対話がこわい 孤立もこわい~つながりすぎる時代の関係の哲学

この連載について

私たちは不器用だ。つながろうとしてつながりすぎる。誰かを求めているのに突き放す。自分を見せようとして演出しすぎる。気に入ってほしいのに嫌われる。優しい言葉をかけてもいいのに沈黙する。理解したいのに誤解する。笑顔にしようとして傷つける。だが、私たちの言葉には力がある。平凡な言葉も、磨き上げさえすれば見違えた力で日常を語りだす。本連載では、新しい時代のコミュニケーション論を構想し、来るべきカンバセーション・ピース(団欒の姿)を想像することにしたい。

第2回

見つからなくても探す「探偵ごっこ」——心=謎をめぐる探偵小説として『わたしを離さないで』を読む

2024年1月15日掲載

探偵小説として『わたしを離さないで』を読む

 キャシーとトミーは、ヘールシャムという施設で生まれ育った。何らかの使命を持っている子どもが集められているが、それが何なのかを教えられず、触れられない、触れてはいけない秘密であるらしいということだけを了解しながら、彼らは自分の人生の物語を生きていく。ノーベル文学賞受賞作家、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』の話だ。

 キャシーとトミーは「知りたがり屋」で、「何かを見つけ、知ろうとした」[1]。この二人は、上記の謎をめぐって探偵のように立ち回るため、『わたしを離さないで』は、一種の探偵小説として読むこともできる。実際、この作品には見つからないものや遺失物を探すというモチーフが繰り返し出てくるし[2]、作中には「シャーロック・ホームズ本」への言及まである[3]

「探偵」という言葉も何度か登場する。「ポシブル」と呼ばれる自分の関係者を探していたとき、トミーは「ちょっとした探偵ごっこだったってことでいいじゃないか」と発言している[4]。また終盤では、張り込みや尾行、待ち伏せなどの探偵行為が登場するし、その文脈でキャシーはこう語っている。

「まるで探偵ごっこよ。前のときは、どっちも三十分以上すわってたのに、何も起こらずじまい。何にもよ。ゼロ。でも、今回は何かあるって、虫の知らせがあった」[5]

 もちろん、二人は冗談めかして自分を探偵に喩えているにすぎない。しかし、執拗に探偵というイメージと物語が結びつけられることに、何の意味もないと考えることも難しい。

 対話について考えるなら、まずは対話をこわがることから始めたい。前回の記事でそう語りながら、騒いでしまうくらいこわがる人の例としてトミーを引き合いに出した[6]。抱えきれずに騒いでしまうくらい、対話に不安を感じること。

 そのトミーが一種の探偵であり、『わたしを離さないで』を探偵小説として読むことができるのだとしたら、その読解から対話に関してどんな論点を引き出すことができるだろうか。いくらか先回りして言うなら、「謎」と「心(意識)」を等値するイメージを介して、なぜ「対話がこわい」との感覚が生じうるのかという問いが今回の課題である。言い換えれば、「推理=対話」を介して、「謎=心」を解読する「探偵=精神分析家」という視点を手に入れることだ。まず、キャシーとトミーの推理から見ていこう。

キャシー/トミーとポワロ、二種類の探偵

 何のためにヘールシャムという施設に集められて暮らしているのか。自分たちの使命は何なのか。その謎をめぐって、トミーは第二部の終盤で印象深い発言をしている。

「だから、当然、理解はできないんだけど、できないなりに少しは頭に残るだろ? その連続でさ、きっとおれたちの頭には、自分でもよく考えてみたことがない情報がいっぱい詰まってたんだよ」[7]

「自分たちは知っているはずのことに無自覚だ」ということに、トミーは注意を促している。この発想は、謎の解き方、つまり推理の方法を示すものだ。

 頭の中には自覚できる以上の情報があり、それが答えに結びついているはずだが、私たちはそれについてわざわざ考えてみることもなく、それゆえに答えに辿り着けない[8]。それをどうにかして自覚することができれば難事件を解決できる。ここにおいて、謎の解読がそのまま心の解読になり、心の解読がそのまま謎の解読になっている。つまり推理と対話が、謎解きと心の読解が、行為として区別できないのである。

 この説明を聞いた読者の頭には、ミステリの古典的名作のタイトルが思い浮かんだかもしれない。アガサ・クリスティーの『ABC殺人事件』のことだ。クリスティーが生んだ最も有名な探偵の一人、エルキュール・ポワロは、事件関係者の前でこう宣言している。

 わたしはこう仮定しています、みなさんのうちの一人——もしくは全員——が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()はずだ——と。

 遅かれ早かれ、お互いに話し合っているうちに、何かが光のあたるところへ浮上してきて、いまはまだ想像もできない意味をもちはじめるでしょう。[9]

 関係者が目撃していて、心のどこかで記憶しているはずなのに、特に気にしていないため意識に上ってこない一群の事実。それに気づくことができれば、事件の謎を解くことができるだろう。そうポワロは予言した。

「自分が知っているということに気づかないで何かを知っている」ことに注目する点で、ポワロの推理法はトミーのそれとまったく同じだ。『わたしを離さないで』の主人公たちは、名探偵と全く同じ推理の方法へと辿り着いている。だがそのことは、彼らが「名探偵」であることを、ポワロと同等の探偵であることを意味しない。そもそも、クリスティーとイシグロが同型の探偵を描くだろうか。同じであるはずもない。それなら、この違いがどこから生まれるのかを考える必要があるだろう。

認識の死角はなぜ生まれるのか

 キャシーとトミーは、名探偵のような鋭敏な推理を展開できたわけではない。むしろ、二人の推理はほとんど常に間違いを含んでいた[10]。この作品は、探偵的な好奇心を備えた二人の主人公が「探偵ごっこ」を続けた末に、自力では真相に辿り着けず、間違いのある推理を誰かに訂正されることで進んでいく物語だと言っても過言ではない。

 先の推理の方法を裏返したような仕方で、二人はいつも間違える。ある事情から難しい立場に置かれたルーシー先生のことを回想しているシーンを例にとろう。トミーは「なぜルーシー先生のことを、誰も心配しなかったんだろう」「変だな」と口にし、キャシーは、先生同士に意見の対立があるなど「思いもよらなかった」と返答した。

「でもさ、わかってもいい年齢だったと思わないか。わかって当然の年齢だったのに、わからなかった。哀れなルーシー先生のことを、これっぽちも考えなかった。君が先生を見かけたあのあとでさえな」

 トミーが何のことを言っているか、すぐにわかりました。わたしたちにとってヘールシャム最後の年、初夏のある朝、わたしは二十二番教室でルーシー先生を見かけました。思えば、トミーの言うとおりです。あのあと、ルーシー先生がどんな難しい立場にあったか、わたしたちにもわかって当然だったのです。でも、わたしたちは先生の立場に身を置くことができませんでした。先生を支えるために何かを言い、何かをすることなど、思いつきもしませんでした。[11]

 大切なことなのに、思いつくための素材はすでに頭の中にあったはずなのに、どうしても思いつかない。

 さきほどのトミーの発言は、「こういう状況なら答えを閃いていてもよかったはずだ(がそうならなかった)」という指摘にほかならない。この物言いから察することができるかもしれないが、「自分が知っているはずのことに無自覚なので、それをどうにか顕在化させる」という例の推理法を知っていながら、二人は、その推理方法を実践できたことはほとんどない。二人の会話では、ほとんど常に答えは認識の死角に落ち込んで、「思いもよらなかった」ものになってしまう。というより、自分の心の特性をよく知っていたから、先のような推理方法を思いつくことができたということかもしれない。

 こうした「死角」が生じる原因は、「忌避」にあるとキャシーは考えていた。「重く、深刻な問題であるとはっきり認識し」ているとき、答えにまともに直面することを「忌避」することがある[12]。これは、心に備わった作用の一つだ。出来事や教えを真正面から受け取っているときほど、かえってそれを避け、認識の死角へと追い込んでしまう。

「重大だからこそ忌避してしまう」との指摘は、明らかに「抑圧」のことを念頭に置いている。心の防衛機制の一つである「抑圧」のことだ。自分の不利や脅威に結びつくものを、意識から排除して無意識へと押しやり、忘れてしまう働きを私たちの心は備えている。彼らの推理の誤謬はここに由来する。だとすれば、この文脈で参照すべき理論家は、精神分析の生みの親、ジークムント・フロイトだろう。

名探偵は他者の「無意識」から真相を引き出す

 知っているはずのことなのに自分では把握できていない部分があるという発想は、フロイトの「無意識」を連想させるものだ。

フロイトにしたがえば、意識が聴き/理解し(entendre)損なうノイズを拾う能力が、無意識には本来備わっている。〔…〕意識的なコミュニケーションと並行的に、無意識的な情報処理がバックグラウンドで高速に行われている。[13]

 無意識には、意識が捉えられない細部も含めて、まるでカメラのように捉える働きがある。トミーは心のこうした特性に言及し、それを推理の方法に変えようとしていた。しかし、無意識の情報処理と意識の情報処理はシステム的に異なる。だから、無意識の情報をどう引き出すかということが重要な問題になる。

 心の謎に注目するという意味で、探偵と精神分析家は重なっている[14]。推理で謎に迫ることと、話し合いで人の心を理解しようとすることは並行関係にある。実際、この記事で扱う探偵たちは、当人が意識しない部分(=無意識)で起こっている心の働きを捉えることが、推理につながると考えている点で共通している。しかし、キャシー/トミーとポワロは、心との関わり方、つまり、無意識からの情報の引き出し方において対照的だ。

 エルキュール・ポワロの方から行こう。

 遅かれ早かれ、お互いに話し合っているうちに、何かが光のあたるところへ浮上してきて、いまはまだ想像もできない意味をもちはじめるでしょう。[15]

「想像もできない」「思いつきもしない」ことに気づくには、「話し合う」ほかない。対話へのストレートな誘いだ。

 名探偵ポワロは、関係者たちの無意識が記録している情報を、意識レベルの推理に扱うことのできる情報へと書き出すことで謎解きを行っており、その変換の作業は、精神分析家の対話にも似た「話し合い」の形をとっている。無意識から情報を読み解くスキルや観察眼を備え、客観的な真実を言い当てる権威者を自認して、ポワロは、謎解きや関係者との対話に臨んでいる。

 ポワロ的な探偵は心の性質に深い理解を持つ客観的な観察者を自認して、対話=謎解きに取り組み、情報を解釈する。言い換えると、第三者的な客観性を備えた上で、関係者が自覚できない情報を対話から引き出して解釈し、それを謎解きの帰結たる真相として当人たちに告げるのが自分の役割だと信じている。

 もちろん、ポワロだって心ある人間だから、実際には様々な心の動きが生じており、それが周囲の人物に影響を与えているし、逆に影響を受けることもある。しかし、名探偵はそれを認めることができない。彼らが自負する「客観性」は、自分の心が捉えたはずのノイズや揺れを無視することで成立するからだ。

 感情や感覚に左右されない状態を持つという自己認識によって、名探偵は自分を純粋な観察者にして解釈者の位置に置くことができている。彼らが自分の客観性を確信できるのは、心から無意識を祓って、純然たる意識だけを生きていると考えているからだ。つまり、謎=心の解読において、自分の心の中でうごめいている感情や感覚のことを彼らは考慮しない[16]。名探偵は、心の複雑な働きを悪魔祓いし、単純化したところに成立する知性なのである。

トミーは自分の心を巻き込みながら謎=心を解読する

 ポワロの客観主義的な心へのアプローチと比べて、キャシーとトミーはもっと状況に巻き込まれたスタイルをとっている。ほとんど常に間違い続けている二人が、かろうじて答えに近いものを直観した場面を取り上げよう。

「何を考えてる、キャス?」と言いました。

「昔のこと」とわたしは答えました。「ヘールシャムで、あなたがああいうふうに癇癪を起したでしょ? 当時は、なんで、と思ってた。どうしてあんなふうになるのかわからなくて。でもね、いまふと思ったの。ほんの思いつきだけど……。あの頃、あなたがあんなに(たけ)り狂ったのは、ひょっとして、心の奥底でもう知ってたんじゃないかと思って……」[17]

 意識的に自覚できないものをも、無意識(=心の奥底)は捉えているのだった。その無自覚な知覚内容から受けた衝撃や不安ゆえに、トミーは癇癪を起こしたのではないか。そして、あの癇癪は、当時の彼が謎=心の解読を成功させていたことの証なのではないか。キャシーはそう推理している。

 キャシーは、トミーが謎=心の解読にあたって、自分の心の働きを排除せずにいることに気づいている。謎=心を解読しようとするとき、解読している当の謎=心から、自分の心は影響を受けてしまう(その影響を自覚できるかどうかはさておき)。つまり、トミーの癇癪は、推理しようとしている謎=心に抱いた不安や戸惑い、怒りが表出したものだと言える。動揺や不安のような情緒には、心が無意識に推理した内容が含まれているのだから、トミーの癇癪は、症状の形になった推理の表出であるとまで言える。そこに現れた情報を読み解き、話し合えば、何らかの解釈に至ることも不可能ではないだろう。

 そうはいっても、癇癪や動揺は、推理らしく見えないかもしれない。少なくとも、ポワロのような堂々たる推理と比べると、落ち着きもないし心許ない。だが、キャシーとトミーは「探偵」なのではなく、「探偵ごっこ」をしていたにすぎない。それに、快刀乱麻を断つような完璧な解決はフィクションの中だけにしかないと言うべきだろう。だから、名探偵のような完全な謎=心の解読をもたらすことはできない。要するに、心=謎を解こうとする人は、誰しもキャシーやトミーのように振る舞うほかない。自分の心を巻き込みながら、謎=心をめぐって「探偵ごっこ」をするほかないのである[18]

見つからなくても探そうとする探偵ごっこ

 前回の記事では、「対話がこわい」というフレーズを繰り返した。そんな風に言われなくとも、多くの人はすでに人間関係の大変さをすでに知っているはずだ。しかしそういう人も、なぜ「対話がこわい」との感覚が生じうるのかという疑問に答えられはしないだろう。キャシーとトミーのやりとりからわかるのは、「私たちがコミュニケーションに疲れるのは、自分の心を巻き込んでいるからだ」ということである。心を使って対話し、誰かの心=謎を読み解こうとするとき、私たちは状況から切り離された「名探偵」ではいられない。感情をかき乱しながら、言葉や沈黙を交わす、泥臭い「探偵ごっこ」しかできない。言い換えると、私たちの心=謎の解読が、探偵ごっこの形をとらざるをえないから、対話=推理はこわいし、疲れるのだ。

 ポワロではない私たちは、探偵ごっこの中で正解を確信することができないということも言い添えておくべきだろう。そもそも、現実には予め解答集が用意されているわけではない。対話を通して心=謎を知ろうとしても、自分の思いつきが正解であることを保証しようがない(その意味で、キャシーとトミーが名探偵になれないのは、世界がそうあることを二人に強いているからだと言える)。キャシーとトミーのように、謎を抱え込み、間違っていても推理を続ける泥臭い探偵にしかなれない。

 他者の心=謎と向き合うことは、ひどく自分を疲れさせる。対話がこわいのは、そこに自分が巻き込まれているからだ。当たり障りのない会話はこわくない。そこに恐れるものは何もない。このことは逆から理解した方がいいかもしれない。何もこわがっていないのだとすれば、謎=心の解読に自分自身を巻き込んでいない、と。つまり、対話=推理に何ら痛痒を感じないとすれば、そのプロセスに自分の心を巻き込んでいないのだ、と。

 対話=推理に参加することは、自分の心を動かすことと区別できず、そのことを無視すべきではないと指摘してきた。だが、自分の心を巻き込みながら、心=謎を知ろうという試みは報われるとは限らない。ポワロが手に入れたような「真相」が手に入るとは言えないのである。そう考えると、推理=対話への参加が億劫に思えてくるが、『わたしを離さないで』を通して言えるのは、キャシーとトミーは心の謎に飛び込むことを止めなかったということだ。自分たちは絶対的な客観性を持たず、間違いだらけの「探偵ごっこ」をしているにすぎないと理解していても、二人は、「探偵ごっこ」を好んで続けている。それはなぜだろうか。

 二人で失せもの探しをしていたとき、キャシーは「探す場所が違うと思う」と口にした。その発言に対して、トミーが食い下がった。

「どうせここにいるんだからさ、探してみようぜ。君だって、できれば見つけたいんじゃないのか。見つからなくたって、もともとだし」[19]

 ポワロのような名探偵は、こんな風には考えない。「探す場所が違う」と思うなら、その場所では探さない[20]。「見つからなくたって、もともとだし」とも言わないはずだ。名探偵はそのように割り切れない。必ず自分が「正解」を手にしなければならないと考えている。それに対して、二人は、「どうせなら探そう」「見つからなくても探そう」と考えている。これは、ほとんど遊びのようでもあるし、祈りのようでもある。

 実際、何かを探す「探偵ごっこ」自体が至福の時間になるかもしれないと彼らは語っている[21]。その上、推理=対話から得た思いつきに、正解か間違っているかではなく、「面白い考えだ」「もしかしたら、そうかも」と、他愛ない反応を示すことの楽しさがあるとも示唆している[22]。状況に自分の心を巻き込んで推理する探偵ごっこは、報いが約束されたものではないし楽なものでもないが、少なくとも、楽しいものではある。探偵ごっこが楽しくないだなんてことがあるだろうか。私たちは、職業探偵として謎解きを求めているわけでも、名探偵を自認しているわけでもないのだから、割り切って楽しめばいい。探偵ごっこなら、見つからなくたって、もともとだし。


[1] カズオ・イシグロ, 土屋政雄訳『わたしを離さないで』ハヤカワepi文庫, 2008, p.434

[2] 遺失物置き場と忘れられた土地の両方を指す「ロストコーナー」という言葉は、探し物や探偵ごっこのモチーフと結びつきながら、イギリスの忘れられた土地である「ノーフォーク」を象徴する言葉として何度も登場する(同書, p.104-6およびpp.261-3)。

[3] 同書, p.107

[4] 同書, p.254

[5] 同書, p.371

[6] 「対話をこわがることから——『水中の哲学者たち』と『わたしを離さないで』の間で」https://daiwa-log.com/magazine/tanigawa/tanigawa-taiwakowai01/

[7] カズオ・イシグロ, 土屋政雄訳『わたしを離さないで』ハヤカワepi文庫, 2008, p.129

[8] この引用文の直前で、キャシーやトミーに、彼らの取り組んでいる謎の一部を暴露した保護官(先生)がした発言は、探偵視点に立っていないものの、実質的に同じ趣旨の内容だ。「雨樋からさらに水滴が垂れ落ち、先生の肩に当たりましたが、先生は気にもとめませんでした。『ほかに言う人がいないのなら、あえてわたしが言いましょう。あなた方は教わっているようで、実は教わっていません。それが問題です。〔…〕』」(同書, p.126-7)

[9] アガサ・クリスティー, 堀内静子訳『ABC殺人事件』ハヤカワ文庫, 2003, p.208-9

[10] カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』p.384-416が、関係者を前に(間違った)推理を披露する最後の場面に相当する。

[11] 同書, p.138-9

[12] 同書, p.138

[13] 東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』河出文庫, 2011, p.225-6

[14] 2004年に出版された、檜原まり子の『Dr.フロイトのカルテ』(講談社)は、フロイトを探偵役に配置した小説である。また、近年の注目すべき事例として、ゴールデングローブ賞やエミー賞を受賞したドラマ「エイリアニスト:NY殺人事件ファイル」(精神分析学が誕生した最初期の分析家が探偵役)、あおきえい監督で舞城王太郎脚本の「ID: INVADED」(深層心理にアクセスして連続殺人犯を追う話)がある。

[15] アガサ・クリスティー, 堀内静子訳『ABC殺人事件』ハヤカワ文庫, 2003, p.209

[16] この対立構図は、フロイト流の古典的精神分析と英米中心で展開されている関係論的精神分析の違いとしても位置づけられる。すなわち、患者を映すブランクスクリーンとなるべく精神分析家が逆転移感情を最大限に統制する前者と、精神分析家の逆転移感情を積極的に治療プロセスに組み込む後者の対比である。

[17] カズオ・イシグロ, 土屋政雄訳『わたしを離さないで』ハヤカワepi文庫, 2008, p.421

[18] だが、大抵の人は「探偵ごっこ」すらせずにいる。この作品において、キャシーとトミー以外のすべての生徒は、自分を取り巻く疑問や謎を忌避し、忘却してしまっていると示唆されている(同書, p.434)。

[19] 同書, p.263

[20] 同書, p.262

[21] 「小さな裏通りにトミーと一緒に立ち、これからテープ探しを始めようとしたあの瞬間、突然、世界の手触りが優しくなりました。一時間もの待ち時間に、あれ以上の過ごし方があったでしょうか。〔…〕トミーもまったく同じ気持ちだったと言っていました。わたしのなくしたテープを探しにいこうと決めた瞬間、突然、すべての雲が吹き払われ、あとに楽しさと笑いだけが残った、と。」(同書, p.264)

[22] 同書, p.421

著者プロフィール
谷川嘉浩

1990年生まれ。京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。哲学だけでなく、社会学や文学、デザイン、ゲームなど多領域にわたって研究を行う。
著書に『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。共著に『読書会の教室』(晶文社)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、『〈京大発〉専門分野の越え方』(ナカニシヤ出版)などがある。