ある翻訳家の取り憑かれた日常

第29回

2024/03/02-2024/03/15

2024年3月28日掲載

2024/03/02 土曜日

先週は病院通いと立て続けにやってきた締め切りに忙殺された日々だった。ようやく週末。ハリーと長い散歩に行くのが週末の楽しみ。ハリーは相変わらず、寒いというのに琵琶湖に入り、枝を集めている。そんな無邪気なハリーを眺めつつ、対岸の伊吹山が真っ白になっているのを見る。まだまだ雪があるようだ。湖北は寒いはず。それも、相当ね。

私が住む地域は、春から夏、それから秋にかけては本当に美しいし快適で過ごしやすいのだが、なにせ冬が長いのが難点。それも、常にどんよりと曇っており、雨や雪の日も多い。毎年、ストーブは4月の末まで必要だ。もう慣れたとはいえ、特に手入れもしていない庭が常にぬかるんでいるのは嫌なので、今年の目標は庭を整備する! だな。まずは草刈りだ。もう何年も言っているが、自分のためだけの小さな部屋を建てたい。

午後に遅れている翻訳に着手した。

2024/03/03 日曜日

家に人がいるけれど、ざわざわしていたほうが仕事は進む気がする。ハリーを庭に出したり、細々としたものを買い物に出たりという作業を、私以外の人にやってもらえるということもあって、週末は仕事をするチャンスだ。朝からせっせと翻訳三昧。きらびやかな女性の、きらびやかな人生についての物語だと思っていたら……なんともシビアなアメリカの闇物語だった。もちろん、事前にある程度の内容は把握して訳しているけれど、ここまでとは思わなかった。自分が知っていることなんて、わずかだなと改めて感じた。

2024/03/04 月曜日

翻訳。可能であれば一日で一章まるごと訳してしまいたいのだけれど、もちろん、そんなスピードで訳すことはできない。半分いけばいいほうだろう。訳すだけではなく、読み直して、手直しして……とやっていくと、相当時間がかかる。完成したと思っても、翌日読むと下手で泣けてくるというパターンも数多く発生するので、翻訳は本当に時間のかかる作業だなと思う。もうどれだけ翻訳したのか。そろそろエッセイも書きたくなってきた。ドロドロした、恐ろしい話を書きたい。基本、暗いからね。じわーっとくるやつを書きたいですね。

2024/03/05 火曜日

夫が在宅勤務。一切休まず仕事する夫、在宅でもそれなんかい! と思う。彼はフリーランスには向かないのではないだろうか。フリーランスなんて、どれだけサボってナンボなのに(嘘です)。夫は、私が普段、作業をしながら休憩を取りまくることに驚愕している。そしてスイッチが入って仕事をやり始めたら、いつまでもやっていることに、心底驚いている。

2024/03/06 水曜日

翻訳。かなり進んできた。いい調子で波に乗ってきた。ここまでくると、一気に最後までいけるはず。

午後、義母の通院があったので車で迎えに行く。後部座席の義母が「今日はあなたという女性と知り合うことができて、本当にうれしかった。大人になると、本物の友だちはできなくなるし、女性同士の友情は貴重なものになる。ありがとう」と言っていた。このようにして、義母の記憶は曖昧ではあるものの、発言自体は普通というか、至極まっとうだ。一方で義父は? ……悪口で原稿20枚書ける。本気で書ける。一冊書ける。

年齢を重ねると、その人の持つ性格のマイナス部分が無効化される人と、逆に強化される人がいるけれど、義父は後者だな(悪口)。

2024/03/07 木曜日

9時。朝イチの予約で美容院へ。ここのところ数年、私の髪を担当してくれている美容師さんは、わが家の事情の多くを知っているので、行く度に「お義母さんはどうですか?」「息子さんはどうです?」と、興味津々で聞いてくれるので時間があっという間に過ぎていく。美容師さんに話しかけられると緊張するという人も多いらしいが、私はそうでもない。しかし若いころ、それこそ20代前半のころは、美容師さんと話すことが恥ずかしく、自分で髪を切っていた(キッチンバサミで)。でも、友だちから「それはどうだろう」のような意見が出て、美容院にちゃんと行くようになった。大人になったということでしょうね。

美容師さんはこれから将来やらねばならないかもしれない介護に興味津々。「お仕事しながらどうやってやってるんですか?」と聞いてくる。うちの場合は介護サービスをフルに利用しているので、私は実際にはケアマネさんとの交渉ぐらいのもんですよというと、「へえ、時代も変わったなあ」と言っていた。その通り。週に一回だけ、夫が様子を確認しに実家に通っている。

2024/03/08 金曜日

衝撃の翻訳作品の帯にひと言下さいと頼まれ、数日かけて本を読んだのだけれど、親子の確執の物語というのは、妙に心奪われるものがある。なぜだろう。特に母と娘の強固な結びつきというか、母の娘に対する執着のようなもの(特に美しい娘に対するそれ)は、読んでいて引き込まれる。『I’m Glad My Mom Died』(原題)という本なのだが、読んだ後は、「本当によかったね」と言いたくなってしまうほどに壮絶だった。

ちなみに著者のジェネット・マッカーディがドリュー・バリモアのトークショーに出演し、本書について語った動画がYouTubeで視聴できるのだが、子役同士、母との確執で悩んだ者同志、通じるところがあったようで、会話が大いに弾んでいたのがよかった。

2024/03/09 土曜日

ハリーの散歩。まだまだ寒い。でっかい枝を拾って満足していた。寒いのに確実に泳ぐのはなぜか。

午後は翻訳。途中で疲れて寝てしまう。土曜に昼寝すると、起きたときに妙に残念な気持ちになる。

2024/03/10 日曜日

翻訳。ため息が出るほど、翻訳。今回の本は文章が難解というわけではないのだが、テンションがかなり高い文章なので、それなりに私もテンションを高く保つことが必要で、老体に鞭打つ形になっております。とはいえ、著者は10歳下なので、生きてきた時代が違うとまではいかない。いろいろわかるわあと思いつつ、結構な量を翻訳した。ふー、疲れた。

2024/03/11 月曜日

『すばる』の締め切りが近づいて来たので、焦って本を読む。連載している「湖畔のブッククラブ」は翻訳本縛りの書評(というか、感想文か)なのだが、毎月頭を悩ませている。仕事が詰まってて読書する時間がない! とよく言っているのだが、その仕事は結局本を読むことなので(翻訳だってもちろん同じ)、本は常に読んでいるのだなと気づいた。ようやく。

2024/03/12 火曜日

とうとう新車がやってきた! 今までの車はものすごく古くてボロボロだったので、新しい車の乗りやすさたるや! 今までの車は装備らしき装備もついておらず、本当にただの「車」だったのだなと思った。ナビも、エアバッグも、なにもなく、オーディオも壊れた状態でよく乗ってたよ、ほんと。

7人乗りになって、車内が広い。一回り大きくなったので運転できるか一瞬不安だったが、問題なかった。バックするときにモニタで確認できるのだけれど、モニタをいまいち信頼できず、結局、自分で後ろを確認している。今まで乗っていた車は古くて結構目立っていたので、友だちにすぐに見つけられたのだが、今度の車はまず見つからないだろう。フツーの車なのでね。

2024/03/13 水曜日

ケアマネさんと電話。義母のデイサービスを現状の週4から週5に増やすべきということで意見はまとまったが、難題は義父の説得だ。義父には、同じ説明を(義母がデイサービスに行くことの必要性を)3万回ぐらいしているが、まったく理解していない。認知症が原因ということではなく(実際のところ彼は認知症ではない)、ただただ、夫婦というものについての考え方が特殊だということが理由。夫と妻は常に、24時間一緒にいなければならないというのだ。野鳥の暮らしかよ。

先日、義母に「毎日毎日、縛られるのって嫌じゃないですか?」と直球で聞いてみたら、「昔は嫌だったけれど、今は解放されたわ。お父さんとはもう何年も会ってないから」という返答で、溜飲が下がった。

2024/03/14 木曜日

翻訳するときに腕が疲れるので、美容室で貸してくれるお腹の前に置く肘用クッションを買って使ってみたら楽だった。しかし、多くのソファやら枕がそうであるように、ある程度使用して「育て」ないと、100%という感じにはならない。私の肘用クッションが育つ頃、一冊終わっているだろうか。

2024/03/15 金曜日

滋賀医科大学医学部附属病院心臓血管外科受診(定期検査)。私の日記を読むと、とにかく病院通いをしているイメージがあるかもしれないけれど、3月は特別なのだ(手術を受けた月だから)。一年ぶりの滋賀医科大学医学部附属病院。心臓エコー、心電図、レントゲンとフルコース。診察室に呼ばれると、なんと懐かしいK先生だった。入院中は何から何までお世話になって、一度お会いしたいと思っていたのだけれど、6年ぶりの再会でうれしかった。先生も覚えていて下さった。

痩せて下さいと言われました。OKでーす!

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。