もっとむずかしい対話

この連載について

ときに小学校で子どもたちと。ときに企業で大人たちと。ときにカフェで互いに見知らぬ人々と。
小学生から大人まで、いろいろな場で哲学対話をひらき、実感する対話のこわさ、わからなさ、そしてむずかしさ。
世界にまみれながら、書くことを通して、対話を探し回ることを試みる。

第5回

瀬戸麻由さんともっとむずかしい対話をする

2025年12月12日掲載

「広島サミットは大成功だったよ」。ある著名なひとがそう言った。「広島ビジョン」には、核兵器禁止条約への道筋も、被爆者という言葉も、核廃絶への意欲も、ぽっかりと抜けていた。代わりに、核があるから核を使われないですむのだというあべこべな「核抑止論」が、「広島」という場所から発信されてしまった。それでもそのひとは「大成功」なのだと、うれしそうに言った。
 わたしはそのひとにどこから何を言えばいいのかわからなかった。時間はなく、ことばは乏しかった。わたしはそれがくやしくて、やりきれなくて、だけど本当は自分は「広島」のことを知らないということが、実はいちばんかなしかったのだ。
 家に帰り、わたしは広島行きのチケットを買った。新幹線に乗り、路面電車に乗り、平和公園すぐのソーシャルブックカフェ「ハチドリ舎」に到着した。店主の安彦恵里香さんがそこにいて、わたしたちはその後もたくさんおしゃべりをする仲になった。一緒にいろいろなところに行き、海老の焼いたやつを食べ、イベントをし、酒を飲み、広島に行く回数は増えていった。わたしはその度ごとに、広島に出会い直した。その日々で、ハチドリのスタッフである瀬戸麻由さんと一緒にいることも多くなった。
 彼女は「せとまゆ」と呼ばれていて、わたしもそう呼んだ。澄んだ声をもったひとだった。わたしは彼女に平和公園をガイドしてもらうことになった。彼女の語りは、文学の言葉だと思った。

***

うわっ、つながった

永井:せとまゆのガイドって、ただの「伝言者」ではなくて、わたしはこういう語りをきいたんだ、ここであの声をわたしはこう思い出すんだ、という語りなんだよね。そこがまず新鮮だった。

瀬戸:ガイドをしているときは特に、目の前の相手に「この世界の、あなたの話をしていますよ」って気づいてほしいと思ってるんよね。わたし自身が被爆者の人に出会って「あれ、これって私が生きてるこの世界の話なんだ」って初めて感じられたから、わたしが揺さぶられたようなそういう経験が、その場に起きないかを試みているっていうのはあるかも。

永井:ガイドをしている時って、何に集中してる?

瀬戸:なんだろうね。なんだろう。相手が今どんなことに興味ありそうな仕草をしているか、どんな背景の人か、ちょっとでも聞き取って感じ取って、その人から出ているフックを探して伝えたいんだけどね。「へえ、そんなことがあったんですね」じゃなくて、その人に何か持ち帰ってもらうにはどうしたらいいかなって気にしてる。

永井:聞き手のことをちゃんと考えてるよね。ガイドって「自動音声再生」みたいになっちゃう可能性があるけど、せとまゆはみんなの顔を見てる感じがするな。

瀬戸:「持ち帰ってほしい」ともちょっと違うかもしれんな。わたし自身もいろんなところに行って、いろんなことを学ばせてもらった時の感覚でいうと、その場で「うわっ、つながった」みたいになるんよ。戦争の歴史とか苦しい歴史の何かが、「わたしとつながってしまった」という感じがして。そういう瞬間が、この場に起きないだろうかって思いながら話してる。

永井:すごくよくわかる。そのうえで、いま悩んでいるのは、わたしも誰かの抑圧に抗う人々の話をするんだけど、そこで「わたしにはできないと思いました」ってだけの感想が出てくることがあるのね。たとえば被爆者の方たちの運動の話をしても「わたしにはできません」とか「わたしならすぐ死んじゃうと思います」みたいな。「自分ごと化」って言葉わたしは好きじゃなくて使わないんだけど、他者のいたみの声に耳をすませる前に、なんだかあまりにも簡単に「自分ごと」にして、捨てられちゃう感じがして。わたしたちは学校とかで「自分だったらどうしますか?」って問われすぎてきてしまったのかな。

瀬戸:自分の言葉で話す場が足りてないのかなって思いはすごくあるね。中高生にガイドしててよく思うんじゃけど、広島のことを伝えるっていう前に、何重も日々自分を守っている防護の壁が厚くて、ただ素直に自分のことを話すのでさえ、「周りにどう思われるだろう」が前提にインストールされちゃってる。そんな日々を通って大人になった人が、他者の話をきいても結局「まずは、きく」をせずにすぐ「自分だったら…」の話になっちゃうことってあるよね。問題に一緒に向き合って、じゃあ何ができるかなって話をしたいのに、そこにいくまでが途方もなく長い。修学旅行生のガイドをしよると、この時間では全然たどり着けないなあって思うことのほうが多いよ、わたしは。

永井:被団協がノーベル平和賞を受賞して、オスロへの旅費をクラウドファンディングしたとき「頑張ってください!」っていう応援コメントがたくさんついていたことについて、イベントでご一緒した栗原淑江(NPO「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」事務局)さんが「90歳を超え、長年運動をしつづけてきた被爆者にかける言葉は、それでいいのだろうか」って仰っていたことを何度も思い出している。「わたしたちが引き継ぎますから、どうか安心してください、って言いたいですよね」って。せとまゆも、これってわたしたちの問題だよねって、聞き手と一緒にいようとしているよね。「聞き手は自由にそれぞれで考えましょう」って方がクールとされているけど、わたしはせとまゆの身振りがとても大事だと思う。

せとまゆとは、ハチドリ舎でともに対話や学びの場をたびたびつくっている。彼女は核兵器をなくすための活動に大学生の頃から携わっていて、たくさんのことを教えてもらった。広島のことだけでなく、核実験の影響を受けた人びとの声にも、せとまゆは耳をすませている。

瀬戸:わたしね、そうだなあ、怒りが湧いちゃうんよね。大人数の前で話したときに客席からヒトゴトみたいに「偉いですね、頑張ってください」って言われたら、普通に怒りがわいちゃう。「いや、一緒に頑張りましょうね」って怒りを持って、笑顔で言うんだけど、どこまでね、怒りが通じてるかわからない。

永井:ふふふ。

瀬戸:特に核兵器の問題で言うと、「それぞれでいいよ」ってもし一旦言っても、全然逃れられませんよって思っているし。逃れられない世界の中でわたしは諦めたくないと思っているから、もちろん仲間増やさないと、どうしようもないなぁとも思っていて。でも同時に……なんて言うんだろう、たとえば原爆の話ってすごくセンシティブというか、触れ方によっては、誰にとってもトラウマになり得ることでもあるから。わたしもちょっと心が元気じゃないと、今日はここまでは触れられない、ということもある。一人一人にキャパシティがあって、だからそういう意味で距離を選ぶのはそれぞれの自由だし、その選択をリスペクトしたいという気持ちもあるけど、「偉いね」はね。「それ、あなたが線を引いちゃってるの分かりますか。でも、あなたもこっち側にいるんですよ」って思う。あなたはどこに立っているんですかって。広島では活動している若い人によく投げかけられる言葉だと思う。わたしも言わないように気をつけたいなって。

永井:「わたしもがんばります」なんて軽々しく言ってはいけない、謙虚道徳みたいなものもあるよね。それはわかるけど、一方で言い切りたいって最近思う。不遜なことでもあるけど、そう言いたいと思う。

瀬戸:本当そうね。わたしも活動し始めた頃は、そんなこと言えないなぁと思ったり、もしくは逆に、軽々しく受け継ぎますとか言ってしまってた頃もあったような気がする。でも今はもう本当に、おひとりおひとり、お世話になった人に亡くなって会えなくなるいうことが年々起こるから。私はこの人がこの世を去る前に、なにを言えるんかなって……今まだ核兵器はこの世界にたくさんあって、それがすごく苦しいんだけど…それでも何かを残したんだなって思いながら大好きなその人がこの世を去れるのか…わたしはこれをいただいたし、伝えていきますと、言う。でもそうやって言うようにするぞって思うのと、それに見合う活動が全然足りない絶望……みたいな。だから、まあそんなふうに宣言することが正解でもないと思うんだけど、「受け取ってちゃんとやりたい」って欲望が、自分のものとしてわいてるかどうかは大事よね。これって強制できるものでもない。ポーズだけとっても意味がない。まあでもポーズから取り始めないと、なんともならないってこともあるけど。

永井:そうだね。沖縄で鉄血勤皇隊の戦跡の前で、ガイドの人に「(平和をつくるための)バトンを渡します」って言われて「はい!」って大きな声を出してしまったことに、出したあとに気づいたのね。でもわたし出せたじゃん、出せるんじゃんって思えたなあ。ただそう思えるようになったのは、やっぱり広島に何度も行って、せとまゆ含めみんなに出会ったからだって思うよ。

瀬戸:それすごいねぇ。出会いが回り回って、そこにつながって、れいちゃんの「はい!」にもつながっているとは。

つながりを最大化する

永井:一緒に連続講座をやっているときに、せとまゆがマイクを握りながら、うつむいて「絶対に核廃絶したい」ってぼそりと言った姿が忘れられなくて、よく反芻するのね。ああ、本当の、本当の、本気なんだこの人はって、言葉を失ったの。

瀬戸:最初は大学1年生で乗ったピースボートで、「広島・長崎で起きたことを世界の人に伝えよう」とプロジェクトに参加した被爆者のおばあちゃん・おじいちゃんを手伝いたい!ってあとを追いかけ回してたんよね。で、二回目にまたそのプロジェクトに参加した時に、一緒に伝えるっていう役割になったんだけど、一回目と同じスタンスで「お手伝いします」って動いていたら、なんかもう……なんであんな辛かったんかなあ。日々やることが多かったから辛いのもあったかもしれないし、役割があるのもプレッシャーだったのかもしれないんだけど、しんどくてね。あの時に、かれらが核廃絶したいからわたしも手伝う、ってスタンスじゃダメなんだって思った。わたしも自分から湧き出る気持ちで「核廃絶したい」っていうのがないと、なんでやってるのかがわかんなくなっちゃう。だから、おこがましいのは分かってるけど、一方的にわたしが声を聞かせていただく関係性じゃなくて、一緒に隣で、そちらに目線を向けている人みたいな。わたしはそっち側に立たなきゃっていう感覚がやってきたのが転換点だったと思う。

永井:あんなに「本当のことば」を聞いたことがないんですよ。それが存在するのかみたいな問いがありながらも「ああこれが本当のことばなんだ」って思ったのね。しかも独り言みたいに言ったの。
 今の話は「きく」にかかわるなって思って、学校とかでプログラムにあるような、体験者のありがたいお話をとにかく受動的にききましょう、みたいな「きく」とはまるで違うよね。なにが起きているのかな?

瀬戸:ハチドリ舎では「6のつく日」に被爆者の人とお店に来た人がお話しができる会があるんだけど、その場に参加する人に対話を委ねたい気持ちも、わたしがそこに介在しながら、人々がつながるのを最大化したいみたいな気持ちもある。

永井:ハチドリ舎では「出会うこと」っていう言葉がよく出てくるよね。自分の対話でも、みんながひとりぼっちの場になっていないだろうかって心配することはたしかにある。わたしはこう思いました、わたしはこうですっていう独り言を、勝手にみんなが言っているみたいなね。どこかで交わらないかな、出会わないかな、って探るかもしれない。でも、出会うって何が起きていることなんだろうね。

瀬戸:「出会う」って、わたしの人生の中に、その人と持った場が残ってくみたいな感じかも。
 ピースボートに19歳で乗った時は、初めての世界一周で超ワクワクだったんだけど、たとえばコロンビアの貧困地区があって、子どもたちに文具を届けに行くツアーがあった。みんなと届けて、子どもと喋って写真を撮る。その時に「あれ、これすごい嫌だ」って。出会うぞって気持ちで来たはずなのに、わたし気づいたらこの人たちを「旅の思い出の背景」みたいにしてない?ってゾッとした。で、そのあと被爆者の皆さんのお尻を追いかけるように、たとえばギリシャで証言会の会場について行って人とそこに参加した現地の人と話してたら、出会っていきなりギリシャの核政策の話とかができたりして、あれ、これめっちゃ楽しいってなった。お互いをただの「思い出の背景」にしないで、表層的なこと以外も喋れるっていうのがめっちゃ楽しかったんよね。必ずしも核の話しなくてもいいかもしれないけど。

永井:出会うって、わたしの人生に向こうが入り込んでくるみたいな経験なのかな。 あんまり選びとったり「この部分だけ出会わせていただきます」とかできなそう。もう相手が入ってきてしまって、忘れられない。もはや「見舞われる」みたいな。

瀬戸:遭難の「遭」の字で遭っちゃうみたいな。

永井:なんか大事な重みな感じがするよね。効率よく出会うとかさ、そういうことじゃないじゃん。

瀬戸:効率は全然よくないよね。

永井:だからやっぱ数も大事みたいなことになるのかな。ある種、賭けのようなもので、それは必ず起こるわけでもないし、管理できるものじゃない。ガイドでもさ、ここを曲がって、こういうルートで原爆ドーム行くと出会えますみたいなことじゃないでしょう。もちろん出会おうとすることは常にできるんだけど。そのぶん、場がたくさん必要。だからよく「わたしなんかがひとに話をききに行っていいんでしょうか」って言われるんだけど、いやいや行ったほうがいいでしょうって思っちゃう。

瀬戸:そうよね。やらないより絶対やったほうがいいし、そういう出会いの数が増えた方がいいし……っていうか、社会の中にそれが足りてないから。過多ですねってなったら、別の発想になるかもしれないけど、少なくとも今はそういう状況じゃないし。
 同時に、たとえば被爆者の人の話を聞くような場だと、リスペクトを欠いた状態の無自覚な暴力性を持った人が来てしまったらと思うと心配ではあるし、それを防ぎたいという気持ちもある。ただ自分が傷つけるのが怖いから行かないみたいなことじゃなくて、一回出会うのが大事だと思う。こういうことは暴力になり得るっていう基本的な人権に対する知識があればいいし、それがないときはそこを足したらいいから、傷つけるかもしれないから出会いの場を減らすとかなくすとかじゃないよね。それに、コミュニケーションしながら傷つけちゃったり、傷つけられたりを、心に大きな傷を負わない範囲でではやったりしながら、身につけたり、意味がわかったりするのも大事だし。

永井:自分は本当に不用意なことをいっぱい言ってきたと思うし、でもそれで今ここでのうのうと生きているってことは、それを許してきてくれた他者がいたんだ、ってことでもあるよね。

瀬戸:そうね……でも、許されていいのかも分からない、本当に傷つけてしまったっていう瞬間も、被爆者の人と一緒に活動している中であったりもして。それは許されているとも思わない方がいいかもと思う。難しいんだけど。かといって、だからもう活動をやらないっていうのはわたしの場合は、全然違う。

永井:せとまゆにもあるんだね、そういう体験がね。

瀬戸:そういう無自覚に傷つけたり、相手の大事なものを踏んでいるようなことは、今の私にもあるかもしれない。分からないし、怖い。でもこの「怖い」はなくしちゃいけない気がする。

永井:怒られたことある?

瀬戸:怒られたこともある、19歳のとき。あれは本当に私がよくなかったから、ちゃんと怒ってもらえて本当によかった。怒られたというか、「私はこんなに悲しいんよ、傷ついたよ」ってまっすぐ伝えてくださった。思い出すのも辛い…。あと、怒られたわけじゃないけど、長らくガイドの活動をされている被爆者の人に、私がガイドするのを聞いてもらうっていう機会があって、わたしは原稿を覚えたてで、そしたら一通りガイドを終えた後で「数字とかね、そういう事実も大事だけど、広島の心を伝えてほしいんよ」って言われて、がーんってなった。「そのとおりです、すみません」っていうより、このひとが伝えたいと思うこと、「広島の心」って何だろう、どうしたらいいんだろうって混乱している自分がショックだった。でも、言ってもらえてよかった。その人とのどの記憶より、その一言が刺さって残ってる。
 一方で、新しくガイドを覚えたての人に、同じことを私ができるかって言われたらまだまだできない感覚があるし、たとえば「被爆者の人がこう言ってたからこうしなさい」ってまた次の人に同じこと伝えるのは、それこそ変な気がする。だからわたしが心や知識で培ったものから言えるようにならないといけないんだけど、むずかしい。正解がない。

永井:それはこれからのわたしたちの、本当に大いなる問いだよね。

瀬戸:うん。でもいま、数少なくなってきている声を出す被爆者の人たちに頼る癖をつけては良くないと思うんよね。何か困ったときに、あの被爆者の人がこう言ってるから大丈夫、みたいな頼り方をせずに、ちゃんと自分の考えを培わなきゃって。すごく心の頼りにしてた人が何人か亡くなられた後に、ウクライナの戦争があり、イスラエルのガザの侵攻があり、今の世界の状況はなんでこんなに……。ふと絶望しちゃって。自分がどう言えるかなって、その人たちが言ってきたように言える言葉のなさが、苦しくて。でも同時にちょっと時間をおくと、逆に「自分の言葉を見つけていくしかない」って気が引き締まる感じもして、だから日々を続けていけるってこともあるなあ。

言わないときこえない

永井:これまで自分がひらいた対話は「じぶんの言葉」を大事にするし、相手の言葉もきくって場だったんだけど、「せんそう」についての対話の場では、どうしても言葉がふわふわしちゃうのが気になっていた。これまでせんそうについてきいてきた言葉がないひとたちが集まると、「きく」が喪失しちゃうのよね。だからいろんな、ここにはいないひとたちの「証言」をわたしが読むようにしたの。みんなが手を挙げて話すのと同じように、わたしもたまに手を挙げて、ここに言葉を置きますねって朗読するようにしてみた。

瀬戸:声が入ったら、また少し違うなってなった?

永井:うん。たぶんそこではじめて「きく」っていうひともいて、そこで語りが変わったりとか、それについて自分がどうなったかって話になるかな。でも面白いなと思ったのは、朗読しているとき、すごく「きいてほしい」って思ったのね。あまり自分の話をそんなにもきいてほしいって思ったことがなかったから、不思議だった。この声をきいてよ、って。せとまゆは「きいてよ」って思いについてはどう?

瀬戸:政治家に対しては、圧倒的に思うよね。なんできこえんのんって。フラットな市民同士の関係では「きいてほしい」というのはあると思うけど、政治家に対しては違うパワーがあって「きいてよ」って思う。物事を決める時に「きくこと」が足りてなさすぎるって素直に思うから。でもなあ、ここの区別の説明ってむずかしいよね……。なんでそう思ったかっていうと…核実験の被害者が、突然自分の生きている場が核実験場になってしまって、追い出されたり、いろんな不条理を押し付けられるという実情を高校生に伝えるという試みの中で、ロールプレイをやってみたんよね。核保有国の人と、被害地域の首長と、市民の人たちの役を割り振ってみたんだけど、ひととおり話した後で、「核保有国の人たちはとにかく実験を遂行したい」「市民はそれを止めたい、でもそれって割と勝手だと思う」「あいだに立つの現地の首長は責任を持たなければいけなくて、大変そうだな」って反応があった。あっ、そこに寄り添っちゃうのか、そういうことが起こるんだと思って、興味深かった。でも、それぞれが持っているパワーも権力勾配も全然違うってことがうまく伝わっていなかった。
 政治家の人たちには本当にしっかり言わないときこえないんだっていうのも、自分自身が声をあげ始めないと気付けなかったことだった。当たり前だけど、当たり前じゃない。「唯一の被爆国」って日本の政治家はよく言うけど、他にも世界各地に核実験や核汚染を経験している地域が本当にたくさんあることを、言い回し一つで小さな声を聞こえづらくさせるようなパワーが自分にあることを、わかってるのかなって思うし。権力者がこの「唯一の」って言葉を使うのと、被爆者が苦しい中で自分たちの実情を訴えて使う「唯一の」って全然ちがうと思うんだけど、でもちゃんとそういう考えや背景を言わないと伝わらんよな、とも思ってる。だから、じゃあきいてくださいって。

永井:戦争について対話をすると、なんだか妙に優しくなっていっちゃって、いきなり「プーチンさんにも事情があるんですね」みたいなことが起きたりする。為政者に寄り添い始めちゃうんだよね。「総理大臣や大統領も大変で」みたいな。いや、本当に大変だと思う。大変だと思うんだけど、それで終わっちゃうときもある。

瀬戸:うん、大変だと思う。でもね、その一人の人が行うことと、決めることで、結局市井のひとりひとりに何がどう起こっているかをきちん見て、その話をしようって言いたい。世界中に生まれていく、生死に関わるような別の次元の大変さはどう思いますかって。なんでそっちを想像しちゃうのかなあ。

永井:たとえばパレスチナでのイスラエルによる虐殺に抗するデモについて、イスラエルがパレスチナに加えてきたすさまじい暴力や構造や歴史についてふれつつ、こういう声が上がっているという話をする。だけどそれに対して、デモの列が「お店の邪魔になっていて、お店の人がかわいそう」「車が通れなくて迷惑そう」というコメントが返ってきたりする。あっ、そこに着目したんだねって。

瀬戸:何が起きているんだろうね、この社会で。意味がわからないからかな。理解が難しいからかな。本当に構造的な中の激しい痛みとか、誰かの傷っていうのがうまく想像できなくて、自分がこの立場だったら辛いなっていちばん想像つくのが、その車に乗った人とか、お店の人っていうことか。

永井:なるほどね、自分と近い人を想像しているのかもね。

瀬戸:自分がそうなり得るって想像できるのが、そのポジションっていうことかもしれない。あのロールプレイで起きたのもそういうことかも。いきなり土地を奪われたり、生活を根こそぎ奪われるなんて、うまく想像できない。でもそれは現実に起きているし、気を抜くと我々みんなそれそっちに立ちうるっていうのを想像したいから。理解したいから。そこが足りないのかもしれないって、今話していて思ったな。

永井:「せんそう」についての対話で「毎日が忙しくて、もう戦争ですよ」とか「きょうだい喧嘩も戦争ですよね」って言葉が出てきたりするんだけど、同じ構造だよね。

瀬戸:戦争での辛い思いにはうまく自分を重ねづらいけど、きょうだい喧嘩だったら、重ねられて言葉にできるみたいなことかな。戦争がなくて構造的暴力もない世界なら、それでいいけどね。そうではないから。

永井:そういうのがない星からやってきた宇宙人が言うんだったらわかるけどね。

瀬戸:だから出会って話をきくのがめっちゃいいなと思うんよね。たとえばね、ひとりの被爆者の人がこういう話をしてくれたんよ。15歳で経験した原爆の日に、自分は無傷だったけど街中でひどい惨状をえんえんと見て過ごして、でもそんな日の夕方に、放心状態だった自分が郊外の家に辿り着く直前、ふと「あっ数日前に近所のお兄ちゃんにつくってって頼んでたプロペラ飛行機、できたかな」ってなっちゃって、寄り道しちゃったんだって。お母さんはめっちゃ心配してるはずなのにふらっと行ったもんだから、「お前、それどころじゃない、家帰れ」ってその兄ちゃんに怒られて帰ったっていう話があるんだけど…そのエピソードをきくと、なんか人間の話だったんだというか、「それってどういうこと?」って想像するスイッチが入る。その日その人が経験した、中学3年生が見た広島の惨状って何だったんだろって。意味が分からないなりに、なんて言うんだろう、努力してすごい力を込めるより前に、なんか勝手に想像のスイッチが入っちゃうってことが起こる。

永井:東日本大震災の当日の話を聞き書きしていた時に、岩手で経験した友達がかっぱ寿司のバイトの面接に行くはずだったって話をしてくれて。自転車を漕いでたら揺れて、もう大変なことになったと思ったんだけど、かっぱ寿司のバイトは時給がいいから絶対受かりたいと思って面接に行ってしまったっていう話をしてくれたのね。もちろん、面接はなくて、帰りなさいってなったらしいんだけど。もうなんかすごく人間の話だって思った。語りに出会うってこういうことだなって思う。かっぱ寿司とか、プロペラ機とかね。被爆証言にも、戦争体験の証言にも、被災の証言にも、こういう言葉がたくさんある。だから、せとまゆと被爆証言を歩くっていうのは、わたしにとってやっぱりすごく大きかった。人間の話をきくし、それを自分の身体に通すっていう二重の経験があったから、より出会いが濃厚だった。

せとまゆは「旧広島陸軍被服支廠倉庫」を保存する活動にも参加している。1914年に建てられた赤レンガの外観の倉庫群は、戦時中は兵士たちの衣類の製造する一大施設の一部として使われていた。被ばく建物でありながら、広島が軍都であったことを示唆する、重要な場だ。そこで学徒動員として働いていた、当時15歳の中西巌さんの証言をもとに、8月6日の中西さんの足取りを辿らせてもらった。わたしたちは二人でぽつりぽつりと言葉を交わしながら歩き、視点を重ね、身体を動かした。忘れられない時間だった。

瀬戸:自分の心を動かしてほしい。自分の感情がこうだったんですねとかじゃなくて、きいて、「わたしはこう感じる」っていうね。

永井:しかも二人で被爆証言を歩いたでしょ。この時にせとまゆがさ、中西さんの視点で今まで歩いてたけど、中西さんと一緒に歩いた兵隊さんが、当時一五歳の中西さんよりも、いまの自分と歳がきっと近くて、そっちの視点で歩いたって話をしたじゃん。

瀬戸:あれは、わたしもあの日初めて想像した視点だった。

永井:そういうことが起きるよね。だから一人でききにいって、じんわり中に潜ってもいいんだけど、誰かと歩くっていうのが、自分にとっては大きかった。せとまゆも対等に話してくれたよね。「わたし、こうだったよ」って、せとまゆも体験する。でもそりゃそうだよね、ガイドだって、一緒に見て、その都度一緒に体験しているんだもんね。
 ということで、17時になってしまいました。あっという間でした。なにか言い残したことがあるかな。

瀬戸:ないかなあ。あるっちゃあるし、ないっちゃないねえ。でも不思議な気持ち。わたしがこんなふうに話してて、きこえたら傷つく人もおるかもな、なんて、この街で話してるとやっぱ感じるなぁって改めて思った。ありがとうございました。

永井:ありがとうございました。また話そう。

***

 わたしたちが話したのは、広島市内の喫茶店だった。静かな店内で、もしかすると周りの人はわたしたちの声をきいていたかもしれなかったし、そうでなかったかもしれなかった。わたしたちは立ち上がり、ハチドリ舎に向かい、次のイベントの準備をした。せとまゆはキッチンに入り、わたしは小上がりでパソコンをつなげた。そしてわたしたちはまた、誰かに出会おうと試みる。

瀬戸麻由(せと・まゆ)

1991年6月17日生まれ、広島県呉市出身。旅と地元をこよなく愛する。
大学時代にピースボートに乗船し地球を3周。
アイルランド留学中に作詞作曲を始め、沖縄や地元呉市など、地域に入り込んでは歌を作ってきた。
2017年春に歌手活動を開始。同年8/14に初のシングル「Colorful World」をiTunes配信開始。
現在は広島を拠点に、音楽活動のかたわら「Social Book Cafeハチドリ舎」で広島と人と世界をつなぐ場作りに挑戦中。

著者プロフィール
永井玲衣

哲学者・作家
人びとと考えあう場である哲学対話をひらく。政治や社会について語り出してみる「おずおずダイアログ」、せんそうについて表現を通して対話する写真家・八木咲とのユニット「せんそうってプロジェクト」、Gotch主催のムーブメントD2021などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)『世界の適切な保存』(講談社)。第17回「わたくし、つまりNobody賞」受賞。詩と植物園と念入りな散歩が好き。