組織のほぐし屋

この連載について

日曜夕方、「明日は仕事だ~!」「月曜最高! 学校たのしみ~!」とワクワクしている人はどれほどいらっしゃるでしょうか。
人が二人以上集まって目的に向かって何かを成そうとするとき、その集団を私は「組織」と呼んでいます。夫婦や親子など家庭も組織・チームですし、学校、病院、企業、スポーツチーム…などは、どれも立派な組織。
ですが、この「組織」というのが、ややこしい。人生において大きな意味を持つ一方で、「組織」こそが人々の悩みの種ともいえるのです。
巷には「〇〇力」を身につけることで組織でサバイブできる!とうたったり、逆に組織でうまくいっていないのは「あなたに○○という問題があるからだ」との言説もあったりしますが、実際のところ、私たちは「組織」とどう付き合うとよいのでしょうか。

教育社会学という、学校くらい当たり前の社会のしくみを疑ってみる学問を修めたのち、ビジネスの現場にどっぷり浸かった組織開発コンサルタントである私が、組織にまつわる凝りをときほぐすのが、この連載です。

第4回

「あの、ちょっとよろしいでしょうか」トレーニング——頭の中のことばを交換する一歩

2023年11月10日掲載

対話うんちくを語る

前回の対話論のつづきです。少しだけおさらいしますが、つれづれなるままに、悠久の時を味わいながら人と人が話すこと。仮にそれが「対話」だと限定的に認識してしまうと、職場で実践しつづけるにはハードルが高すぎるのかもしれない。つまり、「そんなことやってる暇ない」となりやすい。でも本当はそうではないんじゃない? という話を前回しました。

ではどういうことなのか。それは、他者と頭の中のことばの交換をしていれば、方法は実に多様にあってしかるべきなのが「対話」なのです。「仕事に追われて、そんなことしてられっか」という人にもしばしば出くわしますが、「この『対話』こそが『仕事』ですけど何か?」という話もしました。

我が十難

でも、みなさんに謝らなければならないことがあります。対話とは、とえらそうに言った数日後に、私は「対話」についてたじろぎ、戸惑いを隠せず、地面が割れるほど地団駄を踏んでいたのです。

ある日のこと。「対談企画」と聞き、「〇〇さん(お相手)も勅使川原さんの本をすでに読んでいるそうなので、そのあたりの話題にも触れながら、自由に、対話を楽しんでください」と担当記者から聞かされて現場へ向かいました。が、その「対談」「対話」のお相手が私と目線を合わせることも、身体をこちらへ向けることもなく、その担当記者に正対し、とにかくご自分の論理を話しつづける。結局最後まで、その方はわたしに向かうことはありませんでした。同一の空間にいる意味はほぼなく、記者がオンラインでその方と私それぞれ別口でインタビューして、記事に起こせばなんてことないであろう感じで「対談」が終了しました。

いろいろ思いましたが、最も素朴で、最も頭の中を占領しつづけたことばはこれでした——「え、これ『対談』『対話』って呼ぶの?」——と。

この件についてどうこう言いたいわけではありません。私はただただ情けないような気持ちになった一方で、なぜ超基本的な「頭の中のことばの交換」を言っていた張本人(私のことです)がそれをできなかったのか、に興味が湧きました。その場で心かき乱され、ごくごく単純に浮かぶはずのことばの一つ——「すみません、これってなんか変じゃないですか?」——すらも繰り出すことができなかったって、不思議ですから。

一体なんでなんでしょうね。

口を塞いだほうが楽なようで……素朴に口にしたい違和感

たしかに感じているはずの違和感を自らなかったことにしてしまう行為。

なぜ、そんな選択をしてしまうのでしょうか。

わが身を振り返るに、1つには「恐れ」があったと思います。「場のことを『変』なんて、私より業界歴が長く、知名度もある相手に言って、生意気だと怒られたらどうしよう」「干されるんじゃないか」などと思いました。

トラブルになったら嫌だなぁという「恐れ」。つつがなくいきたいですから、他者と関わる諸々においては。仕事、家庭、学校、病院……どこも似たり寄ったりではないでしょうか。

ならば口は災いの元。口にしないで済むことは極力言わないでおこう、という「自己防衛策」はとりやすい。「なかったことにする」という技。「がまん」は美徳だと教えられた昭和世代でもありますし。

ですが、あとからこんなに虚しさ、悔しさに襲われるのであれば、素朴に聞けばよかったんじゃないか? やはりそういう気がしてきます。怒りや恨みに熟成発酵されてしまう前に、素朴に。

おどろき

ざわざわ

もやもや

え~ん(かなしみ)など。

もしもあなたがこのあたりの感覚に出くわしたとき、それをおのれに問わずして、勝手にほどけていくことはそんなにないのかもしれない。だから、頭の中のことばの交換を本当に真摯にやっていくのであれば、妙な感覚を検知したら、一呼吸おいてすかさず、

「すみません、ちょっと消化しきれないのですが」

「なんかうまくいえないのですが、どうもリラックスして話すことが難しいです」

「胸がつっかえたような感じで。すみません。少し時間をいただけますか?」

「なぜだかことばにならないのですが、とりあえず居心地が悪いような気持ちです」

こういうことばを繰り出して、互いの「対話」の現在地を確認しつつ、立ち止まったり、辺りを見回したり、地に足をつけてやっていきたいものです。

素で言える関係性が、信頼?

こういう話をすると、 「そういうことが言い合える『関係性』『信頼関係』を日頃から作らないとね」「『心理的安全性』をまずは…」などの意見がよく出ます。が、もっともなようでこれまた少々ややこしい。

何でも言い合える「関係性」や「信頼」「安心感」というものは、目に見えるものでなければ、客観的指標か何かがあるわけでもない。つまり、どこまでいっても、主観的な、感情的な議論です。うまくいっていれば「関係性」のおかげ。うまくいかないと「信頼関係が……」と課題を指摘されるような具合に。

対して、「信頼獲得のためのリーダーシップトレーニング」なども巷には多々あるわけですが、雲をつかむような話にわざわざ貴重な時間を使うのであれば、自戒を込めて、お薦めしたいことがあります。

「あの、ちょっとよろしいですか」トレーニング

関係性、信頼、とか言わずとも、これはただの言い慣れているか、いないか、の差です。「がまん」してその場をやりすごすのではなく、「あの、ちょっとよろしいですか……」と言い出すトレーニングに勤しみませんか?

言い慣れる(問い慣れる)ことも必要だし、言われ慣れる(問われ慣れる)ことも必要ですから、意識的に「ん? あれ??」ということをごくっと飲み込まず、相手に確認する。これを職場で一丸となって行うことが、協働、そこに不可欠な「対話」実践の近道なんじゃないか、と思っています。

阿吽(あうん)の呼吸、以心伝心を目指すより、違和感を感じ取ることと、ほっこりと尋ねること。これ、どうでしょうか? 職場と言いましたが、お気づきのとおり、これは二人以上の人間が目的をもって何かをなそうとする際には、共通して必要なことです。先生と生徒、パートナーシップ、親子、スポーツチーム、医者と患者……など。

そう簡単にできなくても、落ち込まないでいきましょう。

日本で教育を受けた人はおわかりだと思いますが、違和感を言語化することなく、極力なんでも「水に流す」よう促されてきたのですから、そりゃあなかなかできません。「え? あれ? なんだか私、話についていっていないかもしれません」なんて、いい大人が言っちゃいけないこととされてきたくらいですから。成熟した大人とは、一般的に「わからない」とか「不安」「やりにくい」などと無縁でいないといけない固定観念があるわけです。

でも、私たちの織りなす組織が今以上に、お互いのことや社会のことをわかった気になったまま、何かを創造するのは……相当苦しい状況だと言わざるを得ません。「わかった」「すっきり」した状態を拙速に追うのではなく、頭の中のことばの交換から、予定調和ではなく、まだ見ぬ世界をともに見に行く。ここだけはあきらめたくないですよね。

著者プロフィール
勅使川原真衣

1982年横浜生まれ。東京大学大学院教育学研究科修了。BCGやヘイ グループなどのコンサルティングファーム勤務を経て、独立。教育社会学と組織開発の視点から、能力主義や自己責任社会を再考している。2020年より乳がん闘病中。著書に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)がある。朝日新聞デジタルRe:Ronにて「よりよい社会と言うならば」連載中。