対話がこわい 孤立もこわい~つながりすぎる時代の関係の哲学

この連載について

私たちは不器用だ。つながろうとしてつながりすぎる。誰かを求めているのに突き放す。自分を見せようとして演出しすぎる。気に入ってほしいのに嫌われる。優しい言葉をかけてもいいのに沈黙する。理解したいのに誤解する。笑顔にしようとして傷つける。だが、私たちの言葉には力がある。平凡な言葉も、磨き上げさえすれば見違えた力で日常を語りだす。本連載では、新しい時代のコミュニケーション論を構想し、来るべきカンバセーション・ピース(団欒の姿)を想像することにしたい。

第5回

自分の趣味とは別に、「社交のための趣味」を持つ時代に——義務としての社交から、無為な待機へ

2024年9月30日掲載

「ロボットとポケモンカードで遊びたい」という子ども

 こないだ面白い話を聞いた。小学生にドラえもんのようなコンパニオンロボット(お友だちロボット)がいたとすれば、何をしてもらいたいかと質問すると、数人の子どもが「ポケモンカードで遊ぶ」と答えたという話。この回答が面白いのは、ポケモンカードの遊び相手として「学校の友だち」が積極的に選ばれていないところにある。

 この小学生たちは、学校の友だちと何をするのだろうか。その友だちに通じる趣味や遊びの話をするはずだ。学校の友だちとの社交が公的な領域に属しており、自分個人の趣味は私的な問題なので、それらは交わらないものだという感覚があるのかもしれない。

 この構図の下では、友だちを通じない話に付き合わせるわけにはいかないとの考えが生まれるのも仕方がない。学校には色々な好みや趣味を持った友だちがおり、自分の趣味のトライブを超えてしまっている。だから、個人的な趣味に付き合わせるのは、多様な関心や趣味の人がいる「学校の友だち」ではなく、「ロボットの友だち」辺りがちょうどいいということなのだろう。詳細は私が補っているので、ちょっと変質しているかもしれないが、大体こういうエピソードだった[1]

「通じない趣味の話を聞いてもらうとか、友だちにも好きになってもらうという選択肢もあるのでは?」とか、色々な感想が思い浮かびはするものの、「社交のための趣味」と「個人的な趣味」に分裂していることそのものには不思議なほどの納得感があった。というのも、年齢を問わずそういうところは人間にはあるからだ。

社交と趣味とアルゴリズム

 こうした趣味への二元的なスタンスは、前回論じた「言葉」と「心」を分割する〈いい子〉のメンタリティが、趣味という文脈で顔を出したものだと言えるかもしれない。

〈いい子〉は、コミュニケーションを表面上は円滑に進めるために、穏やかで障りのない話をする「協調性」がある。他方で、〈いい子〉は、他者に受け入れられない可能性のある自己主張や感情表現はあえて口に出さず、自分の内側に留めがちであるという「消極性」もある。[2]

 自分の思い入れある個人的な趣味が、学校や職場などの共同体に受け入れられなければ、心が傷つくかもしれない。他方で、他愛ない会話のテーマを欲してはいる。そういうとき、世間的に受けているものや、自分の所属する共同体で流行している多数派的なコンテンツをコミュニケーションのために鑑賞し、話のネタにすることは確かにある。

「社交のための趣味」といっても難しい話ではない。話題はアルゴリズムが与えてくれる。何について話せばいいか、何を視聴すればいいかということは、ある程度はアルゴリズムのレコメンド機能が教えてくれる。友だちと似たような嗜好の動画を観て、似たタイプの人をフォローしておけば、似たやつがサジェストされるし、バズっているコンテンツをチェックしておけば問題ない。

 ここまで社交に全力を投じなくとも、「『佐久間宣行のNOBROCK TV』の新しい動画更新されたな、追いつかないと」とか、「よく話題になるから、Netflixの『地面師』観ておこう」みたいな考えは別段珍しいものではない。誰かが盛り上って話している輪に入りたいと思うのは自然な心の動きは自然なものであり、上のエピソードを小学生の例外的な話題として聞く必要はない。

「本来届けたい相手」以外からの反応を避けるコミュニケーション

 最初に、社会学者の鈴木謙介が若者のコミュニケーション実践について語っていることに注目したい。

 SNSでは、自分が本来届けたい相手とは別の人から反応が来ることがあり、関係の混在が多々起きます。若者はその迷惑さを痛感している。だからこそ場に合わない人、例えばキャラに合わない人をハロウィンに連れて行きたくない。[3]

 鈴木の話題は、アカウント分割論へと向かっていくのだが、それは後に扱うことにしたい。より重要なのは最初の部分だ。鈴木は序盤で、「自分が本来届けたい相手とは別の人から反応が来る」ことを避けたいというニーズの広がりを示唆している。

 誰かに叩かれたり、不用意な言葉を投げられたり、文脈のわかっていないフレーズを聞かれたり、検索すればわかることを言われたり、ほかの人がすでにコメントしたのと同じ内容を重ねて言ってきたりする。部外者からの、文脈の混線したコメントが(時に大量に)集まる可能性がいつでもありうるのが、SNSの実情だ。

 マーケッターの天野彬は、動画や画像によって個人の趣味を表現するSNSでは、「言葉よりもビジュアルが中心のコミュニケーションとなるため、SNSでありがちな言い争い、それに起因する炎上などが起きにくい」と指摘している[4]。しかし実際には、天野が典型例として念頭に置いていると思われる、YouTube、TikTok、Instagramなどのプラットフォームには大量の活字が渦巻いている(概要欄はもちろん、動画や画像の中に文字がないことの方が珍しい)し、コメント欄が炎上することも度々ある。それゆえ、本来届けたい相手とは別の人からの想定しない(多数の)反応によって、作品鑑賞やコミュニケーションが毀損される事態は、SNSのプラットフォームを問わず頻繁に生じる[5]

 こうしたコメントのスクラムや、炎上状態、傷つきやノイズの可能性を避けるために、現代人は二つのテクニックを発達させてきた。それが〈関係のスクリーニング〉と、〈話題のスクリーニング〉である。以下ではそれらを検討していくことで、二つの疑問に答えることにしよう。

「引き算」の人間関係とアカウント分け——〈関係のスクリーニング〉について

 SNSが普及すると、可視化されたつながりと実際の人間関係が対応を示し始めた。というのも、SNSは人間関係をカタログ的に可視化するツールであり、(鍵アカウントなどでなければ)他のアカウントが誰をフォローしているかを知ることができるからだ。それが常態化すると、「友人とSNSでつながっている」ではなく、「SNSでつながっている人が友人」になる[6]。この転倒は、SNSを友人関係のマネジメントツールにした。つまり、SNSによる〈関係のスクリーニング〉が現実的な選択肢になったのである。

〈関係のスクリーニング〉という言葉で、単なる選り好みを意味しているわけではない。把握しきれないほど多数の人とざっくりつながり、しかるのちに関係性を構築していくという手順のことである。言い換えると、リアルとネットをリンクさせて管理できなくなるほど、友人候補の数を最初に増やしておき、次第に数を減らしていくという選別。

 鈴木謙介は、その手順を算術に喩えて説明している。

というのも、今の若者の人間関係は「引き算」。昔は、仲良くなってから連絡先を渡す「足し算」の関係構築でしたが、今は、最初にLINEなどで連絡先を聞いて、そこから本当に仲良くなっていいか判断する形です。ツイッターアカウントの複数持ちも、行動範囲や趣味で関係性をスクリーニングするためですね。[7]

 薄く広くつながっておいて、深く濃くやりとりする人を場面に応じて選んでいく。今や友情には順序があり、予めネットでつながって、その後で選び抜いていくという形で成立する[8]

 時代に応じたSNSや使用法に置き換わりながら、ざっとつながった後に本格的な人間関係を作るという手順そのものは今なお根付いている。大学入学前後には、「#春から〇〇大生」などのハッシュタグが各種のSNSで出回り始める[9]。新入生たちは、入学時点で話し相手がいないような状態にならないように、そして必要な情報を仕入れたり相談したりする相手を見つけられるように、とりあえず相互フォロー状態を作っておく。相手が同じ大学、同じ学部、同じサークルの人らしいとわかれば、相手が誰かは気にせずに薄く広くつながっておく。しかるのちに、関係を構築し直す。

 量的に接点を持っている初期の関係性では、スマホ(ネット)と対面(リアル)の対応関係が曖昧であるのに対して、「しかるのち」の関係性では、スマホと対面が厳密に対応している。前半では、スマホでつながっているからといって、その人の顔や人柄、名前などを把握できているわけではない[10]。ただ単に「友だち」としてつながり、フォローし合っているだけのことだ。しかし後半では、趣味の違いや行動範囲、親密性などによって関係性をスクリーニングされる。より多様な連絡手段でつながったり、一般には非公開の内輪的なコミュニケーションツールでつながったりする濃密な関係性が控えているのだ。

 特定の話題や趣味、行動範囲に応じて作成されたアカウントを持ち、関係に応じてつながり方を変えることは珍しくない。私自身そうだ。X(旧Twitter)やInstagram、Facebook辺りを主に使用している。本名のアカウントもあれば、適当な名前がついたものもある。SNSでつながっても、メディアの特性ごとにつながる関係性や話題も微妙に違うし、フォローを返すかどうか、そもそもアカウントをオープンにしているかどうかも違っている。Xでは猫のアカウントを別に持っているし、長い文章はnoteにしか書かない。こうした切り替えは、〈関係のスクリーニング〉の実践の一つだと考えられる[11]

「居合わせる」体験志向の拡がりと、SNS実践

 引き算による〈関係のスクリーニング〉は、あくまでも関係を選別・編集する行為であって、つながりからの撤退ではないことに注意されたい。アカウント分けすることで、「自分が本来届けたい相手とは別の人から反応が来る」という「迷惑」を避けた人々も、ノイズを避けているだけだ。そして、ノイズを避けても他者とつながろうとするところに、「他者と楽しみを共有したい」というニーズの強さを窺うこともできる。他者と関わる以上、究極的にはノイズをゼロにはできないからだ。どうにかしてノイズをゼロにしたければ、人間相手を止めて、コンパニオンロボットを持ち出すなどの手段くらいしか残っていない(冒頭のエピソードは、そうしたニーズの芽生えを示すものだと言える)。

「居合わせる」体験を求めるニーズが強まっていることは確かめておいてよいかもしれない。中山淳雄の『オタク経済圏創世記』によると、ライブや観劇のようなロケーション型ビジネス、つまり、誰かと同時に同じ体験を共有する価値を提供するコンテンツが2010年前後から急成長している[12]。ただ、中山の指摘には留保をつけるべきであり、共通体験へのニーズは物理的なロケーションに限定されない。配信や動画投稿をするVTuberのプロダクションを手掛けている株式会社カバーは、2024年3月時点で、VTuber一人当たり3.5億円以上の収益を上げるまでになっており[13]、「居合わせる」体験へのニーズがウェブプラットフォームでも充足されている様子がうかがえる。

 何かに「居合わせる」ことで、みんなと時間と感情を共有することの楽しみは、天野彬の言う「透明な本音」として自分の体験したことや実感を求める「体験志向」が若年層を中心に広がっていることと裏腹であると考えられる[14]。自分の体験や実感には疑いがたいリアリティがある。

 だが考えてみれば、体験や実感ほど持続せず頼りないものもない。体験は見たり触ったり、あるいは見せたり触ってもらったりできないし、思い返すことはできるにせよ、その精細で鮮烈な感覚はその場限りで消えてしまう。だからこそ、人はSNSでも同じ時間に熱狂や感情を共有し、他者からのレスポンスによって「実感」を再認し、生き延びさせようとする[15]。「自分が本来届けたい相手とは別の人から反応が来る」のを避けようとするのは、そのノイズが実感の再認や持続を妨げてしまうからだ。

 古くからの事例だと、テレビで「天空の城ラピュタ」が放送されるのに合わせてSNSで「バルス」と投稿することがそうだ。ドラマ「半沢直樹」の放送や、劇場版「鬼滅の刃」に合わせたテレビアニメの再放送が、2020年に一定周期で「みんな」が嬉々として話題にする祝祭となったことを思い出してもいい[16]。コンテンツを介したコミュニケーションの盛り上がりは、体験を求める動きと、実感の意外な脆さを背景としたものだと理解できる。

エンタメという社交上の無難な話題——〈話題のスクリーニング〉について

 興味深いのは、「バルス」にせよ、映画や演劇を観た後の感想投稿や、配信でのコメントにせよ、「自分が本来届けたい相手とは別の人から反応」による衝突やノイズを回避する話題が選ばれていることである。政治や仕事、家庭などの衝突を引き起こしかねない話題に比べて、人気の高い「エンタメコンテンツ」はSNSで安心して話題にしやすい[17]。ここに社交における趣味の重要性がある。

 趣味を話題にしても、対立や迷惑が生じる可能性が相対的に低い。社交において趣味が大切なのは、他の話題に比べて無難だからである。社交のニーズを満たす手近な手段になるため、「Netflixの地面師みた?」「昨日のオールナイトニッポンさ、すごかったよね」などと話題にしているわけだ[18]

 こうした無難な話題に無難な仕方で参加するあり方のことを、〈話題のスクリーニング〉と呼んでおきたい。たとえば、ライブ配信を頻繁にする配信者には、切り抜き再編集動画をする公式ないし非公式のYouTubeアカウントがしばしばついており、その切り抜き動画のサムネイルやタイトルには、「〇〇すぎて視聴者困惑」「説明天才か?」などの仕方で視聴者の反応が先回りして示されている。先ほど「無難な参加」と言ったのは、すでに他の「みんな」がパターン化してくれた定型的なコメントやスラング、喜び方、面白がり方を大まかになぞりながら、括弧付きの「自己表現」をすることである。

 そしてここまで話を一般化するなら、芸能人やインフルエンサーが失言やゴシップで炎上したときに、あるいは誰かが政治的な話題で注目されたとき、X(Twitter)やInstagram、TikTokなどプラットフォームを問わず、一様なコメントが並んでいることも同じ線で理解できるだろう。自分から見て大多数の人が言っているように言えば、炎上的な事態であっても「無難な話題」として「無難な参加」ができるのである。

義務としての社交か、無為な待機か

〈関係と話題のスクリーニング〉は、予定していないタイプの他者からの、予定していないレスポンスを避けるための技法だ。すべては必然的であってほしい、予想を超えてほしくないというニーズ。社交のための趣味と、個人的な趣味の分極化は、こうした対話への恐れに由来している。

 趣味を手がかりに「社交」というテーマについて考えてきたが、書きながらいつも頭の片隅にあったのは星野源のエッセイだった。NHKドラマ「17才の帝国」の撮影中に、主要メンバーの中で唯一の年長者として混じったとき、演者たちの現場での過ごし方を不思議に感じたという。

驚いたのはその「喋らなさ」だ。/みんな物静かである。リハーサルや本番の間にある待ち時間、同じ場所に全員がいるのに一言も喋らない。みんなじっと待っている。[19]

 世代の違う自分が混じっているから気まずいのかと思って距離を置いても様子は変わらない。焦って社交に走らない、社交しなければという不安を感じている様子もない。「そもそもスタッフや誰かが話しかけたり会話を始めたら普通に話し出すので、『自然と』そうなっているだけだったようだ」。

 ここでは、俳優たちの「じっと待っている」様子を、「自然体」などのなんとなくわかった気にさせる言葉で形容せず、「待機」や「無為」のようなそっけない言葉で捉えることにしたい。若い俳優たちが互いに時間を共有するときの、その無為な姿勢に感じ入るものがあったらしく、星野はこう続けている。

話しても話さなくてもいい。/無理に「社交」をしようとしていない。/「監督に気に入られなきゃ」「この現場を引っ張らなきゃ」「和気あいあいとした雰囲気を作らなきゃ」「売れるぞ」そんな気合や様子は一切感じない。それぞれがその人のままで居て、カメラ前に呼ばれたら芝居をする。ただそれだけ。

 必死に社交性を発揮し、対話にしがみつくわけではない。かといって会話を避けるわけでもない(エッセイからは日常的な雑談から、情緒を誘う話まで、いろいろな会話があった様子が窺える)。

 俳優たちの無為な過ごし方と対比するように、自分が仕事を始めたときの「体育会系なノリ」を回想し、「基本無理をしていたし、いつも恥をかくことを覚悟していた」という趣旨のことを述べている。そこにあるのは、付き合いよくしなければ、空気を読まなければ、勘のいい言葉を返さなければ、そのために「ウザがられてはへらへらと四苦八苦し」ながら「苦手な人付き合いを頑張」らなければ、という義務の感覚である。

 義務としての社交か、無為な待機かという対比。社交から撤退した、別の形をした「社交性」がここにはあるように思われる。次回は星野源の著作に拠りながら、その社交性の形を素描することにしたい。ただ、星野自身が、年若い俳優たちの待機のあり方を「最高だな。クソ居心地がいい」とこぼしているように、無為や怠惰、待機といった「社交」を世代の問題として捉える必要はないことは予め指摘しておきたい。とはいえ詳細は次の更新にて。お楽しみに。


[1] このエピソードを上記のように補足した背景には、心理学者のシェリー・タークルのロボット論がある。大切な人の親密な関係構築をロボットに預けていいんですか、という論調。詳細は、下記の著作を参照のこと。シェリー・タークル『つながっているのに孤独』渡会圭子訳, ダイヤモンド社, 2018

[2] https://daiwa-log.com/magazine/tanigawa/tanigawa-taiwakowai04/

[3] 「今年はどうなる?ハロウィンに熱狂する若者たち その背景とこれから」ウェブ電通報 https://dentsu-ho.com/articles/3167

[4] 天野彬『シェアしたがる心理:SNSの情報環境を読み解く7つの視点』宣伝会議, 2017, p.98

[5] SNSで論争が起きるとき、立場の違いを超えて互いに「相手は文脈が読めていない」という理由で批判し合う構図になりがちなのは興味深い。このことは、「文脈を限定すべきだ」という仕方で、関係の混在を忌避する規範の存在を明かしている。

[6] この表現は以下の本を参考にしている。高田明典『ネットが社会を破壊する:悪意や格差の増幅、知識や良心の汚染、残されるのは劣化した社会』リーダーズノート, 2013

[7] 「今年はどうなる?ハロウィンに熱狂する若者たち その背景とこれから」ウェブ電通報 https://dentsu-ho.com/articles/3167

[8] イメージしづらい人は、マッチングアプリを念頭に引き算的な人間関係の構築を理解しても構わない。マッチングアプリは、一度多くの人とマッチングした上で、やりとりや対面を通じて人間関係を絞っていくというスクリーニングのプロセスをわかりやすくモデル化している。

[9] このハッシュタグを通じて学生たちは入学前からつながりを確保し、入学後の生活に向けた社交対策と情報収集を行っている。その背後にある不安につけこんだネットワークビジネスや詐欺、その他の悪意もあるらしく、大学にいると、時に注意喚起が回ってくる。

[10] 舟津昌平『Z世代化する社会:お客様になっていく若者たち』東洋経済新報社, 2024, pp.37-8 次のような趣旨の事例が紹介されている。相手が面倒な人や合わない人だった場合は、「ブロック解除」(一時的に相手をブロックすることで、相手に気づかれずに相手のフォロー状態を解除する行い)をすればいい。どうせ把握しきれていないのだから、相手は気づかないだろう。そうしたコミュニケーション実践を常態化させているからこそ、仲良くなった人とInstagramでつながろうとしたら、すでに相互フォロー状態になっていたことも珍しくない。

[11] アカウント分けは、個人のSNS実践に限定されるものではない。ミュージシャンや芸能人が表現する際にも、アカウントに応じて発信する内容や自分の見せ方を変えているし、有力なYouTuberも、通常の配信チャンネルと、歌のチャンネル、VTuberで配信するチャンネル、ゲーム実況のチャンネルなど、アカウントを分けてユーザーに提供している。また、こういう「相手や話題に応じて話のチャンネルを使い分ける」という実践がシステムレベルで実装されているのが、DiscordやSlackだと位置づけられる。これらのプラットフォームでは、チャンネル分けをすることで、音声やテキスト、画像などによるコミュニケーションを、話題に関係する人とだけ行うことができる。

[12] 2010年代のロケーション型ビジネスでは、共体験系のビジネスが成長しているのに対して、個人が特定の場でしか体験できない形のビジネスが縮小しているとの指摘がある。中山淳雄『オタク経済圏創世記:GAFAの次は2.5次元コミュニティが世界の主役になる件』日経BP, 2019, pp.76-77 中山は物理的な場所を念頭に置いているが、配信文化の定着をここに付け加えた方がよいと思われる。

[13] 「『ホロライブ』運営のカバー、本決算は62%の大幅増益 VTuber一人当たり収益は“年3.5億円”突破、大型イベントも奏功」(2024年5月13日)オタク総研(Yahooニュース) https://news.yahoo.co.jp/articles/ed88a2682c73ef1f4642758899bf6db148555272

[14] 天野彬『新世代のビジネスはスマホから生まれる:ショートムービー時代のSNSマーケティング』世界文化社, 2022, pp.37

[15] 体験の透明性とその脆さ、そしてその不確かさをSNS投稿から得られるレスポンスで埋めようとするメカニズムについては別稿で論じた。谷川嘉浩「『古見さんはコミュ症です。』に見る、イベント化した日常世界」, 山田昌弘編『「今どきの若者」のリアル』PHP新書, 2023, pp.215-23

[16] 中山淳雄『推しエコノミー:「仮想一等地」が変えるエンタメの未来』日経BP, 2021, pp.58-64

[17] 中山淳雄『推しエコノミー』pp.110-1

[18] 中山は論じていないが、同じように「ネタとして話題にする」ということでいうと、ワイドショーで話題になるような週刊誌報道がエンタメコンテンツと同じ位置にいるように思われる。

[19] 星野源「エモい:いのちの車窓から」『ダ・ヴィンチ』2022年3月号, KADOKAWA, pp.52-53 以下も同様の箇所から。

著者プロフィール
谷川嘉浩

1990年生まれ。京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。哲学だけでなく、社会学や文学、デザイン、ゲームなど多領域にわたって研究を行う。
著書に『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。共著に『読書会の教室』(晶文社)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、『〈京大発〉専門分野の越え方』(ナカニシヤ出版)などがある。