対話がこわい 孤立もこわい~つながりすぎる時代の関係の哲学

この連載について

私たちは不器用だ。つながろうとしてつながりすぎる。誰かを求めているのに突き放す。自分を見せようとして演出しすぎる。気に入ってほしいのに嫌われる。優しい言葉をかけてもいいのに沈黙する。理解したいのに誤解する。笑顔にしようとして傷つける。だが、私たちの言葉には力がある。平凡な言葉も、磨き上げさえすれば見違えた力で日常を語りだす。本連載では、新しい時代のコミュニケーション論を構想し、来るべきカンバセーション・ピース(団欒の姿)を想像することにしたい。

第4回

〈いい子〉の心は屈折した寂しさで埋まっている——高瀬隼子『うるさいこの音の全部』と、言葉の問題

2024年4月30日掲載

「ウァー、わたしってやつは!?」

 哲学者ともなれば、日々の言動に細心の注意を払っていると思われがちだ。そう思ってもらえるのはありがたいことだが、舌禍や黒歴史はもちろんある。言わなくていいこと、しなくてもいいことをして、人を傷つけ、眠れない夜を過ごすこともある。トークショーや講演、ワークショップなどで人前に出て、かなり楽しんで話してはいるが、基本的には「こっち側」の人間なのだ[1]

 そういう身としては、作家の桜庭一樹が新聞でこう書いているのを見かけたとき、ひどく安心したものだ。

 どうしてあんなことを言ってしまったんだろう? 無神経な一言! ウァー、わたしってやつは!? わざと意地悪する人よりひどい。まったく、(のう)()()じゃなくて食べるほうの味噌でも入ってんじゃねぇのォォォ![2]

 言うべきことを言えず、言わなくていいことを言う。うまく伝えられず、言葉がこわばってしまう。何とか口にした言葉も、空々しく感じられる。「対話がこわい」というタイトルに惹かれたのだから、こういう不安に心当たりのある人が読んでいるのだろう。

 コミュニケーションの後悔や不安について考えるとき、しばしば『名探偵コナン』を思い出す。『コナン』の犯人の相当数が、何らかの誤解やすれ違いに由来する犯行動機で罪を犯している。犯人たちは、とんでもない殺人の計画をする割に、推理の過程で自分の動機が一種の勘違いから来ていると気づき、後悔しがちなのである。

 犯罪の準備はできるのに、コミュニケーションの準備ができていないなんて、説話じゃあるまいし。だが、犯人たちの甘さを笑い飛ばせるほど、私たちは健全なコミュニケーションをしているわけではない。というより、『コナン』の犯行動機の偏りには、この社会全体で共有されるコミュニケーションへの不安が反映されていると見た方がいい[3]

 一億総「ウァー、わたしってやつは!?」社会? 仮にそうだとして、私たちが「ウァー」と叫びたくなるのはなぜだろうか。今回は、その背後に「言葉に疎外される」という経験を見出しながら、その疎外が〈いい子〉というメンタリティに由来していると論じる。

 要するに、〈いい子〉であることの苦しさがどこから来るのかを考えるのが今回のテーマだ。そう聞くと、「〈いい子〉であることが悪さを引き起こすとはこれいかに」などと疑問が渦巻くに違いないが、コース料理をデザートから始めるわけにはいかない。順を追って話を進めていこう。

「言葉に疎外される」という形をとった、対話のこわさ

 あんな風に言わなければよかった。こう言うべきだった。これは、具体的な場面でのコミュニケーション不全に対して生まれる後悔だ。そして、こういう具体的な後悔が生まれるには、そういう内容を気に病む心性、つまり、コミュニケーションについての根深いが漠然とした不安があらかじめ心に巣食っている必要がある。コミュニケーションについての具体的な後悔は、この茫漠たる対話への不安を土台に生まれているのだ。

 言い換えると、連載のタイトルにある「対話がこわい」は、個別具体的な状況への恐れではなく、人と関わることへの漠然とした不安を指している。そして、その不安は、「自分の言葉に疎外される」経験として現れることがあるというのを示したのが、作家の高瀬隼子の小説『うるさいこの音の全部』である。この作品には、主人公の長井朝陽が、小説の執筆や日常会話において自分で選んだはずの言葉によそよそしさを感じるシーンが度々出てくる。まずはそこから。

 長井は、いつも自分の言葉を読み返すと呆然とする。「確かに書いた記憶があるし、自分の言葉だと感じる」けれども、なぜか自分に馴染まない。

 こんなふうに感じるのは、言葉を書き出した瞬間に、それを忘れていっているからだろうか。頭や心や手足に、書きたい話が詰まっていて、それらをなんとか小説の言葉にして指先からキーボードへ送り出し、真っ白だったワードの画面を徐々に黒く詰めていく。朝陽を出て行った言葉は、内にあった時と比べて若干ではあるけどよそよそしい。その若干が、ほんのすこしでっぱって引っかかって、はまらない。[4]

 書いているとき自分なりにベストだと思って選んだ言葉は、今となっては自分から遠い言葉に感じられる。消しても、書き直してもしっくりこない。自分で選んだのに、その言葉がよそよそしい。いわば、言語疎外が生じているのだ。

 執筆時だけでなく、日常会話でも言語疎外は起こる。長井朝陽は、職場の同僚との会話でも、口にした言葉と自分に渦巻く言葉のギャップに直面している。「仕事中もやっぱり、小説書きたいなって思うの?」と聞かれたとき、「広報課出向というのは建前で、人事面談かなにかなのだろうか」と疑いながら、彼女はこう答えた。

「仕事中は小説のことは全然考えないですね。頭の、全然別のところでそれぞれ独立している感じがあって、仕事中はある意味小説のことを忘れていますし、家に帰って、小説を書く時は〔職場である〕PALのことは思い出さないです」

 口頭ではそう答えながらも、「小説と仕事をそんなにはっきり分けられるわけがなくて、仕事をしながら頭の中で小説の続きを考えることなんてしょっちゅうある」と、心の中では考えている。「頭の中で二つのことはいつも行き来していて、でもそれを言わない方がいいんだろうということは分かっていた」。[5]

 口から出たのとは違う言葉が、自分の心に渦巻く。自分の話す言葉が相手の期待を先回りした作りごとだと、長井はいつも感じている。そういうとき、言葉は空回りし、上滑りし、転げまわって相手にも自分にも届かないのに、それを口にしたという事実だけが確定し、事実の重さが心に焦燥感を積もらせていく。そのどうしようもなさに、言語疎外という形をとった「対話のこわさ」の厄介さがある。

「言葉」と「心」の二分法、あるいはその問題点について

 私自身も、こういう言葉の不能感に身に覚えがある。学部時代、授業中に先輩たちが議論しているのを押し黙って見ていた。先輩たちや先生が、たまに気を使ってこちらに話題を振ってくれるのだが、口が思うように動かなかった。がんばって何かを言うのだけど、口にしたこと全部、嘘だと思う。そんなことが言いたかったわけではない。アホみたいなことを言ってしまった。足りない。見当違い。でも、言ったことは取り消せないからと、それを繕う言葉を口にして、かえって状況が悪くなる。

「これは私の話している言葉だが、私が言いたいのはそういうことではない」と感じるとき、言葉はすでに外側に出力されてしまっている。取り返しがつかないその言葉が、自分にはフィットしないどころか、何かトラブルを引き起こすこともある。その意味で、言語疎外の経験は、土くれの巨人「ゴーレム」の伝説を思い出させる。

 かつて、人は土くれに魔法をかけてゴーレムを作り出し、自分のために使役した。しかし、ゴーレムは、いつの間にか人のコントロールを離れて、主人やその周辺を蹂躙し、台無しにする[6]。それと同じように、人が自らのために口にしたはずの言葉は、上滑りして暴走し、いつのまにか言った自分やその周囲をめちゃくちゃにしてしまう。

 自分の思いや考えを離れて言葉が勝手に動き出すときほど、自分の言葉に親しみが持てなくなることはない。自分は自分の言葉の主人ではないし、自分の考えを適切に反映していないと感じる。そういう場合に、「自分の考えを純粋に伝えられたらいいのに」とノイズやグリッチのないコミュニケーションに憧れてしまうのは自然なことだ。

 言い換えると、言語疎外は次のような思考を誘発する。〈作り物である言葉は、ひとたび表に出れば暴走する危険がある。ノイズや誤解、その他の危険を引き起こしかねない。それと比べて、口にされる前の内面には、純粋なものが残されている。〉

 ここには、「言葉」と「心」の二分法がある。この二分法に訴えることで、言語疎外に陥っても、純粋な自分の本心は揺らがないと確信していられる。口にした言葉をどのように感じたとしても、あるいは、コミュニケーションに失敗したとしても、それはゴーレム(言葉)の問題であって、主人(心)の問題ではないからだ。言い換えると、コミュニケーション不全は「言葉」の問題、つまり表現の技術的な問題であって、自分の内側にある実感は無傷で安全なままでいられるのである[7]

 だが、この区別を維持する限り、言葉と心は交わることなくすれ違う平行線になってしまう。「言葉」と「本心」を峻別すると、両者が実体として互いに独立していることになるため、それらが重なって見えることがあっても、それはせいぜい偶然にすぎないことになる。時計の短針と長針がたまたま重なって見えることがしばしば生じるのと同じだ。言葉と心は交わらないのだから、言葉は空転する運命にある。

 そしてこのことは、内面を何とも交わらない孤立状態に追いやることに等しい。言葉を技術的な問題として切り捨て、口にしたものを「嘘」「作りごと」「偽物」だと感じる習慣は、心や真情を純粋なものとして守るどころか、心を突き放すことにほかならない[8]

〈いい子〉の没コミュニケーション

 ところで、作家の高瀬は、『うるさいこの音の全部』についてのインタビューで、長井朝陽の社交術について、こんな発言を残している。

——「言えばいいのに」ってことも、全然言わないですよね。

高瀬:そうなんです。お母さんから「お父さんの入院もネタにするんでしょ」と言われたら「ひどい、そんなことしないよ!」って軽く言い返せばいいだけなのに、言わない。言わないで、確かに内心でぐちぐちしている。ということはつまり、私の描く“いい子”の正体は没コミュニケーションなんじゃないか、と気づきました。[9]

〈いい子〉のコミュニケーションは、内側で渦巻くことを口にしない没接触に特徴があるというのである。これは対話やコミュニケーションについて考える私たちにとっても興味深い指摘だ。しかも、高瀬のこの見解は、別の〈いい子〉論との一致を見ている。

 動機づけの研究で知られる金間大介は、若者の傾向を〈いい子〉と形容しながら、「周りと仲良くでき、協調性がある」「学校や職場などでは横並びが基本」などと、その行動原則を列挙している。面白いのは、それに続けて、「5人で順番を決めるときは3番目か4番目を狙う」「人の意見はよく聞くけど、自分の意見は言わない」「授業や会議では後方で気配を消し、集団と化す」「オンラインでも気配を消し、集団と化す」といった特徴が並べられていることだ[10]

 これらの特徴は、〈いい子〉の二面性をはっきり示している。一方で、〈いい子〉は、コミュニケーションを表面上は円滑に進めるために、穏やかで障りのない話をする「協調性」がある。他方で、〈いい子〉は、他者に受け入れられない可能性のある自己主張や感情表現はあえて口に出さず、自分の内側に留めがちであるという「消極性」もある。

 一線を引いて踏み込まないし、踏み込ませないという表面性において、これらは共通している。別の仕方で言えば、いずれのコミュニケーション戦略も、他者との感情的接触や心的な交錯、否定や注目を避け、余計なトラブルを避けるという狙いを持っているのだ。

一線を引く〈いい子〉の「ぐちぐちしている」内面

 そう聞けば、〈いい子〉コミュニケーションのじれったさを批判したくなるかもしれない。一線を引いて踏み込むのを避けていたら深い関係なんてできないよ、だとか。その助言も老婆心も全く適切なものなのだが、あまり〈いい子〉を他人事化しない方がいいと思う。私たち自身も、おそらくは〈いい子〉の一人だからだ。同じインタビューで高瀬は、こう問いかけている。「思っていることは言えばいいし、対話もしたほうがいい。頭でそれはわかっているけど、現実でみんなそんなことしているだろうか」[11]

 ハラスメントやコンプライアンスの対策として研修や書籍で語られていることを見る限り、こうした〈いい子〉的なコミュニケーションは広く普及しているし、公認されてすらいると言えるだろう。ベル・フックスが主として大学教育を念頭に置きながら指摘しているように、立ち入らない・変化を避けるなどの傾向は、教育現場にしっかり根付いている[12]。〈いい子〉的表面性は、特定の場面に限定された問題ではない。

 思ったことを言わずに済ませる方が無難で、今後の関係にも支障がないし、浮かないし、問題も衝突も起きない。〈いい子〉は、決して余計なことをしない。もちろん、そうした「やさしい」表面を通り過ぎると、「ぐちぐちしている」内面が、見かけの言葉からは窺い知れない純粋な本心がうごめいている。

心の内にある真情をそのまま伝える言葉はあるか

 要するに、「うわべの言葉」と「本当の内面」の二分法の行き着く先に、〈いい子〉的なメンタリティがある。そして、この社会的性格の背後には、「心の内にある真情をそのまま伝えたい」という欲望が隠れている。自分が内心に秘めた本当の感情や本当の考えを、ノイズを交えず、作りごとにせず、直接伝えたいという欲望である。

 その例証になると思われるのは、中高生の多くが好んで読んでいる物語の類型の一つに「真情爆発」があるという、ライターの飯田一史による指摘である。「真情爆発」とは、秘めたる思いや溜めに溜めた感情がクライマックスで吐露され、登場人物同士がドラマティックな感情の交錯を遂げるという物語展開のパターンを指す。〈いい子〉である若者たちには、「エモい本音のぶつけ合い」が現実にはないからこそ、物語上では需要が高まっているのではないかと飯田は推定している[13]

「心の内にある真情をそのまま伝えたい」という欲望は、言葉を「世界(他者)」と「私」の間にあるスクリーンやレンズとして捉える発想を前提している。思いを適切な言葉で媒介させれば、自分の心を他者に余すところなく伝えられるはずだという言語観である。しかし、ウンベルト・エーコが「完全言語」をめぐる西洋社会の探求を振り返りながら論じているように、あらゆる誤解や不備なしに余すところなく表現する言葉、つまり完全言語は存在しない[14]

 問題なのは、「心」と「言葉」の二分法を堅持している〈いい子〉は、それらを橋渡しするものとして完全言語の実在を期待せざるをえないことだ。〈いい子〉は叶いようもないことを希求しているがゆえに、挫折を経験せざるをえない。その挫折も相まって、自分の言葉が偽物で、作りごとで、うわべだけのことだと感じてしまうのである。

言語は世界と私をつなぐ媒介ではない

 哲学者のドナルド・デイヴィッドソンは、「言語を通して見るということ(Seeing Through Language)」という論文で、言語は世界と私の間にある媒介などではないと指摘している。

 われわれは言語を通して世界を見ない。それは目を通して世界を見ないのと同じである。われわれは、目()()()()(through)ではなく、目()(with)世界を見るのである。われわれは指を通して物体を感じたり、耳を通して物音を聞いたりしない。たしかにわれわれは、ある意味では、目によって(through)——つまり目をもっているおかげで——見ているのだと言うことができる。同様にわれわれは言語をもつことによって(through)日々の生活をこなしている。そのためこの論文の題名にも比喩的()()()()意味がある。目や耳をもつことと、言語をもつこととのあいだには、正当なアナロジーがある。つまりそれらの三つはいずれも、それでもってわれわれが環境に直接的に接触するための器官(機関)である。それらは仲介者でも、映像スクリーンでも、媒体でも、窓でもない。[15]

 少し難しいかもしれないが、「器官」という表現に注目すれば、言いたいことはすぐにわかる。

 人は目を「媒介して」見ているのでも、耳を「通して」聴いているのでもない。人は、目でしか見られないし、耳でしか聴けない。見る/聴くということは、そもそもそれらの器官なくしては成立しないし、目/耳でない何かから視覚/聴覚情報を得ることはない。当たり前のことのように思われるかもしれないが、デイヴィッドソンは、私たちにとって「言語」もこれと同じだと言っているのである。人は、言語なくして世界を経験し、世界と触れ合うことはできない。

 何らかの媒介ではなく、それなくしては世界との接触が成立しない、感覚器官のようなものだというデイヴィッドソンの見方からすると、〈いい子〉が完全言語を希求するのは、誤った言語観に基づいているからだ、ということになる。心と言葉の二分法は、そもそも考えのスタート地点がおかしい。だとすれば、どうせうまく伝わらないからと、抱えている気持ちや考えを試しに口にすることなく、「内心でぐちぐちしている」〈いい子〉の悩みは、見当違いな悩みにすぎないのだろうか。

 それはそうだろう。しかし、この「ぐちぐち」した感じを、簡単に切り捨ててよいことにはならない。見当違いな悩みの中にも、考えるに値する何かが隠れているかもしれないからだ。

言語ゲームを共有している実感が崩れるとき

 デイヴィッドソンの考えを復習しておこう。彼は、媒介として言語を捉える(誤った)言語観を、一つか複数契約する電力会社のような「ある種の公共的な存在者」に喩えている。

 だがそのように考えるとき、われわれは、人々が作り出す音声や記号、およびそれらに伴われる慣習や予期から切り離して言語なるものは存在しない、ということを忘れている。他の人たちと「言語を共有する」とは、結局のところ、その人たちが何を言っているのかを理解し、彼らとほぼ同じ仕方で話すことなのである。そこに付け加えるべき共有の存在者は、私があなたの話に耳を貸すのに必要な「耳」以外、何もない。[16]

 人は言葉で世界に触れ、言葉で世界を見て、言葉で世界を聞いている。言語は、私たちがこうして世界を経験するのを成立させる条件のようなものだ。目や耳や指先のように、それなくしては世界にこうして接することができない。

 自分の言葉がこわばって、うまく像を結べずに相手にも自分にも届かなくて悶え苦しむような、あの言語疎外の経験は、確かに見当違いな悩み方をしているのかもしれないが、その恐怖の原因は、デイヴィッドソンの説明の中に占めるべき位置を持っている。「言語を共有する」というテーマである。

 デイヴィッドソンによると、言語を他者と共有するとは、互いに言っていることが理解し、同じように話せるということを指している。〈いい子〉は、当然ながら、他者と言語を共有できている。例えば、長井朝陽は、普通に読むことができる小説を書いているし、その内言や思考も十分に理解できる。彼女の実際の対話にも、何かおかしいところはない。彼女による対話の拒絶や不安、個々の誤解すらも、十分に理解できる。〈いい子〉は、言葉に疎外されていると感じているかもしれないが、確かに他者と同じ言語を共有している。

 だが、悲劇的なことに、言葉と心の二分法を採用しているがゆえに、〈いい子〉には「自分が他者と言語を共有している」という実感だけはない。同じ言語を他者と共有しているからこそ、理解や誤解が成立しているにもかかわらず、自分の内心だけはそれに乗れていない感じがする。言語疎外は、他者と同じ言語を共有しているはずなのに、自分だけが間違った言語で話していると感じる——他者と同じ言語を共有していると感じられない——というトラブルのことなのだ。

〈いい子〉の孤立した内面は、屈折した寂しさで埋まっている

 理論や見解は、自分を首尾一貫したものに整えることを手助けしてくれる。とすれば、心と言葉の二分法に立ち、(完全言語を期待しつつ)選択可能な「媒介」や「レンズ」として言語を捉える誤った見方を採用することは、自分をこわばった仕方で整えることに力を貸すことに等しい。コミュニケーションにおける挫折感や後悔(ウァー)が、「自分は他者と言語を共有している」という感覚を追い出してしまう。

 言語を他者と共有しているとしても、その実感がなければ、コミュニケーションへの違和感は広がるばかりだ。自分は異質だと思って自分の言動を振り返れば、支離滅裂で嘘八百で軽佻浮薄な言葉と行動の羅列に見えてくる。そうすると言葉がこわばって、ますますコミュニケーションがうまくいかなくなる。本当の気持ちや考えは内側にあるのに、それを言葉にしようとすると必ず失敗すると感じる。

 だからこそ、「自分から話しかけるのは苦手なんですけど、なんでも言ってください」「いつでも話しかけてください」と自己紹介するように、わずかな積極性を装いながら、実質的には受け身でいる自分を維持する[17]。言葉に疎外されたり、対立や誤解に直面したりして「対話がこわい」と感じなければいけないくらいなら、踏み込まずに一線を引いて安全な場所にいればいい。

 そんな風に考えることで、心と言葉の二分法から出られなくなり、〈いい子〉の内面はますます孤立する。寂しいときは、心と言葉を交差させようと無理ある努力をするほかないが、心が孤立に慣れ、言葉と相互作用しないことが日常になると——いわば「心が死んだ」状態になると——、心は誰にもアクセスできず、誰にも見せられないところに隠れてしまう。だからこそ、物語のようなエモい本音のやりとりに触れるたび、憧れは増幅する。〈いい子〉の内面は、屈折した寂しさで埋まっている。


[1] 2022年から2024年にかけて、日本テレビの番組「午前0時の森」の火曜枠に「おかえり、こっち側の集い」という番組があった(MCは若林正恭と水卜麻美)。コミュニケーションに臆病で余計な悩みを抱えがちな人のことを「こっち側」と呼称し、それに該当する意識を持っている人たちが語り合う番組。歌手や芸人など、人前に出る仕事をする人たちの中にも、それなりにいることを実感させる内容だった。

[2] 桜庭一樹「よりよい自分を願う旅 ライマン・フランク・ボーム「オズの魔法使い」」 https://book.asahi.com/article/11581150 コミュニケーションの不安や後悔で眠れない夜、桜庭は、『オズの魔法使い』を本棚から読み返す習慣があるそうだ。『オズの魔法使い』の冒頭では、少女ドロシーと飼い犬のトトが、家ごと竜巻に巻き込まれたと思ったら、いつのまにか異世界転移している。1900年にライマン・フランク・ボームが刊行した本だが、「小説家になろう」や「カクヨム」などでストーリーテリングの一つの様式として定着している「異世界系」を思わせる導入なのが面白い。

[3] 批評家のさやわかが、下記の書籍でコナンに登場する犯人の殺人動機についての調査をしている。さやわか『名探偵コナンと平成』コアマガジン, 2019

[4] 高瀬隼子『うるさいこの音の全部』文藝春秋, 2023, p.123 引用箇所は、長井朝陽の内言に相当している。

[5] 同書, p.97-98

[6] 水嶋一憲・ケイン樹里安・妹尾麻美・山本泰三編著『プラットフォーム資本主義を解読する』ナカニシヤ出版, 2023, p.105-106

[7] 口にしたことの一切が嘘で、口にされない内言や思考がすべて本当だという二分法には無理がある。内言や思考も言葉の産物であるにもかかわらず、それが音声になった途端に嘘と認定されるのは奇妙だし不合理だ。

[8] 長井朝陽が、実際に「嘘を語っている」「作り話をしている」かどうか作中でははっきりしないことには注意が必要である。彼女が語ったことに本当が混じったり、元々本当だったと示唆されたり、本当になってしまったり、本当だということにされたり、嘘だと指摘されたり、周囲が彼女の嘘に無関心だったり、彼女の本当と嘘の区別に無頓着だったりする。彼女が嘘だと感じている言葉が、嘘と本当のどちらでもありうるような形で読めるようになっているのだ。そうしたレトリックは、主人公が実感を込めて「嘘だ」と自分の言葉に吐き捨てる台詞すらも、軽薄に響かせるという効果を生み出している。痛切な思いがあることがわかるのに、全体としてとても軽薄に聞こえる。

[9] 「『想像で書いたのに、結果的に自分が似た境遇になってしまった』——新作小説『うるさいこの音の全部』で作家デビューの舞台裏を描いた思いとは? 芥川賞作家・高瀬隼子さんインタビュー」ダ・ヴィンチWeb https://ddnavi.com/interview/1198634/

[10] 金間大介『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』東洋経済新報社, 2022 p.22-23

[11] 「『想像で書いたのに、結果的に自分が似た境遇になってしまった』」ダ・ヴィンチWeb https://ddnavi.com/interview/1198634/

[12] ベル・フックス, 里見実監訳『学ぶことは、とびこえること:自由のためのフェミニズム教育』ちくま学芸文庫, 2023

[13] 飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ:中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか』平凡社新書, 2023, pp.82-86

[14] ウンベルト・エーコ, 上村忠男訳・廣石正和訳『完全言語の探求』平凡社ライブラリー, 2011

[15] ドナルド・デイヴィドソン, 柏端達也・立花幸司・荒磯敏文・尾形まり花・成瀬尚志訳『真理・言語・歴史』春秋社, 2010, p.207-208 訳者による挿入を一部削除した。なお、Davidsonの表記は、本文では「デイヴィッドソン」に統一している。

[16] 同書 p.208

[17] 「あなたのまわりにも?一見優秀だが実は主体性がない「いい子症候群」の若者たち」現代ビジネス https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95783 これは本文中でも参照した金間大介へのインタビューから成る2022年の記事だが、社会学者の石田光規によると、「友人と深く関わろうとせず、互いに傷つけ合わずに、場を円滑にやり過ごすことに重きを置く友人関係」になっているとの指摘は、1989年以来ずっと存在しているようだ。石田光規『友人の社会史:私たちにとって「親友」とはどのような存在だったのか』晃洋書房, 2021, pp.9-10

著者プロフィール
谷川嘉浩

1990年生まれ。京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。哲学だけでなく、社会学や文学、デザイン、ゲームなど多領域にわたって研究を行う。
著書に『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。共著に『読書会の教室』(晶文社)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、『〈京大発〉専門分野の越え方』(ナカニシヤ出版)などがある。