日曜夕方、「明日は仕事だ~!」「月曜最高! 学校たのしみ~!」とワクワクしている人はどれほどいらっしゃるでしょうか。
人が二人以上集まって目的に向かって何かを成そうとするとき、その集団を私は「組織」と呼んでいます。夫婦や親子など家庭も組織・チームですし、学校、病院、企業、スポーツチーム…などは、どれも立派な組織。
ですが、この「組織」というのが、ややこしい。人生において大きな意味を持つ一方で、「組織」こそが人々の悩みの種ともいえるのです。
巷には「〇〇力」を身につけることで組織でサバイブできる!とうたったり、逆に組織でうまくいっていないのは「あなたに○○という問題があるからだ」との言説もあったりしますが、実際のところ、私たちは「組織」とどう付き合うとよいのでしょうか。
教育社会学という、学校くらい当たり前の社会のしくみを疑ってみる学問を修めたのち、ビジネスの現場にどっぷり浸かった組織開発コンサルタントである私が、組織にまつわる凝りをときほぐすのが、この連載です。
「使える人」ってなに?
はじめまして。勅使川原真衣(てしがわら・まい)と申します。わたし自身がとにもかくにも、学校や職場などの「組織」で、天にも昇る思いをしたり、散々な目に遭ったりといろいろあったので、「組織って、一体なんなんだろう?」「どうすれば個人を生かし合って、一緒に見たことのない景色を見られるんだろう?」などと、かれこれ20年ほど考えています。なかでも「組織」で人々に行動の方向性を示し、時に律する教典のような「能力」について、いぶかしみながら探究しています。
前職のコンサルでも、前々職のコンサルでも、それはそれは「使えねぇ」「能力低い」だなんだと言われましたが、上司が変わると「さすが! 地頭がちがうね」などと途端に評価が爆上がりしたり。「〇〇力があるあの人はすごい」とか「あの人は〇〇力が足りないからダメだよね」などといったことばに、わたし自身、戸惑うところがあるのです。
そんな経験があるので、組織で必要とされる人間になるためにはしかるべき「能力」を身に着けるべし!と言われると、眉唾物だと思えてなりません。これはわたしだけがいちゃもんをつけているわけではないのでご安心を。「能力」という概念自体が仮構的であることや、実は本人の問題というより親の世代から譲り受けた要素が強いことなどを、教育社会学者がこれまでも訴え続けています。
■「能力」問題を体感し、ケリをつける
わたしも、就活のときに特に話題になる「企業が求める能力」のあいまいさ・うつろいやすさが大学カリキュラムに及ぼす影響について修士論文にしました。修了後は労働現場における「能力」を体感し、「組織」の理解を深めようと、「敵地視察の就職」と称してあえて、「人材・能力開発」と呼ばれる業界に浸ります。
そこで見たのは、時代の潮流に合わせて然るべき「能力」の獲得を促され、その達成度が測定され、他者と比較され、処遇されたり、不足分を補う必要があれば研修などの育成(能力伸長)が叫ばれ続ける…そんな「組織」模様および壮大な市場でした。
それから私は独立し、個人の「能力」を問題にすることなく、組織としてひとりずつが発揮しやすい「機能(特性)」の持ち寄りができているかどうか? 人と人や、人と職務の組み合わせがうまくいっているかどうかについて、探究し、クライアント企業のサポートをしてきました。自分なりに「能力」にケリをつけた気分だったわけです。
■”組織の常識”を疑う
が、その後、2020年夏。38歳のときに進行乳がんが見つかり、今も幼子2人を育てながら闘病中。病気になってこそ見えているであろう、ポスト能力主義とも言うべき景色があったので、これまでの専門と今この瞬間に強く思うこととを、2022年末に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)という書籍にまとめました。
だいわログとの出会いも、拙著を読んでくださった方のお声がけによるもので、感謝しています(私が「デキる」から興味を持っていただいたのでは毛頭ありませんで、むしろ逆に、破れかぶれなのに平然としている点に興味を持ってもらったようです。実に誇らしい)。
そんな私がお届けする本連載。時に痛々しい足跡をご紹介しながら、「組織ってなんだろうか」を掘り下げたく思います。特に、「能力」のような共通言語のほか、”組織の常識“とされていることについて手に取るように論じてみたく思います。
言うまでもありませんが、私の手中ですべてが解決することはありません。ですが、課題と思われていることの妙な凝りや緊張を「ほぐす」ことはできると思っています。組織のほぐし屋ですから。
常識を常識のまま、強く念じさえすれば、今ある社会課題解決が前進するようには到底思えません。角度を変える、ことばの背景や議論の前提を見直す…「困ったときは幽体離脱」(拙前作より)もいいでしょう。それら脱常識的なアプローチなしには、突破は難しい。「ダイバーシティ&インクルージョン」や「ウェルビーイング」が最先端のおとぎばなしにならないよう、“組織の常識”を疑う専門家のひとりとして、独自の視点をお届けできればと思います。
■「スピード感をもって取り組んでいるか?」と聞かれても
記念すべき初回に何をお伝えしようかと迷ったのですが、冒頭の自己紹介にも書きましたが、私が百万回くらい職場で言われたであろう、「(お前)使えない」について、考えましょうか。
「使えないなぁ」と言われたことはあるでしょうか。誰かに言ってしまったことは?
言われることはもとより、言うほうも、清々しい気持ちでは使えないことばではないでしょうか。現に、本人に「優秀」とか「助かるよ」とは言っても、面と向かって「君、使える」とはそうそう言わない。もともと、モノに対することばなのだと思うのです。人に、それも面と向かって言うのははばかられる。だから、非公式な場で裏話的に用いられている、と。「あいつほんと使えねぇ」「あの新人、使えるよねー」といった具合です。
やっぱりこうやって書いているだけで、品のないことばですね。じゃあ、オフィシャルに面と向かって人材(社員)のことを話題にするときはどうしているのか。人事評価の項目に踊るキラキラした文言を見たらいいのだと思います。
私は日頃、組織人事のコンサルティングを仕事にしているので、クライアント企業の人事評価制度には触れます。でもあまり大きな声では言えないですが、読めば読むほど首をかしげてしまうことばしばしば。「パッションがあるか?」「スピード感をもって取り組んでいるか?」
!?
これらについて、「いつも実践できた」「常に意識している」「努力はした(ができてはいない)」などから選ばせるとか…難易度が高い。「パッションとは?」「スピード感って感覚の話ですか? 急いでやったかどうかですか? 優先順位付けができているかっていうことですか?」などと逐一質問するようにしているので、面倒な奴=それこそ「使えない」と私を思っている人もきっといるはず。でもやっぱり、正直いって、よくわからないことばで自分の仕事ぶりを表現されるのも、日々がんばっている他者を評価するのも、ちょっとしんどい。
■動的な人間を、静的に、ことばで評価
いや、何が難しいって、人について他者が語るとき、日ごろの連綿とした言動の流れ、その結果としての実績を簡単にことばにするのが、そもそも難しく感じるのは私だけでしょうか。その人の日頃の振る舞い・仕事ぶりという極めて動的なものに、あえて静止画のように切り取った「ことば」をあてがって、評するのに無理がある気がします。先のことば以外にも、「リーダーシップ」とか、「主体性」とか「挑戦心」あたりがよく評価項目に挙げられる文言だが、どれもわかるようでわからない。特に給料や職位を決めるような人事評価の場合、一定の正確性や納得性が不可欠なはずだが、いまいち煙に巻かれている感は否めないのではないでしょうか。
そう思うと、ふと、「使える」って、品のないことばのようだけど、実態にはある程度そぐう部分もあるのかな、なんてことを考えました。というのも、「あいつ使える」とは、「そのネジに、このドライバーは使えないよ」と言うときのように、状況と仕様がうまくはまっているか否かをあらわしているようにも思うからです。うまく呼応している、そういうニュアンスだ。私が『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)の中で、提唱した、組織の問題は個人の「能力」にあるのではなく、職務と人/人と人との「相性」のほうがよっぽど作用しているのでは? という話にも通じます。
■「ハマってる」「ハマってない」を超え…求ム秘策
なんて思っていたら、勢いのあるとあるスタートアップの知人が、「『使える』はさすがに最近、裏でも言わないですよ」と教えてくれました。うそ。そうなの? 「最近は、“あの子うまくハマってないですよね”って言い方しますよ」だそうで。そうなんですか? もちろんそれがすべてではないでしょうが、もしかすると「能力」の問題ではなく職務や職場の人たちとの「相性」の問題の大きさは認識されてきつつあるのかもしれない。
と同時に、マネジメント業務を務める彼から言われたのですが、「てっしーさん(わたしのことです)が個人の『能力』の問題じゃない、組織内の人と職務の組み合わせが問題だ、とか言えば言うほど、やっぱ采配する側は大変ですよ。正直、迷惑(笑)。『あの人は主体性に問題がある』と個人の「能力」の問題に帰していた頃のほうが評価するのが楽だったなぁ」と。
あららら。「うん、そう。人が人を評価するってのは、そう簡単に楽にはならないんだよねぇ」と返しておきました。それは真実だと思うけれど、簡単ではないからと言って、複雑なままでいいことにもならないだろう。ある程度ラクラクやれないと、広まるべきことも広まらない。
「使える」「使えない」を超えて、さらに、わかるようなわからない「能力」評価をあらわすことばの数々をも超えて、私たちはどう、職場の仲間を認め合っていけるのか。秘策は…あります。次回、ぜひさらに揉んでいってみたいと思います。
≪次回チラ見せ≫
第2回「こんなことでいいの?」
ある老舗旅館が、女将の「改革」によって、離職率を1/10に下げ、見事再建した記事を読みました。詳しくは書きませんが、旅館にはめずらしく「休館日」を設けることで「働き方改革」を実装したり、とにかく社内の情報格差をなくそうと、共有のための仕組みを徹底した、などなど。ここで「徹底」と言うのは、まさに徹してやり続けているのだろうなぁと頭が下がる思いがします。ただ、気になったのは、その記事に対するコメント欄にあふれる「この程度(レベル)の改革でよくここまで(堂々と)…」という冷ややかなものでした。
出た。
組織開発コンサルタントとして日頃活動する中でも、「え、そんなことでいいの?」「そんな簡単なことじゃなくて…」という反応は「あるある」の1つです。高度な課題には、高度な解決法があると十中八九の人は思っているようなのです。さて、本当にそうなのでしょうか? つづく。
1982年横浜生まれ。東京大学大学院教育学研究科修了。BCGやヘイ グループなどのコンサルティングファーム勤務を経て、独立。教育社会学と組織開発の視点から、能力主義や自己責任社会を再考している。2020年より乳がん闘病中。著書に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)がある。朝日新聞デジタルRe:Ronにて「よりよい社会と言うならば」連載中。