(象徴的な意味での去勢)であり、その受容は痛みを伴う。ゆえに抵抗は、「自分が責められている」という形で現れやすい。責められていると感じさえすれば、主体は欠如ではなく外部の攻撃に原因を置けるからだ。こうして「男性ばかり責めるな」という怒りや反発は、傷つきや不安を表明する代わりに、男性性の枠組みを保持するための防衛として組織される。
要するに、抵抗とは男性性を守る反応であると同時に、男性性という制度がどれほど男性主体を拘束しているかを露呈させる反応でもある。そこにあるのは個人内面の問題というより、男らしさを信仰せざるを得ないように主体を編成してきた文化と教育の問題である。
過去のフェミニズムが繰り返し示してきたのは、「個人的なことは政治的なことだ」という視点である。たとえばバトラーが強調してきたように、人の弱さや傷つきは個人内面に還元されず、環境・歴史・制度によって形づくられる。だからこそ弱さは、社会のあり方を問い直し、新たな関係性を生成する発火点にもなりうる。自分の違和感や苦しさが個人的失敗ではなく構造と結びついていると理解すること──その受動性こそが政治的自覚である(注11)。
教育の役割があるとすれば、誰かを糾弾することではなく、こうした複雑な回路を言葉にし、共有する場をつくることだ。あなたが巻き込まれている構造は、あなたを特権化すると同時に、あなたの自由をも奪っている。その二重性を丁寧に説明し、抵抗や反発も含めて語り合える条件を整えること。そのようにして引き出された受動性をとおして欲望を滑らせること。そのとき初めて、「男性性」も「弱さ」も、沈黙させられるものではなく、変化の契機として扱われうるのではないだろうか。
注1:『学校の「男性性」を問う 教室の「あたりまえ」をほぐす理論と実践』(旬報社)2025所収の大江未知(1983年から2023年まで小学校教師)の論考「「男性性」の“くびき”をまなざす」より。この論考は、厳しい「男性的な」指導が求められる学校で、「良い教師として尊敬」されるために、女性教師が自身の信じる感覚を手放してまでも家父長的学級づくりに邁進していく様子が描かれている。それはまさに女性教師が学校という場で力を奪われていく過程の記録であり、学校とジェンダーの問題を考えたいあらゆる人にとって必読の論考である。
注2:『学校の「男性性」を問う 教室の「あたりまえ」をほぐす理論と実践』(旬報社)所収の前川直哉「「指導力」という名の教員の「暴力」」などを参照。
注3:Genevieve Lloyd, The Man of Reason: “Male” and “Female” in Western Philosophy, 2nd ed.(未邦訳), Routledge, 1993, chap. 3 “Reason as Attainment”.
注4:Ibid., chaps. 4–6, esp. chap. 6 “The struggle for transcendence”.
注5:ルソー『エミール』(下)今野一雄訳 岩波文庫 1964
注6:Genevieve Lloyd, The Man of Reason, chaps. 1–4. 理性や公共性は、あらかじめ中立な中心として存在していたのではなく、一連の二項対立を通じて自己を正当化し、その過程で特定の主体位置を不可視化することで中心として機能するようになった。このことを世に問うたのがジャック・デリダの脱構築であり、それを男性性の概念史として示したのがロイドの功績である。
注7:ジャック・デリダ『ポジシオン』高橋允昭訳 青土社 2023 所収の「ポジシオン」などを参照。
注8:キャロル・ギリガン『もうひとつの声で──心理学の理論とケアの倫理』川本隆史・山辺恵理子・米典子訳 風行社 2022
注9:教室(学習塾、単位制高校、フリースクール)を運営する立場にある者として振り返れば、私自身が、生徒が授業中にトイレへ行く際、講師に許可を求めることなく、自分の判断とタイミングで行くことを認めたのはごく最近——2023年のことである。教室を開いてから20年のあいだ、許可制のもとでは、とりわけ女子生徒が授業中にトイレへ行くことが心理的に困難であることを、肌で感じていながら、これほどに判断が遅れてしまったのである。この経験は、慣行というものが、目の前にあるはずの必要な判断をいかに容易に鈍らせてしまうかを痛感させるものであった。その自戒の意味を込めて、ここに記しておきたい。
注10:上級生が新入生たちに大声や罵声 校歌・応援歌指導という「暴力」【それがやさしさじゃ困る23】西日本新聞2025/5/4
注11:ジュディス・バトラー『アセンブリ ―行為遂行性・複数性・政治―』佐藤嘉幸・清水知子訳 青土社 2018 第四章 身体の可傷性、連帯の政治 などを参照。
1976年、福岡県生まれ。大学院在籍中の2002年に学習塾を開業。現在は、株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、学習塾「唐人町寺子屋」塾長、単位制高校「航空高校唐人町」校長、及び「オルタナティブスクールTERA」代表として常時120名以上の授業(小6~高3)を担当し、進路指導にも力を注いでいる。全国の学校や公共施設等にて、教師や保護者を対象とした講演活動も数多く行っている。
著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論──BTSから世界とつながる』『光る夏 旅をしても僕はそのまま』(晶文社)、『それがやさしさじゃ困る』(赤々舎)など、編著に『「学び」がわからなくなったときに読む本』(あさま社)がある。

