対話がこわい 孤立もこわい~つながりすぎる時代の関係の哲学

この連載について

私たちは不器用だ。つながろうとしてつながりすぎる。誰かを求めているのに突き放す。自分を見せようとして演出しすぎる。気に入ってほしいのに嫌われる。優しい言葉をかけてもいいのに沈黙する。理解したいのに誤解する。笑顔にしようとして傷つける。だが、私たちの言葉には力がある。平凡な言葉も、磨き上げさえすれば見違えた力で日常を語りだす。本連載では、新しい時代のコミュニケーション論を構想し、来るべきカンバセーション・ピース(団欒の姿)を想像することにしたい。

第1回

対話をこわがることから——『水中の哲学者たち』と『わたしを離さないで』の間で

2023年12月25日掲載

「対話がこわかった」

 高校時代、運動会の後夜祭にクラスごと出られなかったことがあった。理由は忘れたが、何かがルールに抵触したので連帯責任的に怒られたのだと思う。そのとき、「後夜祭出られへんなら、せめて集合写真撮れたらええのにな」と私はうっかり口にした。女子の大多数が同意したのをきっかけに、クラスの有志で写真を撮ろうという話になった。それはいい。それはいいのだが、いつのまにか私が旗振り役だということになっていて、私の次の言葉を待つように、みなが私を見つめていた。それに気づいたとき、頬が紅潮してそこから逃げ出したい気分になった。

 記憶の映像はここで途切れているので、それからどうしたのかはあまり覚えていない。写真を撮ろうとした矢先、先生が来て中止になったとかだったと思う。今となっては、あのときどうして急に逃げ出したくなったのか、理由がよくわからない。関係や責任に深く絡めとられそうになると、薄くて軽い会話や関係でバランスをとろうとする癖があるからだろうか。いずれにせよ、自分の中の内向的な部分が急に顔を出したとしか言いようがない瞬間だった。

 哲学研究者、永井玲衣のエッセイ集『水中の哲学者たち』には、こんなストレートなフレーズが出てくる。

わたしは対話がこわかった。/人前で話すこと。他者、時には見知らぬひとの意見をじっと聞くこと。他者に質問されること。ひとと一緒に考えること。他者を傷つけないか、おそれながら話すこと。他者に傷つけられないか、おそれながら聞くこと。[1]

 クラスメイトたちの視線を集めたときの私も、そういう気持ちだったのだろう。あまり定かではないが、たぶん。私の記憶は映像ベースなので、動きや仕草、表情や声色ばかりはっきり残っていて、当時の自分の気持ちはトレースできない。

 それにしても、『水中の哲学者たち』を読んだときは意外な思いがした。インタビューやメディアなどで見かける永井玲衣は、「対話」に度々好意的に言及していたし、「哲学対話」から生まれ出る言葉への繊細な注目にあふれていたからだ。対話をこわがる人が、対話を推進していたとは思わなかった。

 興味深いのは、永井自身がこの事実に戸惑っていることだ。

対話をおそれて押し黙っていた学生時代から何年か経ち、いつの間にかわたしは人前で話すことが多くなった。なぜか、哲学的な対話の場をひらくひとになった。〔…〕誰かが一生懸命言った言葉が、誰にも受け止められずに床にどさっと落ちる。対話とは、対話とは、相も変わらずなんと難しいんだろうか。[2]

 言葉がちゃんとやりとりされるということは、実はそう簡単なことではない。そういえば、首相の犬養毅は、将校たちに襲撃されたとき「話せばわかる」と言ったのに、彼らに「問答無用」と撃ち殺されたと伝えられている。話してみればわかり合えたのかもしれない。でも、そうはならなかった。話した結果、かえって対立が深まることだってありえる。「対話って、ほんとに何なんだ」と思わせるくらいに、対話というテーマは一筋縄ではいかない。

対話を恐れる必要性

 永井玲衣は、他の人たちが当たり前に受け入れ、馴染んでいる世界を、宇宙人か赤ん坊か人類学者のような素朴さで経験し直そうとしている。

たとえば水。高校生の頃、お風呂に入っていて、突然思った。なんだこれは? 水を手ですくって触ってみる。奇妙だ。めちゃくちゃだ。手からするすると水はこぼれ落ちる。意味がわからない。呆然と手をみつめる。いや、ちょっと待って、なんだ手って。なんだこの形は。どういうつもりなのか。見慣れたもの全てがぐにゃりと歪み始める。世界が崩れてしまう。いや、目の前に広がるこのまるごと、世界ってなんだ。なんであるんだ。ある、ってなんだ。答えてくれ、世界。[3]

 習慣的な認知から身を引き剥がすような動き。「たとえば水」と水への問いから始まっているのに、奇妙さの感覚は「見慣れたもの全て」へと横滑りしているから、彼女のデタッチメント(分離)は伊達ではない。最終的に、世界そのもの、あるいは存在そのものが、永井の目には不思議として映っている。

 その不思議を、つまり「めちゃくちゃ」さを、オノマトペや文字の連鎖で表現しているのが印象深い。サルトルの『存在と無』を読もうとして、脳が爆発しそうになったときの体験を見てみよう。

存在とはばばばばばびぶぶべべぼ、あるところのものびびびばば、ではないところばばっええじゃややえあくうしたわかちこわかちこ。ぽぽびえばららららりる無、おわあああいいががのえしすこらぎばばびび、じつぞんしゅぎ。[4]

 このときだけではない。哲学対話の最中に、仲間とは何なのかわからなくなったときも、「仲間仲間仲間仲間仲間仲間仲間仲間仲間仲間仲間仲間仲間仲間仲間仲間仲間」と17回連続で書き連ねている[5]。そうすることで、部分同士がばらばらになって全体的なまとまりが崩れ、有意味な形として捉えることができなくなる。ゲシュタルト崩壊でも起こしたように、ナンセンスに近づいていく。有意味から、ナンセンスへ。崩壊した文字列は、その移行を読者に追体験させるための装置だと言える。

 見慣れたものから身を剥がし、世界を不思議として経験するとは、有意味なものとして生きている世界を、もう一度ナンセンスに差し戻すことだ[6]。しかし、ナンセンスの海を泳ぐのは、必ずしも心地よい体験とは言えない。

目がくらむ。仲間とは何だろう。彼らは仲間だろうか、わたしも仲間だろうか。わたしはいまでも、対話がこわい。/ひとと一緒に考えることを仕事にしてるよ、と10代の頃のわたしに言ったら、うんざりした顔をして、なんでそんなことを、と言うだろうか。[7]

 私たちは習慣的に意味を物事に投影している。「こわい」という感覚は、それが何なのかがわからなくなり、ナンセンスに身を浸したことからくる感情だと言える。

 保守とリベラルの別なく、現代社会の教科書的価値観からすると、「話し合おう」「わかり合おう」「対話しよう」ということになっている。対話があれば、分断が越えられるかのようだ。対話が不必要だとは思わない。けれども、五一五事件の犬養がそうだったように、対話に訴えさえすれば片が付くわけではない。結論やオチありきで対話が進むことも、取って付けたような教訓に落とし込まれることも珍しくない。「対話だ」と言えばいいわけではない。こうした脆弱性を持つものとして、「対話がこわい」と言えるところから始めるほかないのではないか。

カヨコちゃんの奇声、トミーの癇癪

 けれども、私たちは何かをこわがり、戸惑うことを拒絶しているようにも思える。駅などの場所で人が倒れていたり、交通事故が起きたりしたとき、スマホを向けている人たちを見たことがある。もちろん、その全員が写真や動画をとっているわけではないにしても、「〇〇駅で人が倒れてた」「うわ、事故だ」などとSNSに投稿している人は少なくない。

 目の前でこういう事態があったとき、スマホを向けるのが私たちのやることなのだろうか。救急車や周囲に助けを呼ぶなどの最低限のことをしたなら、ただ取り乱す以外に何が必要だろうか。誰かに事態を伝えることで、自分が感じている戸惑いや恐怖を押し殺そうとしているのではないか。衝撃や不安を抑圧せず、その感覚に身を任せてこわがるというだけのことが、現代人にはとても難しくなっているのではないか[8]

『水中の哲学者たち』には、驚くほど素朴に恐れを口にしている「カヨコちゃん」という同級生が出てくる。

おぎゃああ、おわあああ、いやだあ! 授業なんかしない!! 授業はしない!![9]

 来年に大学入試が迫っていると教師に告げられたとき、通常なら流れるだろう気だるい空気を押しのけて、永井の友達であるカヨコちゃんは叫ぶ。

 永井はカヨコちゃんの叫びを、世界への戸惑いとして解釈している。

哲学とは、深く何かを考えたり、論理的に思考を掘り下げたりする。だが同時に、世界の不思議にひたすらに身をふるわせ、啞然と立ち尽くすこともまた「哲学」であってほしいと思う。時にわたしたちは、冷静に思考を掘り下げるだけじゃなく、世界の途方もない不思議に、カヨコちゃんみたいな叫び声を、ただあげてもいいはずだ。[10]

 ここで語られているのは、不思議を説明したり解決したりして、事態を収拾する賢くてクールな姿勢ではない。不思議を目の当たりにしたときの感じ方を丸ごと尊重する佇まいだ。ただひたすら驚き、恐れ、戸惑うこと。感じたものを押し殺さないこと。

 カヨコちゃんの叫びを読んだとき、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を思い出した。激しい癇癪持ちとして描かれているトミー。クラスメイトたちにからかわれたトミーが、周囲のくすくす笑いで爆発する場面が冒頭の辺りにある。ちょっと長く引用しておきたい。

「ほら、来るよ。あと七秒。七、六、五……」

ルースは数え終わりませんでした。トミーが大爆発し、それが合図のように男の子たちは大声で笑い出して、南運動場に向かって散っていきました。トミーも後を追うように二、三歩踏み出しましたが、あれは怒って追いかけようとしたのでしょうか。取り残されて慌てただけなのでしょうか。いずれにしても、すぐに立ち止まり、顔を真っ赤にして、男の子たちの去った方向をにらんでいましたが、やがて叫びはじめました。無意味な(ののし)りと悪口の(ほん)(りゅう)でした。

トミーの(かん)(しゃく)なら、もう(いや)というほど見ていましたから、わたしたちは腰掛から降り、思い思いの場所にすわって、いつものおしゃべりに戻ろうとしました。でも、トミーの怒鳴り声がやみません。運動場から延々と聞こえてきます。最初こそ顔を見合わせ、やれやれと肩をすくめ、なんとか無視しようとしていましたが、それにも限度があります。わたしたちはまた窓の下の腰掛に昇りました。さっき降りてから、たっぷり十分は経っていたでしょうか。

ほかの男の子たちの姿はもうどこにも見当たらず、トミーもいつまでも同じ方向に怒鳴りつづけるわけにはいかなかったようです。いまは、空に向かい、風に向かい、近くのフェンスの柱に向かい、手足を振り回しながらわめきつづけていました。「わあ、まるでシェークスピアのお(けい)()」とローラが言いました。それに、何か一言わめくたびに片足を地面から持ち上げ、外に突き出すものですから、それを見て、「犬のおしっこじゃないんだから」と言った子もいます。[11]

 このままもうしばらく、トミーの癇癪をめぐる描写は続いていく。物語全体を通して、トミーの癇癪(への言及)は繰り返される。トミーのがなり立てる声、振り下ろされる足の音。その叫びは、意味のある言葉ではなく、ナンセンスな音として捉えられているだろう。世界を不思議として経験したときの戸惑いを押し殺さないでいるとき、私たちの言葉から意味は零れ落ちて音になる。

「感じる」を押し殺さず、騒ぐことの必要

 美学者の伊藤亜紗が、教育現場で実感している困難について語ったことがある。

伊藤 わたしの大学教授としての仕事は、学生に「感じさせること」だと思っているんです。でも、これが案外難しい。

佐藤 感じさせること、ですか。

伊藤 最近の学生に感じるのは、感情を出すことへの抑制がとても働いていること。[12]

 何かを感じてもそれを抑圧したり、感じるより先に周囲の様子を先読みしようとしたりする。そういう機制(仕組み)が、人の心理には働いているということだ。

 伊藤は若者である「学生」について語っているが、これは別に学生に限った話ではない。そのことは、「感性」や「美意識」をキーワードにしたビジネス書の多さからもわかるし[13]、絵画や芸術、アートなどとの関係において、まちづくりや新規事業開発、社員研修などを行なおうとする試みの多さからも確認できる[14]。こうした書籍や取り組みは、何かを「感じる」ことの可能性を語っているのだが、「感じることが大切だ」という声が大きいのは、私たちが「感じる」を押し殺しているからだ。それが当たり前に実践されているなら、わざわざ言葉にして語るまでもない。

 私たちと違って、カヨコちゃんやトミーは、驚くほど素直に自分の「感じる」に従っている。「戸惑っている」「こわい」「途方に暮れている」ということを、腹蔵なく表に出す。カヨコちゃんは教室で、トミーは運動場で、他人の目をものともせずに騒ぐ。カヨコちゃんやトミーのように、戸惑いや恐れを表明する人たちを見て、私たちは「変だ」とか「空気が読めない」と反射的に反応してしまいそうになる(教室や運動場で急に奇声をあげたら、大体そういう扱いを受けるだろう)。だが、本当に奇妙なのは、何かがこわいと思ったときにそれを反射的に押し殺している私たちの方なのではないか。

 それなら、私たちはトミーの癇癪を羨み、彼を見習うべきだということになりそうだが、その考えは単純すぎる。先の痛ましい描写を見てもらえばわかる通り、彼は望んで癇癪を起しているわけでもないし、孤立や苦痛を引き受けたかったわけでもない。苦境にある人を「教材」のように扱うのは、余裕のある人間が見せがちな浅はかさだ。この連載では、そういう下品さからは距離をとりたい。

 それでもなお、トミーの怒鳴り声、振り回す腕、振り下ろす足の音が、素通りされるべきではないのも確かだ。私たちはトミーそのものではないし、彼のようにはなれない。しかし、訳のわからない不思議を前に、戸惑いこわがり、トミーのような叫び声をあげてもいい。少なくとも、たまにはトミーのような叫びをあげたっていいはずだ[15]

 チョ・ナムジュのベストセラー小説、『82年生まれ、キム・ジヨン』には、この文脈で是非とも思い出しておきたいフレーズが出てくる。父の言葉を制止して、母が娘(ジヨン)に語りかける言葉だ。

いったい今が何時代だと思って、そんな腐りきったこと言ってんの? ジヨンはおとなしく、するな! 元気出せ! 騒げ! 出歩け! わかった?[16]

 この捲し立てるような母の叫び声は、わかりやすく圧力をかけてくる父にだけ向けられているのではない。その抑圧を自らの身体に刻み込んでいる娘=私たちにも向けられている。おそらく、他者が「腐りきったこと」を言ってくるだけではないことに気づく必要があるのだろう。私たちは、自分自身に「腐りきったこと」を言い聞かせてもいる。

「わかった?」との問いかけに、すぐにうなずくことができない人は、まず「こわがる」ことから。大人しくなる必要はない。トミーやカヨコちゃんみたいに、人前で騒いでしまうくらいちゃんと「こわい」を感じること。対話について考えるなら、まず対話をこわがることから始めたい。


[1] 永井玲衣『水中の哲学者たち』晶文社, 2021, p.25

[2] 同書, p.26

[3] 同書, p.16

[4] 同書, p.16

[5] 同書, p.26 「シテイコウスイセンも、エーオーニュウシも、イッパンニュウシコウキニッテイもわたしたちを侵すことはできない」というように、カタカナ表記による意味の剥がし方も登場する(p.135)。

[6] 星野源の楽曲「不思議」(2021)は、2人の人間がパートナーとして共にいるという、一見してありふれているように思われる事実の不思議さを歌った楽曲であり、この文脈の延長で解釈することができる。なお、この歌には「不思議」という言葉は一度しか出てこないこと、また、恋愛関係として聴く必要がないことに注意されたい。

[7] 永井玲衣『水中の哲学者たち』晶文社, 2021, p.27

[8] 衝撃的な出来事があったときに、スマホを通じてそれを直ちに他者にシェアすることで、恐怖や動揺を「感じる」ことを止めてしまう習慣について論じたことがある。谷川嘉浩『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2022

[9] 永井玲衣『水中の哲学者たち』晶文社, 2021, p.135

[10] 同書, p.137

[11] カズオ・イシグロ, 土屋政雄訳『わたしを離さないで』ハヤカワ文庫, 2008, pp.18-9

[12] 対話相手は味の素の社員・佐藤賢。「「食べる」とは、世界に対する究極的な信頼の表明:伊藤亜紗が、循環と分解、利他性、視覚障害から「食の未来」を語る」https://wired.jp/branded/2020/08/28/ajinomoto-asa-ito-ws/

[13] 堀内進之介・吉岡直樹『SENSE:インターネットの世界は「感覚」に働きかける』(日経BP, 2022)、ポーリーン・ブラウン, 山口周監訳『ハーバードの美意識を磨く授業:AIにはつくりえない「価値」を生み出すには』(三笠書房, 2021)、クリスチャン・マスビアウ, 斎藤栄一郎訳『センスメイキング』(プレジデント社, 2018)、山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』(光文社新書, 2017)など

[14] 山口桂『美意識を磨く:オークション・スペシャリストが教えるアートの見方』(平凡社新書, 2020)、神田房枝『知覚力を磨く:絵画を観察するように世界を見る技法』(ダイヤモンド社, 2020)、岡田温司監修『ビジネス教養としてのアート』(KADOKAWA, 2020)、末永幸歩『「自分だけの答え」が見つかる13歳からのアート思考』(ダイヤモンド社, 2020)、電通美術回路編『アート・イン・ビジネス:ビジネスに効くアートの力』(有斐閣, 2019)、エイミー・E・ハーマン, 岡本由香子訳『観察力を磨く名画読解』(早川書房, 2016)など

[15] 西修の漫画『魔入りました!入間くん』(秋田書店)の35巻には、主人公に感情を吐露させるために子どもに変身できる空間を登場させ、そこではじめて主人公が自分に「感じる」ことを許す、というシーンが出てくる。

[16] チョ・ナムジュ, 斎藤真理子訳『82年生まれ、キム・ジヨン』ちくま文庫, 2023, p.115

著者プロフィール
谷川嘉浩

1990年生まれ。京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。哲学だけでなく、社会学や文学、デザイン、ゲームなど多領域にわたって研究を行う。
著書に『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。共著に『読書会の教室』(晶文社)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、『〈京大発〉専門分野の越え方』(ナカニシヤ出版)などがある。