小学一年生、六歳のときに初めて「あいうえお」を習ってから、その十倍近い人生を生きてきた内田かずひろ、五十八才。ひと昔前ならもうすぐ会社を定年する年齢だ。五十才を過ぎる頃には自分もちゃんとしているだろうと若い頃には思っていたと言う。しかし、マンガの仕事もなくなり、貯蓄もなく、彼女にもフラれ、部屋をゴミ屋敷にして、ついにはホームレスになり、生活保護を申請するも断念せざるを得ず…。だが、そんな内田でも人生で学んできたことは沢山ある。内田の描くキャラクター、犬のロダンの目線で世の中を見てきた気づきの国語辞典と、内田の「あいうえお」エッセイ。この連載が久々のマンガの仕事になる。
ひなたぼっこ
浅井日向(ひなた)くんという元生徒がいる。僕が三年間ほど専門学校で教えていたときの生徒だった。僕はゼミを受け持っていたが、専門学校も就職に直結しない学科は年々生徒が少なくなってた頃で、浅井くんの学年も全員で十人程度、ゼミの生徒も五、六人だった。
人数が少ないせいもあって、生徒との距離が近かった。
ゼミが終わると、僕と男子生徒三人で、いつも夜遅くまで公園やファーストフード店でいろんな話をした。そうやって浅井くんたちと過ごしているときは、自分まで二十代の頃のような気持ちになっていて、ふとトイレに入って鏡の中の自分を見たときにハッとすることもあった。
夏休みに学校のみんなを引率して離島でのアート体験旅行に行ったことがある。全員で十人分のチケットを取りまとめて僕が発注したのであるが、その旅行の帰りの船のチケットの出港時間が違っていて、港に着いた頃には、乗るつもりだった船はすでに出港していたということがあった。
旅行代理店に電話をすると、もし受注ミスがあったとしても、手元に届いた時点でチケットを確認しなかった僕の責任ということになり、改めて船のチケットを十人分購入しなければならなくなった。すると、そばにいた浅井くんが「電話を変わってください」と言って先方と話をすると、「チケット再発行してくれるそうです!」とことなきを得た。
近頃では、達観した子どもや若い人を称賛するとき、「人生何周目?」と聞くような言い方をするが、浅井くんにもそう感じることが多かった。
学園祭では浅井くんが監督・脚本で『いこい』という映画を撮った。僕も出演したのだが、とくに映画の勉強をしたわけでもないという浅井くんであったが「こう撮れば、ああなる…」「ああするには、こう撮ればいい…」と経験者のごとくみんなを指導して撮影した。
作詞・作曲もして映画の挿入歌も歌っていた。そんな様子を見てると、人生を何周かしてることは忘れてるけど、そのときに得た知識は覚えている人生周回者だと考えれば納得がいく感じだった。
そんな人生周回者のような浅井くんから見れば、僕はずいぶんともどかしい大人で、だから浅井くんから教えられることも少なくなかった。
それから五年ほど経つが、当時のゼミ生たちとは今でも交流が続いている。現在二十五才の浅井くんとは親子ほどの年の差があり、もともと先生と生徒の関係だったから、浅井くんは僕のことを「先生」と呼ぶ。だが、むしろ僕のほうが教わることも多く、僕はきっと「先生」というアダ名の友人みたいな存在である。
学園祭で映画を撮ってから、演じることに関心を持った日向くんはルックスも良かったので街でスカウトされ、1年間の芸能スクールを卒業した後、芸能プロダクションに入った。現在は友人5人と「atto(6)scrawll(アトロクスクロールル)」というグループを作りYouTubeで映像作品を発表している。
1964年、福岡県生まれ。高校卒業後、絵本作家を目指して上京。1989年「クレヨンハウス絵本大賞」にて入選。1990年『シロと歩けば』(竹書房)でマンガ家としてデビュー。代表作に「朝日新聞」に連載した『ロダンのココロ』(朝日新聞出版)がある。また絵本や挿絵も手がけ、絵本に『シロのきもち』(あかね書房)、『みんなわんわん』(好学社)、『はやくちまちしょうてんがい はやくちはやあるきたいかい』(林木林・作/偕成社)、『こどもの こよみしんぶん』(グループ・コロンブス・構成 文/文化出版局)挿絵に『みんなふつうで、みんなへん。』(枡野浩一・文/あかね書房)『子どものための哲学対話』(永井均・著/講談社)などがある。『学校のコワイうわさ 花子さんがきた!!』(森京詩姫・著/竹書房)では「怪人トンカラトン」や「さっちゃん」などのキャラクターデザインも担当した。