対話がこわい 孤立もこわい~つながりすぎる時代の関係の哲学

この連載について

私たちは不器用だ。つながろうとしてつながりすぎる。誰かを求めているのに突き放す。自分を見せようとして演出しすぎる。気に入ってほしいのに嫌われる。優しい言葉をかけてもいいのに沈黙する。理解したいのに誤解する。笑顔にしようとして傷つける。だが、私たちの言葉には力がある。平凡な言葉も、磨き上げさえすれば見違えた力で日常を語りだす。本連載では、新しい時代のコミュニケーション論を構想し、来るべきカンバセーション・ピース(団欒の姿)を想像することにしたい。

第3回

ザラザラした世界との接触を求めて——『コルヌトピア』の触覚的接続から、『82年生まれ、キム・ジヨン』の憑依まで

2024年2月26日掲載

かつて、未来は有線だった

 美術批評家のボリス・グロイスは、私たちのつながり方について箴言めいた表現でこう言っている。

 今日われわれは第一にインターネットを通して世界との対話を実践する。もし世界に対して問いたければ、われわれはインターネット・ユーザーとして振る舞う。そしてもし世界がわれわれに問う質問に答えたいならば、コンテンツの提供者として振る舞う。両方の場合においてわれわれの対話の振る舞いは、インターネットの枠組みの中で問いが投げかけられ回答される方法と特定のルールに規定されている。[1]

 その上でグロイスは、Googleが提示するモードに注目し、それを論じていくのだが、私たちがここで注目したいのはそれではない。情報を得たり、何かとやりとりしたりするとき、私たちはインターネットに接続しているという彼の観察が確認できれば十分だ。

 SNSなどの存在を見落としているとはいえ、グロイスの観察は大筋で正しい。ただし、インターネットへの接続が「ワイヤレス」なものとして受け取られていることを彼は見落としている。今回注目したいのは、インターネットに接続するときの仕方、つまり無線的接続と有線的接続の違いについてである。

 私たちはワイヤレスなつながりに慣れきっている。周囲にあるのはワイヤレス接続ばかりなので、世界中のつながりが有線だったら、と私はたまに想像してしまう。記憶違いでなければ、SFの先端を走る想像力の担い手だった作家のロバート・ハインラインも、いくつかの小説でワイヤードな接続を描写している。かつて、未来は有線だった。それでも、ワイヤレスなつながりに慣れた私たちは、この有線のイメージを古めかしいと感じてしまう。私たちは、「見えないもの」でつながるべきであり、有線など馬鹿馬鹿しいと。

 しかし、有線は克服されるべき段階にすぎないのだろうか。無線的な接続に欠けているものについて考える上で、「見えるもの」を介した情報のやりとりを描いた作品が参考になるだろう。ここでとりあげたいのは、フロラという植物の情報技術が実現した世界を舞台とする、津久井五月の『コルヌトピア』だ。

 通り過ぎていくビルのほとんどは、深い奥行きのある造形正面外壁(ファサード)を持っており、そのところどころに、()()()が繁茂している。三、四メートルのトネリコ、少し小さいクチナシ、ヒイラギにキンモクセイ、クロマツ。それに、ビワやオリーブもある。樹木の足元には常緑の多年草がもこもこと数多く植えられ、遠目には種類は把握しきれない。今朝も演算に従事する思考植物たちを抱え込んだ通りに、啓示のように朝日が差し込んでくる。[2]

『コルヌトピア』の計算植物は、目に見えない「演算」を遂行しながらも、確かに目に見える仕方で私たちをつないでいる。

 さらに興味深いのは、フロラによる有線的な接続が触覚的な体験として描かれていることだ。

 階数の上に表示された時計が告げている。状況説明(ブリーフィング)まで、まだ少し余裕がある。

 エレベータの天井から吊り下げられたフロラに接続し、社内の動向を(うかが)う。今朝はいつもより感覚に飛び(グリッチ)が入っている。プチプチと触覚的なノイズが交じり、煩わしい。[3]

 フロラには植物の枝や茎、ツタ通して接続する。接続する様子についての詳しい描写はないが、フロラをプラグのように身体に触れさせることになるのだろう。

 フロラという植物的な情報技術を介して接続することは、接続を「感覚」することだ。だからこそ、「触覚的なノイズ」や「感覚」を味わうことが、つながりがもたらす第一の印象になっている。通信の遅れやノイズ、グリッチを触覚的に体験すること。有線的な接続の先にあるのは、触れる/触れられる感覚なのである。

触覚の特徴はどこにあるのか

 それでは、触覚とはどういう感覚なのか。神経科学者のデイヴィッド・リンデンは、一つの感覚が失われた状態を空想したというエピソードの後で、こう述べている。

 目が見えなくなったり耳が聞こえなくなったりというのはすぐに想像できるし(目や耳をふさいだ経験は誰にでもある)、味や匂いがなくなる状態も想像できるけれども、触覚を失った状態は想像しにくい。[4]

 触覚のない世界は想像できない。もちろん(部分的に)触覚が欠落している人はいるけれども[5]、すでに触覚を持っている人たちが、全面的に触覚を失うことがどのような体験なのかを想像することは難しい。

 触覚の消去を想像しづらいのは、それだけ触覚が私たちにとって身近なものだからだと言えるだろう。リンデンは、日常語を持ち出しながら触覚と情動の結びつきを強調することで、触覚の身近さについて説明している。

 気の利かない人のことを英語でtactlessと表現するが、これは文字通りtact(触覚)を欠いているという意味である。このように、英語の日常表現において触覚と気持ちは深く結びついている。

 英語において感情は、視覚や嗅覚を表すsightingsやsmellingsではなく、本来触覚を表すfeelingsという言葉で表現される。[6]

“feel”で辞書を引けば、「触れる」「触れて確かめる」「手探りする」といった触覚的な意味が第一義として掲げられている。情動と触覚の結びつきが深いという私たちの感覚は、確かに日常言語によく表れている。

 触れることと情動の結合は、必ずしも同種間でだけ成立するものではない。保護猫を引き取ったとき、私はケージの奥で縮こまる猫をひたすら撫でていた。そこでは、触れることによる情動的なコミュニケーションが生じていた。

 この猫はあまりに臆病だった。人がいるところでは、食事することも排泄することもできなかった。しおんを引き取ってから一ヵ月ほどは、猫が自分の時間を持てるように、猫から離れたキッチンの隅で音楽を聴きながら歌集を読んだり、特に必要もないのに外出したりしていた。時間が経って猫のいる部屋に戻ったとき、トイレを使用した形跡や、空になったお皿に気づくと、肩の力が抜けるほど安堵したのをよく覚えている。

 私のこわばりは私だけが生み出したものではなかった。猫はいつもケージの中で、はじめて水に飛び込んだ子どものように身体を小さく膨らませていた。言葉を使わずとも、その身ぶりや表情が生きた記号になって私に浸透してきた。その表情や肌に触れるなかで、猫のこわばりが転移してきたから、私はやけに気をもんでいたのだと思う。[7]

 鼻先で指をなぞり、頬を手の甲に擦りつけ、横たわった姿を撫でさせるとき、抜け毛はもちろん、唾液や汚れが付着するし、下手をすると私の体内に入ってくる。触れることには、エロティックで侵襲的な感覚が伴うのである。

 もちろん、親しい場合とそうでない場合で、それがエロティックな交わりなのか、危険を感じる侵入の体験なのかということは変わってくる。セックスの相手に唇を指先で触れられることが興奮や親愛の証になっても、信号待ちで見知らぬ人から同じことをされたら恐怖のトリガーになるように、近しい場合は特別な親愛の情が喚起されるだろうし、そうでない場合は反射的な嫌悪感がもたらされるだろう。

 以上の触覚の特性を踏まえれば、フロラのような有線的な接続の触覚性がもたらすものを説明し直すことができる。すなわち、フロラは、それを介してアクセスしている誰かや情報に対する(親愛や嫌悪感のような)情動を喚起する力がある。有線の触覚的接続は、交感的な親しみをもたらしたり、生理的な嫌悪をもたらしたりする。言い換えると、フロラの触覚的なグリッチやノイズは、蚊に刺されたり、猫にあまがみされたりするような、そういう直接的な煩わしさや親しさをもたらすものなのだ。

触覚と情報技術——「タッチパネル」から「ザラザラした世界」へ

 触れるというテーマは、西洋哲学史的にも興味深いものがある。まず注目すべきなのは、アリストテレスの触覚重視である。

 さて、触覚は、感覚のうちの第一のものとしてすべての動物にそなわる。栄養摂取能力が触覚からもまたすべての感覚からも切り離せるように、触覚も他の感覚から切り離すことができる(栄養摂取能力と私たちがいうのは、植物もあずかる心の部分である)。これに対し、明らかにすべての動物は触覚にあずかっている。[8]

 植物にも心があり、栄養摂取も心の能力であるとするのは、現代の私たちの直観とは異なっているものの、触覚を「第一のものとして」備わる感覚として重視していることは注目に値する。別の箇所でも、「明らかに動物は触覚がなくては存在することができない」と述べているように、触覚を幾分か特別なものとして扱っているように見える[9]

 アリストテレスの触覚論の詳細や妥当性は脇に置いておこう。ここで注目したいのは、彼の触覚への高い関心が継承されなかったことである。アリストテレスの知的遺産は、その後の西洋哲学の中核を占めるものとして継承されているのから、彼の触覚重視もまた受け継がれてもよかったはずだ。しかし、そうはならなかった。西洋哲学が用いてきた感覚のメタファーは主として視覚であり、様々な議論が視覚的に位置づけられてきた[10]

 だからこそ、思想家の東浩紀は、デジタル技術の中でも「タッチパネル」が革新的である、と力強く主張していた。触ればイメージが変化するタッチパネルの出現が、従来の映像論やメディア論、ひいては西洋哲学を支えてきた視覚的パラダイムを揺るがすものだと東は指摘し、その触覚性をピンチアウトやピンチインを例に説明した[11]

〔かつての写真は〕写真の縁をもって画像を覗きこむものだった。ところがいまはだれもが日常的に写真(スマホの画面)に触れ、大きさを変え、回転させ、加工し、ネットにアップロードしている。その変化は写真の表現や消費に決定的な影響を与えざるをえないし、実際に与えている。スマホの写真は、いまや、かつてカメラで撮られていた写真とは、同じ写真と呼ぶのがためらわれるほど異なった存在になっている。[12]

 触覚的なインタラクションで変化していくヴィジュアルイメージ。ここで言われている触覚性について、私たちはスマートフォンを通じて日常的に接しているので、理解の困難を感じることはさほどないだろう。

 東の指摘はもっともなのだが、タッチパネルの触覚性は、触覚としてかなり限定的なものではないだろうか。そのことを説明するために、タッチペンのようなものを使った入力装置である「スタイラス」を例に、美学者の吉岡洋が論じた「書く」行為についての議論を一瞥しておきたい。

 この行為〔=スタイラスを用いて書く〕を成り立たせているのは、たんに特定の軌跡を描いて筆記道具の先端を運動させることではない。書くという行為は何よりもまず、紙その他のもつ物理的な抵抗感や、その上を走る筆記具と紙面との間の摩擦を感じることなのである。書かれることによって紙は圧迫され、物理的に変形される。言い換えれば書くとは、「ザラザラした世界」(ウィトゲンシュタイン)と接触することなのである。[13]

 ペンや筆、白墨などで書くことは、紙などの書かれるものに物理的な痕跡を残すことであり、「書くことはリニアな時間の流れを記録すること」、「否応なく時間が堆積してゆく」ことであると吉岡は論じる[14]

 この議論には確かに単純化されたところがある。アップルペンシルを使っている人にはわかる通り、長らくタッチペンを使っているとペン先が摩耗する。書かれたもの(モニター)にどれだけ痕跡が残るかはさておき、書くもの(タッチペン)には痕跡が残っている。そのため、メディアに物理的な干渉が起こっていないわけではない。

 このことは改めて認識しておく必要があるものの、吉岡の指摘には重要なものがある。さきほどは、エロティシズムや侵襲性という言葉を使いながら論じていたが、吉岡の議論を踏まえるなら、触覚や接触は「痕跡」を残すものであり、だからこそ私たちの情動が喚起されると捉えることができる。紙や黒板などの旧来的な書くメディアは物理的な痕跡を残し続け、メディアそれ自体を摩耗させていく。しかし、つるつるとしたタッチパネルは可能な限り痕跡を消去しようとする装置だ。つまり、スタイラス/タッチパネルは、触覚的でありながら触覚を消去しようとしている技術なのだ。

 この延長で言うなら、接触的で有線的な接続をもたらすフロラは、私たちに具体的な「痕跡」を残す接続であると言えるだろう。吉岡の言う「ザラザラした世界」との接触は、グリッチやノイズを感覚しながらつながることにほかならない。接触を体感させ、情動を喚起し、痕跡を残す接続。グリッチやノイズを伴うザラザラした感触。そうしたつながりとは、一体どんなものなのだろうか。

憑依と「探偵ごっこ」

 身体でノイズやグリッチを感じる接続。ザラザラしたものとの、ワイヤードなつながり。そういう身体的で情動的な体感を表すメタファーとして、「憑依」は役に立つかもしれない。おあつらえ向きなことに、第一回にも取り上げた小説『82年生まれ、キム・ジヨン』には「憑依」のシーンがある。

 そのときだ。ジヨン氏の頬がさーっと赤くなったと思うと突然、まるでおばあさんのような、情のこもった表情になった。目もうるんでいるようだ。[15]

 この描写からわかる通り、憑依とは外側にある何かに直接触れる接続の体験であり、この憑依によってジヨンの人生が変質するほど強烈な痕跡が彼女に残った(もちろん、彼女を介して周囲にも痕跡は残った)[16]

 時代はワイヤレスな想像へと身をゆだねてしまったが、ハインラインのようなヴィジョナリーなSF作家が有線的な接続を描いていたのだから、こうした憑依のインターネットが到来する未来も確率的にはありえたのかもしれない。触覚的な感触や痕跡を尊重する接続が支配的になっていれば、ウェブ社会のコミュニケーションも今とは様子が違っていただろう。

 第二回では、こうした憑依的なイメージを別の仕方で取り上げていた。「探偵」と「心=謎」というモチーフを取り上げながら、心=謎を解こうとする人は、誰しも自分の心を巻き込みながら、謎=心をめぐって「探偵ごっこ」をするほかないと論じた[17]。こうした心を巻き込む推理法は、いわば、触覚的感触を伴う接続、つまりは「憑依」のことだったのである。

私たちを別物へと変えていく「ウムヴェルト」

 興味深いことに、『コルヌトピア』のフロラとの接続は、「〈角〉」や「ウムヴェルト」と呼ばれるインターフェイスを介して行われる。「二十センチメートルほどの長さの動物の角のような湾曲()(せん)形状をしたこの器具は、フロラの通信端末部と人間の脳の間で、電場を利用した通信を媒介する」[18]。ウムヴェルトは、フロラによる接続のかなめとなる道具なのだ。

 ウムヴェルト(Umwelt)は、ドイツ語で「環境」を意味している。人文学に通じた人は、この言葉を聞いて反射的に、生物学者のヤコブ・フォン・ユクスキュルを思い出すだろう。彼は、生き物が持っている固有の知覚能力を踏まえながら、その営みがなされる世界との相互作用を「環世界(Umwelt)」と呼んだ[19]。客観的な世界を想定し、それと生物がどう相互作用しているかと考えるのではなく、生物それぞれの知覚に応じた形で世界がどう立ち上がっているのかと考える議論だ。

 フロラのための憑依的な有線接続の装置が「ウムヴェルト」と名づけられたのは、こうした技術が知覚的拡張性をもたらすということを強調したかったからではないか。有線的な接続によって拡張する私たちの姿を、『コルヌトピア』は語りたかったのではないか。実際、『コルヌトピア』では、フロラを使うことで人間そのものが変質する可能性が示唆されている。

 フロラに接続したとき、特にレンダリングの安定するタイミングに生じる、不思議な時間の流れの感覚を思い出す。それは〈角〉〔=ウムヴェルト〕が生み出す単なる疑似感覚として片付けてしまうにはあまりにも、植生の総体が持ち得る感覚として、説得力がある。フロラ技術はもしかしたら、人間が森で生きる動物に近づいていく、あるいは戻っていく、その過程にあるものなのかもしれない。[20]

 知覚の拡張性は人間のあり方を左右しうる。つまり、自分の心=謎と共鳴する謎=心は、私たちの今後のあり方を左右している。何とどうやってつながるのかということが、私たちの性質を決めていく。言い換えるなら、何に触れるか、つまり、何に憑依されるのかということが、自分がどんな存在に「近づいていく、あるいは戻っていく」かに影響するのである。

 対話のこわさを、このボキャブラリーで再記述することもできる。私たちは、ザラザラした謎に出会い、その存在と触覚的に接続すると、グリッチやノイズが生じる。つまり、情動を掻き立てられるわけだ。グリッチが生じた分だけ、私たちの心には接続の痕跡が残る。痕跡は、私たちが何者かに憑依された証だ。口寄せで同じ霊を降ろし続ける巫女が、その霊からの影響を拭い去ることができないように、私たちは強く憑依されるごとに、別の何者かに近づいていく、あるいは戻っていく。

 私たちが恐れているのは、こうした「憑依」や自己変容の可能性が、本質的に対話に内在しているからだ。対話がこわい理由の一つは、対話への参加が憑依される可能性を含んでいるからだ。ザラザラしたものに触れることも、グリッチやノイズを体感することも、その結果としての自己変容も、必ずしも心地よいことだとは言えない。

 一度幽霊に憑依された人間が、これまで通りの生活を維持しえないように、鉛筆で書いたノートが完璧には元通りになりえないように、猫を撫でた手のひらに猫の毛やにおいが薄く付着するように、そして、会話で共鳴した他者が自分の中に住みつき、すっかり考え方が変わるように、人は触れることで変わる。対話には、しばしば身体的なグリッチやノイズの体験が伴う。そのとき何かに憑依され、知覚が再編成させられたなら、私たちは別の何者かへと近づいていく、あるいは戻っていく。そうした変化それ自体を目標に掲げられるほど、対話は牧歌的なものではないが、ザラザラした世界に触れることによる変化を排除した人生は、きっと退屈だろう。


[1] ボリス・グロイス, 河村彩訳『流れの中で:インターネット時代のアート』人文書院, 2021, p.181-182

[2] 津久井五月『コルヌトピア』早川書房, 2017, p.9-10

[3] 同書, p.10

[4] デイヴィッド・J・リンデン, 岩坂彰訳『触れることの科学:なぜ感じるのか どう感じるのか』河出文庫, 2019, p.13

[5] 痛みを認識できないとか、麻痺によって部分的に触覚を失うといったことはありうる。

[6] デイヴィッド・J・リンデン, 岩坂彰訳『触れることの科学:なぜ感じるのか どう感じるのか』河出文庫, 2019, p.15

[7] 谷川嘉浩「猫が舌を出すとき、手のひらには雪が降る」『群像』2023年6月号, p.482 同じ記事をウェブで読むことができる。https://gendai.media/articles/-/116073

[8] アリストテレス, 桑子敏雄訳『心とは何か』講談社学術文庫, 1999, p.78

[9] 同書, p.190

[10] サルトル哲学が、視覚的経験をベースに視覚以外の感覚を統合して「まなざし」から倫理を構築した視覚的倫理であるとみなし、身体接触や介助を含むような「距離ゼロの他者関係」について考える触覚的倫理を構築しようと伊藤亜紗は試みている。伊藤亜紗『手の倫理』講談社選書メチエ, 2020, p.30-33を参照。

[11] 東浩紀「観光客の哲学の余白に(9) 触視的平面の誕生|東浩紀」webゲンロンhttps://webgenron.com/articles/gb021_01

[12] 同上

[13] 吉岡洋「スタイルと情報:メディア論を越えて」, p.162-163, 山田忠彰・小田部胤久編『スタイルの詩学:倫理学と美学の交叉』ナカニシヤ出版, 2000所収 ウィトゲンシュタインは「大地」と言っているが、ここでは吉岡の表現に倣った。

[14] チョークや鉛筆で書いたものを黒板けしや消しゴムで消すことも可能だが、書いたものを消去した痕跡が残るだろうと吉岡は指摘している。

[15] チョ・ナムジュ, 斎藤真理子訳『82年生まれ、キム・ジヨン』ちくま文庫, 2023, p.17

[16] 『82年生まれ、キム・ジヨン』の憑依を、ムーダンという韓国の巫女文化と関連させる議論もある。伊東順子『韓国カルチャー:隣人の素顔と現在』集英社新書, 2022, p.14-18

[17] 谷川嘉浩「見つからなくても探す「探偵ごっこ」:心=謎をめぐる探偵小説として『わたしを離さないで』を読む」https://daiwa-log.com/magazine/tanigawa/tanigawa-taiwakowai02/

[18] 津久井五月『コルヌトピア』早川書房, 2017, p.41 フロラのネガティヴな侵入(侵襲性)を表現する一節も作中には登場する。「……彼の入院歴や地方での仕事が明らかにされると、論点は次第にフロラに関連した精神疾患や、拡大する地域格差へと移っていった。」(同書, p.173-174)

[19] ユクスキュル, クリサート, 日高敏隆・羽田節子訳『生物から見た世界』岩波文庫, 2005

[20] 津久井五月『コルヌトピア』早川書房, 2017, p.44

著者プロフィール
谷川嘉浩

1990年生まれ。京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。哲学だけでなく、社会学や文学、デザイン、ゲームなど多領域にわたって研究を行う。
著書に『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。共著に『読書会の教室』(晶文社)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、『〈京大発〉専門分野の越え方』(ナカニシヤ出版)などがある。