ある翻訳家の取り憑かれた日常

第30回

2024/03/16-2024/03/31

2024年4月11日掲載

2024/03/16 土曜日

愛犬ハリー号がここしばらく末期癌闘病中だ。

発覚したのは2月。その時点で治療法はなく、余命3週間程度だと言われた。それでも、ハリーは今日の時点でも、歩き、食べている。琵琶湖で泳いで、枝を噛んでいる。

実はハリーにとって、生涯二度目の癌になる。一度目は4歳のときだった。どこにも書かなかったので、知っている人はわずかだと思う。その時は手術をしてなんとか切り抜けたと思っていたが、また捕まってしまった。再発を恐れ、動物病院にも頻繁に行っていた。悪性の腫瘍も経験したけれど、良性の腫瘍もとにかくよくできる子だった。

2024/03/17 日曜日

ハリーが薬(ステロイド、抗生剤など)を飲まない。フードに混ぜると上手にそれだけよけて食べている。好物の焼き芋、ヨーグルト、ゆで卵などは喜んで食べている。

突然、鼠径部に腫瘍が出現。進行がとても早いと、獣医さんがため息だ。点滴を打ってもらった。

2024/03/18 月曜日

ハリー、尿が漏れるようになる。鼠径部にできた腫瘍が膀胱を押しているのかもしれないと獣医さん。相変わらず、ハリーは穏やかだが、元気がないとも言える。ハリー、二度目の癌だなんて、激しい犬生だ。体格と同じでダイナミックというか、なんというか。この子は体格がよくて強いですからと、獣医さん。確かに、末期癌だというのに体は大きいままだ。体重が減らないね。

点滴。分子標的薬3回目。気休めだろうけれど……何もやらないよりはマシだ(人間のエゴ)。

2024/03/19 火曜日

なんとか薬は飲めた。ハリーは素直な犬だが頑固なところもあるので、食べ物に何かを混ぜられることに腹が立つようだ。薬を入れると、フードから顔を逸らして怒っている。仕方がないので、大好物のカステラで誤魔化して与える。口から薬だけ出す。獣医さんは、この子のためですから、なんとか飲ませてやって下さいと言う。
点滴と注射(飲まない分を注射で)。平然としている。

2024/03/20 水曜日

点滴&注射。

今日はドライフードを結構食べた。びっくり。薬も飲めていたのでまあ、いい感じだ。ハリー、頑張らなくていいんだよ、だって病気じゃないかと言うと、ぼんやりした顔で私を見ていた。昼寝していたら、ベッドの上に無理矢理乗ってきた。いつものハリーだ。ぎゅっと抱きしめると、いつも通りに鼻を鳴らす。

普通に暮らしているように見える。

2024/03/21 木曜日

点滴&注射。最後まで付き合うよ、大丈夫だよハリーと言うと、丸い目で私を見ていた。アザラシみたいな目で。分子標的薬4回目。なかなか飲まなくて、獣医さん大苦戦。

2024/03/22 金曜日

夕方、点滴&注射。血液検査の結果は悪くなかった。食欲が少し落ちてきたが、夜になって食べた。それでも、元気なときに比べたら、半分も食べていないんじゃないかなあ。家族四人で、ハリーを囲むようにして世話をしている。薬、飲まない。めちゃ拒否する。もう、飲まなくていいよと声をかける。仕方ないじゃん。もういいよ。

2024/03/23 土曜日

点滴&注射。食べない。薬飲まない。「この子が食べないなんて」と残念そうな獣医さん。

薬を拒否するのが大きな悩みだ。奇跡は信じないけれど、穏やかな死を。そんなの無理だろうか。ずっと一緒に過ごしてきた子どもたちが気の毒だ。とくに、次男はこの一年程度、自分の部屋にハリーを招き入れて毎晩一緒に寝ていたので、本当に落胆している。

2024/03/24 日曜日

点滴。薬を粉になるまですりつぶして、少量の練乳で練って口のなかに入れてみた。飲んだ。でも、嫌そうな顔して、フン! と声を出していた。少し痩せたかな。夜、発熱。

2024/03/25 月曜日

点滴。高熱が出た。食欲なし。

2024/03/26 火曜日

下痢と高熱。点滴。そろそろ厳しいかもしれない。車の乗り降りがきつくなってきた。新車はハリーとの旅行のために買ったのだが、ハリーの病院通いにフル稼働している。そういう運命を背負った新車なのか。もう頑張らなくていい。それにしても癌の威力がすごい。

2024/03/27 水曜日

点滴&注射。高熱。薬は拒否。食べ物も拒否。苦しんでいる様子はないが、ずっと寝ている(それでもしんどいことはわかる)。トイレは頑固に外まで行く。歩き方はしっかりしている。庭で立ってトイレを待っている私を何度も振り返るハリー。いいよ、ゆっくりしなよと言うと、いつものように少し頭を下げて、優雅に戻って来る。私の手前で必ず止まる。少し頭を下げる。さあ、撫でなさいとでも言っているようだ。面白いね、君は。

2024/03/28 木曜日

春めいてきた。今日、双子と一緒にハリーを湖に連れて行ったが、ハリーが車を降りることはなかった。落胆して、家に戻る。食欲はなし。もう体がギブアップしているのだと思う。長引かせたくない。しかし、ハリー、トイレは頑なに外! 

今週末がヤマだと往診に来てくれた獣医さん。ハリーはやっぱりいいやつで、この一ヶ月以上、ほぼ毎日会った(そして子犬の頃からずっとお世話になった)先生を見ると、ヨレヨレなのに耳を下げ、尻尾を振っていた。感謝の尻尾振り。末期癌の犬の、精一杯の気持ち。そして針を見るやいなや、逃げていた。大型犬は病気になると本当に早い……ということだった。往診に来て下さって、感謝。もう運ぶことができないもん。

薬を断固拒否するので、その代わりに注射で。ウンともスンとも言わずに打たれている。痛みに強い犬だ。

全力で何もしなくなったハリーは、俵みたいに重いよ。往診に来てくれた先生に、次男が大声で挨拶してた。彼なりの感謝だろうね。

ハリー、水をがぶがぶ飲んでいた。客観的に見ると、もう危ないのはわかっているが、顔は元気。まだしっかりしている。二週間前は琵琶湖で走っていた。

2024/03/29 金曜日

往診に来た獣医さんに、一緒にいてあげてくださいと言われる。表情はまだいい。驚くべきことに、そこまで痩せていない。パツパツのままだ。週末に琵琶湖行けるといいんだけどね。

2024/03/30 土曜日

点滴&注射。往診に来てくれた獣医さんに、楽にしてやって下さいと頼む。週明けからいろいろと先を考えましょうと言われる。週明けまでもつだろうか。カステラを食べる。

2024/03/31 日曜日

点滴&注射。往診に来てくれた獣医さんも悲しげな表情。じっと獣医さんを見つめるハリーの頭を撫で、手を振って帰られた。

夜中、どうしても外に行くと主張し、倒れながらも玄関に辿りついたハリー、そこで力尽きる。よく頑張った。体重も減らさず、最後まで強いハリーのままだった。苦しんで、鳴くこともなかった。子どもたちを起こして、ハリーが亡くなったよと告げた。

ハリー、眠っているような表情。大きな体。

死んでもなお、イケワン。

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。